高校一年生の七月、一学期の終わりを告げる二つの巨大な山場――期末テストと球技大会が嵐のように過ぎ去った金曜日の夜。自室のベッドに身を投げ出し天井の木目をぼんやりと見つめながら泥のような、しかし心地よい疲労感に浸っていた。
(……乗り切った)
期末テストの結果は上々だった。今回も図書室で瀬戸くんと行った「対策勉強会」の成果が遺憾なく発揮され、平均点を大きく上回る順位を確保できた。彼はといえば過去にスポーツ推薦枠という肩書を持っていた事実に反して、学年トップクラスの成績を叩き出していた。天は二物を与えずと言うが、彼に関しては例外らしい。
続く球技大会。アスリスの「最適化期」にある現在の肉体が激しい運動に耐えられないため、診断書を提出して殆どの種目を見学することになった。クラスメイトたちが汗を流す中、日陰に佇んでいただけなのだが男子生徒たちからは「木陰の文学少女、絵になりすぎ」などと勝手に神聖視され、周囲からは「深窓の令嬢」としての記号性をより強固にする結果となった。一方、瀬戸くんは「ボクシング以外は距離感が掴めない」という意外な球技音痴ぶりを発揮していた。
そして明日。土曜日は、その「打ち上げ」である。
「……楽しみだな」
口から、ふと独り言が漏れた。明日は瀬戸くんと二人で駅前へ繰り出し、カラオケに行き、食事をする約束になっている。自分にとって、このイベントは「親しい友人との遊び」という認識の範疇にあった。かつて男だった頃、悪友たちとゲームセンターに入り浸ったり、ファミリーレストランのドリンクバーで何時間も駄弁ったりした、あの気安い感覚。性別こそ反転してしまったが彼との間に流れる空気は、あの頃の対等で遠慮のない関係性に限りなく近いと感じている。彼は恩人であり、尊敬できる読書仲間であり、そして今の自分にとって唯一無二の友達だ。
だからこそ明日の外出が、世間一般の定義に照らし合わせれば「デート」以外の何物でもないという事実に微塵も気づいていなかった。ただ純粋に友人と遊びに行けるという事実が、灰色の過去を持つ自分の人生に差した一筋の光のように嬉しかったのだ。
◆
その頃、瀬戸家の自室にて。僕は開け放たれたクローゼットの前で頭を抱えていた。ベッドの上には色とりどりの、といっても地味な色合いばかりだがシャツやパンツが脱ぎ捨てられた抜け殻のように散乱している。
普段、放課後の図書室で会う時の彼女は「同志」であり「読書仲間」だった。本のページをめくり感想を語り合う時、そこには性別の垣根など存在しないかのような知的没入感があった。彼女の鋭い感性や古典への造詣の深さに触れるのが楽しくて僕は彼女に対し、等身大の友人として接してきたつもりだった。
けれど「休日に」「二人きりで」「私服で」「遊びに行く」。
この四つの条件が揃った途端、僕の脳内でけたたましい警報が鳴り響いた。
(これ……どう考えてもデート、だよな?)
一度そう認識してしまった瞬間、普段は意識の隅に追いやっていた「現実」が圧倒的な質量を持って押し寄せてきた。
梶田カヤ。
彼女は、ただの読書好きの女子生徒ではない。入学当初から「文学少女の完成形」「深窓の令嬢」と噂され、その美貌とミステリアスな雰囲気で男子生徒たちの視線を独占している学年の『高嶺の花』だ。
先日の球技大会でもそうだった。彼女がただ木陰に座り、風に髪をなびかせているだけで他クラスの男子たちが「あの子、誰だっけ?」「2組の梶田さんだよ、ヤバくね?」と色めき立っていたのを僕は痛いほど耳にしていた。
そんな彼女と僕が? 二人きりで?
「……釣り合わなすぎるだろ」
姿見に映る自分を睨む。そこに映るのはボクシングしか取り柄のない、無骨で垢抜けない男だ。鍛え上げた筋肉は服の上からでは伝わりづらく、単にひょろ長い男に見えなくもない。彼女の隣を歩いていい人間なのか、急激に自信が萎んでいく。彼女は僕のことを、あくまで「友人」として見てくれている。
だが、もし明日、彼女の私服姿を見た瞬間、僕が変に異性として意識してしまって挙動不審になってしまったら? 気持ち悪がられたら? その恐怖が思考を堂々巡りの迷宮へと誘い込んでいく。
「……落ち着け、ただの打ち上げだ。いつも通り本の話をすればいいんだ」
自分に言い聞かせるが心臓の音はうるさいままだ。明日着ていく服が決まらないまま、悶々とした夜が更けていった。
◆
翌日、土曜日。駅前広場での待ち合わせ。私服姿の自分を見た瞬間、瀬戸くんが石のように固まってしまった時はどうしようかと思ったが、なんとか無事に合流し駅近くのカラオケボックスへと入った。
受付を済ませ薄暗い個室に入る。
「私、あまり最近の曲は知らないのですが……」
そう前置きしてデンモクを操作した。選んだのは一昔前の男性ボーカルのバラード曲だ。今の自分の低い話し声のトーンなら無理なく歌えると思ったからだ。
イントロが流れ出しマイクを口元に運ぶ。己の中で、ある記憶が蘇る。
(……歌うのなんて、いつぶりだろう)
かつての自分は小学生の頃、「万能」と呼ばれる神童だった。勉強も、運動も、絵を描くことも、そして歌うことも。何をやらせても人並み以上にできた。自分は特別なのだと疑いようもなく信じていた時代。
けれど中学時代の「地獄」が全てを奪い去った。毎日のように続く理不尽ないじめと暴力。尊厳を踏みにじられる日々の中で勉強どころではなかった。さらにアスリスの発症による肉体変化で誇りだった運動能力も失った。今の自分に残っているのは34℃の冷たい身体と不自由な生活だけだと思っていた。
息を吸う、歌詞がモニターに浮かび上がる。メロディに合わせて声を出す。
――♪
空気が、震えた。
声が出る、喉が詰まることもなく肺が圧迫されることもなく。かつての変声期前のボーイソプラノとは違う。しかし今の肉体が持つ深く透き通ったアルトボイスが空間を満たしていく。音程もリズムも表現力も、脳が記憶している「歌い方」を新しい声帯が完璧にトレースしていく。
(……できる)
歌うことは得意だった。そしてそれは、あの壮絶ないじめによっても奪われていなかったのだ。
サビに入り声を張り上げる。身体の奥底に溜まっていた澱のような感情、行き場のない怒り、悲しみ、孤独が声に乗って昇華されていく感覚。歌詞に込められた「喪失」や「再生」への願いが己自身の魂と共鳴し、圧倒的な熱量となってマイクを震わせる。
あの泥濘のような日々の中で心は死んだと思っていた。けれど、この「芸術的な感性」だけは生き残っていたらしい。あるいは痛みを知った分だけ、より深く鋭くなっているのかもしれない。
曲が終わり、エコーが残響となって消えていく。ふと我に返り恐る恐る瀬戸くんの方を見た。
「……どう、でしょうか。変じゃなかったですか?」
彼はポカンと口を開けていた。そして、ハッとしたように瞬きをして激しく拍手をした。
「すごい……! すごいよ、梶田さん!」
「えっ」
「プロみたいだった。……ううん、そんな言葉じゃ足りない。もっと心に響くっていうか……鳥肌が立ったよ」
彼が腕をさすりながら興奮気味に身を乗り出して言う。その瞳は、お世辞や社交辞令の色など微塵もなく純粋な驚きと賞賛に輝いていた。
「……大げさですよ」
照れ隠しに笑ったが、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。勉強も運動も人並み以下になってしまった自分が、まだ誰かを感動させることができる。その事実が、たまらなく嬉しく、そして誇らしかった。
「次は瀬戸くんの番ですよ。……あの、ボクシングのアニメの曲とか、どうですか?」
少し悪戯っぽく提案する。
「ええっ、それ完全にネタ枠じゃん!」
彼は苦笑しながらも観念したようにマイクを握った。彼が歌ったのは予想通り熱血アニメの主題歌だった。普段の穏やかで理知的な彼からは想像もつかないような、熱く、そして少し音程の外れたシャウト。おかしくてたまらず上品さを忘れてお腹を抱えて笑った。つられて彼も笑った。
そして二巡目が回ってきたが、ここで少し欲が出る。今の自分の喉はどこまで「使える」のだろうか。アスリスで作り変えられたこの身体、普段は「九条綴」を演じるために意識して声を低く抑えているけれど身体的には完全に女性のものだ。なら、もっと高い声も出るのではないか?
意を決して、女性ボーカルの曲を選んだ。テンポの速いキーの高いポップス。
(……いけるか?)
曲が始まる、サビの高音部分。恐る恐る、頭のてっぺんから声を出すイメージで喉を開いた。
――♪
突き抜けるようなハイトーンが個室の空気を震わせた。自分でも驚いた、苦しくない。むしろ翼を得た鳥のように声がどこまでも高く舞い上がっていく感覚。喉の可動域が、己の想像を遥かに超えて広がっている。
(……すごい。出る、出るぞ!)
嬉しくなった、自分に残された数少ない「才能」
それが、こんなにも鮮やかに開花しているなんて。
三巡目、四巡目。もうブレーキをかけるのをやめた。選ぶ曲はどんどん明るく、キーの高いものになっていく。最後に入れたのは最近流行りの甘々なラブソングだった。歌詞は「大好き」とか「離さないで」とか普段の自分なら絶対に口にしないような恥ずかしい言葉の羅列だ。でも、今の自分はただの高揚した「歌い手」だった。
「――♪ ダーリン、こっち向いて!」
マイクを握りしめ、身体を揺らしながらサビを歌い上げる。楽しい、ただひたすらに声を出すことが楽しい。視界の端で瀬戸くんが真っ赤な顔をして固まっているのが見えたけれど今の自分には、その意味を深く考える余裕なんてなかった。
◆
梶田さんが熱唱している裏で僕は目の前の光景に圧倒されていた。いや、もっと正確に言えば心臓が爆発しそうだった。最初のバラードの時は、ただ「かっこいいな」と思っていた。彼女の落ち着いたアルトボイスは知的な雰囲気にぴったりで、大人の女性のジャズシンガーのようだったからだ。
けれど中盤から様子が変わった。彼女が女性ボーカルの曲を歌い始めた瞬間、空気が一変したのだ。突き抜けるような高音、普段の話し声からは想像もつかない可憐で透明感のある響き。「九条綴」の仮面の下に、こんなにも無邪気で可愛らしい少女の声が隠されていたなんて。
そして今、彼女は超有名アイドルソングのサビを熱唱している。
『ねえ、もっとぎゅっとして!』
甘い歌詞に合わせて彼女が楽しそうにリズムを取る。頬はほんのりと上気し、眼鏡の奥の瞳はキラキラと輝いている。普段のクールな「梶田さん」はどこへ行ったんだ? いや、これが彼女の素顔なのかもしれない。
(……かわいすぎるだろ)
僕はドリンクのグラスを握りしめ、必死に平静を保とうとした。歌詞の破壊力が強すぎる。「大好き」なんてフレーズを、あの美声で、あんなに楽しそうに歌われたら勘違いしそうになる。もちろん他意がないのは分かっている。彼女はただ歌うことを楽しんでいるだけだ。でも僕の方を見てニッコリ笑いかけられるたびに、心拍数が跳ね上がるのを止められない。
「ふぅ……! 出し切りました!」
曲が終わり、彼女が満足げに息をつく。その額にはうっすらと汗が滲んでいる。僕は慌てて拍手をした。手が汗ばんでいるのがバレないように。
「す、すごいね……。あんな高い声も出るんだ」
「ええ。自分でも驚きました。……少し、はしゃぎすぎましたね」
彼女は照れくさそうに笑い、アイスティーに口をつけた。その仕草が急にまた「九条綴」に戻っていて、そのギャップに僕は再びノックアウトされそうになった。
◆
二時間ほど歌い明かした後、瀬戸くんと遅めの昼食をとるために店を移動した。自分がリクエストしたのは路地裏にひっそりと佇む純喫茶『モンブラン』だ。レトロな喫茶店で、カランコロンという真鍮のドアベルの音に迎えられる。琥珀色の照明、ビロード張りの赤い椅子、静かに流れるジャズ。この空間に身を置くだけで心が落ち着いていく。
「ここのナポリタン、絶品なんですよ」
得意げに言うと瀬戸くんは「へぇ、楽しみだ」と素直に目を輝かせてくれた。彼と窓際の席に向かい合って座った。しばらくして運ばれてきたのは銀色のステンレス皿に盛られた昔ながらのナポリタンと、鮮やかな緑色のソーダ水にアイスクリームが浮かんだクリームソーダ。
「いただきます」
フォークを手に取る。今日は、ここ最近では信じられないほど体調が良い。梅雨の時期を苦しめていた『微細再構成痛』も影を潜め、カラオケでストレスを発散したおかげか、お腹も空いている。
「美味しい……!」
ナポリタンを一口食べて思わず顔を綻ばせた。炒められたケチャップの甘酸っぱい香りと、もちもちとした太麺の食感。これぞ正統派の喫茶店メシだ。ふと視線を感じて顔を上げると瀬戸くんが少し呆然とした顔で此方を見ていた。
「……瀬戸くん? お口に合いませんでしたか?」
「えっ? あ、いや! すごく美味しいよ! ただ、その……」
彼は慌ててナポリタンを頬張り、モゴモゴと言った。
「梶田さんが、すごく美味しそうに食べるから。……なんか、いいなって」
「……?」
よく分からないけれど褒められているのだろうか。少し照れくさくなってクリームソーダの上のサクランボを掬い上げた。
「そういえば、球技大会の時のあのシュート、すごかったです」
話題を変えるように言う。
「え? あ、あのゴールポストに直撃したやつ?」
「はい。外れはしましたけど、金属音がグラウンド中に響いて……迫力がありました。瀬戸くん、やっぱり力持ちなんですね」
「いや、あれは完全に距離感を見誤ってて……。ボール蹴るのって、サンドバッグ叩くよりずっと難しいよ」
彼が恥ずかしそうに頭をかくのを見てクスクスと笑った。そこからは言葉が尽きることはなかった。テストの答え合わせ、夏休みの図書室の開館予定、お互いが今読みかけの小説の感想。本の話になると二人の熱量はさらに上がった。最近発売されたミステリシリーズの最新刊におけるトリックの是非から、古典ミステリの叙述トリックの構造まで。まるで長年の親友のように会話のキャッチボールが続く。
(……楽しい)
心からそう思った。過去の罪も、34℃の冷たい身体も、この時間だけは全てを忘れることができた。自分が「普通の高校生」になれたような錯覚さえ覚えた。
「……ごちそうさまでした」
カトラリーを置く。空になったグラスの氷がカランと涼やかな音を立てた。それは夢のような時間の終わりを告げる合図のようでもあった。
「……楽しかったです。本当に」
彼の目を真っ直ぐに見て、心からの感謝を伝えた。
「僕もだよ。……誘ってよかった」
彼もまた充実感に満ちた顔をしている。伝票を手に取り、席を立つ。店の重厚な扉を開けると夕方の少し湿った風が二人を包み込んだ。
帰りの電車、土曜日の夕方ということもあり車内は適度に空いていた。だから二人で並んで座席に座った。ガタン、ゴトンという一定のリズムで揺れる振動が心地よい眠気を誘う。車窓を流れる景色は燃えるようなオレンジ色から、徐々に群青色の夜へと溶け始めていた。
「……ふぅ」
小さく息を吐いた。楽しかった、本当に夢のように楽しかった。けれど、その高揚感が引くと同時に身体の底から鉛のように重いものが這い上がってきた。
(……あ)
予兆だ。手足の先が痺れ、視界の端が白く霞む。これは『微細再構成痛』の波ではない。今日一日、慣れない外出と「楽しい」という感情の奔流でエネルギーを使い果たしたことによる、『制御型嗜眠』の発動だ。34℃の脆弱な肉体は健常者と同じペースでの活動に耐えられない。限界を超えた活動量のツケを払うため、脳が強制的にシャットダウンコードを入力しようとしている。
(だめだ……まだ、電車の中なのに)
抗おうとした。腿を密かにつねり痛覚で意識を繋ぎ止めようとする。隣には瀬戸くんがいる。彼に無様な姿を見せるわけにはいかないし、迷惑をかけてはいけない。そう思う理性とは裏腹に意識は急速に泥のような深淵へと沈んでいく。
カクリ、と首が落ちた。平衡感覚が失われる、身体が重力に従って傾く。温かい何かに触れた気がした。
……
…………
……………………
隣で梶田さんの頭がカクリと揺れた。次の瞬間、彼女の身体がゆっくりと傾き、僕の左肩に預けられた。
「……えっ」
心臓が跳ね上がった。肩に感じる彼女の確かな重みと体温。髪から漂う清潔なシャンプーの香り。
(ね、寝ちゃった……?)
そっと顔を覗き込む。彼女は深く目を閉じ規則的な、しかし少し浅い寝息を立てていた。カラオケであんなにはしゃいでいたから電池が切れてしまったのだろうか。その無防備な寝顔は普段の「完璧な才女」とは程遠い、幼くて儚い少女のものだった。
(……無理させちゃったかな)
申し訳なさと少しの嬉しさ。自分の肩で安心して眠ってくれているという事実がこそばゆい。僕は彼女を起こさないように身体を硬直させ車窓の向こうの夕暮れに視線を逃がした。
電車がカーブに差し掛かる。ガタン、と車体が大きく横に揺れた。
その拍子に僕の肩に預けられていた彼女の頭が少し動き、さらりとした黒髪が滑り落ちた。普段は鉄壁の守りで隠されている「左耳」が露わになる。
「……あ」
ふと視線を落とした僕は息を呑んだ。思考が凍りついた。
そこには僕の知らない「梶田カヤ」がいた。
白磁のように美しく透き通った耳。その耳たぶに一つ。そして耳の上部、硬い軟骨の部分に、三つ。片耳だけで合計四つの穴。
(……嘘だろ?)
それはファッションで開けたような可愛らしいピアスホールではなかった。何も着飾っていない、ただの黒い空洞。赤く腫れているわけでもない。完全に皮膚が出来上がり完治している。だからこそ異様だった、傷一つない真っ白な肌に無機質な穴だけがぽっかりと口を開けている。まるで美しい絵画にタバコの火を押し付けたような冒涜的な違和感。
「深窓の令嬢」である彼女のイメージと、そのハードな痕跡が脳内で激しく衝突する。 軟骨に三つ。それは、かなりの痛みを伴う場所だ。いつ開けたんだ? 最近じゃない。もっと昔、彼女の身体が幼かった頃の傷跡に見える。
(……自分で、やったのか?)
それとも誰かに無理やり? どちらにせよ、そこには「まともではない過去」の匂いがした。自暴自棄、あるいは暴力。彼女が普段、完璧な演技の下に隠している「何か」が、その穴から音もなく漏れ出しているように思えた。
ドクン、と心臓が痛いほど脈打つ。見てはいけないものを見てしまった罪悪感。これは彼女の秘部だ、心の柔らかい部分だ。けれど僕は目を逸らせなかった。その痛々しい穴が彼女の言葉にならない悲鳴のように見えて。
僕は震える指先を伸ばし、そっと彼女の髪を戻した。四つの穴を再び黒い絹の幕で覆い隠す。
(……見なかったことにしよう)
今はまだ彼女はこの傷に触れられたくないはずだ。もし僕が気づいたと知ったら彼女は傷つき、プライドを守るために離れていってしまうかもしれない。だから何も見ていない、何も気づいていない。今はそう振る舞うことが彼女を守る唯一の方法だと信じて。
「……ゆっくり休んで、カヤさん」
誰にも聞こえない声で囁き、僕は彼女の頭がずり落ちないように、そっと肩の位置を直した。
……
…………
……………………
意識が深い水底から浮上した。ガタン、ゴトンという律動的な揺れとアナウンスの声が鼓膜を叩く。
「……ん」
目を開けると視界の端に見慣れない布地があった。固くて、温かい感触。そして鼻腔をくすぐる微かな石鹸の香り。
(……あ)
思考が再起動するのに数秒かかった。電車の中、隣には瀬戸くん。彼の肩を枕にして眠っていたのだ。
「ッ……!!」
飛び起きるように顔を上げた。心臓が早鐘を打つ。やってしまった、なんて失態だ。『制御型嗜眠』とはいえ異性の肩にもたれかかって爆睡するなど、九条綴を目指す者にあるまじき不覚。よだれは垂らしていないか? 寝言は言っていないか?
「……あ、起きた?」
隣から穏やかな声がした。恐る恐る横を見ると瀬戸くんがブックカバーがかけられている読みかけの文庫本から目を離し、優しく微笑んでいた。
「……すみません、私……いつの間にか……」
「ううん、大丈夫だよ。疲れてたんだね」
彼は怒っていなかった、困ってもいなかった。ただ、その瞳の奥に、いつもより少しだけ色が濃い複雑な光が宿っているような気がした。
……気のせいだろうか。
「……重く、ありませんでしたか?」
「全然。……むしろ、役得だったかな」
「えっ」
「あ、いや! 冗談冗談! 忘れて!」
彼は慌てて顔を赤くし手を振った。その反応を見てホッと胸を撫で下ろした。いつもの彼だ、このピアスの秘密には気づいていない。もし気づいていたら、こんな風に冗談を言えるはずがない。軽蔑するか、気まずそうにするはずだ。
(……よかった、バレてない)
密かに安堵のため息をついた。窓の外を見ると、もう最寄りの駅が近づいていた。 魔法のような時間が終わろうとしている。
駅の改札前、夕方の喧騒に包まれたコンコースで彼と向き合った。
「今日は、ありがとうございました」
深く頭を下げた、心からの感謝だった。テスト勉強も球技大会も、そして今日の打ち上げも。彼がいなければ、こんなに彩りのある一学期にはならなかっただろう。
「楽しかったです。……本当に」
「僕もだよ。……歌、また聴かせてね」
瀬戸くんは少し照れくさそうに頭をかいた。その真っ直ぐな笑顔を見ていると胸に小さな痛みが走った。この関係は、いつまで続けられるのだろう。自分は嘘をついている。性別も、過去も、性格さえも偽って彼の隣にいる。いつか全てが露見した時、彼はどんな顔をするのだろう。
「……瀬戸くん」
「ん?」
「夏休みも……図書室、来ますか?」
思わず聞いてしまった。会えない期間が続くのが怖かったのかもしれない。彼は少し驚いた顔をして、すぐに破顔した。
「もちろん。……梶田さんがいるなら毎日でも」
その言葉は、どんな甘い台詞よりも心を揺さぶった。これ以上踏み込まないでほしい、でも離れないでほしい。矛盾した感情を飲み込んで精一杯の、九条綴のような落ち着いた笑顔を作った。
「……待っています。おすすめの本、用意しておきますね」
二人は手を振り、それぞれの帰路についた。自動改札機が閉まる音が二つの世界を分断する境界線の音のように響いた。
夏休みが始まる。二人の「34℃」の青春は、さらに熱を帯びて複雑に絡み合っていく。