納涼祭の夜、夜空に咲いた大輪の花火が網膜の裏に焼き付いて離れないように、あの日の出来事は自身の内側でくすぶっていた熱を静かに、けれど確実に昇華させていた。 世界は相変わらず猛暑に喘いでいる。だが、この身を包む空気は以前よりも幾分か呼吸しやすいものに変わっている気がする。
キッチンから漂うトーストの香ばしい匂いとコーヒーのアロマで意識が覚醒する。ベッドから身体を起こし、狭い自室のドアを開ける。数歩進めばもうそこはリビングだ。生活空間がコンパクトにまとまったこのアパートの狭さが、今の自分には分相応で心地よかった。
「おはよう、カヤ。よく眠れた?」
「うん、まあまあ。……お母さん、今日休み?」
あくびを噛み殺しながら椅子を引く。珍しく休日の母がエプロン姿でテーブルを整えていた。並べられた皿には厚切りのバタートースト、彩り豊かなサラダ、そしてふわふわのスクランブルエッグ。かつて「宮本貴也」として生きていた頃、実家の広いダイニングでの食事は常に緊張感を伴うものだった。だが今は違う、ここにあるのはどこにでもある平凡な母と娘の朝の風景だ。
「ええ、久しぶりにシフトが空いたの。だから今日はちょっと手の込んだ朝食にしてみたわ」
「美味そう。……いただきます」
箸を手に取り卵を口に運ぶ。バターの風味が舌の上で広がる。味覚過敏の傾向があるこの身体でも母の味付けだけは不思議と不快な刺激にならない。
「……ねえ、カヤ」
コーヒーを啜りながら母がふとこちらを見つめてきた。その視線は穏やかで何かを探るような色はなかった。
「ん? なに?」
「なんだか、雰囲気が変わったわね」
「え……そう?」
ドキリ、とする。変なボロが出ただろうか。箸を止めて顔を上げると母は嬉しそうに目を細めていた。
「なんていうか……肩の力が抜けたっていうか。ここ一年くらいカヤはずっと何かの『矯正プログラム』を受けてるみたいだったから」
母の言葉に察しがついた。銀色に染めていた髪を黒く染め直し、乱暴な言葉遣いを封印し、美しい所作を叩き込む。それは自分という歪んだ精神を無理やり型に押し込む痛みを伴う矯正と言えなくもない。母はそのきっかけが何なのか知らない。ただ、あの時期に息子が何かに憑かれたように自分を律し始めたことだけを覚えているのだ。
「見てて辛いくらいだったわ。……息をするのも歩くのも、全部マニュアル通りにしなきゃいけないって思い詰めてるみたいで」
母は苦笑しながらカップを置いた。
「でも今はそれが自然になった。……訓練じゃなくてカヤの一部になった気がするわ」
鋭い。納涼祭の夜、瀬戸くんは言った。『君がカヤさんになろうとした努力も、全部ひっくるめて君なんだ』と。あの一言が呪いのように身体を縛り付けていた鎖を解いたのだ。「九条綴」という理想は捨てない。だが、それはもう義務や隠蔽のための仮面ではない。自分自身がそうありたいと願う前向きな「指針」へと変わった。ただ拘りすぎて自分の気持ちを蔑ろにするような模倣や自分を省みない自傷的な人助けは、もう辞めようと心掛けている。
「……そうかもね」
トーストを齧りながら少し照れくさくなって視線を逸らす。
「最近ちょっと……考え方が変わったっていうか、無理しすぎても続かないなって気づいたから」
「そう。……それは良い出会いがあったからかしら?」
母の声が弾む。見透かされている。
「……まあね」
否定する理由もない、正直に報告することにした。これは母に心配をかけまいとするポーズではなく純粋な事実の共有だ。
「友達ができたんだ。……すごく得難い人」
「あら! それは男の子? 女の子?」
「……男の子。クラスは別だけど図書室でよく会うんだ」
「へぇ……!」
母が身を乗り出してくる。その表情はワイドショーのゴシップに食いつく主婦そのもので少し苦笑してしまう。
「変な意味じゃないよ。ただの……なんていうか、同志みたいな感じ」
「ふふ、分かってるわよ。でもカヤがそんな風に誰かのことを話すの初めてだから。……お母さん嬉しいわ」
母の目が潤んでいる。かつての息子が孤独の淵で腐り落ちていくのを彼女はずっと見ていたのだ。それが今ようやく晴れつつあることに安堵しているのだろう。
「……心配かけてごめんね」
「謝らないで。……あなたが笑ってくれるならお母さんはそれだけで十分よ」
母は優しく微笑み、そして悪戯っぽく付け加えた。
「それにしても安心したわ。だってカヤ、さっきトースト焼いてる時すごく『だらしない』顔してたもの」
「はあ!?」
ガタン、と音を立ててカップを置く。思考が一瞬で沸騰する、だらしない? この自分が? 九条綴を目指す者がそんな弛緩した顔を晒していたなど、あってはならない失態だ。
「な、何言ってんの! ちゃんとしてるし! 背筋だって伸びてたし!」
「姿勢のことじゃないわよ。……顔よ、顔。なんかこう、ほわーんとして思い出し笑いでもしそうな」
「ッ……!」
図星を突かれ言葉に詰まる。確かにトーストが焼けるのを待つ間、脳裏に浮かんでいたのは納涼祭の光景だった。夜空に咲く花火、繋いだ手の温もり、そして彼の優しい言葉。それを反芻して無意識に頬が緩んでいたというのか。
「な、……そ、それは……暑さで頭がボーッとしてただけだって!」
ムキになって反論する。その口調が無意識のうちに昔の少し乱暴なものに戻っていることに気づき、ハッとして口をつぐむ。
「ふふふ、そうやってムキになるところは昔と変わらないわね」
母はケラケラと笑った。その笑い声につられて張り詰めていた空気が霧散する。まいったな、瀬戸くんの前では完璧な令嬢を演じられていても母の前ではどうしても地金が出てしまう。だが、それもまた「許されている」と感じられる温かい朝だった。
朝食を終え、母が家事に取り掛かるのを横目に身支度を整える。今日は特に予定はない。瀬戸くんとの約束もない空白の一日だ。けれど部屋に引きこもって本を読む気分ではなかった。外の空気を吸いたい、この新しく手に入れた「軽い心」で街を歩いてみたい。
「行ってきます」
「ええ、気をつけてね。熱中症には気をつけるのよ」
母に見送られ真夏の外界へと足を踏み出す。アパートの共用廊下に出た瞬間、熱気が壁となって押し寄せてくる。34℃の肉体にとって気温35℃の世界はサウナの中を歩くようなものだ。日傘を開き、その小さな影の中に逃げ込む。今日の装いは通気性の良い麻のワンピース。
目的はない。強いて言えば駅前の大型書店へ行くことくらいか。普段なら体調を考慮してアパートの目の前にある最寄りのバス停へ直行するところだ。アスリスの身体は極端に持久力がない。 だが今日は少しだけ足を伸ばしてみようかという気になった。一つ先の停留所まで歩く。たったそれだけのことだが今の自分にとっては小さな冒険だ。
書店へと向かう道すがら近所の大きな公園の横を通りかかる。その時、騒がしい声が耳に入った。
「ちげーよ! 俺たちが先だったし!」
「わたしたちだってば! どいてよ!」
子供たちの騒ぐ声。見れば小学校低学年くらいの男の子の集団と女の子の集団が遊具の前で睨み合っている。喧嘩か? 眉をひそめて様子を伺う。どうやら場所の取り合いというよりは、「何をして遊ぶか」で意見が割れているらしい。
男の子たちは「缶蹴り」をしたいと言い、女の子たちは「色鬼」をしたいと主張している。人数的に両方のグループが合流しないとゲームが成立しない規模なのだろうか。それとも単に場所の占有権争いか。いずれにせよ、どちらのゲームを先に行うかで膠着状態に陥っているようだ。
(……やれやれ)
放っておけばいい、関われば面倒なことになる。理性的にはそう判断した。だが炎天下で言い争う彼らの顔が真っ赤になっているのを見て身体が勝手に動いていた。熱中症になられたら目覚めが悪い。
公園に入り、両グループの間に割って入る。
「はいはい、そこまで」
パン、と手を叩く。子供たちが驚いて振り返る。日傘を差した背の高い見知らぬ女の登場に彼らはポカンと口を開けた。
「暑い中で言い争いをしていても時間が過ぎるだけでしょ。……君たち、どっちを先にやるかで揉めているの?」
「……うん、まあ」
ガキ大将風の男の子がバツが悪そうに答える。
「俺ら、缶蹴りやりてーんだよ」
「わたしたちは色鬼がいいの! 缶蹴りなんて服汚れるし!」
なるほど、こういう時かつての自分なら力でねじ伏せて解散させていただろう。だが今は違う、年長者として余裕を持って導くのだ。
「だったら、こうするのはどう?」
優雅に微笑み、提案する。
「全員で一緒に遊ぶの。最初は女の子たちの希望で『色鬼』、その後に男の子たちの希望で『缶蹴り』。順番に両方やればみんなで遊べるし文句はないでしょ?」
「えー、あいつらとやるのー?」
「でも、人数多いほうが楽しいかも」
子供たちが顔を見合わせる。やがて、「まあ、いいか」「やってやってもいいけど」という空気が醸成された。平和的解決だ、我ながら見事な仲裁である。
「じゃあ、仲良く遊んでね」
踵を返して立ち去ろうとする。これで一件落着、あとは書店で優雅な時間を……と思った矢先、服の裾を誰かに掴まれた。
「ねえ、お姉ちゃんもやるでしょ?」
振り返ると女の子たちが期待に満ちた目で見上げている。
「え?」
「人数合わせしてくれたんだし一緒に遊ぼうよ!」
「いや、私はこれから用事が……」
「えー! やだやだ、遊ぼうよー!」
「名前なんていうの? 教えてよ!」
左右から腕を引かれる。子供たちの純粋な好奇心と有無を言わさぬ吸引力。こうなると抗えない。仕方ない、少しだけ付き合うか。
「……分かった、分かりました、やるから。私はカヤよ」
諦めて名乗ると女の子たちは顔を輝かせた。
「じゃあ、カヤちゃんね!」
「……え?」
カヤちゃん、その呼び名に笑顔が引きつりそうになるのを必死で堪える。「お姉さん」ではないのか? せめてお姉ちゃんとか。自分は高校生だ、彼女たちから見れば十分「大人」の部類に入るはずだ。それなのに「ちゃん」付け。
まさか見透かされているのだろうか。外見は女になっても中身の「女としての未熟さ」や付け焼き刃の所作のボロが、女児特有の鋭い観察眼によって看破されているのでは?
(……子供、侮りがたし)
冷や汗が流れる。だが、ここで動揺してはならない。年上の女性としての威厳を保つべく口調だけはそれっぽく取り繕う。
「こらこら、カヤお姉さんと呼びなさい」
「カヤちゃん、早く!」
「……まったく、少しだけだからね」
訂正は聞いてもらえなかったが、まあいい。結局、日傘を畳んで参加することになった。
まずは「色鬼」 鬼が指定した色を探してタッチするゲームだ。34℃の身体はすぐに悲鳴を上げ始めたが、これにはコツがある。全力で走るのではなく常に色の多い遊具や看板の近くにポジションを取り、最小限の動きで色を確保する。「赤!」と言われれば手近な消火栓へ、「緑!」なら足元の雑草へ。省エネ戦法だ。「カヤちゃん、そこずるーい!」と笑われるが、これも大人の知恵である。
(……ふぅ、なんとかなったな)
数十分ほど「色鬼」に付き合い、女の子たちが満足したところで休憩が入った。ベンチに座り、ハンカチで汗を拭う。既に体力ゲージは黄色信号だ。「ちやほやされる」のは嫌いじゃないが、これ以上の運動は命に関わる。
「おい、次は俺たちの番だぞ!」
男の子たちが寄ってきた。彼らの手には空き缶が握られている。
「……ええ、分かっているわよ」
優雅に立ち上がる。膝が少し笑っているが気付かれないように振る舞う。だが、ここは戦略的撤退の一手だ。
「でも、お姉さんはもう体力が限界に近いから……見学でも構わない? 審判してあげるから」
遠回しに大人の余裕を持って断りを入れようとする。これ以上動けば本当に倒れてしまう。化粧も崩れる。
「はぁ? なんだよ、約束破るのかよ」
「うわ、出たよ。大人の『あとでね』詐欺だ」
男の子たちが不満げな声を上げる。そしてガキ大将がニヤニヤと笑いながらカヤを見上げた。
「ていうかさー俺、色鬼の時から見てたんだけど」
ガキ大将が鼻を鳴らす。
「姉ちゃん、動きトロすぎじゃない?」
ピクリ。こめかみで何かが跳ねる音がした。
「……トロい?」
「うん。なんかさ、お婆ちゃんのリハビリ見てるみたいだった」
「わかるー! スローモーションかと思った!」
周囲の取り巻きもギャハハと笑う。リハビリ、スローモーション。この身の省エネ戦法を、あろうことか老化現象扱いするとは。
「失敬な。……あれは無駄な体力を消耗しないための高度なステイ・エコノミー戦法だから」
引きつった笑顔で反論する。だが子供たちには通じない、むしろ火に油を注ぐ結果となった。
「言い訳だっせー!」
「要するに走れないんでしょ? そのヒラヒラの服もさ、走らなくていいように着てきた『逃げ装備』なんじゃないの?」
「なッ……!?」
想定していない虚を突かれ、言葉に詰まる。
「分かった分かった。カヤちゃんは『お飾り』だもんね」
ガキ大将が憐れむような、それでいて小馬鹿にした視線を投げてくる。
「綺麗なだけで中身スッカスカだから、俺たちみたいな小学生に負けるのが怖いんだろ?」
「ビビってんだよ。転んで泣いちゃったら恥ずかしいもんなー」
「いいよいいよ、無理しなくて。カヤちゃんはベンチでジュースでも飲んでなよ。俺たちだけでやるからさ」
――プツン。
脳内で理性の弦が焼き切れる音がした。お飾り? 中身スカスカ? ビビってる? あまつさえ、「手加減してやるから休んでろ」だと?
(……上等だ、クソガキ共が)
「九条綴」の仮面がパリン、と音を立てて粉砕された。代わりに長い間眠っていた「負けず嫌いのクソガキ」が地獄の底から鎌首をもたげる。プライドが高い、負けず嫌い、売られた喧嘩は倍にして買う。それは性別が変わっても骨の髄まで染み付いた、どうしようもない本性だった。
「……へーえ」
鞄をベンチに放り投げた。そして眼鏡を外し、ベンチの上に丁寧に置く。これは「九条綴」という理知的な仮面を外し、本来の闘争本能を剥き出しにする儀式だ。視界が少しぼやけるが構わない。脳内シミュレーションでは、この肉体は疾風のようにフィールドを駆け巡り、残像すら残さぬ超高速機動でガキどもを翻弄するはずだからだ。激しい動きで眼鏡を破損するリスクを避ける完璧なリスクマネジメントである。
ゆっくりと振り返り、男の子たちを見下ろす。口角だけを吊り上げ、目は笑っていない。
「……誰がビビってるって? お前らのことか?」
口調が変わる。お姉さんぶった猫なで声など吹き飛んだ。ドスの効いた低音が、喉の奥から漏れ出す。
「えっ……」
男の子たちがたじろぐ。さっきまでの「優しいカヤちゃん」から放たれる、輩のような威圧感。 眠れる獅子の尻尾どころか地雷原でタップダンスを踊ってしまったことに彼らは本能的に気づいたのかもしれない。
「いいよ。その安い挑発、高値で買い取ってやる」
サンダルのベルトを締め直し、不敵に鼻を鳴らした。
「缶蹴りだな? ハンデなんていらねぇ。……泣いて謝るまで追い回して、その生意気な口を聞けなくしてやるから覚悟しろよ」
「う、うわぁ……なんかスイッチ入った……」
「逃げろー!」
蜘蛛の子を散らすように逃げる子供たち。ゴングは鳴った。これは遊びではない、元・男としての尊厳をかけた大人気ない殲滅戦の始まりだ。
「行くぞオラァ!」
スカートの裾をガバリとたくし上げる。動くことなど想定していなかったため、その下は無防備な素足だ。アスリスによって陶磁器のように白く作り変えられた太腿が際どいラインまで露出する。だが今のこの
意気揚々と砂場へ飛び出した。
……そして、5分後。
「ぜぇ……はぁ……、ぐ……っ」
公園の砂場に、無惨な死体が一つ転がっていた。この身の成れの果てだ。
呼吸ができない、肺が焼けるように熱い。視界がチカチカと明滅し、心臓が早鐘どころか爆発寸前のドラムロールを奏でている。頭では分かっていたはずだった。アスリスの影響下にある肉体は極端に持久力がない。瞬発力も落ちている、脳内のイメージでは音速の貴公子だったはずが現実は鈍重な亀。十メートルも走れば息が切れ、三十メートルで足がもつれ結果がこのザマだ。花火のように一瞬だけ派手に輝き、あとは儚く消えゆく命。それが今の体力の実情だ。
「ヤム――姉ちゃん! 大丈夫……?」
さっきまで煽っていたガキ大将が心配そうに顔を覗き込んでくる。顔を向ける余裕はない。ただ、心の中で「そのネタ今の小学生も知ってるのか」と現実逃避するだけだ。
此方を覗き込んできた顔を何とか目線だけで見やれば、その目にあるのは恐怖ではなく「憐れみ」だった。屈辱、圧倒的屈辱。
「う、うるさい……」
掠れた声で悪態をつくのが精一杯だ。子供に憐れまれたまま終わるなど、元・王様のプライドが許さない。
「カヤちゃん、もう休みなよ……。顔、真っ赤だよ」
色鬼で遊んだ女の子がタオルを差し出してくれた。優しい、その優しさが痛い。
「……まだだ」
ふらりと立ち上がる。 膝が笑っている、お気に入りの麻のワンピースは砂まみれだ。髪も乱れ、汗で額に張り付いている。眼鏡を外した素顔は、きっと鬼の形相だろう。 だが、ここで引くわけにはいかない。
「きゅ、休憩だ。……10分だけ休憩させろ」
ベンチに倒れ込むように座り、自販機で買ったスポーツドリンクを一気飲みする。冷たさが食道を通って胃に落ちる。生き返る。
「そのあと、二回戦だ。……次は本気出すからな、首洗って待ってろ」
「えぇー、続けるの?」
「このお姉ちゃん、変なとこでしつこい……」
子供たちがドン引きしている。知ったことか、 勝つまでは帰らない。最後に缶を蹴り上げて高笑いしてやるまでは。もはやそこには「深窓の令嬢」の欠片もない。ただの意地っ張りで大人げない、やんちゃな小学生が一人増えただけだった。
休憩を挟み二回戦が始まった。今度は鬼役ではない、隠れる側だ。だが隠れてやり過ごすなどという消極的な戦法は性に合わない。隙を見て缶を蹴る、攻めてこそ華だ。
「どしたァ! 隙だらけだぞ!」
再びスカートの裾を今度は限界まで無造作にたくし上げる。白い太腿が陽光に晒される、下着が見えそう? 知ったことか、機動力こそ正義だ。 茂みから飛び出す。狙うは中央に置かれた空き缶。鬼役の男の子が気づいて振り向くが、もう遅い。
「喰らえッ!」
ガニ股で踏み込み、渾身の力で右足を振り抜く。 ポコ、という情けない音がして缶は放物線を描くこともなく数メートル転がっただけだった。
「クソッ! 風の抵抗が……!」
本日の気候はほぼ無風、なんの影響もない。気候に対して濡れ衣を着せる言い訳を叫びながら、ふと視線を感じて顔を上げる。公園の入り口、裸眼のぼやけた視界の先に白い人影が立っていた。
白いシャツにスラックス、手にはスーパーの買い物袋。逆光の中に佇むそのシルエットは、よく見慣れた長身の……。
(……え?)
目を細める。焦点が合う。
そこにいたのは、瀬戸皓二朗だった。
バチリ、と視線がかち合う。
時が止まった。蝉時雨が遠のき、世界から音が消え失せる。
現状を客観的に整理してみよう。場所は子供たちの歓声が響く公園。被服は砂まみれで乱れたワンピース。そして最大の問題点は、戦闘態勢のために太腿の付け根付近まで豪快に捲り上げられたスカートと、そこから伸びる無防備な生足。 髪は乱れに乱れ、顔には眼鏡がない。ポーズは蹴り損ねた缶の前で片足を上げ、子供に向かってメンチを切っている。
対して彼は見てはいけないものを見てしまった時の仏のように凪いだ表情で、けれど目は釘付けになったまま硬直している。
(……終わった)
脳内で何かが崩れ落ちる音がした。入学から4ヶ月以上かけて積み上げてきた「深窓の令嬢・梶田カヤ」のイメージが、音を立てて瓦解していく。今、彼の瞳に映っているのは優雅な文学少女ではない。ガラの悪い口調で子供を威嚇し、あられもない姿で白昼堂々暴れる正体不明の妖怪だ。
彼はどうするべきか迷ったようだが、とりあえず条件反射で口を開いた。
「……ご、ごきげんよう、梶田さん」
その瞬間、魂が自分の口から抜け出るのが見えた気がした。
「あ、あ……」
口をパクパクさせる。スカート、足、眼鏡、暴言。情報の濁流が脳を焼き切る。何か言わなければならない、誤解を解かなければ。いや、誤解も何もこれが紛れもない事実なのだが、せめて隠さなければ。
「……ご、きげん、よう……瀬戸、くん」
引きつった笑顔で挨拶を返す。声を絞り出した瞬間、喉の奥から「ヒュッ」という情けない音が漏れた。酸欠の代償だ。そして遅れてやってくる致死量の羞恥心。
「ひゃうッ!?」
奇声を発し、慌ててスカートを押さえてしゃがみ込む。 手遅れだ、全部見られた。生足も、ガニ股も、野蛮な本性も。
「お姉ちゃん、誰この人?」
空気を読まない(読めるはずもない)色鬼チームの女の子が無邪気に尋ねてくる。
「もしかして、彼氏?」
「ブッ!!」
噴き出す。顔から火が出るどころか全身が瞬時に沸騰するのを感じた。34℃の冷たい血が一気に100℃まで跳ね上がる。
「ち、ちが……っ! 違います! この方は、その、同級生で……!」
しゃがみ込んだまま必死に否定する。もう、どこを見て話せばいいのかも分からない。その様子を見た男の子たちがニヤニヤしながら野次を飛ばす。
「なんだよー、男が来たからって急に猫被んなよなー」
「さっきまで『オラァ!』とか言ってたくせに!」
「パンツ見えそうだったぞー!」
(……この、クソガキどもが……!)
口を縫い付けてやりたい衝動に駆られるが、瀬戸くんの前でこれ以上ボロを出すわけにはいかない。もうだめだ、そのまま砂になりたい。公園の砂と一体化して風に吹かれて消えてしまいたい。
「……梶田さん」
頭上から優しい声が降ってくる。恐る恐る顔を上げると彼はしゃがみ込み、自分の持っていた買い物袋から冷えたペットボトルを取り出して火照った頬に当ててくれた。
「……顔、真っ赤だよ。大丈夫?」
その声には、ただ純粋な労りとほんの少しの困惑、そして隠しきれない「おかしさ」が含まれているだけだった。
「……死にたいです」
「ははは。……元気そうでよかったよ」
彼は笑った。その屈託のない笑顔を見ていると全身の力が抜けていくのが分かった。ああ、勝てない。この人には、どんなに取り繕っても結局は全て見透かされてしまうのだ。
その後、彼に連行される形で近くのカフェへと避難した。冷房の効いた店内でアイスレモンティーを飲み、ようやく人心地がついた頃。彼は向かいの席で思い出し笑いを噛み殺すように肩を震わせていた。
「……笑いすぎです」
恨めしげに睨む。眼鏡はかけ直したが崩れたプライドは修復不可能だ。
「ごめんごめん。……でもさ」
彼は目尻の涙を拭いながら、懐かしそうに目を細めた。
「やっぱり梶田さんなんだなって、改めて思ったよ」
「……どういう意味ですか?」
「いや、ほら。……初めて会った時のこと、覚えてる?」
初めて会った時。それは図書室のことか、それとも……。彼の視線が、もっと遠い過去を見ていることに気づく。あの日、冬の橋の上。銀髪の少女として彼に悪態をついたあの夜のことだ。
「あの時もさ、君は結構……その、口が悪かったから」
『近寄るな』『死にたいんだ』『放っておけ』。確かに、あの夜の自分は荒れていた。今日の公園での『オラァ!』や『風の抵抗が!』という叫び声が彼の中でその記憶とリンクしてしまったらしい。
「普段の上品な梶田さんも素敵だけど……さっきみたいに感情むき出しで、なりふり構わず戦ってる姿も、すごく新鮮で良かったよ」
彼は真っ直ぐな瞳で言った。
「ああ、これが君の『素』なんだなって。……なんか、嬉しかった」
「……うぅ」
顔が熱い、彼は「銀髪の少女」の凶暴性すらも愛すべき個性として肯定してしまった。懐が深いにも程がある。
「……お目汚しをして、すみませんでした」
小さくなって謝る。すると彼は、ふっと表情を引き締め少しだけ声を潜めた。
「でも、一つだけ注意」
「え?」
「眼鏡を外して本気を出すのはいいけど……」
彼は自分の膝あたりを指差して苦笑した。
「スカートをあそこまで捲り上げるのは、ダメだよ」
「ッ……!!」
「君が夢中になってたのは分かるけど……その、目のやり場に困ったというか。……見てるこっちがヒヤヒヤしたから」
彼は少し顔を赤くして咳払いをした。
「次は、もう少し……防御力のある服装で戦おうね?」
「……は、はい。肝に銘じます……」
テーブルに突っ伏す。恥ずかしさで爆発しそうだ。彼は笑い話にしてくれたけれど、つまりは「丸見えだった」と遠回しに言われたようなものだ。 九条綴への道は遠い。いや、もう引き返せないほど道を踏み外している気がする。
「……さて、行こうか本屋へ。……気分転換に」
「……はい」
立ち上がった彼に導かれ店を出る。夕暮れの風が火照った頬を冷やしてくれる。筋肉痛の予感がする足を引きずりながら彼と並んで歩き出す。鎧がまた一つ剥がれ落ちたような清々しい敗北感。けれど心と足取りは来る時よりもずっと軽かった。