銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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理想の余白を埋めるもの

 あの「公園の激闘」から三日が経った。暦は八月の下旬に差し掛かっているというのに太陽は依然として容赦ない熱量を地上に注ぎ続けている。僕のスマートフォンが短く振動したのはロードワークを終えてシャワーを浴び、自室でタオル片手に髪を拭いている最中だった。

 

 画面に表示された通知を見る。

 

 『カヤ』

 

 シンプルな二文字だけの名前。連絡先を交換した時から彼女のアカウント名はそう登録されていた。今どき本名をフルネームで登録しないことは珍しくもない。ただ、その二文字が画面に浮かぶだけで僕の心臓は少しだけリズムを早める。

 

 ロックを解除し、メッセージアプリを開く。そこには彼女らしい、けれど今の状況を想像するとどうしても笑ってしまう悲痛かつ理知的な文面が並んでいた。

 

 『カヤ:ごきげんよう、瀬戸くん。 誠に遺憾ながら当方の肉体は現在、深刻な構造的欠陥(主に全身の筋肉組織における激甚(げきじん)な炎症反応)により、緊急メンテナンスモードに移行しております。 よって夏休み残余期間における外出および社会的活動は、物理的に困難と判断いたしました。 貴方におかれましても残暑厳しき折、どうかご自愛ください』

 

 要約すれば、「筋肉痛で一歩も動けなくなったから、始業式まで家に引きこもる」ということだ。

 

「……ふっ、ははは」

 

 思わず声を出して笑ってしまった。構造的欠陥、緊急メンテナンス。あの公園での、なりふり構わぬ大暴走の代償がこれだ。彼女は病気の影響で虚弱体質だと言っていた。平熱が低く、体力もないのだと。

 

 それなのに、あの日彼女はスカートを捲り上げ髪を振り乱して子供たちを追い回した。その無茶苦茶なエネルギーと、その後のこの反動。心配すべきところなのだろうが、愛おしさの方が勝ってしまう。

 

 『瀬戸皓二朗:了解しました。ゆっくり休んでください。 メンテナンスが終わった梶田さんに会えるのを、楽しみにしています』

 

 そう返信を送ると、すぐに既読がついた。スタンプの一つも返ってこないそっけなさが、むしろ彼女の実直さを表しているようで心地よい。

 

 スマホをサイドテーブルに置き、ベッドに腰掛ける。窓の外では蝉が最後の力を振り絞るように鳴いていた。夏休みは残り一週間ほど、たったそれだけの間なのに梶田さんに会えないという事実が部屋の空気を少しだけ重く、そして広く感じさせた。

 

 コンコン、とドアがノックされる。返事をする間もなくドアが開き、ひょこっと顔を出したのは二つ下の妹・千波(ちなみ)だった。中学二年生、思春期真っ只中の生意気盛りだが、ありがたいことに兄妹仲は良い。むしろ僕がボクシングで身体を鍛え直し背が伸びたあたりから、少し距離感が近すぎる気がしなくもない。

 

 「お兄ちゃん、ご飯だって。お母さんが呼んでる」

 「分かった、すぐ行く」

 「ていうかさー」

 

 千波はドアノブに寄りかかりながら、ジトッとした目でこちらを見てきた。

 

 「なに?」

 「さっきから何ニヤニヤしてんの? キモチワルイ」

 「……ニヤニヤなんてしてないだろ」

 「してたし。スマホ見て、鼻の下伸ばして、完全に『あー幸せ』みたいな顔してたし」

 

 千波は鼻で笑うと、「青春だねぇ」と茶化すように言ってパタンとドアを閉めた。やれやれ、妹の観察眼は侮れない。頬を掌でパンと叩き、表情筋を引き締めてからリビングへと降りた。

 

 食卓には豚肉の生姜焼きと冷奴、それに具沢山の味噌汁が並んでいた。父はまだ帰宅していないが、我が家では先に食べ始めるのが通例だ。

 

 「いただきます」

 「はい、召し上がれ」

 

 母が給仕をしながら向かいの席に座る。千波は既に生姜焼きを口いっぱいに頬張っていた。

 

 「皓二朗、夏休みの宿題は終わったの?」

 

 母が何気なく尋ねてくる。

 

 「うん、あらかた終わってるよ。あとは読書感想文の清書くらいかな」

 「さすが優等生。余裕だねー」

 

 千波が横から口を挟む。

 

 「そういう千波はどうなんだよ」

 「私は絶望的。……ねえお兄ちゃん、数学のワーク教えてくんない? このままだと二学期早々、補習地獄なんだけど」

 「自分でやりなよ」

 「ケチ! お兄ちゃんの頭脳を妹のために有効活用してよ!」

 「はいはい、喧嘩しないの」

 

 母が苦笑しながら諫める。ごくありふれた平和な家族の会話。かつて僕が小学校でいじめられ転校を余儀なくされた時期、この食卓はもっと重苦しい沈黙に包まれていた。母は自分を責め、僕は部屋に閉じこもり、まだ小さかった千波も空気を感じ取って怯えていた。

 

 けれど今は違う。ボクシングに出会い、自分を取り戻し、そして高校に入ってからは、こうして穏やかに笑い合えるようになった。

 

 「……でも、本当にお兄ちゃん、最近変わったよね」

 

 千波が箸を止め、改めてまじまじとこちらを見てくる。

 

 「え?」

 「なんていうか……人間らしくはなった? 中学の時とか、ボクシングマシーンみたいで近寄りがたかったし」

 「マシーンって……」

 「あながち間違いじゃないわよ」

 

 母までクスクスと笑い出した。

 

 「皓二朗、ずっと気を張ってたものね。『強くなきゃいけない』って、何かに追われてるみたいに。……でも、この夏休みはすごく表情が柔らかくなったわ」

 

 母の視線は優しく、そしてどこか安心したような色を帯びていた。

 

 「いい出会いが、あったのね」

 

 ドキリ、とする。母親という生き物はどうしてこうも鋭いのだろう。

 

 「……まあ、友達ができたから」

 「ふーん。友達ねぇ。……それってさ、背が高くて髪の長い、綺麗な人?」

 「ブッ!」

 

 味噌汁を吹き出しそうになる。なぜ容姿までバレているんだ。

 

 「図星だ! お母さん見た!? 今、お兄ちゃん動揺した!」

 「な、なんで知ってるんだよ」

 「私の友達が見たって言ってたもん。納涼祭の日、お兄ちゃんがすっごい美人と一緒に歩いてたって。浴衣じゃなかったらしいけど、なんか二人だけの世界作ってて近寄れなかったって」

 

 千波がニヤニヤと追求してくる。納涼祭、あの日は確かに色々なことがあって……最終的に二人で駅まで歩いた。

 

 「デ、デートっていうか……その、成り行きで一緒に回ることになっただけで……」

 「ふーん。でも、お兄ちゃんがそんな風に女の子と一緒にいるのなんて初めてじゃん」

 

 千波は面白がるような顔をしていたが次の瞬間、ぷぅっと頬を膨らませてわざとらしく拗ねてみせた。

 

 「あーあ、つまんないの。お兄ちゃんのことだから、一生ボクシングと本が恋人だと思ってたのにさー」

 「なんだよそれ」

 「だってさ! 最近やっとお兄ちゃんカッコよくなったなーって思ってたのに、速攻で彼女できるとかズルイじゃん! 私だってかまってほしいんですけど!」

 

 千波は僕の二の腕をペシペシと叩いてくる。言葉こそきついが、その声音には嫌味がない。むしろ、「自慢の兄が他所の女に取られる」という状況をイベントとして楽しんでいるような軽さだ。少し前までは頼りない兄だった僕が、こうして誰かを守ったり誰かと歩いたりできるようになったことを彼女なりに喜んでくれているのが伝わってくる。

 

 「彼女じゃないよ。まだ」

 「『まだ』って言った! お母さん聞いた!? これ絶対狙ってるやつだ!」

 

 千波がここぞとばかりに騒ぎ立てるが、母は「はいはい、分かったから静かに食べなさい」と娘の頭を軽く小突いて適当にあしらった。そして味噌汁のお椀を置いて一息つくと、改めて真っ直ぐな瞳で僕を見た。そこには千波のような揶揄う色はない。ただ息子の変化を喜び、その理由を知りたがっている母親の顔があった。

 

 「でも、皓二朗」

 「……ん?」

 「千波の話はともかく……お母さんは嬉しいのよ。あなたがそんな風に、誰かのことで一喜一憂したり、優しい顔をしたりするようになったことが」

 

 母は懐かしむように目を細めた。小学校の時のあの暗い日々、僕が心を閉ざし感情を殺して生きていた頃を思い出しているのかもしれない。

 

 「だから、聞いておきたかったの。……その人は、皓二朗にとって大切な人なのね?」

 「……うん」

 

 茶化さず真剣に聞かれると自然と背筋が伸びた。誤魔化してはいけない気がした。

 

 「本が好きな人で……すごく真面目で、不器用で。でも、誰よりも一生懸命な人なんだ。……尊敬できる人だよ」

 

 正直に答える。母はほう、と感嘆の息を漏らしそれから深く温かく頷いた。

 

 「そう。……よかったわねぇ。皓二朗がそんな風に思える人と出会えて、本当によかった」

 

 その言葉は何よりも温かい肯定だった。横で千波が「ちぇーっ、ノロケかよー」とまた口を尖らせたが、その顔もどこか満足げだった。

 

 それからの数日間は、まるで古いモノクロ映画を見ているような静かで緩やかな時間だった。朝起きて軽くロードワークをして、食事を摂り読書をする。時折、千波に勉強を教えたり母の買い物に付き合ったりする。かつてはそれが僕の「日常」であり、何一つ不足のない平穏だったはずだ。他者との関わりを最小限にし、自分の内面と向き合うことだけが僕にとっての安息だった。

 

 けれど今は、その「静寂」の中に明確な「欠落」を感じてしまう。

 

 僕は冷房の効いた自室で机に向かい、開かれた文庫本に視線を落とす。けれど、文字を目で追っていても意識は別の場所に飛んでいってしまう。

 

 (……梶田さん、まだ痛いのかな)

 

 スマホの画面をタップする。トークルームの最上部に表示された名前は『カヤ』。

 

 『今日は湿布を貼り替えました。階段はまだ手摺りが必要です』

 『本が読める程度には回復しました。今はサルトルを読み返しています』

 

 そんな些細な「メンテナンス報告」が来るたびに頬が緩むのを止められない。今まで誰かと連絡を取り合うことがこんなに待ち遠しいと思ったことはなかった。

 

 ふと、視線を部屋の隅にある本棚に向けた。そこには僕のバイブルである一冊、『九条綴の完璧な余白』が並んでいる。背表紙を見つめる、かつて僕はこの本のヒロイン・九条綴に恋をしていた。孤高で、知的で、美しく、誰にも媚びない完璧な存在。小学生の頃、宮本貴也という暴君にいじめられ理不尽な現実に晒されていた僕にとって、物語の中の彼女は唯一の救いであり、憧れの具現化だった。

 

 高校に入学し、学校の図書室で梶田さんと出会った時。僕は彼女の中に九条綴の幻影を見た。長い黒髪、眼鏡、知的な話し方、そして他者を寄せ付けない凛とした空気。まるで物語の中からヒロインが飛び出してきたかのような錯覚に心を奪われた。だから最初は彼女を通して「理想」を見ていたのだと思う。

 

 「……でも、今は」

 

 僕は机の引き出しから書きかけの読書感想文の原稿用紙を取り出した。ペンを回しながら目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、完璧な九条綴の姿ではない。

 

 あの日の公園。

 

 砂まみれのワンピース、汗で顔に張り付いた乱れた髪、スカートを捲り上げて露わになった白い足と、真っ赤な顔で叫んでいた彼女の姿だ。

 

 『オラァ! 隙だらけだぞ!』

 『風の抵抗が……!』

 

 あれは決して「九条綴」ではない。九条綴なら、あんな風に感情を剥き出しにして子供相手にムキになったりしない。もっとスマートで、冷徹で、完璧なはずだ。梶田さんのあの姿は物語のヒロインとしては「解釈違い」も甚だしい。

 

 けれど重なる記憶がある。中学二年の冬。凍てつく橋の上で出会った、あの銀髪の少女。

 

 『近寄るな』

 『放っておけ』

 

 あの拒絶。悲痛なほどの激しさと危うさ。公園で見せた彼女の姿は、あの日見た「素顔」にとても近かった気がする。

 

 そして――。僕の思考は、どうしてもあの夜、納涼祭での出来事に引き戻されてしまう。人混みの中でカヤさんに絡んできた男たち。彼らは僕たちのような学生ではなかった。明らかに年上の、二十代半ばとおぼしきチンピラ風の男たち。その中の一人が、カヤさんを見て放った言葉が棘のように僕の胸に刺さったまま抜けないのだ。

 

 『こんな暑い日に普通の女じゃありえねぇ冷たさだ。……あの時、抱いた時と同じ冷たさだなぁ』

 『隠したって無駄だぜ。その耳の穴、塞がってねぇじゃんかよ』

 

 男は卑猥な笑みを浮かべ、彼女との肉体関係を明確に示唆していた。ただの知人や元カレに向けられるような視線ではない。

 

 『中身はあの頃と変わらねぇ、「穴だらけの玩具」だろ?』

 

 あれはカスタマーが『商品』を見るような、あるいは使い古した玩具を値踏みするような、粘着質で暴力的な視線だった。

 

 さらに記憶は遡る。中学二年の冬、あの橋の上。僕と彼女が一度別れる時の会話内容だ。

 

 『金……渡さなきゃ。今日稼いだ分、全部渡さなきゃ……』

 

 彼女はそう言って、怯えていた。

 

 「……ッ」

 

 ペンを握る手に力が入り、ミシリと音が鳴る。僕は彼女の過去を詳しく知らない。けれど、これらの断片的なピースが、あまりにも残酷な一つの絵を描き出してしまう。いじめの被害者だった、というレベルの話ではない。彼女は金銭を介在させた関係――おそらくは強制的な売春や援助交際を強要されていたのではないか。あの男たちの年齢差、性的なニュアンスを含んだ言葉、そして冬の夜に金のやり取りを連想させる言葉。彼女の耳に残る無数の痛々しいピアス跡は、その地獄の日々の中で刻まれた烙印なのかもしれない。

 

 あの夜、彼女が橋の上で吐き捨てた言葉の意味が今なら痛いほど分かる気がした。彼女の尊厳は僕の想像を絶する方法で踏みにじられていたのだ。

 

 普段の彼女は、必死に鎧を着込んでいる。「九条綴」という理想の鎧を纏って、傷つき汚されたと感じている自分を守ろうとしている。けれど、ふとした瞬間にその鎧が外れ、中から不器用で負けず嫌いで熱い「本性」が顔を出す。そのギャップが、そして彼女が抱えているであろう傷の深さと、それでも生きようとする強さが僕の胸をどうしようもなく締め付ける。

 

 彼女を守りたい。かつてリングの上で誓った「強さ」は、きっとこの時のためにあるのだと僕は確信した。

 

 八月三十一日。カレンダーの最後の一枚をめくる時、僕は奇妙な高揚感を覚えていた。かつての僕にとって夏休みの終わりは憂鬱な現実への回帰でしかなかった。いじめに怯えた小学校時代、孤独を貫いた中学校時代。学校という場所は常に緊張を強いる戦場であり、安らぎなど微塵もなかったからだ。

 

 けれど、今は違う。明日になれば、学校へ行けば、彼女に会える。その事実だけで新学期の始まりが待ち遠しくてたまらなかった。

 

 机の上に置かれた読書感想文の原稿用紙を鞄にしまう。結局、僕は『九条綴の完璧な余白』についての感想文を書いた。ただし、その内容は以前の僕が書いていたような「完璧なヒロインへの賛美」ではない。傷や欠損、不完全さの中にこそ人間としての美しさが宿るのだという少し違った視点からの考察。それはそのまま僕の彼女に対する想いの変化と重なっていた。

 

 窓を開けると夜風にはもう秋の気配が混じっていた。熱帯夜は終わりを告げようとしている。けれど、僕の胸の奥に灯った熱は冷めるどころか静かに燃え続けていた。

 

 九月一日、始業式。長い夏休みが終わり世界が再び規則正しいリズムを取り戻す日。まだ蒸し暑さの残る通学路を歩き、昇降口で上履きに履き替える。ざわめく校舎、久しぶりに会う友人たちと談笑する声、日焼けした肌を自慢し合う男子生徒たち。

 

 僕は喧騒をすり抜け、教室のある棟へと向かった。僕は1年3組、彼女は別のクラスだ。すぐに会えるだろうか。いや、放課後に図書室へ行けば必ず会えるはずだ。そう自分に言い聞かせ、逸る気持ちを抑えて階段を上がろうとした時だった。

 

 「……あ」

 

 人混みの向こう、踊り場にその姿を見つけた。長い黒髪、清潔な制服。逆光の中に凛としたシルエットが浮かんでいる。

 

 梶田さんだ。

 

 彼女がふと顔を上げ、僕に気づいて足を止めた。その瞬間、彼女の纏う空気がふわりと変わるのが分かった。周囲に見せていた「他者を寄せ付けない氷の壁」が僕の前でだけ霧散する。

 

 「……ごきげんよう、瀬戸くん」

 

 彼女が微笑み、優雅に会釈をする。周囲の男子生徒たちが、その美しさに息を呑む気配がした。「綺麗だな」「夏休み明け、なんか雰囲気変わった?」そんな囁き声が聞こえる。

 

 彼らは知らない。この優雅な仮面の下に、子供相手に本気で喧嘩し砂まみれになって悔しがる愛すべき素顔が隠されていることを。そして、その耳に残された痛々しい傷跡と、彼女が背負っている壮絶な過去を。

 

 僕は人混みをかき分けて、彼女の元へと近づいた。

 

 「おはよう、梶田さん。……体調は、もう大丈夫?」

 

 少し距離を詰め、二人だけに聞こえる声量で尋ねる。すると彼女は一瞬だけ眉をひそめ、周囲を伺ってから悪戯っぽく舌を出した。

 

 「……ええ。おかげさまで、完全復活です」

 

 そして恥ずかしそうに、けれど誇らしげに付け加える。

 

 「でも、この階段……まだ少し、腿がプルプルしていますけど」

 「ふっ……」

 

 吹き出しそうになるのを堪える。その人間臭い一言が何よりも嬉しい。やっぱり彼女だ。

 

 僕の好きな梶田さんだ。

 

 「無理しないでね。……荷物、持とうか?」

 「いえ、これくらいは。……リハビリも兼ねてますから」

 

 彼女は強がって見せたが、その耳がほんのりと赤くなっているのを僕は見逃さなかった。

 

 「じゃあ、放課後」

 「ええ。……いつもの席で」

 

 短い言葉で約束を交わす、それだけで十分だった。始業のチャイムが鳴り、僕たちはそれぞれの教室へと向かうために背を向けた。

 

 放課後の図書室は相変わらず静寂に包まれていた。窓から差し込む西日が宙を舞う埃をキラキラと照らし出している。僕はいつもの席に座り、向かいの席に座る彼女を見ていた。彼女は分厚いハードカバーの本を読んでいる。背筋を伸ばし、長い睫毛を伏せてページをめくる指先は芸術品のように繊細で美しい。完璧な「図書室の華」

 

 ふと、彼女が読みふけりながら無意識に左手の指で髪を耳にかけた。さらり、と黒髪が流れる。露わになったのは白磁のような耳と、そこに刻まれた四つのピアス穴。軟骨にまで無造作に穿たれたその痕跡は、彼女の白い肌の上で痛々しいほどの存在感を放っている。

 

 以前の僕なら見てはいけないものを見たとして視線を逸らしていただろう。彼女もまた、必死に隠そうとしていたはずだ。けれど、今は違う。彼女は僕の視線に気づいたが隠そうとはしなかった。一瞬だけ動きを止めたものの、すぐにふっと小さく微笑んで、そのまま読書を続けたのだ。その仕草は、「貴方になら見られても構わない」という無言の信頼の証のように思えた。

 

 『隠したって無駄だぜ。その耳の穴、塞がってねぇじゃんかよ』

 

 納涼祭の夜、あの男が放った言葉が脳裏をよぎる。同時に、あの夜僕たちが共有した痛みの記憶も蘇る。僕たちはあの夜、互いの傷に触れた。彼女の過去がどれほど凄惨なものであったとしても、その傷跡ごと彼女を受け入れると、僕は決めたのだ。

 

 「……瀬戸くん?」

 

 視線に気づいたのか彼女が顔を上げて不思議そうに首を傾げた。

 

 「どうかしましたか? ……あ、もしかして私の顔、何か付いてます?」

 

 彼女が慌てて口元を拭う。その仕草の幼さに張り詰めていた心がふっと緩む。

 

 「ううん、違うよ。……ただ、久しぶりだなって思って」

 「……ふふ、そうですね。たった一週間ぶりなんですけど」

 

 彼女は本を閉じ、少し照れくさそうに笑った。

 

 「私、この一週間……ずっと考えていたんです」

 「何を?」

 「サルトルの実存主義について……ではなくて」

 

 彼女は言葉を濁し、視線を窓の外に向けた。

 

 「……夏休み、楽しかったなって」

 

 その言葉は、独り言のように静かだった。

 

 「今までの夏休みは、ただ過ぎ去るのを待つだけの空白でした。……でも、今年の夏は、すごく……色が濃かった気がします」

 

 彼女は僕の方を向き直し、真っ直ぐな瞳で言った。

 

 「貴方のおかげです。……ありがとうございました」

 

 その純粋な感謝の言葉に僕は胸が詰まった。感謝したいのは僕の方だ、君がいてくれたから僕の世界にも色が灯ったんだ。

 

 「僕もだよ。……君と過ごせて本当によかった」

 

 僕たちはしばらくの間、言葉もなく見つめ合った。言葉にする必要がなかった。そこに流れる空気は、ただ穏やかで温かかった。

 

 僕は、君が好きだ

 

 心の中で、もう一度繰り返す。それは激しい熱情というよりは静かに降り積もる雪のように、僕の心の全てを覆い尽くす確かな感情だった。「九条綴」という理想を追いかけていた頃の浮ついた恋心とは違う。泥の中を這いずり、傷つきながらも必死に光を目指す一人の人間への敬愛と、庇護欲と、そして愛情。彼女がいつか、その過去の全てを言葉にして打ち明けてくれる日が来るまで、僕は待ち続けよう。そして、もし彼女が再びあの暗闇に引きずり込まれそうになったら今度こそ僕がその手を引いて守り抜く。

 

 「……さて」

 

 彼女が小さく息をつき、再び本を開いた。

 

 「読書の秋、ですね。……今年もまた、たくさん本を読みましょう」

 「うん。……楽しみにしてる」

 

 僕も自分の本に視線を落とす。文字を目で追いながら僕は机の下で軽く拳を握りしめた。

 

 夏が終わる。祭りの熱気は去り、蝉時雨も遠ざかっていく。けれど僕たちの物語は、ここからまた新しく始まるのだ。過去の傷も、現在の嘘も、全てを飲み込んで。二つの異なる熱が寄り添いながら歩んでいく季節が静かに幕を開けた。

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