十一月。文化祭当日の朝は世界がその輪郭を際立たせるような、突き抜けるような青天だった。空はどこまでも高く、吸い込まれそうなほど澄んだ群青色をしている。だが、その過剰な透明度は、そのまま気温の低下を意味していた。窓から差し込む日差しは一見暖かそうに見えるが、ガラス越しに触れる外気は硝子細工のように冷たく張り詰めている。
1年3組の教室。僕たちのクラスの出し物は「お化け屋敷」だ。教室の窓は二重にした黒い遮光カーテンと段ボールで完全に目張りされ、昼間でも視界が効かない漆黒の迷路と化している。入り口には美術部員が腕を振るった『呪われた廃校舎』というおどろおどろしい看板が掲げられ、血糊のついた白衣を着た呼び込み係の生徒たちが、廊下を行き交う人々に声を張り上げていた。
今日は校内公開日。明日の一般公開日に向けた予行演習的な意味合いも強いが、生徒たちの熱気はすでに最高潮に達している。廊下はすれ違うのも一苦労なほどの活気に満ちていた。
「――お疲れ、瀬戸! 今のうちに休憩行ってこいよ。明日はお前がメインで忙しくなるからな」
実行委員の男子が額の汗を拭いながら声をかけてくれた。僕は「ありがとう」と短く応え、お化け役の衣装である吸血鬼のマントを脱いでハンガーにかけた。僕のシフトは明日が本番だ。今日はシフトの穴埋めとサポートがメインなので、人員に余裕がある今は比較的自由に動くことができる。
人混みを縫って廊下を西側へと進む。目指すのは1年2組。梶田さんのクラスだ。
廊下は非日常の喧騒という濁流に飲み込まれていた。どこかのクラスから漂ってくるソースとマヨネーズが焦げる匂い、軽音部のライブ告知をする派手な衣装の集団、風船を持って走り回る生徒たち。その光景を見ながら、ふと、去年の今頃のことを思い出した。
中学三年の秋。僕が通っていた中学校には「文化祭」という行事がなかった。合唱コンクールや学習発表会といった真面目なイベントはあったが、生徒が主体となって模擬店を出したり仮装をして練り歩いたりするような「お祭り」は存在しなかったのだ。だから、こうして学校中が熱狂に包まれるという経験自体が僕にとっては人生で初めてのことだった。
小学校時代の凄惨ないじめは、転校によって物理的に断ち切られていた。
新しい中学校では、僕はもう「いじめられっ子」ではなかった。ボクシングジムに通い、大会で結果を残すほどのアスリートとして認知されていたし、周囲から一目置かれる存在ですらあった。いじめっ子たちに怯える日々は終わり、平穏な日常を手に入れていたはずだった。
けれど、あの頃の僕はどこか冷めた目で世界を見ていた気がする。中二の冬にジムを辞めたことで僕は目標のない宙ぶらりんな状態になっていた。かといって学校ですでに出来上がっていたクラスメイトの輪の中に入ることもできず、ただ淡々と受験勉強と筋トレを繰り返す日々。休み時間、周りが楽しそうに談笑する中、ストイックに体を鍛える必要もなくなった僕は実用書を読むことを辞めて一人で文庫本を読んでいた。
孤独ではなかった。話しかけられれば普通に返したし、嫌われていたわけでもない。ただ、自分が「透明なカプセル」の中にいるような感覚があった。ガラス一枚隔てた向こう側にある「青春」という輝きを、指をくわえて眺めているような疎外感。それは拒絶や恐怖ではなく、どこまでも平坦で、色のない「寂しさ」だった。
だからこそ、高校に入ったら変わりたかった。友達を作りたい。恋愛をしてみたい。馬鹿みたいに熱くなれる「青春」を送りたい。そう密かに願っていた僕の祈りは、想像もしなかった形で叶えられつつある。
今の僕の足取りは軽い。向かうべき場所がある、会いたい人がいる。それだけで見慣れた校舎の景色が、極彩色のフィルターを通したように鮮やかに見えた。
僕たちの1年生の教室がある北校舎1階は2組と3組の間には教室にして二つ分ほどの広い「共用スペース」が挟まっている構造をしている。そこには上階へと続く中央階段があり、男女のトイレ、そして大きな鏡のある水飲み場が配置されている。
僕のいる1年3組周辺は、お化け屋敷の行列と、中から漏れ聞こえる悲鳴、そして呼び込みの声でカオスな騒音に包まれている。しかし中央階段のホールに差し掛かると、その騒音がふっと遠ざかる。この広々としたホールが音の緩衝材となり、3組側の熱気を遮断しているのだ。
階段の踊り場を通り過ぎ、2組のエリアへと足を踏み入れる。空気の色が変わった気がした。絶叫と笑い声が背後へ消え、代わりに鼻孔をくすぐったのは深く焙煎された珈琲豆の芳ばしい香りだった。
(……どんな格好なんだろう)
期待と緊張で喉が渇く。昨日の夜、帰り道で彼女は「楽しみにしていてください」と少し悪戯っぽく笑っていた。彼女のクラスの出し物は『大正ロマンカフェ・漱石』。梶田さんが袴を着る。想像しただけで心臓の鼓動が早くなるのが分かった。普段の制服姿でさえ彼女は浮世離れした美しさを持っている。黒髪、眼鏡、透き通るような白い肌、そして凛とした立ち振る舞い。それが和装になったら一体どうなってしまうのだろう。直視できるだろうか。
2組の教室の前に立つと、そこはすでに別世界だった。無機質な教室の引き戸は取り払われ、代わりに『純喫茶・漱石』と書かれたレトロな木製の看板が掲げられている。入り口周りには観葉植物が配置され、黒板にはチョークアートで描かれた明治時代の瓦斯灯と煉瓦の街並みが広がっていた。中からは静かなクラシック音楽――おそらくドビュッシーか何かだろう――が流れている。校舎構造が生んだ「静寂」が、このカフェのコンセプトを完璧に守っていた。ここだけ時間がゆっくりと流れているようだ。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
入り口で書生服を着た給仕係の男子生徒に声をかけられた。僕は少し緊張しながら「一人です」と答える。案内されたのは窓際の二人掛けの席だった。教室の机には紅白のチェック柄のクロスが掛けられ、その上には演劇部から借りたと思われるアンティーク調のランプが温かなオレンジ色の光を灯している。僕は席に座り、落ち着かない気持ちで店内を見渡した。
そして――。
教室の奥、配膳カウンターの近くに、彼女を見つけた。
息を呑んだ。比喩ではなく時が止まったかと思った。周囲の話し声も、BGMも、全てが遠のいていく。
そこにいたのは、現代の女子高生ではなかった。鮮やかな紫色の矢絣模様の着物。それを引き締める、海老茶色の袴。足元は、使い込まれたような質感の黒い編み上げブーツ。長く艶やかな黒髪はハーフアップに結い上げられ、大きなリボンで留められている。そして鼻梁には、いつもの知的な銀縁眼鏡。
その佇まいは凛としていて、知的で、どこか儚げで。古い写真から抜け出してきたような、あるいは文学作品のページをめくった先にいるような。
(……九条綴だ)
僕が昔、来る日も来る日も読み耽り、憧れ続けた小説の中の探偵。彼女がページを破って、そのまま現実世界に現れたのかと思った。それくらい完璧だった。ただ衣装を着ているだけではない。立ち姿の一つ一つ、お盆を持つ指先の角度、客に注文を聞く際のわずかな首の傾げ方。すべてが計算され尽くしたかのように美しく、そして自然だった。彼女は「演じて」いるのではなく、その役になりきって「生きて」いた。
彼女がお盆を持って振り返り、客席に視線を走らせる。そして僕と目が合った。瞬間、彼女の硝子玉のような瞳が少しだけ見開かれ、すぐに柔らかい光を帯びた。彼女は近くの客への配膳を済ませると、流れるような足取りで僕の席へとやってきた。衣擦れの音が心地よく響く。
「……ごきげんよう、瀬戸くん。来てくれたのですね」
その声は、いつもの落ち着いたアルトだったけれど、少しだけ弾んでいるように聞こえた。
「うん、休憩時間になったから。……すごいね、梶田さん」
僕は思わず立ち上がり、まじまじと彼女を見た。
「すごく似合ってる。……本当に、綺麗だ。まるで本から飛び出してきたみたいだ」
ありきたりな言葉しか出てこない自分がもどかしい。語彙力のなさを呪いたい気分だった。でも、本当にそれ以外の表現が見つからなかったのだ。僕の直球な称賛を受けて、彼女は少し照れくさそうに頬を染め、眼鏡のブリッジを中指でくいっと押し上げた。
「お世辞は結構です。……ところで瀬戸くん、この衣装に見覚えはありませんか?」
「え?」
彼女は試すように口角を上げ、自分の着物の柄を指先で示した。
「ただの袴ではありませんよ。私が適当に選んだわけでもありません。……貴方なら、分かるはずです」
挑戦的な視線。彼女は僕を試している。いや、信じているのだ。僕なら絶対に気づくと。僕は一度深呼吸をして、彼女の全身をもう一度、仔細に観察した。
紫と白の矢絣模様のピッチ。
袴の色味。
ブーツの編み上げの紐の結び方。
そして、髪飾りのリボンの形と位置。
記憶の引き出しを検索する。僕たちが共有している「聖書」。その昔、孤独だった僕の心を支えてくれた物語。その一冊一冊、表紙のイラストから挿絵に至るまで、僕は目に焼き付けている。その中で、ヒロイン・九条綴が最も輝いていた瞬間。
……ああ、そうだ。間違いない。
「分かるよ。……『九条綴の完璧な余白』、第四巻」
僕は確信を持って答えた。
「綴さんが神保町の古書店街のイベントに参加した時の衣装だよね? 表紙のイラストでも描かれてた。この矢絣の柄も、髪飾りの位置も……表紙そのままだ」
僕の答えを聞いた瞬間、彼女の表情がぱあっと華やいだ。クールな「九条綴」の仮面が外れ、年相応の少女の顔になる。
「……正解です。さすがですね、瀬戸くん」
彼女は嬉しさを隠しきれない様子で、少し得意げに胸を張った。
「貴方なら、きっと気づいてくれると信じていました」
「あはは、試されたかな。……でも本当に、完璧な再現度だよ。僕が昔、ずっと憧れてた『九条綴』が、今ここにいるみたいだ」
僕が言うと彼女はさらに顔を赤らめて視線を逸らした。その反応が可愛らしくて胸が熱くなる。彼女はただコスプレをしたわけじゃない。僕が気づくことを前提に僕のために、この衣装を選んでくれたのだ。僕と彼女の間にある「物語」という絆を確認するために。その事実が何よりも嬉しかった。
僕はブレンド珈琲を注文し、それを飲みながら彼女のシフトが終わるのを待った。忙しく働く彼女を目で追う。着物姿で動く彼女は、普段よりも所作がしなやかに見える。時折、目が合うと彼女は小さく微笑んで会釈をしてくれる。それだけで何の変哲もない珈琲の味が、最高級の豆を使った一杯のように深く感じられた。
やがて、彼女のシフト交代の時間が来た。エプロンを外して戻ってきた彼女と教室を出る。彼女は「少し外の空気を吸いたいですね」と言って僕を促した。袴姿のまま一緒に歩いてくれるようだ。
2組の前の静かな空間から中央階段のホールを抜けて、再び3組側へと戻る。静寂から喧騒へ。そのグラデーションを二人で歩く。廊下はごった返していた。人混みの中を二人並んで歩く。袴姿の文学少女と黒Tシャツの男。
周囲の視線を感じる。
「見て、あの袴の子すごく綺麗」
「隣の彼氏?」
「Tシャツだけど、なんかスタイル良くない?」
そんな囁き声が耳に入ってくる。
「梶田さん、どこか行きたいところある?」
「そうですね……まずは、瀬戸くんのクラスの出し物を見てみたいです。『お化け屋敷』でしたっけ?」
「うん。……あ、でも」
僕は自分のTシャツの裾を摘んで、少し苦笑した。
「僕、こんな格好でエスコートになってるかな? 梶田さんがこんなに素敵なのに、僕だけクラスTシャツだし……なんか、釣り合ってない気がして」
彼女の完成された世界観の隣に、こんなラフな格好で立っていていいのだろうか。どうしても釣り合いが気になってしまう。
すると彼女は立ち止まり、僕の方を向いた。そして、まじまじと僕の腕のあたりを見た。
「……いいえ、瀬戸くん。そのTシャツ、とても似合っていますよ」
「え? そう?」
「ええ。貴方は一見すると細身で、文学青年のような佇まいですが……」
彼女の視線が僕の半袖から出ている腕に注がれる。上腕二頭筋から前腕にかけてのラインを、彼女は鑑定するように見つめた。
「こうして見ると腕の筋肉がとても綺麗に引き締まっているのが分かります。無駄な脂肪がなく機能美を感じさせる造形です。……そのギャップが貴方らしくて素敵だと思います」
彼女は大真面目な顔で、とんでもなく恥ずかしいことをサラリと言ってのけた。
機能美。造形。褒め言葉なのは分かるけれど、あまりに直球すぎて顔から火が出そうだ。
「あ、ありがとう……。なんか照れるな」
僕が頭をかくと彼女はふふっと小さく笑った。
「隣を歩くのに衣装なんて関係ありません。貴方が貴方であれば、それが一番のエスコートです」
その言葉は、どんなお世辞よりも深く胸に刺さった。彼女は僕の外見だけでなく、中身ごと肯定してくれている。彼女の隣を歩く資格をもらえた気がして僕は無意識に背筋を伸ばした。
1年3組のお化け屋敷『呪われた廃校舎』。教室の前には長蛇の列ができていたが、受付をしていたクラスメイトの男子が僕たちに気づいてニヤリと笑った。
「おっ、瀬戸と梶田さんじゃん! 身内特権でVIP待遇にしてやるよ!」
彼の計らいで列をショートカットしてすぐに中へ入ることができた。少し申し訳ないが、ありがたい。
一歩足を踏み入れると、そこは完全な闇だった。遮光カーテンと段ボールで作られた迷路、視界はほとんど効かない。この時期に冷房が設定されており、人工的な冷気が肌を撫でる。不気味な環境音がスピーカーから流れ、時折、遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。
「……ふむ。動線の確保は最低限ですね。非常時の避難経路として若干の懸念がありますが、閉鎖空間の演出としては悪くありません」
隣で梶田さんが冷静に分析を始めた。暗闇の中でも彼女の凛とした声は頼もしい。けれど、足元がおぼつかないのか彼女の歩調が少し慎重になった。慣れない袴の裾を気にしているのかもしれないし単純に暗がりが怖いのかもしれない。
「足元、気をつけて。コードがあるかもしれないから」
僕は自然に手を差し出した。暗闇の中なら誰にも見られない。それに転んだら危ない。彼女は一瞬ためらった後、そっと僕の手を握り返してくれた。
ひんやりとした指先。彼女の手は、いつだって驚くほど冷たい。以前、梅雨の時期に彼女を介抱した時、その体温の低さに驚いたことがある。別の日に彼女は「虚弱体質で平熱が34℃台しかない」と説明してくれた。冷たくて、華奢で、力を入れたら折れてしまいそうなほど繊細な手。僕は壊れ物を扱うように慎重に、けれど離れないようにしっかりと握った。
暗闇が視覚を奪う分、触覚が鋭敏になる。彼女の掌の感触。すぐ隣にある袴の衣擦れの音。そして微かに漂う彼女の香り――古書と石鹸が混じったような清潔な匂い――が強烈に意識された。
「……あ」
突然、横の壁から白い手が勢いよく伸びてきた。定番の脅かし役だ。仕掛けを知っている僕でも、タイミングが良いと少し驚く。
「ひゃっ……!」
梶田さんが短く息を呑み、反射的に僕の腕にしがみついた。彼女の身体が、僕の左腕に押し付けられる。柔らかい感触と、震える体温。
「だ、大丈夫?」
「……は、はい。不覚を取りました。……角度的に死角でしたので」
彼女はすぐに離れようとしたが、繋いだ手はそのままで少し早口で言い訳をした。その強がりが可愛らしくて僕は暗闇の中で思わず口元を緩めてしまった。普段は冷静沈着な「九条綴」を演じている彼女が、ふとした瞬間に見せる年相応の反応。それが僕にはたまらなく愛おしい。
「無理しないで、僕が先に進むから」
僕は彼女の手を引いて先頭に立った。背中の『百鬼夜行』の文字が彼女を守る魔除けになればいいと思いながら。そのまま出口まで僕たちは手を繋いで歩いた。僕の体温が彼女に伝わり、冷たかった彼女の手が少しずつ温まっていく。二人の体温が同じ温度になっていくその感覚が何よりも心地よかった。
やがて、前方に薄明かりが見えた。出口だ。外の光が見えた時、名残惜しさを感じながらも僕たちは自然に手を離した。眩しい光の中へ出る。互いに顔を見合わせると少しだけ照れくさくて、でも二人とも自然と笑顔になっていた。
お化け屋敷という名の人工的な闇から抜け出した僕たちを待っていたのは、目が眩むほどの秋の陽光だった。
瞳孔が収縮し、視界がモノクロームから鮮やかな色彩を取り戻していく。廊下の窓から差し込む光の中で、僕は隣にいる彼女――梶田カヤさんを見た。
彼女は少し乱れた前髪を指先で直すと、ひとつ大きく深呼吸をした。その頬はほんのりと紅潮しており、普段の陶磁器のように冷涼で完璧な美しさに、人間味のある体温が宿っているように見えた。
僕たちは中庭の模擬店エリアへと向かった。中庭は食欲を刺激する暴力的なまでの香りと熱気に支配されていた。鉄板の上でソースが焦げる濃厚な匂い、揚げ油が跳ねる音、砂糖が焦げる甘い香り。テントが所狭しと建ち並び各部活やクラスの呼び込みの声が飛び交っている。
僕たちは人混みをかき分け、焼きそばとフランクフルト、そしてペットボトルの紅茶を購入した。運良く桜の木の近くにあるベンチが空いていたので、そこに二人で腰を下ろす。
彼女の袴姿は、この雑多な模擬店エリアでも一際目立っていた。プラスチックのチープなパックに入った焼きそばを食べる姿でさえ、どこか気品がある。割り箸を使い、一口サイズにまとめて口に運ぶ所作。咀嚼するときに決して口を開けないマナー。背筋を伸ばし、膝を揃えて座る姿勢。彼女が座っているベンチの周りだけ、明治時代の文学サロンのような空気が流れている気がした。
食事を終え、一息ついていると、校内放送のスピーカーからノイズ交じりのアナウンスが流れる。
『――えー、続いて体育館ステージでは、有志団体によるパフォーマンスが行われます。本日のプログラムは、漫才コンテストとダンスパフォーマンスです。明日の演劇とバンド演奏に先駆けて、会場を盛り上げてくれることでしょう。皆様、奮ってご観覧ください』
その放送を聞いた瞬間、隣に座っていた梶田さんの背筋がピンと伸びた。彼女は食べ終わった容器を手早くゴミ袋にまとめると、真剣な眼差しで僕を見た。
「……瀬戸くん。そろそろ体育館へ移動しましょう」
「え? あ、うん。何か見たいものでもあるの?」
意外だった。彼女は人混みや騒音が苦手なはずだ。以前、学食のカレーの辛さや、雨の日の湿気で体調を崩していたことからも分かるように、彼女の感覚は人一倍鋭敏で繊細だ。体育館のような閉鎖空間での大音量は彼女にとってかなりの負担になるのではないか。そう思って気遣う僕に彼女は少し照れくさそうに、けれどはっきりと告げた。
「はい。……実は、クラスメイトの伊藤さんがダンスに出場するんです」
伊藤さん。梶田さんの前の席の女子生徒だ。ショートカットで活発な彼女のことは僕も知っている。体育祭の時も、梶田さんと一緒に借り物競争の話をしていたし、最近は教室でも二人で親しげに話している姿をよく見かける。
「『絶対に見に来てね! カヤさんがいないと張り合いがないから!』と、かなり強い調子で念を押されていまして……。あのような熱量で頼まれてしまっては、無下にするわけにもいきません」
梶田さんは困ったように眉を下げたが、その声色には嫌悪感ではなく、どこか嬉しそうな誇らしげな響きが含まれていた。友人からの誘い、「カヤさんが必要だ」という言葉。それが彼女にとって、どれほど新鮮で嬉しいことなのか。
「なるほど、それは行かないとね。よし、行こう」
僕たちはベンチを立ち、ゴミを分別して捨てると体育館への渡り廊下を歩き出した。
体育館の重厚な扉を開けると、そこは熱気と笑い声の渦だった。窓は暗幕で閉ざされ、ステージ上のスポットライトだけが強烈な光を放っている。まずは漫才のプログラムが行われていた。数組のコンビが順にネタを披露し、内輪ネタや流行りのギャグで会場を沸かせている。爆笑が起きるたびに体育館の空気が物理的に揺れるようだ。
「う……」
予想通り梶田さんが一瞬だけ眉をひそめ、耳を押さえるような仕草をした。彼女の繊細な神経にとって、この大音量と高密度の
「大丈夫? 無理なら後ろの方に……」
「……いいえ、平気です」
彼女は耳から手を離し、強い意志を込めた瞳でステージを見据えた。
「約束しましたから。……前へ行きましょう、瀬戸くん」
彼女は僕のTシャツの袖を軽く引き、人混みの中へと進んでいく。その華奢な背中が以前よりもずっと頼もしく見えた。僕たちは「すみません、通ります」と声をかけながら、ステージ上手側の比較的視界が開けた場所を確保した。ここなら次のダンスプログラムもよく見えるはずだ。
やがて漫才の部が終了し、司会者がマイクを握る。
『さあ、ここからはダンスパフォーマンスの時間だ! 今年は五つのグループがエントリーしているぞ! 最初のチームは――』
会場の空気が一変し、照明が切り替わる。重低音のビートが床を震わせ始めた。ヒップホップ、ブレイクダンス、K-POPカバー。様々なジャンルのダンスチームが登場し、激しい動きで観客を魅了していく。爆音の中、僕は隣の梶田さんを盗み見た。彼女は眼鏡の奥の瞳を細め、時折辛そうに目を伏せながらも、決してその場を離れようとはしなかった。
「友人との約束を守る」 その一点だけが彼女をこの場に留まらせている。その誠実さが彼女という人間を何よりも雄弁に物語っていた。
「……次ですね」
四組目が終わり彼女が小さく呟いた。司会者が叫ぶ。
『続いては1年生有志によるガールズユニット! キュートでポップな彼女たちの登場だ! チーム・カメリア!』
黄色い歓声と共にアップテンポなナンバーが流れ始めた。ステージ袖から、お揃いのへそ出しルックとミニスカートに身を包んだ女子生徒のグループが飛び出してくる。その中央、センターポジションに立っているのは、間違いなく伊藤さんだった。
普段の制服姿とは違う、濃いめのメイクと弾けるような笑顔。曲に合わせてキレのある動きで踊り出す彼女は、まるで別人のように輝いていた。
「……すごい」
梶田さんが感嘆の声を漏らした。眼鏡の奥の瞳がステージ上の友人に釘付けになっている。
「伊藤さん、あんな表情をするのですね。教室では見せない顔です」
「そうだね。……格好いいよ」
曲がサビに入り、フォーメーションが変わる。伊藤さんがソロで踊るパートだ。スポットライトが彼女一人を照らし出し、会場のボルテージが最高潮に達する。その時だった。
「――伊藤さーん!!」
隣から凛とした、それでいて必死な声が響いた。僕は驚いて横を見た。梶田さんが両手を口元にメガホンのように添えて、ステージに向かって叫んでいたのだ。
「頑張ってー!! 素敵ですー!!」
普段の彼女からは想像もつかない大きな声。「深窓の令嬢」の仮面も、「九条綴」としての演技も、理屈っぽい言葉遣いもかなぐり捨てた、ただ一人の友人を応援する少女の姿。周りの歓声にかき消されそうだったけれど、その声は確かにステージ上の伊藤さんに届いたらしい。踊りながら伊藤さんがこちらを見て、バチッと満面の笑みでウインクを飛ばし、指でハートマークを作って見せた。
「……ふふっ」
梶田さんが嬉しそうに笑って手を振り返す。ステージのライトを受けて輝くその笑顔は、ペンライトの光よりもずっと眩しかった。
その光景を見て、僕は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。思わず、目頭が熱くなる。
一昨年の冬。雪の降る夜、橋の上で出会った「銀髪の少女」のことを思い出す。あの時の彼女は孤独だった。誰にも助けを求められず、たった一人で凍えていた。
夏休みの花火の夜、彼女が見せたピアス跡。あれは彼女が生き延びるために代償として支払った痛みの記憶だ。彼女は自分のことを「穢れている」「かつては加害者側にいた」と告白し、僕に拒絶されることを恐れていた。
けれど今、彼女はここにいる。薄暗い橋の上ではなくスポットライトの当たる場所で、一人ではなく友人の名前を呼んでいる。孤独な「銀髪の少女」ではなく友人思いの「梶田カヤ」として。
苦手なはずの大音量と人混みの中で友人のために声を枯らし、友人の笑顔に笑顔で応えている。それはごくありふれた普通の女子高生の青春の一コマかもしれない。
でも、僕には分かる。それが彼女にとって、どれほど大きな一歩であり、奇跡のような変化であるかが。
(……よかったね、梶田さん)
僕が彼女を変えたわけじゃない。伊藤さんという友人ができて、梶田さん自身が勇気を出して、一歩ずつ世界と向き合った結果だ。その変化が、成長が、たまらなく愛おしくて誇らしかった。彼女の世界は、もう図書室の中だけじゃない。こんなにも鮮やかで騒がしくて、温かい場所へと広がっている。
「……瀬戸くん?」
視線を感じたのか梶田さんがふとこちらを向いた。ステージのカラフルな照明が彼女の瞳の中でキラキラと反射している。
「どうしました? そんなにじっと見て。……私、変でしたか? あんな大声を出してしまって」
彼女は我に返ったのか少し顔を赤くして口元を手で覆った。
「ううん、全然」
僕は首を横に振った。
「梶田さん、楽しそうだなって思って。……見てる僕まで嬉しくなったよ」
「……ええ、楽しいです」
彼女は少し照れくさそうに、でもはっきりと頷いた。
「友人が輝いている姿を見るのが、こんなに誇らしい気持ちになるなんて知りませんでした。……連れてきてくれて、ありがとうございます」
彼女の笑顔に心臓がトクンと鳴る。ステージの熱気とは違う、もっと静かで優しい熱が僕の身体を包み込んだ。
すべてのパフォーマンスが終了し、閉会のアナウンスが流れる頃には、窓の外は茜色に染まっていた。僕たちは生徒の流れに乗って体育館を出た。校舎の外に出ると夕方の冷たい風が吹き抜けていった。熱気で火照った身体には心地よかったが、冷え性の梶田さんには堪える寒さだったようだ。彼女が小さく身震いをして袴から露出している二の腕をさすった。
「寒い?」
「……少し。日が落ちると途端に気温が下がりますね。やはりこの国の四季というのは情緒的であると同時に残酷です」
僕は自分の格好を見た。半袖のTシャツ一枚。ジャージの上着を持ってくればよかったと後悔したが今更どうしようもない。せめてもの代わりに僕は風上側に一歩移動して立った。僕の身体が壁になれば少しは風を防げるはずだ。
「……ふふ、ありがとうございます。瀬戸くんは温かいですね」
彼女は僕の意図を察して少しだけ僕の方へ身を寄せた。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離。そこから伝わってくる微かな体温を感じながら、僕たちは渡り廊下の手すりに寄りかかった。
目の前には夕陽に照らされたグラウンドと、明日の後夜祭のために組まれたキャンプファイヤーの
「……今日は、ありがとうございました」
彼女が夕焼けを見つめながら静かに言った。
「とても、楽しかったです。……四巻の表紙に気づいてくれたことも、お化け屋敷で手を引いてくれたことも、伊藤さんのダンスを一緒に見てくれたことも」
「僕の方こそ、誘ってくれて嬉しかったよ」
僕は彼女の横顔を見つめた。夕陽のオレンジ色の光に縁取られた彼女の輪郭は小説の中の「九条綴」よりも、ずっと鮮やかで生き生きとしていて、そして美しかった。
物語の中の完璧なヒロインではなく、ここに生きている不完全で愛おしい一人の人間としての美しさ。
「……私、来年もまた、こうして貴方と回りたいです」
彼女がぽつりと呟いた。独り言のような、けれど確かな願いが込められた言葉。その響きに胸が締め付けられるほど熱くなる。
来年、再来年、未来の話。
彼女が「明日」や「未来」を希望を持って語ってくれることが、こんなにも嬉しいなんて。かつて橋の上で死のうとしていた少女は、今、僕の隣で「来年」を夢見てくれている。
「うん。約束だよ、梶田さん」
「はい。……約束です」
彼女がこちらを向き、ふわりと微笑んだ。グラウンドの向こうでは実行委員たちが明日の準備のために走り回っている。明日は一般公開日。今日よりもずっと忙しくなるだろうし人も増えるだろう。僕はお化け屋敷のシフトがあるし、彼女もカフェで忙しいはずだ。今日のようにずっと一緒にいることはできないかもしれない。
けれど、不安はなかった。今日のこの温かい思い出と交わした約束があれば、どんな喧騒の中でも繋がっていられる気がした。
「帰りましょうか、瀬戸くん。明日は本番ですよ」
「そうだね。風邪ひかないように温かくしてね」
「貴方こそ、その薄着で寝込まないように。……私のせいで貴方が倒れたら私は責任を感じてしまいますから」
「大丈夫だよ、僕は頑丈だから」
二人で笑い合いながら昇降口へと歩き出す。手は繋いでいない。けれど、並んで歩く二人の影は夕陽に照らされて長く伸び時折一つに重なっていた。琥珀色の祝祭の初日は、こうして幸福な余韻を残して静かに幕を閉じた。