銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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第3章 欠けた記憶を綴るための、然るべきラストアクト
借り物は「貴方」、あるいは「愛」の類義語


 九月。新学期が始まって一週間が過ぎた頃、世界の色温度が変わったような錯覚を覚えた。かつて視界を覆っていたのは強迫観念という名の分厚いフィルターだった。「九条綴でなければならない」、「完璧でなければ見捨てられる」 その緊張感が周囲の風景を過剰に鮮明で、そして敵対的なものに見せていたのだと思う。

 

 けれど今、1年2組の教室の窓から見下ろす中庭は柔らかなセピア色の秋光に包まれている。心は驚くほど凪いでいた。あの夏休みの終わり、花火の夜に交わした約束。過去に負った傷跡であるピアスの痕を共有したことで、自分がかつて泥の中を這いずり回っていた「銀髪の少女」であるということ。あの冬の夜に彼に打ち明けた、それ以前は傲慢な「加害者」の側にいて、その報いとして転落したのだということを。

 

 最も醜く、隠したかった過去。けれど瀬戸くんはそれを拒絶するどころか、「君じゃなきゃ駄目なんだ」と言ってくれた。彼が受け入れてくれたのは、「かつて道を踏み外して傷ついた少女」としての自分だ。だから今の自分は以前のように「九条綴」という鎧で全身を固める必要がない。少しだけ肩の力を抜いてカヤとして呼吸ができている。

 

 「――おい、梶。聞いてるか?」

 

 低い声に呼び戻され、ハッと顔を上げる。教卓には担任教師が立っていた。手には体育祭の種目一覧表が握られている。

 

 「あ……はい、申し訳ありません。考え事をしておりました」

 「体育祭の種目決めだ。梶は診断書が出てるから激しいのは無理だが、何か出られるものはあるか? なければ見学枠に入れるが」

 

 担任の言葉に教室の視線が集まる。一学期の自分なら、ここで「見学でお願いします」と即答していただろう。目立つことはリスクでしかなかったし、クラスメイトと関わることも避けていたから。

 

 でも、今は少し違う。

 

 「……先生。『借り物競争』への参加を希望します」

 

 答えると教室が少しざわめいた。あの「深窓の令嬢」などと持てはやされてる自分が、自ら立候補したことに驚いたのだろう。

 

 「借り物競争か。まあ、あれなら走る距離も短いし、接触も少ないから大丈夫か。いいだろう」

 

 担任が黒板に名前――『梶』の文字を書き込む。

 

 「カヤさん、出るんだ! 意外かも」

 「でも借り物競争なら頭の回転早いカヤさんにぴったりだね。『校長先生の眼鏡』とか言われても冷静に交渉してきそう」

 

 クスクスと笑い声が起きる。そこに悪意はない。「梶さん」「カヤさん」呼ばれる名前はまちまちだが以前のような遠巻きにするような壁は消えていた。己が心を開いたことで世界もまた扉を開いてくれたようだった。

 

「あ、カヤさん、一個お願いがあるんだけど……」

 

 近くの席の女子生徒、伊藤さんがくるりと振り返った。

 

 「クラスTシャツのデザインなんだけどさ、カヤさん美術の成績いいでしょ? デザイン班に入ってくれないかな? 男子のセンスだけだと、なんか『ドクロ』とか『龍』とかになりそうで怖くて……」

 「……私が、ですか?」

 「うん! カヤさんのセンスなら絶対おしゃれになるって! お願い!」

 

 クラスの輪に入り共同作業をする。かつての「宮本貴也」時代は他人に命令して作らせる側だった。あるいは「銀髪の少女」時代は輪の外から疎外される側だった。対等な立場で誰かと何かを作る。それは今の自分にとって新鮮で、くすぐったい響きだった。

 

 「……分かりました。微力ながら、お手伝いさせていただきます」

 

 ……まあ、ドクロや龍もそんなに悪くないセンスだと思うが。かつて家庭科の授業で自身が使用していた裁縫セットの箱とエプロンのデザインを思い出していた。

 

 放課後。Tシャツのデザイン会議が長引き、教室を出るのがいつもより遅くなってしまった。急いで北棟の図書室へと向かう。普段なら自分の方が先に着いて彼を待っているのだが、今日は違うかもしれない。

 

 重厚な引き戸を開ける。予想通り、いつもの窓際の席には既に先客がいた。

 

 「お疲れ様、梶田さん」

 

 本を読んでいた瀬戸くんが顔を上げて微笑んだ。夕陽を背にしたその姿は、まるで一枚の絵画のように穏やかで完成されている。

 

 「ごきげんよう、瀬戸くん。……申し訳ありません、お待たせしてしまいましたか?」

 

 息を整えながら向かいの席に座る。

 

 「ううん、僕もさっき来たところだよ。……何かあったの?」

 「はい、クラスのTシャツ制作に関わることになりまして。そのデザイン班の打ち合わせが長引いてしまったんです」

 「へぇ! 梶田さんがTシャツのデザイン? すごいね、どんな風になるの?」

 

 彼が身を乗り出してくる。その瞳は純粋な好奇心に輝いていた。

 

 「まだ案出しの段階ですが……幾何学模様をベースに、クラス全員の名前をタイポグラフィとして組み込む予定です。あまり派手すぎず、かといって地味にならないように」

 「うわぁ、おしゃれだなぁ。僕のクラスなんて『筋肉』って筆文字で書こうぜとか言ってる男子がいて止めるのに必死だよ」

 

 彼が苦笑いをする。その様子がおかしくて、つい口元が緩んでしまう。平和だ。こんな何気ない会話ができる日常が奇跡のように思える。

 

 「瀬戸くんの方は、種目は決まったのですか?」

 

 尋ねると彼は少し困ったように眉を下げて指を折って数え始めた。

 

 「えっとね、まずは男子全員参加の『綱引き』でしょう。それから個人の『100メートル走』、選抜の『騎馬戦』……あと、クラス対抗リレーのアンカー」

 

「……え?」

 

 絶句した。綱引きはともかく100メートル走に騎馬戦、さらにリレーのアンカー?それはつまり、体育祭の華形種目を総なめにするということではないか。

 

 「ちょ、ちょっと待ってください。働きすぎではありませんか? 瀬戸くんはただでさえ目立つのに、そんなに出たら身体が持ちませんよ」

 「あはは、断れなくてさ。……男子の人数合わせもあるし、中学までボクシングジムに通ってたってことで期待されちゃって」

 

 彼は頭をかいた。その言葉とは裏腹に彼の表情には充実感が滲んでいた。その眩しさに少しだけ目を細めた。

 

 (……不思議だな)

 

 彼は優しくて、誠実で、そしていざという時は驚くほど強い。スポーツ万能で勉強もできる。周囲が彼を放っておくはずがない。彼自身の口から「昔はいじめられていた」と聞いたことはあるけれど、正直なところ自分にはそれが信じられなかった。今の彼からは、いじめられる要素なんて微塵も感じられない。むしろ、クラスの中心で頼りにされるリーダーの風格さえある。

 

 だから時々、彼が語る「暗い過去」が、まるで作り話のように思えてしまうことがある。彼がいじめられていたなんて、きっと何かの間違いだ。あるいは彼が謙遜して話を盛っているだけではないか、とすら思えてしまう。もし、本当に彼をいじめていた人間がいるとしたら一体どんな神経をしていたのだろう。こんなに素敵な人を傷つけるなんて、その加害者はよほど見る目のない愚かで残酷な人間だったに違いない。

 

 ……まあ、自身もかつては「愚かな加害者」側だったわけだけれど。自分のことは棚に上げて私は見知らぬ彼の「敵」に対して静かな義憤を覚えていた。

 

 そして彼が光の中にいればいるほど、自分の抱えている秘密の闇が濃くなるような気がする。彼には過去の転落については話した。けれど一番大事なことはまだ言えていない。自分が元・男であること。そして「アスリス」という病気のこと。

 

 彼が知っているのは「身体が弱いカヤさん」だけだ。このまま黙っていれば、きっと今の心地よい関係は続くだろう。彼の優しさに甘えて普通の女の子のふりをして、隣に居続けることもできるかもしれない。

 

 でも。

 

 ふと、胸の奥がチクリと痛んだ。それは不誠実だ。彼は自分に、己の弱さも過去もさらけ出してくれた。過去の傷も受け入れてくれた。それなのに自分が彼に嘘をつき続けるのは――「黙っている」という形の嘘をつき続けるのは、あまりにも卑怯ではないか。

 

 閉じた本の上で指をぎゅっと握りしめる。今すぐ全てを話す勇気はない。この関係が壊れるのが怖い。けれど、せめて「隠し事をしている」という事実と、「いつか話す」という誠意だけは伝えなければならない。それはこの前の出来事で学んだ教訓だ。

 

 「……瀬戸くん」

 

 意を決して彼の名前を呼んだ。真剣な声色に気づいたのか、彼が居住まいを正す。

 

 「なに? 梶田さん」

 「……私、貴方にまだ、言えていないことがあります」

 

 心臓が早鐘を打つ。彼の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いている。その瞳に嘘はつけない。

 

 「言えていないこと?」

 「はい。……私の身体のことや、もっと根本的な……私という人間の成り立ちについての秘密です」

 

 彼は何も言わず、ただ静かに聞いてくれている。

 

 「今はまだ……怖くて、詳しくはお話しできません。これを話したら貴方は軽蔑するかもしれないし、離れていってしまうかもしれないと思うと言葉が出てこないんです」

 

 声が震えるのを必死に抑える。これは賭けだ。でも、言わなければ前に進めない。

 

 「でも、いつか……必ず、ちゃんとお話しします。貴方の隣に胸を張って立つために、全部聞いてほしい時が来ると思います。……だから」

 

 顔を上げ、彼の目を見つめた。

 

 「その時まで、待っていてくださいますか?」

 

 図書室の空気が張り詰める。秒針の音が聞こえるほどの静寂。彼は一度だけゆっくりと瞬きをして、それから驚くほど穏やかに微笑んだ。

 

 「……分かった。待ってるよ」

 

 その声は春の陽だまりのように柔らかかった。

 

 「梶田さんが話したいと思えるその時まで僕はいつまでも待つよ。……それに何を聞いても僕は驚かないし、離れたりしないって約束する」

 「……瀬戸くん」

 「だって、僕が見ているのは『今』の梶田さんだから。君が過去に誰で、どんな秘密を持っていても、僕にとって大切な人であることには変わりないよ」

 

 彼の言葉が温かい雫となって心に染み渡っていく。ああ、やはりこの人にはどうしたって太刀打ちできない。私は目頭が熱くなるのを堪え、深く頷いた。

 

 「……ありがとうございます。信じて待っていてくださる貴方に、恥じない私でありたいと思います」

 

 窓の外から運動部の掛け声が響いてくる。秋風がカーテンを揺らし、私たちの間に優しい時間を運んでくる。私はまだ全ての殻を破ることはできない。けれど、いつか羽化するその日のために今はただこの温もりの中で力を蓄えておこうと思った。

 

 

 

 

 気付けば時間が過ぎるのはあっという間で、季節は九月下旬を迎えた。懸念されていた台風も逸れ、世界は雲ひとつない秋晴れに恵まれた。体育祭、当日である。早朝のグラウンドは、すでに熱気と砂埃の匂いに包まれていた。万国旗が風にはためき巨大な得点板が青空に聳え立っている。スピーカーからは行進曲が大音量で流れ、生徒たちの喚声が波のように押し寄せてくる。この喧騒、かつての僕なら耳を塞いで図書室へ逃げ込んでいただろう。けれど今は、この熱狂が決して嫌いではなかった。

 

 「――よし、3組! 気合入れてくぞー!」

 

 クラス委員の掛け声に僕はハチマキをきゅっと締め直した。クラス全員で揃って着ているクラスTシャツだが、僕たち1年3組の色は抜けるようなスカイブルーだ。周囲を見渡すと鮮やかな色彩の洪水の中に、ひときわ目を引く集団があった。隣のエリア、1年2組の応援席だ。

 

 彼らが着ているのはカナリアイエローのTシャツ。その背中にはクラス全員の名前が幾何学模様のようにデザインされたロゴがプリントされている。遠目に見ても洗練されていて、どこか古書の装丁のような知的な美しさがあった。そのデザインを手がけた人物を僕は目で探した。

 

 いた。パイプ椅子の端に、ちょこんと座っている彼女――梶田カヤさん。みんなが半袖で汗を流している中、彼女だけがTシャツの上から指定の長袖ジャージをしっかりと羽織り、さらにファスナーを首元まで上げていた。気温はすでに28℃を超えている。普通なら暑いはずだが彼女は涼しい顔をしている……いや、少し顔色が白いかもしれない。

 

 (……大丈夫かな。やっぱり、残暑が残ってる今の季節も寒いんだろうか)

 

 彼女の平熱が極端に低いことを知っている僕は心配で胸がざわついた。すると、視線を感じたのか彼女が顔を上げ、こちらを見た。目が合う。彼女は一瞬きょとんとして、それからふわりと小さく手を振ってくれた。その仕草は控えめで図書室で見せる「九条綴」の仮面よりも少しだけ素の彼女に近い気がして僕は嬉しくなった。

 

 開会式が終わりプログラムが進行していく。プログラム3番、男子100メートル走。僕の出番だ。

 

 アナウンスと共に僕はスタートラインに立った。第4レース、第5レーン。隣のレーンには、サッカー部のエース格である生徒がアップをしている。彼は自信満々の表情で、靴紐を確認していた。

 

 「おい、3組の瀬戸って帰宅部だろ? 大丈夫かよ」

 「球技大会の時もパッとしなかったしなー。ここはサッカー部のアイツが本命だろ」

 

 背後から他クラスの生徒たちの無責任な囁き声が聞こえる。無理もない。僕は高校に入ってからボクシングのことは聞かれない限り話さないし、球技は致命的に苦手でボールを持つと手足が同時に出るような有様だったから。誰も僕に期待なんてしていない。

 

 ……でも、梶田さんは見ている。2組の応援席で彼女だけが、じっとこちらを見つめているのを感じる。その視線だけで十分だった。彼女が見てくれているなら無様な姿は見せられない。

 

 (……行こう)

 

 深く息を吸い込む。肺いっぱいに酸素を取り込み全身の筋肉に巡らせる。ボクシングジムのリングに立った時の感覚。雑音は消え、視界がクリアになる。ゴールラインだけが世界の全てになる。

 

 「位置について、用意!」

 

 パンッ、乾いた音が弾けた瞬間、僕の身体は思考よりも先に反応していた。

 

 地面を蹴る。爆発的な加速。ボクシングで培った瞬発力は初速において他の追随を許さない。周囲の風景が線になって後方へ流れていく。隣を走っていたはずのバスケ部の生徒の気配が一瞬で消えた。風を切る音だけが耳元で唸る。

 

 「――は!?」

 「うわ、速ぇぇッ!?」

 

 どよめきが遅れて聞こえてくる。僕はそのままトップスピードを維持してゴールラインを駆け抜けた。ぶっちぎりの一位。スピードを緩め、振り返るとグラウンド中が呆気にとられたように静まり返り、次の瞬間に爆発的な歓声に包まれた。

 

 「おい見たか今の!? 3組の瀬戸! あんな速かったのかよ!」

 「帰宅部詐欺だろあれ! なんだあのバネ!」

 

 興奮する男子たちの声を聞きながら僕は軽く汗を拭った。心拍数は上がっているが呼吸は乱れていない。ちらりと2組の席を見る。梶田さんが口元に手を当てて驚いたような、それでいてどこか誇らしげな顔をしているのが見えた。その表情が見られただけで僕は金メダルをもらったような気分だった。

 

 それから、さらにグラウンドの熱気は最高を更新していた。100メートル走での衝撃的な独走劇を経て、僕を見る周囲の目は劇的に変化していた。「帰宅部の大人しい瀬戸くん」から、「謎のフィジカルモンスター」へ。その評価を決定づけたのは午前の部の最終種目、『騎馬戦』だった。

 

 怒号と砂煙が舞う乱戦の中、騎手として担ぎ上げられた僕は自分でも驚くほど冷静だった。四方八方から伸びてくる敵の手がスローモーションのように見える。ボクシングで培った動体視力と体幹操作があれば素人の掴みかかりをかわすことなど造作もない。僕は最小限の動きで攻撃をいなし、すれ違いざまに相手のハチマキを次々と奪い取った。

 

 「うわっ!? いつの間に!」

 「瀬戸、強すぎだろ!」

 

 終わってみれば僕の手には戦利品であるハチマキが五本も握られていた。無傷の圧勝。クラスの仲間たちが歓声を上げて駆け寄ってくる。僕は照れくさくて曖昧に笑うしかなかった。

 

 そして訪れた昼休憩。その余波は僕のキャパシティを超える事態を引き起こしていた。応援席で水分補給をしていると他クラスの女子生徒たちが数人、おずおずと近づいてきたのだ。

 

 「あ、あの……瀬戸くん、だよね?」

 「え? あ、はい」

 「騎馬戦、すごかったね! 見てて鳥肌立っちゃった!」

 「これ、よかったら飲んで! 差し入れ!」

 

 差し出されたのは冷えたスポーツドリンクだった。僕は呆気にとられた。いじめられっ子だった過去を持つ僕にとって、女子から黄色い声援と共に差し入れを貰うなんて異世界の話だと思っていたからだ。

 

 「あ、ありがとう……ございます」

 

 無下にするわけにもいかず、ぎこちない手つきでそれを受け取る。彼女たちは「キャー!」「頑張ってね!」と華やいだ声を残して去っていった。周囲の男子たちからは「よっ、人気者!」「隠れイケメン!」と冷やかされる。少しだけ居心地が悪い。僕はこういう華やかな扱いに慣れていないし、何より――

 

 ふと、背筋に冷たいものが走った。恐る恐る、2組の席を見ると梶田さんは変わらず座っている。彼女は文庫本を膝に置き、喧騒などどこ吹く風といった様子で背筋をピンと伸ばして座っていた。その佇まいは一際優雅で美しい。彼女は僕と目が合うと、ふわりと柔らかく微笑み胸元で小さく控えめに手を振ってくれた。

 

 その完璧な微笑みを見た瞬間、僕の顔から血の気が引いた。

 

 (……わ、分からない!)

 

 彼女の心が読めない。あの聖母のような微笑みは何だ? もしかして「あらあら、少し活躍したくらいで調子に乗って。男の子って単純ですね」とか思われてるのではないか? あるいは、「貴方が人気者になってよかったですね(友人としての感想)」という、完全なる脈なしサインなのか? いや、もっと最悪なのは「あんなにデレデレして、結局誰でもいいのね」と軽蔑されている可能性だ。

 

 違うんだ、梶田さん! 僕は人気者になりたいわけじゃない! 女子からドリンクを貰って鼻の下を伸ばしているわけでもない! 僕の心臓が跳ねるのは、君と目が合った時だけなんだ! 僕は心の中で必死に弁解を叫んだ。しかし、彼女は変わらず涼しげな微笑みを浮かべたままだ。その眼鏡の奥の瞳が何を考えているのか、僕にはどうしても読み取ることができなかった。

 

 一方、その頃。涼しい顔で座っているカヤの内心は、皓二朗の予想とは180度違う方向に振り切れていた。

 

 (……ふっ。当然の結果だな)

 

 彼女は心の中で深く頷き、いわゆる「後方腕組み理解者」のポジションで悦に入っていた。彼女にとって皓二朗は、かつて絶望の淵から救い出してくれた「本物のヒーロー」であり、読書仲間という同士であり、尊敬する親友だ。彼の強さも優しさも自分だけが知っている特権だったが、こうして彼が正当に評価され称賛を浴びている光景は彼女の心をこれ以上なく満たしていた。

 

 だからこその、あの穏やかな「微笑み」だったのだが――残念ながら、その屈折した独占欲と信頼は怯える皓二朗には全く伝わっていなかった。

 

 100メートル走と騎馬戦での、僕の「想定外の躍動」が風を呼び、その熱が冷めやらぬまま午後のハイライトの一つである『借り物競争』が始まった。

 

 この競技は単なる走力勝負ではない。直前のレースでは陸上部の生徒が「マニアックな仏像の写真」というお題を引いて撃沈し、代わりに文化部の女子が「校長先生の眼鏡」をゲットして一着になるという番狂わせが起きていた。運と度胸、そして即興の判断力が試される知的なゲーム。そう、まさに彼女――梶田さんのための舞台だ。

 

 アナウンスが彼女の名前をコールする。入場門に立った彼女に全校生徒の視線が集まった。普段は図書室の奥にひっそりと咲く「深窓の令嬢」。けれど今の彼女は僕たち1年3組の騎馬戦での活躍に刺激されたのか、あるいはクラスTシャツのデザイン担当としての責任感からか、かつてないほどの闘志を纏っているように見えた。

 

 トラックに立った彼女が、ふと動きを止めた。首元まで上げていたジャージのファスナーに手をかける。

 

 (……え? 脱ぐの?)

 

 僕が息を呑んだ次の瞬間、彼女はバサリと長袖ジャージを脱ぎ捨てた。現れたのは、鮮やかなカナリアイエローのクラスTシャツ姿。

 

 そして――。

 

 「うおおおおッ!?」

 

 グラウンド中の男子生徒から、どよめきとも歓声ともつかない野太い声が上がった。無理もない、普段は大きめの制服やジャージで隠されていた彼女のプロポーションが薄手のTシャツ越しに露わになったのだ。

 引き締まったウエストに対し、豊かな曲線を描く胸元のライン。平均より発育の良いだろう、その「武器」が秋の日差しを浴びて強調されている。清楚な文学少女の隠された色気。そのギャップに男子たちは釘付けになり、2組の女子たちからも「カヤさん、スタイル良すぎ!」「本気だ!」と興奮の声が上がる。

 

 僕はといえば独占欲と動揺で心拍数が跳ね上がり、どこを見ていいのか分からず視線を泳がせていた。あんな無防備な姿、僕だけの秘密にしておきたかった。

 

 パンッ、号砲が鳴り、レースが始まった。カヤさんの走りは周りの喧騒をよそに冷静だった。決して速くはないが無駄のないフォームでトラックを進んでいく。彼女ならいける、僕には確信があった。この混沌とした競技こそ彼女の理知的な判断力が活きるはずだ。

 

 彼女がトラック中央の箱に到着し、運命のカードを引く。広げた瞬間、彼女の表情が微かに動いた。眼鏡の奥の瞳が鋭く光り、観客席をサーチする。そして――迷うことなく僕のいる3組のエリアに狙いを定めた。

 

 「……えっ」

 

 自分に向かってくる梶田さんを見て固まった。彼女がフェンス越しに駆け寄ってくる。息を切らせ、頬を紅潮させ、必死な眼差しで僕を見上げている。

 

 「瀬戸くん! お願いします!」

 

 彼女が差し出した手。それは間違いなく僕への選抜指名だった。周囲の生徒たちが「おい見ろ!」「あの有名人のカヤさんが!」「相手はあの瀬戸だぞ!」と色めき立つ。

 

 「マジか! 借り物競走で女子が男子を連れて行くってことは……!」

 

 この学校には代々受け継がれている有名なジンクスがある。『借り物競走で異性を連れて行く時、そのお題は「好きな人」である』このイベントは事実上の公開告白の場として機能していたのだ。

 

その伝説は僕も耳にして知っている。だからカヤさんに声を掛けられた時、これ以上なく心臓が跳ね上がった。

 

 (まさか、嘘だろ……!? 梶田さんのお題って……!)

 

 彼女は目の前まで来ると、息を整えながら、白く細い手を差し出した。

 

 「……瀬戸君。お願いします」

 「え、あ、はいっ!!」

 

 反射的にその手を取った。梶田さんの手は相変わらずひんやりと冷たい 。だが、繋いだ手から伝わる電流のような衝撃で、僕の思考は完全にショートした。

 

 わぁぁぁぁっ!!

 

 校庭全体が今日一番の盛り上がりを見せる。公認カップル爆誕か!? という期待の視線がトラックを走る二人に降り注ぐ。梶田さんの走る速度は遅い方の部類だ。その影響で彼女の歩調に合わせ、エスコートするようにゆっくりと走った。その姿がまた周囲の妄想を加速させる。

 

 そのまま僕たちは、トップでゴールテープを切った。他の強豪を抑えて1着。会場のボルテージは最高潮に達した。

 

 実況のアナウンスが響く。普段ならここで次のレースに移るはずだが今回は違った。今回の体育祭では会場の盛り上がりを察すると、放送部の独断により余興で勝利者インタビューを行われることがある。男子対抗の綱引きで恐ろしい牽引力でクラスを勝利に導いた柔道部の先輩や、障害物競走で平均台の上で派手な技を決めた上で1着になった新体操部の女子生徒など他の場面でも見受けられた。

 

 学園の有名人であるカヤさんの激走、そして意味深なパートナー選出。空気を読んだ、あるいは読みすぎた放送部員がマイクを持って突撃してきたのだ。

 

 「おめでとうございます! 素晴らしい走りでした! 会場は大盛り上がりですが……さて、気になるのはその『お題』です!」

 

 マイクを向けられ、カヤさんが呼吸を整えながら顔を上げる。全校生徒が固唾を呑んで見守る。ジンクス通りなら、そこには『好きな人』と書かれているはずだ。これは実質的な公開告白イベント。僕は心臓が口から飛び出しそうになりながら、隣で身構えた。

 

「さあ、見せてください! 瀬戸くんを選んだそのカードの中身は!?」

 

 カヤさんは少しも悪びれる様子なく、スッとカードを裏返して放送部と全校生徒にお題が見える様に向けた。そこには、太いマジックでこう書かれていた。

 

 

 

 

 『 尊敬する人 』

 

 

 

 

 ……………………は?

 

 

 

 

 一瞬の静寂。

 

 「…………へ?」

 

 放送部員の声が裏返った。期待に胸を膨らませていた全校生徒がまるで昭和のバラエティ番組のような効果音が聞こえてきそうな勢いで盛大にズッコケた。

 

 「好きな人」じゃねーのかよ!

 「尊敬」かよ!

 解散解散!

 

 そんな落胆と爆笑が混ざり合った空気が一気に場を支配する。

 

 「あ、あー……なるほど! 『尊敬する人』! 素晴らしいですね! 清らかな関係ということで! ありがとうございましたー!」

 

 会場の空気が、熱狂から一気に脱力へと変わる。ジンクスは不発、ただの真面目な「尊敬」だった。周囲からの視線が「嫉妬」から「同情」へと変わっていくのが痛いほど分かった。

 

 「……あいつ、ただのリスペクト対象だったのか」

 「ドンマイ、瀬戸……」

 「いいじゃん、尊敬されてるんだからさ……」

 

 生温かい視線が僕に突き刺さる。公開告白かと思いきや、公開「いい人どまり」認定。その場にしゃがみこんで身を隠したい。先ほどまでの期待に胸を焦がしていた自分を殴ってやりたい。穴があれば入りたい、そんな羞恥と後悔に濡れていた。

 

 しかし、ふと頭の中であることに気付く。

 

 (……尊敬?)

 

 僕は隣のカヤさんを見た。彼女は汗を拭いながら満足げにカードを見つめている。

 

 『尊敬する人』

 

 彼女は、この全校生徒の前で迷うことなく僕を選んだ。「好き」という感情よりもある意味で重く、そして嘘のない「尊敬」という言葉。あの九条綴を演じ、孤高を貫く彼女が僕のことを「尊敬に値する人間」だと公言してくれたのだ。

 

 (……すごいことじゃないか、これ)

 

 じわじわと、喜びが湧き上がってくる。「好きな人」だったら彼女は照れて隠したかもしれない。でも「尊敬する人」だからこそ彼女は堂々と僕の手を取ったのだ。それはさらけ出した僕の過去も、今の姿になるための努力も、そしてなることが出来た憧れの今の姿も、全部ひっくるめて認めてくれたということだ。

 

 「……瀬戸くん?」

 

 黙り込んでいる僕を心配してカヤさんが覗き込んでくる。僕は顔を上げ満面の笑みを彼女に向けた。

 

 「ありがとう、カヤさん! 僕、すっごく嬉しいよ!」

 「……? はい、お役に立てて光栄です」

 

 彼女は不思議そうに、でも嬉しそうに微笑み返した。周囲からは「あいつ、ショックでおかしくなったんじゃ……」とヒソヒソ言われている気がするが、どうでもいい。僕はガッツポーズをしたい気分だった。恋人への道のりはまだ遠いかもしれない。けれど、「尊敬する人」という強固なポジションを確立した僕はある意味で最強なのだ。

 

 そして、その後梶田さんからの「尊敬」という言葉を最高純度の燃料に変えた僕は最終種目のリレーで神がかった爆走を見せ、見事クラスを逆転優勝へと導いた。本日、彼女公認の「ヒーロー」になれた僕は、秋晴れの空の下で誰よりも幸せなガッツポーズを突き上げた。

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