銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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硝子の関係性と融点34℃の恋心

 十月。体育祭という熱狂の季節が過ぎ去っても学園の空気は冷めることを知らなかった。むしろ、祭りの後の余熱を帯びたまま次なる祭典――文化祭へと雪崩れ込んでいくような高揚感がある。窓から吹き込む風には微かに金木犀の甘い香りが混じり、秋の深まりを告げていた。

 

 アスリスによって再構成されたこの身体は気温の変化に対して脆弱だ。平熱34℃という低体温動物にとって、これからの季節は生存競争そのものと言える。まだ残暑によって気温が高くなる日があるが今日は空気が乾燥しているため、やや肌寒い。カーディガンのボタンを留め、膝掛けの位置を直していると前の席の背中がくるりとこちらを向いた。

 

 「ねえねえ、カヤさん。次の移動教室、一緒に行かない?」

 

 声をかけてきたのは前の席の伊藤さんだ。ショートカットで活発な彼女は体育祭で頼みごとを聞いて以降、何かと自分に構ってくる。体育祭のクラスTシャツのデザイン、そして借り物競争での一件を経てクラスメイトたちは自分を「近寄りがたい深窓の令嬢」から「意外と話せる知性派」へと認識を改めていた。中でも伊藤さんは自分にとって初めての肉体的に「同性の友人」というポジションに収まりつつある。

 

 「……ええ、構いませんよ。準備をしますので、少々お待ちを」

 

 自分は努めて平静を装って答えた。正直に言えば、まだ彼女との距離感には戸惑いがある。かつて「宮本貴也」だった頃、女子というのは理解不能な異星人でしかなかった。また性的なことに関しての興味がまだ薄い時期ということも相まって関心すら湧かなかった。しかも、まだ異性という認識は拭い切れていないため、自分がその輪の中に「女子」として入ることには未だに背徳感にも似た違和感が拭えない。

 

 だが伊藤さんはそんな自分の硬さを気にする様子もなく、「やった、待ってるね」と屈託なく笑った。教科書を鞄に入れ、立ち上がる。廊下に出ると彼女は自然な歩幅で隣を歩き始めた。

 

 「寒くない? カヤさん、いつも厚着だよね」

 「ええ、変温動物並みに代謝が低いもので。伊藤さんは寒くないのですか?」

 「私は平気! 部活で走ってるしね。あ、そういえばさ……」

 

 他愛のない会話。授業のこと、テレビの話、購買のパンの新作について。かつて自分が「くだらない」と切り捨てていた日常会話が今は不思議と心地よいノイズとして鼓膜を揺らす。瀬戸皓二朗以外に、こうして並んで歩ける相手ができたこと。それは自分がこの世界に「カヤ」として根を下ろし始めた証左のように思えた。

 

 そして放課後、1年2組のホームルーム。議題は『文化祭の出し物決め』だ。教壇に立った実行委員が黒板に大きく『1-2 出し物案』と書き出す。

 

 教室は喧騒に包まれていた。「お化け屋敷がいい!」「いや、食品系で楽に儲けようぜ」「メイド喫茶一択だろ」などと欲望と打算が飛び交うカオスな状況だ。自分は文庫本を開き、活字の海に潜るふりをしながら、その喧騒をBGMとして聞いていた。積極的に議論に参加して場を仕切るつもりはない。自分はあくまで「観測者」であり、クラスの決定に従うだけの構成員だ。

 

 ……そう思っていたのだが。

 

 「……決まんないねぇ」

 

 前の席で、伊藤さんが頬杖をついて振り返った。

 

 「カヤさんはどう思う? なんかいい案ないの?」

 

 彼女は期待の眼差しを向けてくる。周囲の席の生徒たちも聞き耳を立てるようにこちらを見た。体育祭での実績があるせいか最近は何かと意見を求められることが多い。

 

 「……私に聞かれても困りますが」

 

 一度は言葉を濁すが伊藤さんは「えー、でも梶田さんセンスいいじゃん。Tシャツもおしゃれだったし」と食い下がる。仕方ない、個人的な見解として述べるだけなら構わないだろう。

 

 「我々のクラスの特性……男女比や予算、そしてこの教室が旧校舎に近いレトロな内装であることを考慮するなら、『喫茶店』が妥当でしょう。ただし、平凡な喫茶店では埋もれます。明確なコンセプトが必要です」

 

 淡々と分析を述べると、伊藤さんが目を輝かせた。

 

 「コンセプト! 例えば?」

 「……大正ロマン、などはどうでしょう。この教室の古びた雰囲気も、レトロという付加価値に転換できますし」

 

 あくまで独り言のように呟くと伊藤さんはパァッと顔を輝かせ、すぐさま手を挙げて実行委員に叫んだ。

 

 「はい! 提案! 『大正ロマンカフェ』なんてどうかな! 衣装とか絶対可愛いし!」

 

 教室がどっと沸いた。女子からは「着物着たい!」という声が、男子からは「書生服か、悪くない」という声が上がり、トントン拍子に出し物が決定した。

 

 伊藤さんがこちらを見て、親指を立ててウインクした。自分が中心になったわけではない。けれど自分の言葉がきっかけでクラスが動く。その感覚は、かつて力で他人を支配していた頃とは違う温かな充足感を伴っていた。

 

 それから数日後、放課後の教室は本格的な作業場へと変貌していた。段ボールを切る音、ペンキのシンナー臭、BGMとして流れる流行歌。自分は教室の隅で内装に使う装飾品の制作を任されていた。手先が器用だと思われているらしく細々とした作業が回ってくる。実際は不器用ではないが、アスリスの影響で細かな作業は疲れやすい。

 だが断る理由もないので黙々と画用紙を切っていると、伊藤さんを含めた数人の女子グループが同じテーブルに集まってきた。

 

 「カヤさん、手伝うよー。ここ糊付けすればいい?」

 「あ、助かります。お願いします」

 

 伊藤さんが隣に座り、他の女子たちも向かいに座る。作業が進むにつれ、話題は自然と「女子高生らしい」ものへと移行していった。

 

 「ねえ、駅前の新しいパンケーキ屋行った? めっちゃ並んでたよね」

 「見た見た! インスタで流れてくるやつでしょ? 超映えるよねー」

 「次の休みにみんなで行かない? 梶さんもどう?」

 

 話を振られ一瞬思考が停止する。パンケーキ、インスタ、映え。単語の意味は分かる。だが、その文脈や熱量が理解できない。自分にとっての小学校時代は「王様」として君臨していた時代であり、中学校時代は「底辺」として這いつくばっていた時代だ。どちらの時代にも女子と対等に流行を語り合う経験など存在しなかった。

 

 「……ええ、機会があれば。……パンケーキというのは、ホットケーキとは違うのですか?」

 

 精一杯の相槌を打つが、女子たちは顔を見合わせて爆笑した。

 

 「カヤさん面白すぎ! そこから!?」

 「ごめんごめん、バカにしてないよ。カヤさんって浮世離れしてるっていうか、お嬢様っぽいよね」

 

 悪意のない笑い声。自分は曖昧に微笑むことしかできなかった。リサーチ不足だ、九条綴のような高尚な文学知識だけでなく同年代の女子としての一般常識もインストールしなければ、この場に溶け込むことは難しいらしい。

 

 ひとしきりスイーツの話で盛り上がった後、話題の矛先が変わった。女子トークの定番、恋バナだ。

 

 「そういえばさ、カヤさん」

 

 向かいに座っていた女子が興味津々な瞳でこちらを覗き込んだ。

 

 「カヤさんってさ……3組の瀬戸くんと、付き合ってるの?」

 

 ピタリ、とハサミを動かす手が止まった。直球すぎる問いかけに教室の喧騒が一瞬遠のいた気がした。

 

 「……何故、そのような結論に至るのですか?」

 

 努めて冷静に問い返すと彼女たちは顔を見合わせて「えーっ」と声を揃えた。

 

 「だって、いつも一緒にいるじゃん!」

 「図書室でも一緒だし、登下校も一緒だし」

 「体育祭の借り物競争だって、あんな堂々と『尊敬する人』とか言って連れて行ったし!」

 「あれ、実質的な公開告白でしょ? 周りはみんな『付き合ってる』って認識だよ? 瀬戸くんもカヤさんのこと見る目、すっごく優しいし」

 

 伊藤さんも「うんうん」と深く頷いている。彼女たちの言葉は悪意のない純粋な好奇心に満ちていた。自分は小さく息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

 なるほど、世間からはそう見えているのか。

 

 「……皆さん、誤解されていますよ」

 

 自分は諭すように、静かに口を開いた。

 

 「私と瀬戸くんは、そのような関係ではありません。彼は私にとって得難い友人であり……そう、恩人です」

 「恩人?」

 「ええ、彼はとても聡明で思慮深く、そして海よりも深い優しさを持っています。私の欠落を埋め、正しい方向へ導いてくれる羅針盤のような存在です。そこに恋愛感情という短絡的な定義を当てはめるのは私たちの関係性を矮小化することになります」

 

 淀みなく言い切った、自分の心からの本音だ。瀬戸皓二朗は泥の中にいた自分を救い上げてくれたヒーローだ。彼の人間性は素晴らしい。欠点すらも美点に見えるほど自分は彼を人間として尊敬している。だからこそ、「付き合う」などという俗な言葉で彼を縛りたくはない。

 

 カヤの瞳には一点の曇りもなかった。あまりに純粋で真っ直ぐな称賛。それを聞いた女子たちは呆気にとられたような顔をした後、どこか生温かいものを見る目でこちらを見た。

 

 「……すごいね、カヤさん。そこまで言い切れるんだ」

 「瀬戸くん、愛されてるなぁ……友愛だけど」

 「ある意味、彼女よりハードル高いポジションじゃん」

 

 彼女たちはクスクスと笑いながら口々に感想を述べる。その中の一人が、いたずらっぽい瞳を輝かせて身を乗り出した。

 

 「じゃあさ、じゃあさ。仮定の話ね」

 「はい?」

 「もし明日、瀬戸くんが他の女子に告白されて付き合うことになったらどうする?」

 

 その問いかけに対し、自分の思考回路はコンマ一秒の遅滞もなく完璧な模範解答を弾き出した。

 

 「……それは、喜ばしいことですね」

 

 声色に揺らぎはない。表情筋も完璧に制御されているはずだ。自分はハサミを置き、穏やかに微笑んで見せた。

 

 「彼は外見こそ優れていますが自己評価が不当に低いきらいがあります。誰かに好意を寄せられ肯定されることは、彼の人格形成においてプラスに働くでしょう。彼が選んだ相手なら、きっと聡明で素敵な方に違いありません。友人として心から祝福しますよ」

 

 完璧だ、論理的で道徳的で、そして友情に篤い。これ以上ないほど「親友」としての正解を叩き出したつもりだった。女子たちは一瞬きょとんとして、それから「うわー……」と声を漏らした。

 

 「カヤさん、本当にいい子だね……」

 「ピュアすぎるよ。天使か」

 「瀬戸くん……ドンマイ……」

 

 彼女たちは「カヤさんの純真さ」に微笑ましさを感じつつ、同時に「瀬戸くんの報われなさ」に対して同情の視線を居ない彼に向けて送っていたようだが、鈍感な自分にはその機微までは読み取れなかった。

 

 「さて、そろそろ片付けましょうか。下校時刻が迫っています」

 「あ、そうだね! やばい、先生に見つかる」

 

 伊藤さんが慌てて立ち上がる。自分たちはお喋りを切り上げ、散らばった画用紙や道具を片付け始めた。窓の外はすでに群青色に染まり、一番星が輝いている。今日は瀬戸くんもクラスの準備が忙しいらしく帰宅時間は合わなかった。一人で帰る夜道は少し寂しいけれど、今日の「女子会」のような時間は自分にとって新しい世界への扉のようで悪い気分ではなかった。

 

 ――この時までは、そう思っていたのだ。

 

 アパートに帰り着き、一人分の夕食を済ませる。母は仕事で遅い。静まり返った部屋に浴室から聞こえるシャワーの音だけが響いていた。

 

 湯気が充満する狭いユニットバス。曇った鏡を手で拭うと、そこには濡れた黒髪の少女が映っていた。自分の顔だ。かつて「宮本貴也」だった頃の面影は目元や鼻筋にわずかに残る程度。アスリスによって再構成されたその容姿は客観的に見ても「美しい」部類に入るだろう。

 

 色素の薄い肌、長い睫毛、滑らかな輪郭。傷一つない陶磁器のような肌。かつて背中に焼き付けられた煙草の痕も、手首に刻んだリストカットの傷も、アスリスの驚異的な再生能力によって綺麗に消え去っている。

 

 視線を下ろす。湯気に濡れた鎖骨、その下にある膨らみ。グラビアアイドルのような派手さはないけれど、自分の細身の体型からすれば、平均よりは豊かな曲線を描いていると思う。体育祭でそんな声を耳にした記憶がある。そしてくびれたウエスト、丸みを帯びた腰つき。

 

 (……悪くない、プロポーションだ)

 

 冷静に分析する。以前は、この「女の身体」を見るだけで嫌悪感が走った。男としての尊厳を奪った呪いの象徴だと思っていた。だが今は別の感情が湧き上がる。

 

 (……もし、これが瀬戸くんの好みに当てはまるのなら)

 

 ふと、そんな思考が頭をよぎった。彼がこの身体を見て、触れて、美しいと思ってくれたら。この滑らかな肌を彼の手が撫でてくれたら。

 

 「……ッ」

 

 カッと顔が熱くなった。何を考えているんだ自分は。慌ててシャワーの蛇口を捻り、ぬるま湯を頭から浴びる。心臓が早鐘を打っている。

 

 「……駄目だ。そんなこと、許されない」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。自分は元・男なのだ。中身はかつて彼と同じ性別だった宮本貴也だ。戸籍が変わり、身体が変わっても魂の履歴までは消せない。彼とはどこまで行っても「友達」であり、「同志」であるべきだ。そこに「恋愛感情」を持ち込むのは彼に対する裏切り行為に他ならない。

 

 彼なら、きっと受け入れてくれるだろう。「アスリス」という特異な病気のことも、己が元男であることも。彼は優しいから「君は君だよ」と言って、変わらず友人として接してくれるはずだ。

 

 だが、それ以上を望むのは?異性として、パートナーとして、この身体を愛してほしいと願うのは?

 

 (……それは、あまりにも自分にとって都合が良すぎる)

 

 鏡の中の少女が卑しい顔でこちらを見ている気がした。友情という名の安全圏に居座りながらその実、彼を独占したいと願う強欲な人間。

 

 ふと、昼間の教室での会話が蘇った。

 

 『もし明日、瀬戸くんが他の女子に告白されて、付き合うことになったらどうする?』

 

 自分は答えた。

 

 『友人として、心から祝福しますよ』

 

 湯船に浸かり膝を抱える。温かいお湯の中で、もう一度その問いを自分に投げかけてみる。誰もいない嘘をつく必要のないこの場所で。

 

 ――もし、明日。彼の隣に自分ではない誰かがいたら。彼があの温かい笑顔を、その子だけに向けていたら。

 

 「…………」

 

 胸の奥が物理的に痛んだ。みぞおちの辺りが鉛のように重くなり、冷たい泥が胃の底に溜まっていくような感覚。

 

 祝福? 嘘だ、できるわけがない。

 

 想像の中の「彼女」に対して湧き上がってきたのはドロドロとした嫉妬だった。

 

 なんで、どうして。

 

 その場所は自分のものだ、彼を一番知っているのは自分だ。誰にも渡したくない。彼の隣で笑うのは自分でありたい。

 

 「……どうして」

 

 ぽつりと、言葉が漏れた。

 

 「どうして初めから女として生まれなかったんだろう」

 

 もし最初から女だったら。元男なんていう重枷もなく、ただの同級生として出会えていたら。そうすれば、こんな罪悪感に苛まれることなく堂々と彼に「好き」と言えたのに。こんなに苦しむこともなかったのに。

 

 お湯の中に顔を沈める。ぶくぶくと泡が弾ける音だけが鼓膜を揺らした。泣きたくなるほどの後悔と、どうしようもない恋心。その二つがない交ぜになって34℃の身体を内側から焼き焦がしていた。

 

 それから数日間、自分は文化祭の準備に没頭した。看板の仕上げ、内装の飾り付け、衣装の確認。頼まれる仕事はすべて引き受けた。忙しさは麻酔になる。手を動かし頭を使っている間だけは、あの日のお風呂場で抱いた惨めな悩みを忘れられたからだ。

 

 放課後は準備に明け暮れ、下校時刻ギリギリまで作業をする日々。瀬戸くんもクラスの準備で忙しいらしく顔を合わせる機会は減っていた。いや、正確には避けていた。図書室には行かず、廊下で彼を見かければ別の道へ逸れた。顔を見れば、またあの黒い感情が溢れ出し自分の醜さに耐えられなくなりそうだったから。

 

 そして文化祭前日の夜。最後の仕上げを終え、へとへとになって昇降口を出た時だった。校舎の外は、すでに漆黒の闇に包まれていた。十月下旬の冷たい風が吹き抜け、カーディガンの隙間から入り込んでくる。

 

 寒い。34℃の身体は、すぐに冷え切ってしまう。一人で帰る準備をして校門へと向かった。

 

 その時。

 

 「――お疲れ様、梶田さん」

 

 暗闇の中から柔らかい声がした。ビクリと肩が跳ねる、恐る恐る顔を上げると校門の脇にある街灯の下、ジャージ姿の瀬戸くんが立っていた。彼はスマートフォンを見ていた顔を上げ、こちらの姿を見つけるとパッと表情を輝かせた。その笑顔は数日前と何も変わらない。いや、むしろ安堵の色が混じって、より温かく見えた。

 

 「……瀬戸、くん? どうして、ここに」

 

 声が上擦った。

 

 「うん、クラスの買い出しに行っててさ。戻ってきたら、ちょうど梶田さんのクラスの電気が消えたのが見えたから」

 

 彼は手元のコンビニ袋を少し持ち上げて見せた。

 

 「もしかして、会えるかなと思って」

 

 偶然ではない、彼は待っていてくれたのだ。いつ出てくるかも分からないのに寒い中、タイミングを計って。

 

 「……寒く、なかったのですか?」

 「そりゃあ寒いよ。もうすっかり秋だしね」

 

 彼は苦笑しながら息を吐いた。鼻先が少し赤い。その姿を見たら自分が避けていた数日間がひどく馬鹿らしく思えた。勝手に悩んで勝手に距離を置いて、一人で殻に閉じこもっていた。けれど彼はそんなことお構いなしに、こうして当たり前のように待っていてくれる。

 

 「はい、これ」

 

 彼が袋から取り出したのは温かいホットココアの缶だった。プルタブを開け、此方に差し出してくる。

 

 「梶田さん、手冷たいでしょ? これで温まって」

 「……ありがとうございます」

 

 受け取る時、指先が微かに触れた。彼の指は驚くほど温かかった。その熱が缶を通じて冷え切った掌に伝播し、血管を通って心臓まで届く。

 

 「……ごめんなさい、瀬戸くん」

 

 缶を両手で包み込みながら俯いて呟いた。

 

 「え? 何が?」

 「ここ数日、貴方を避けるような態度をとってしまって。……少し、考え事をしていて余裕がなかったんです」

 

 本当の理由――貴方が好きすぎて辛かったから――なんて言えない。けれど彼は何も聞かなかった。

 

 「ううん、気にしないで。梶田さんは真面目だから、きっと文化祭の準備で根を詰めてるんだろうなって思ってたよ」

 

 彼の声には責める響きなど微塵もなかった。

 

 「僕でよければ、いつでも愚痴くらい聞くからさ。……無理して一人で抱え込まないでよ。僕たちは『同志』なんだろ?」

 

 いたずらっぽく笑って彼が此方の顔を覗き込んだ。その瞳の中には元男とか、過去とか、そんなレッテルはない。今ここにいて、寒そうにココアを持っている「梶田カヤ」を彼は見てくれている。

 

 胸の奥の氷が音を立てて溶けていくのが分かった。どんなに理屈で武装しても、どんなに自分を卑下しても、この人の温かさの前では全てが無意味になってしまう。

 

 私は、この人が好きだ。

 

 どうしようもなく愛おしい。嫉妬もする、独占したいとも思う。それはきっと『私』が彼を一人の男性として見ている何よりの証拠だ。なら認めよう、自分は彼に恋をしている。その事実は決して裏切りなんかじゃない。自分が自分として生きるための一番大切な光なんだ。

 

 「……好きです」

 

 小さな蚊の鳴くような声だった。

 けれど、初めて自分の言葉で肯定できた気がした。

 

 「え? 何か言った?」

 「……ふふ」

 

 自然と笑みがこぼれた。数日ぶりに心からの笑顔になれた気がした。

 

 「いいえ。……ココアが、とても甘くて温かいなと思いまして」

 

 一口啜ると甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 

 まだ、伝える勇気はない。「好き」という言葉は喉の奥に大切にしまっておこう。だけど、もう自分の気持ちに嘘をつくのはやめる。

 

 「帰りましょうか、瀬戸くん。明日は本番ですよ」

 「そうだね。晴れるといいなぁ」

 

 二人並んで歩き出す。彼との距離は以前よりも少しだけ近い気がした。肩が触れ合うか触れ合わないかの絶妙な距離。その隙間を埋めるように秋の冷たい風が吹き抜けていくけれど、もう寒くはなかった。

 

 夜空を見上げると明日の文化祭を祝福するように満月が輝いていた。己の心は、その月明かりのように澄み渡っていた。明日、最高の笑顔で彼と過ごそう。この恋心を密やかな原動力に変えて。

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