夏休みに入って既に2週間が経った。連日の猛暑日が続き、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。 蝉の声が脳を揺らすように降り注ぐ午後、瀬戸皓二朗は近所の河川敷で一人、黙々と拳を振るっていた。
「……ッ、シュッ!」
鋭い呼気と共に左ジャブを放つ。拳が空気を切り裂く音が蒸し暑い河川敷に響く。ジムを離れてから随分経つが身体に染み付いた習慣は抜けず、こうして時折身体を動かしては鈍らないようにメンテナンスを続けている。
汗を拭い、ペットボトルの水を喉に流し込む。ふと、視線が自分の左肩へと落ちた。夏休みに入る前、電車の中で梶田さんが寄りかかって眠っていた場所だ。夏休みに入ってからも梶田さんとは何度も会っている。だが、あの時見てしまった光景が、どうしても頭の中でチラついて離れないでいた。
あの一瞬、さらりと流れた黒髪の下から覗いたもの。白磁のような耳に残された四つの空洞。右耳にも同じ数があったとしたら合計八つ。
『深窓の令嬢』『読書家で、物静かな優等生』
それが僕の知る梶田カヤだ。けれど、あのピアス跡はどう説明すればいい? ただのファッションで開けた数じゃない。軟骨にまで無造作に穿たれたそれは、どこか自傷行為に近い衝動か、あるいは荒れた生活の痕跡のように見えた。
(……意外だったな)
正直、驚いた。彼女のように理知的で穏やかな人が、あんな痛々しい「過去」を持っていそうだったからだ。でも、だからといって彼女への見方が変わることはなかった。むしろ、あの完璧に見える彼女にも人に言えない悩みや若気の至りがあったのだと思うと、少しだけ親近感が湧いたくらいだ。
(誰にだって触れられたくない過去はある)
僕にだってある。思い出したくもない記憶や封じ込めた傷跡が。彼女があのピアスを髪で隠しているのなら、それは彼女にとって「見せたくないもの」なのだろう。なら、僕は気づかないふりをする。それが友人としてのマナーだ。
「……よし」
思考を切り替えるように僕は再び構えを取った。彼女が隠している「秘密」が何であれ、今の彼女が僕の大切な友人であることに変わりはない。図書室で言葉を交わし、笑い合える今の関係を守りたい。そう強く思いながら僕は夏の空に向かって拳を突き出した。
◆
一方その頃、カヤは自室のベッドの上で干からびたミミズのように伸びていた。
「暑い……」
冷房は24℃に設定しているはずなのに身体の芯がぼんやりと熱い。これは気温のせいではない。アスリス特有の「体温調整機能の不全」と、ここ数日の「瀬戸くん欠乏症」による精神的な倦怠感だ。
あの日、一学期の打ち上げとしてカラオケに行き、喫茶店に行き、電車で帰った。最高の思い出だった。けれど祭りの後の静けさは以前よりも深く重く、己を押し潰そうとしていた。
中学時代の三年間、自分には「友達」がいなかった。会話をする相手も一緒に笑う相手もいなかった。世界はずっと灰色で、その片隅で膝を抱えて嵐が過ぎるのを待つだけの存在だった。
けれど今は違う。 瀬戸皓二朗という太陽のような引力を持った友人ができた。彼と話していると自分が生きている実感が湧く。彼が笑いかけてくれると己という存在が許されているような気がする。
「……会いたいなぁ」
口に出してしまい慌てて枕に顔を埋める。いけない、これは依存だ。九条綴は孤独を愛する女だ。友人に会えないくらいでジタバタしたりしない。玉露を啜りながら難解な哲学書を読み耽るのが正しい夏休みの過ごし方なのだ。
そう自分に言い聞かせ、サイドテーブルに積まれた本に手を伸ばす。カントの『純粋理性批判』。今の精神状態を矯正するには、このくらい硬い本が丁度いい。
ページを開く、活字を目で追う。……しかし、数分もしないうちに文字がゲシュタルト崩壊を起こし、気がつけばスマホの画面をタップしていた。
メッセージアプリを開く。一番上にある「瀬戸皓二朗」の名前。最後のやり取りは夏休み前に遊んだ日の『無事に着きました。今日はありがとう』という淡白なもの。
あれからも数日おきとは言え、瀬戸くんとは学校の図書室で会えている。アプリは日常の会話でなく、あくまで連絡の手段としてしか利用していない。
(……送っちゃう? 『暑中お見舞い申し上げます』とか? いや、古風すぎる。もっと自然に……『図書室の鍵、私が持っていましたっけ?』とか? いやいや、惚けるにしてももう少しマシな内容にしないと……)
一人で百面相をして結局スマホを放り投げる。あの日、電車で寝てしまった時、この頭を彼は優しく支えてくれていた、らしい……。起きた時、彼は「役得だった」なんて冗談めかして笑っていたけれど、もしかして重かったんじゃないだろうか。よだれとか垂れてなかっただろうか。それに――
指先が自分の左耳に触れる。髪の下に隠された凸凹とした傷跡。電車で寝ている間、髪が乱れてこれが見えてしまわなかっただろうか? 彼からは何も言われなかった、態度も変わらなかった。だから、きっと大丈夫だったはずだ。もし見られていたら、あんなに普通に「またね」なんて言えるはずがない。でも、もし……。
いくら考えても出口の見えない不安に苛まれる。夜の海のような暗く果てのない気持ち。そんな中ふと、この高校に入学した当初の決意を思い出す。
『見てほしい。生まれ変わった私を』
かつて「宮本貴也」という汚れた皮を被っていた自分は、あの日、橋の上で彼に救われた。だからこそ死に物狂いで勉強し立ち居振る舞いを矯正し、「九条綴」のような少女へと変身したのだ。いつか彼に再会し、正体を明かして伝えたかった。「貴方が助けてくれた命は、こんなに綺麗に生まれ変わりました」と。そうして、あの日の感謝を伝えて、全てを精算するつもりだった。
(……なのに)
今はもう、それができない。彼と過ごす時間が長くなればなるほど彼が向けてくれる「信頼」や「親愛」が心地よくて、手放せなくなっている。彼が見ているのは、清廉潔白な高嶺の花である梶田カヤだ。かつて泥の中を這いずり回っていた、銀髪の少女が生まれ変わった姿ではない。
もし、正体を明かしたら? この温かな眼差しは軽蔑と憎悪に変わるだろうか。「騙していたのか」と、その優しい声で糾弾されるのだろうか。
(怖い……)
失いたくない。嘘でもいい、偽りでもいい。彼の記憶の中で「綺麗なまま」でいたい。汚い過去なんて持たない、彼にお似合いの「友人」として一日でも長く隣にいたい。
そんな身勝手な願いが胸の奥で黒い澱のように渦巻いている。
その時、放り投げたスマホがヴヴッ、と短く震えた。ビクッとして画面を見る。通知のポップアップ。
『瀬戸皓二朗:こんにちは。暑い日が続くけど、体調は崩してない?』
「ひゃっ!?」
変な声が出た。タイミングが良すぎる。もしかして、この部屋に監視カメラでもついているのだろうか。震える指でロックを解除する。
『瀬戸皓二朗: こんにちは 暑い日が続くけど体調は崩してない?実は相談があるんだけど 来週の土曜日、図書室の蔵書点検があるよね そのあと、もし時間が空いていたらなんだけど……』
スクロールする。続きの文章が表示される。
『駅前である納涼祭、一緒に行かないかな? ずっと家にいるのも息が詰まるだろうし、気晴らしにどうかなって』
「…………え」
思考が停止した。納涼祭、この地域では一番大きな夏祭りだ。それを瀬戸くんと? 二人で?
(お祭り……瀬戸くんと、お祭り……!)
胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。かつて輪の外から眺めるだけだった、キラキラとした青春の光景。それを彼となら体験できるかもしれない。
けれど、同時に冷ややかな不安が首筋を撫でた。夏祭りということは人混みだ。知らない人々の波、喧騒、男たちの視線。中学時代のトラウマが脳裏をよぎる。怖い、外に出るのが怖い。それに、もしそこで中学時代の自分を知っている相手に出会してしまったら? もし、人混みの中で「宮本」と声をかけられたら?
(……大丈夫)
鏡を見る。そこには黒髪の清楚な少女が映っている。表情を殺し、背筋を伸ばした自分。眼鏡を掛ければどこからどう見ても、あの泥にまみれた「銀髪の少女」とは別人だ。
それに『瀬戸皓二朗』という名前が、その恐怖を押し留める。彼となら、彼がいてくれるなら、この嘘で塗り固めた「綺麗な私」のままで、ほんの一時の夢を見てもいいのではないか。罪悪感よりも恐怖よりも「彼と過ごしたい」という渇望が勝った。
震える指で返信を打つ。
『カヤ: ごきげんよう、瀬戸くん。お誘いありがとうございます。納涼祭……ですか。私でよろしければ、喜んでご一緒させていただきます』
送信ボタンを押す。数秒後、すぐに『既読』がつく。
『瀬戸皓二朗: よかった! じゃあ、当日は点検が終わってから、そのまま行こう。 楽しみにしてるね』
スタンプ一つないシンプルな文面なのに心が温まる。その気持ちと共に画面を胸に抱きしめ、ベッドの上で小さく丸まった。神様、どうかもう少しだけ。この魔法が解けるのを待ってください。
約束の土曜日。うちの学校は夏休み中の補習や部活動のために開放されており、進学校なだけあって服装も華美でなければ私服での登校が許可されている。
午前中の図書室は外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。蔵書点検の作業。バーコードリーダーを読み込ませる「ピッ」という電子音だけが規則的に響く。
「……
脚立から降りて報告するとカウンターでデータを集計していた瀬戸くんが顔を上げた。
「お疲れ様、梶田さん。早いね」
「瀬戸くんこそ。
「うん。……二人がかりだと、あっという間だね」
彼は爽やかに笑う。今日の彼は、白いTシャツに薄手のシャツを羽織ったラフなスタイルだ。鍛えられた身体のラインが自然と出ていて、健康的で眩しい。対する自分は紺色のワンピースに薄手のカーディガン。冷房対策と、そして日焼け対策を兼ねた、いつもの「令嬢スタイル」だ。
「あら、二人とも早いわね。助かるわ」
奥から司書の先生が出てきて、お茶とお菓子を差し入れてくれた。
「瀬戸くん、いつもありがとうね。図書委員じゃないのに、もうすっかり『名誉委員』だわ」
「いえ、好きでやってることですから」
瀬戸くんは照れくさそうに頭をかいた。5月の図書整理の一件以来、彼は頻繁に図書室の仕事を手伝ってくれるようになった。力仕事はもちろん、高い所の本の出し入れや時にはカウンターの留守番まで。自分にとっては「頼れる友人」であり、先生にとっては「頼もしい助っ人」 彼の存在は、この図書室にとって当たり前の風景になっていた。こうして彼と並んでいると自分が本当に普通の高校生になれたような錯覚を覚える。ここには過去の亡霊も、汚れた記憶もない。ただ、穏やかな時間があるだけだ。
「……じゃあ、そろそろ行こうか」
作業を終え、先生に挨拶をして図書室を出る。校門を出ると夕暮れの街は既に祭りの予感に包まれていた。遠くから微かに聞こえる太鼓の音、浴衣姿の人々の波。駅前広場へと続く道は、いつもとは違う浮足立った熱気を帯びている。
「……っ」
駅前が近づくにつれ人の密度が増していく。すれ違う人々の肩が触れそうになる。笑い声、呼び込みの声、雑踏のノイズ。それらが一塊となって押し寄せてきて思わず足を止めた。
(怖い……)
中学時代の記憶がフラッシュバックする。好奇の目、嘲笑、値踏みするような視線。呼吸が浅くなる、足がすくむ。やっぱりまだ早かったのかもしれない。こんな光あふれる場所に来る資格なんて、自分には……。
その時だった。
「……梶田さん」
不意に左手を温かいものが包み込んだ。瀬戸くんの手だ。彼が震える手を、大きくゴツゴツとした掌でしっかりと握りしめていた。
「人が多いから。……はぐれないように」
彼は此方の顔を覗き込み安心させるように微笑んだ。その瞳には下心や打算の色は微塵もない。ただ純粋に人混みに怯える友人を気遣う優しさと守ろうとする誠実な光だけがあった。
「……はい」
縋るように彼の手を握り返した。温かい。34℃の冷たい、この手に彼の体温がじんわりと伝わってくる。その熱が恐怖で凍りついた心を溶かしていく。
(この手を、離したくない)
もし正体がバレれば、この手は振り払われるだろう。だからこそ今だけは、この嘘が暴かれるその時までは、この温もりに甘えていたい。
「行こう」
彼が前を向き、一歩を踏み出す。その背中に導かれるように雑踏の中へと足を踏み入れた。彼の手を通じて伝わってくる鼓動だけが、この喧騒の中で唯一確かな道しるべだった。
彼の手の温もりに導かれ、二人で人波を泳ぐように進んだ。祭りの喧騒は凄まじかった。屋台の発電機の音、呼び込みの声、スピーカーから流れる祭り囃子。それらが湿った夏の空気の中で反響し、巨大な生き物の唸り声のように聞こえる。
「……あ、射的だ」
不意に瀬戸くんが足を止めた。赤い提灯が揺れる屋台の前、コルク銃が並べられ棚にはお菓子や小さなぬいぐるみが陳列されている。
「やってみる?」
彼が少年のように目を輝かせて振り返る。小さく頷いた。
「はい。……瀬戸くんの腕前、拝見したいです」
「任せて。これでも動体視力には自信があるんだ」
彼は五百円玉を店主に渡し、コルク銃を受け取った。構える姿は様になっている。脇が締まり背筋が伸びていて隙がない。彼は狙いを定め、引き金を引いた。
ポン、という乾いた音。コルク弾は景品のはるか上を通過し、虚しく壁に当たって跳ね返った。
「……あれ?」
「……惜しいですね」
「い、いや、今のは調整だから! 次こそ!」
二発目。右に逸れた。三発目。下。
「……おかしいな。ボクシングだと距離感掴めるのに道具を使うと全然だめだ」
彼ががっくりと肩を落とす姿があまりにも微笑ましくて、口元を手で覆って笑った。
「ふふ、球技の他にも苦手なものがあったんですね」
「笑わないでよ……。じゃあ次は梶田さんの番」
彼から銃を受け取る。ずしりとした木の重み。撃つ前に眼鏡の位置を直し、片目を閉じて狙いを定めた。
(……吸って、吐いて、止める)
雑音が遠のく、視界の中心に標的だけが残る。かつて「万能」と呼ばれた頃の感覚。指先に神経を集中させる。
タンッ、と小気味良い音がして狙ったキャラメルの箱がパタリと倒れた。さらに弾を込めキーホルダー、そして最後に小さな猫の置物を撃ち落とした。全弾命中。
「す、すごい……! 梶田さん、スナイパーの才能あるよ!」
「……偶然です。ビギナーズラックですよ」
店主から景品の入った袋を受け取りながら、思わずはにかんでしまう。嘘だ、偶然ではない。これはかつてゲームセンターでハイスコアを出し続けた「宮本貴也」の才能の残滓だろう。喜びよりも先に微かな苦味が胸に広がるが、瀬戸くんの笑顔がそれを溶かしていく。
「喉、乾いたね。あっちの自販機に行こうか」
人混みをかき分けて移動しようとした、その時だった。
ドンッ。
向こうから歩いてきた男と肩が激しくぶつかった。
「……っと、悪りぃ」
低い男の声。身体はよろめき、その拍子に髪がさらりと流れた。
「す、すみません……」
慌てて頭を下げ、顔を上げる。目の前には派手なアロハシャツを着た茶髪の男が立っていた。男は苛立ったように舌打ちしかけたが、此方の顔を見た瞬間、その目が大きく見開かれた。
「……お?」
男の視線が顔をじっとりとなめ回す。そして、その視線は、さらに顔の横――乱れた髪の隙間から覗く「左耳」へと吸い寄せられた。
「……へぇ」
男がニヤリと口角を上げる。その笑顔に背筋が凍りついた。直感的な嫌悪感、生理的な拒絶。この目は知っている。中学の頃によく経験した「人間」としてではなく、「値踏みすべき肉」として見る目だ。
「梶田さん、大丈夫?」
瀬戸くんがすぐに割って入り、肩を抱いて男から引き離してくれた。
「そんな強くぶつかってねぇし、その子も大丈夫だろう。可愛い連れがいて羨ましいねぇ、お兄ちゃん」
男は意味深な笑みを残し、人混みへと消えていった。
「……行こう、梶田さん」
瀬戸くんに促され、逃げるようにその場を離れた。けれど心臓の鼓動は早鐘を打ったまま収まらない。今の男、どこかで会ったことがある気がする。あの粘着質な視線、記憶の底にある「泥濘」が呼び起こされるような感覚。
(……気のせいだ。きっと、気のせい)
自分に言い聞かせ、震える足を必死に動かした。
◆
一方、かつて中学生の頃のカヤを「買っていた」人物の一人である男は、ニヤニヤと笑いながら歩いていた。
「……間違いねぇな」
脳内で、さっき見た「清楚な美少女」と記憶の中の「荒んだ銀髪の少女」が重なる。黒髪に眼鏡、お嬢様のような服装。一見すれば別人だ。だが、あの顔立ち。そして何より、耳に残された軟骨のピアス穴。
『あーあ、また増やしたのか? 痛々しいねぇ』
かつて情事の最中に自分が指で弄んだあの穴の位置と完全に一致する。
「銀髪ちゃんよぉ……。髪染めて、お嬢様ごっこか?」
男の目つきが変わる、獲物を見つけた肉食獣の目。あのメスは極上の玩具だった。無反応な人形のような態度に時折見せる絶望した目。それが今、あんな真っ当な男連れて幸せそうに笑ってやがる。
「……確かめてやるよ」
男はポケットからタバコを取り出し踵を返した。
◆
神社の境内裏、ここなら人もまばらで風も通る。石段に二人で腰を下ろし、屋台で買ったラムネを開ける。ビー玉がカランと鳴る音。
「……ごめんね、さっきは」
瀬戸くんが言った。
「僕がもっと周りを見てればよかった」
「いえ、私が不注意だっただけです。……瀬戸くんは悪くありません」
その言葉に首を横に振った。彼と一緒にいると自分が守られていることを実感する。けれど、その安らぎはいつだって薄氷の上にある。
「……瀬戸くん」
「ん?」
「私、瀬戸くんに助けられてばかりです。……私は、貴方が思っているような立派な人間じゃありません」
震える声で呟く。罪悪感が胸を締め付ける。
「臆病で、嘘つきで……本当は、もっと……」
汚れているんです。そう言いかけた言葉を彼の真っ直ぐな視線が遮った。
「梶田さん。……君が誰の真似をしていようと、僕は今の君が好きだよ。友達として、尊敬してる」
時間が止まった気がした。蝉時雨が遠くなる、彼の瞳に映る自分が泣きそうな顔で笑う。
このままでいい。この心地よい嘘の中で永遠に微睡んでいたい。
そう願った、その時だった。
「――やっぱり、ここか」
粘着質な声が鼓膜をこじ開けた。 背筋が凍る、さっきの声だ。振り返ると、そこにはさっきの茶髪の男が立っていた。後ろには二人の連れを従えている。
「……なんの用ですか」
皓二朗くんが低い声で言い、庇うように立ち上がってくれる。
「用があるのはそっちの姉ちゃんだよ」
男は皓二朗くんを無視し、此方に近づいてくる。
「さっきぶりだなぁ。……なぁ、俺のこと覚えてねぇか?」
「……人違い、です」
かけられた言葉に顔を背け否定した。認めてはいけない、認めたら終わる。
「ハッ、とぼけんなよ。……なぁ? 『銀髪ちゃん』」
男の言葉に心臓が破裂したかと思った。世界が反転する。銀髪ちゃん、それは、かつて自分が、このような男たちに体を弄ばれていた時の呼び名。
「お前、髪黒くしたのか? それにその服、随分と清楚ぶってんじゃねぇか。……あんなに乱れてたのによぉ」
男が一歩近づく、逃げ場がない。
「おい、やめろ!」
皓二朗くんが男の胸を突き飛ばそうと手を伸ばす。しかし、その間に連れの二人が立ち塞がったことで、男の手は瀬戸くんに阻まれることなく伸びてくる。そして、手首を乱暴に掴み上げられる。
「……ッ!?」
一瞬の出来事で悲鳴を上げる間もなく、そのまま強い力で握りしめられた。
「……ほうら、やっぱりだ」
男が恍惚とした表情で歪んだ笑みを浮かべる。手首を握るその指が、じっくりと肌の温度を確かめるように這う。
「この冷たさ……死体みてぇな低体温、忘れもしねぇよ」
男は確信に満ちた声で言った。
「こんな暑い日に普通の女じゃありえねぇ冷たさだ。……あの時、抱いた時と同じ冷たさだなぁ」
思考が真っ白に染まる。言われた、皓二朗くんの前で 「抱いた」と。男はニヤリと笑うと、空いたもう片方の手が顔へと伸びてくる。
「や、やめ……!」
抵抗する間もなかった。男の指が眼鏡の縁にかかり、乱暴に引き剥がされた。
「あっ……!」
視界がブレる。眼鏡を奪われ、無防備な素顔を夜気の中に晒された。男に顎を強引に掴まれ、街灯の光の下へと向けさせられた。
「……ほら見ろ。眼鏡なんかで誤魔化してるが、この目つき、間違いねぇ」
男は顔を至近距離でねめ回し、勝利を確信したように歪んだ笑みを深めた。
「清楚ぶったツラしやがって。……中身はあの頃と変わらねぇ、『穴だらけの玩具』だろ?」
「……う、ぅ……」
声が出ない、裸にされた気分だった。「九条綴」という鎧を剥がされ、ただの汚れた肉塊として晒されている。瀬戸くんが見ている前で。
「おい、兄ちゃん。騙されてんじゃねぇぞ? こいつはこんな清楚なツラしてるがな、中身は穴だらけの不良娘だ。耳だけじゃねぇ、心も体もな」
男は掴んだ手首を皓二朗くんに見せつけるように掲げた。
「離せッ!!」
瀬戸くんの怒号が響いた。 次の瞬間、彼は立ち塞がっていた二人を無理やり押し退け、男の腕を掴み万力のような力でねじり上げた。
「い、ってぇ……!」
男が悲鳴を上げ、掴まれていた手が解放される。瀬戸くんの背中に隠してもらうと、彼は男たちを睨みつけた。その目は今まで見たことがないほど激しい怒りに燃えていた。
「二度と彼女に触るな。……失せろ」
殺気すら帯びたその迫力に、男たちはたじろいだ。元ボクサーの拳、その恐ろしさを本能で感じ取ったのだろう。
「チッ……興醒めだわ。行こうぜ」
男は捨て台詞を吐き、痛む腕をさすりながら後退った。しかし去り際に男は此方を見て、決定的な言葉を吐き捨てた。
「……隠したって無駄だぜ。その耳の穴、塞がってねぇじゃんかよ」
男たちの背中が闇に消え、周囲には再び祭りの喧騒だけが取り残された。足元には無惨に弾き飛ばされた眼鏡が転がっている。それは「九条綴」という鎧の残骸であり、己の嘘の象徴だった。
「……あ、ぅ……」
呼吸がうまくできない、視界が涙でぼやけて世界が揺らいでいる。見られた、知られた。瀬戸くんは今の男の言葉をすべて聞いていた。この手首の異常な冷たさも、眼鏡の下の素顔も、そして耳の穴も。
(もう、終わりだ)
恐れていた時が来てしまった。予感していたように彼は軽蔑するだろう。「清楚なふりをして、中身はこんなに汚れていたのか」と。「騙していたのか」と。
自分の身体を支える力が抜けてしまう。地面に膝をつき、震える手で顔を覆った。今の自分は、きっと酷い顔をしている。化粧は崩れ目は充血し絶望に歪んだ、あの頃の「銀髪の少女」そのものの顔をしているはずだ。
「……梶田さん」
頭上から静かな声が降ってきた。怒鳴り声でも冷淡な声でもない、泣きたくなるほど優しい穏やかな声。
「顔を、見せて」
「……いや。……見ないで……」
「大丈夫だから。……怖くないよ」
彼は膝をつき、同じ目線の高さになった。そして、此方の手首をそっと掴んだ。34℃の冷たい皮膚に彼の体温がじんわりと染み込んでいく。その熱に抗えず顔を覆っていた手はゆっくりと外された。
夜気の中に素顔が晒される。思わず目を閉じた。罵倒が飛んでくるのを覚悟して。
けれど、顔に触れたのは罵倒ではなく彼の「指」だった。彼の指先が乱れた髪を耳にかけ、露わになったピアス穴にそっと触れた。
その時、瀬戸くんの視線が顔の上を巡るのを感じた。街灯の逆光の中、彼の瞳が此方を捉える。涙で濡れた目元に怯えきった表情。
(……ああ、やっぱり)
彼の思考が肌を通して伝わってくるようだった。黒髪になっても眼鏡をかけても、 目の前にいるこの怯えた少女は、あの日――冬の橋の上で欄干に身を乗り出して泣いていた「銀髪の少女」そのものだ。彼は今、素顔を見て完全に確信したのだ。
梶田カヤが、あの時の少女なのだと。
「……言葉遣いも、立ち振る舞いも、勉強も」
彼は確信した上で眉一つ動かさず、むしろその傷を労るように、此方の頬を撫でた。
「君がどれだけ努力してきたか分かるよ」
「……え?」
「あの日から……あの冬から今日まで。君はずっと戦ってきたんだね。辛いことがあったのに、腐らずに、逃げ出さずに……こんなに綺麗に変われたんだ」
「……っ」
「立派になったね、梶田さん」
その言葉は魂を貫いた。彼は知っている、その努力が「高校に入ってからの数ヶ月」だけじゃないことを。あの泥沼の冬から這い上がり一年以上の時間をかけて、血を吐くような思いで自分を作り変えてきたことを。その全ての軌跡を、彼は「努力」として肯定してくれたのだ。
けれど、その優しさが何よりも痛かった。立派なんかじゃない。己は一番大事なところで逃げ出した、ただの臆病者だ。
「……違います……」
首を振り、嗚咽を漏らした。
「そんな……立派なものじゃありません……」
耐えきれず、胸の奥でずっと燻っていた後悔を吐き出した。
「本当は……最初に、言わなきゃいけなかったんです」
「え?」
「高校に入学して、貴方と再会した時……。私が『誰』なのか、正体を明かして……胸を張って言いたかったんです。『貴方が助けてくれた命は、こんなにまともになれました』って」
地面に視線を落とし、言葉を絞り出す。
「過去を隠すんじゃなくて、乗り越えた姿を貴方に報告して……そうやって、前向きに生きていくための『最初の一歩』を踏み出すつもりだったんです。それが、貴方への一番の恩返しだと思ってたから……」
あの春の日、図書室で彼を見つけた時。自分がすべきだったのは、理想を演じて過去を隠蔽することではなく、背筋を伸ばして「見てください」と告げることだった。そうすれば今も亡霊に怯えることなく、新しい人生を始められたはずだ。
「……でも、怖かった」
涙がアスファルトに落ちて、黒い染みを作る。
「その一歩を踏み出す勇気がなくて……躊躇って……。そうしているうちに、貴方の優しさが心地よくなって……」
思わず自分の胸を握りしめる。
「甘えてしまいました。打ち明けるタイミングを逃して、現状の幸せに逃げ込んで……。『言わなくてもいいや』って、ズルい自分に負けたんです」
顔を上げ、彼の目を見る。ぼやけた視界の先で彼は悲しげに、此方を見ていた。
「私は立派なんかじゃありません。……一番大事な『最初の一歩』から逃げ出して、貴方を騙し続けている……卑怯者です」
言ってしまった。己の罪の核心。過去を持っていること自体が罪なのではない。その過去を堂々と明かして生きるという「誇り高い道」を選ばず、嘘をついて安穏と暮らす「楽な道」を選んだ自分の弱さこそが、許しがたい罪なのだ。
「……こんな卑怯な嘘つき、貴方の隣にいる資格なんて……」
「梶田さん」
此方の言葉を遮るように、彼が両手を包み込んだ。その手は強く、熱く、震えていなかった。
「……もし君が最初に正体を明かしていたとしても、何も変わらなかったよ」
「……え?」
「君が銀髪のままでも、傷だらけのままでも。……もしあの春、図書室で『私はあの子だ』って打ち明けられていたとしても」
彼は真っ直ぐに此方を見つめ、断言した。
「僕は今と同じように君の手を取っていたよ」
「……そ、そんな」
「僕は君の見た目や表面的な『綺麗さ』で友達になったわけじゃない。……あの橋の上で出会った時から、僕は君が生きていてくれることだけを願っていたんだ」
彼の言葉が、自分の中の凝り固まった罪悪感を溶かしていく。
「だから姿なんて関係ない。君がどんな過去を持っていても、どんな姿をしていても……僕は君を見つけて君の隣にいたと思う」
「……っ」
「だから『嘘をついて騙した』なんて思わないで。……君が今の姿になろうとした努力も、正体を言い出せなくて迷っていた時間も、全部ひっくるめて『君』なんだから」
彼が涙を指で拭ってくれる。そして、優しく微笑んでくれた。
「君がどんな形であれ、僕は君に出会えてよかった」
「瀬戸、くん……」
なんて人だろう。彼は「今の姿」を肯定するだけでなく、「過去の姿」であったとしても、それすら肯定すると言い切った。この卑怯な迷いさえも取るに足らないことのように許してしまった。
自分が勝手に「綺麗な姿じゃないと相応しくない」と思い込んでいただけだったのだ。彼は最初から泥だらけの存在を受け止める覚悟を持っていた。
「……本当に、いいんですか? 私なんかで……」
「君がいいんだ。……君じゃなきゃ、駄目なんだ」
ドーン。
腹の底に響く音と共に夜空が白く染まった。見上げると大輪の花火が夜の帳を引き裂いて咲き誇っていた。極彩色の光が二人の影を地面に焼き付ける。
「……あ、綺麗……」
ぼんやりとした視界の中で光の華が滲んで見えた。その時、皓二朗くんが足元に落ちていた何かを拾い上げ、ハンカチで丁寧に拭った。
先ほど取られた眼鏡だ。
「……はい」
彼は、それを此方に優しく差し出した。
「……え?」
「これがないと、困るでしょ?」
彼は少し悪戯っぽく、けれど真剣な目で言った。
「君は『九条綴』を目指してるんだから」
「……っ」
「これは君が前を向くために必要なものなんだろ? だったら、つけてなよ。僕も応援するから」
彼は「演技」を否定しなかった。むしろ、なりたい自分になろうとする意志を尊重し、そのための道具を返してくれたのだ。「演じ続けてもいい」と。「その夢を応援する」と。
震える手で眼鏡を受け取った。ツルを開き、顔にかける。世界がカチリと焦点を結ぶ。夜空の花火も、そして目の前で微笑む彼の顔も鮮明に浮かび上がった。
「……でもね、梶田さん」
彼は眼鏡のブリッジを、ちょんと指でつついた。
「もし、いつか……これを必要としない日が来たら。自分の意志で外せばいい」
「……外す?」
「うん。……その時の、何も演じていない素顔の君も」
彼は夜空を見上げながら、確信を込めて言った。
「きっと、今と同じくらい……素敵だと思うから」
「……っ!」
心臓が、痛いくらいに跳ねた。彼は今、なんて言った? 眼鏡のない、九条綴ではない、ありのままの姿。それもまた素敵だと言ってくれたのか。
いつか、自分はこの鎧を脱ぎ捨てられる日が来るのだろうか。過去の亡霊も、理想の虚像も、すべて脱ぎ捨てて。一人の人間として、彼の隣に立てる日が。
「……行こう。一番いい場所で見よう」
彼が立ち上がり、手を差し伸べてくれた。その手はかつて自分が橋の上で一度振り払ってしまった手。今回は振り払うことはない。
涙を拭い眼鏡の位置を直してから、その手を取った。
「……はい!」
立ち上がる。過去は暴かれた、卑怯な懺悔も終わった。 けれど、二人の関係は終わらなかった。彼の手を強く握り返す。
ただ夜空を焦がす花火の輝きと繋いだ手の温もりだけがあればいい。「秘密」を共有したから、もう一人ぼっちじゃない。
「……綺麗ですね、瀬戸くん」
「うん、すごく綺麗だ」
見上げた彼の横顔が花火の色に染まって笑っている。つられて笑った。今の自分には手から伝わるこの熱い体温だけが世界で唯一の救いだった。