銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

2 / 27
悪夢の回廊:歪んだ王冠

 世界は俺のために回っていた。比喩でも文学的な修飾でもない。小学五年生の宮本貴也にとって、それはリンゴが木から落ちるのと同じくらい疑いようのない物理法則であり、呼吸をするのと同じくらい当たり前の事実だった。

 

 教室という閉じた箱庭の中で俺は太陽であり絶対的な「王」だった 。俺が笑えばクラス中が笑う。俺が不機嫌になれば空気が凍りつく。休み時間になれば俺の机の周りには常に何重もの人の輪ができ誰もが俺の機嫌を損ねないようにそして俺の恩恵――「宮本グループの一員である」という安心感――に与ろうと必死に尻尾を振っていた。

 

 『いいか、貴也。人は生まれながらにして平等ではない』

 

 祖父の重々しい声が脳髄の奥で響いている。俺の家はこの地方でも有数の名家だった。広大な屋敷、使用人たちの傅く姿、そして厳格な祖父による徹底した英才教育。優秀な者だけが価値を持ち、そうでない者は支配されて当然である。その歪んだ帝王学は幼い俺の骨の髄まで染み込んでいた。

 

 成績は常にトップ。運動神経も抜群。教師たちでさえPTA会長を務める父と、地元の名士である祖父の顔色を窺い俺を特別扱いした。だから俺は信じていた。自分は選ばれた人間であり、他人は俺を引き立てるための「背景」か意のままに動く「手駒」に過ぎないと。

 

 ――ただ一人、あの目障りな「異物」を除いて。

 

 五時間目のチャイムが鳴り教師が教室を出ていくと、いつものように俺の周りに取り巻きたちが集まってきた。今日の話題は流行りのテレビゲームについてだ。俺が親に買ってもらった最新のソフトの話をすると、皆が大げさに羨ましがり歓声を上げる。その心地よい賞賛のノイズの向こう側で俺は視界の端に映る「影」に気づいていた。

 

 教室の隅。窓際の一番後ろの席。そこに瀬戸皓二朗がいた。

 

 彼は俺の王国における唯一の汚点だった。決して反抗的なわけではない。暴れるわけでも、俺に突っかかってくるわけでもない。ただ、彼は俺を見ない。俺がどれだけクラスの中心で輝いていようと、どれだけ大きな声で笑おうと、彼はまるで俺など存在しないかのように自分の世界に閉じこもっている。

 

 貧乏くさいというのが第一印象だった。彼の服はいつもどこか薄汚れていて袖口が擦り切れていることもあった。共働きの両親は忙しいらしく彼の持ち物は手入れが行き届いていない。俺のような「選ばれた人間」とは対極にいる底辺の存在。本来なら視界に入れる価値すらない雑草だ。

 

 けれど俺は彼が気に入らなかった。虫唾が走るほどに苛立っていた。

 

 その理由は彼がいつも読んでいる「本」にあった。休み時間になるたび、彼は図書室で借りてきた分厚い本を開く。周りが騒いでいようが、ボールが飛んでこようが、彼は眉ひとつ動かさずに活字の海に沈んでいる。その姿がまるで「お前たちのレベルの低い会話には興味がない」とでも言っているように見えて無性に腹が立ったのだ。格下のくせに、背景のくせに。俺という太陽を無視して何を高尚ぶっているんだ。

 

 「……おい」

 

 俺は取り巻きたちの輪を離れ彼のもとへと歩き出した。教室の空気が変わる。王が動いたのだ。取り巻きたちが期待に満ちた目で俺の後ろをついてくる。「貴也くんが何か面白いことを始めるぞ」という残酷な無邪気さを浮かべて。

 

 俺は瀬戸皓二朗の机の前に立ち、その天板をバン、と掌で叩いた。

 

 「……っ」

 

 ビクリと彼の肩が跳ねる。ようやく彼は本から顔を上げ俺を見た。その瞳、怯えと困惑とそして微かな「拒絶」を含んだ瞳。それが俺の加虐心を煽った。

 

 「な、何かな。宮本くん」

 

 声が小さい。弱々しい。俺は鼻で笑い彼の手元にある本をひったくった。

 

 「あ……!」

 「なんだよこれ。またこんな陰気臭いもん読んでんのか」

 

 奪い取ったのは文庫本だった。地味な幾何学模様の表紙。タイトルは――『九条綴の完璧な余白』 著者は淡島宗太郎、聞いたこともない名前だ。

 

 「へぇ、ミステリー小説? お前さ、ガキのくせにこういう大人ぶった本読んで頭いいアピールしてんの?」

 

 俺は本をパラパラとめくり、わざとらしく大きな声で言った。後ろで取り巻きたちが「うわー、キザ」「生意気ー」と追従する笑い声を上げる。

 

 「返して……。僕、まだ読んでる途中なんだ」

 

 瀬戸皓二朗が手を伸ばしてくる。その必死な様子が滑稽で俺は本を高く掲げて彼の手をかわした。

 

 「こんなもんのどこが面白いんだよ。字ばっかりで絵もなくてさ」

 

 俺は適当なページを開き、そこにある一文を読み上げた。

 

 『……論理(ロジック)の欠落は、感情という名の余白によって補完される』

 

 「は? 何これ、意味わかんねー。作者の自己満足じゃん」

 

 俺は冷笑を浮かべ本を机の上に放り投げた。表紙が折れ曲がり無様な音を立てて落ちる。

 

 「こんなの読んでる時間があったら、もっとマシなことしろよ。クラスの皆と遊ぶとかさ。だからお前は暗いんだよ」

 

 完全な勝利だったはずだ。王が慈悲深く忠告してやったのだ。彼は恥じ入り顔を赤くして俯くはずだった。

 

 けれど、その時予想外のことが起きた。

 

 「……面白くないわけ、ないだろ」

 

 ボソリと声が聞こえた。俺は耳を疑った。今、こいつ何て言った?

 

 瀬戸皓二朗は机の上の本を拾い上げ、埃を払うように丁寧に表紙を撫でていた。そして顔を上げた。その瞳は俺を真っ直ぐに射抜いていた。

 

 「作者の自己満足なんかじゃない。……この主人公は、誰よりも論理的で正しいことを言ってる」

 

 教室が静まり返った。あの瀬戸皓二朗が、宮本貴也に口答えをした。背景画のモブが主役に意見したのだ。

 

 「……は?」

 

 俺のこめかみに血管が浮き出るのを感じた。熱い、身体の奥底からドス黒い怒りがマグマのように湧き上がってくる。生意気だ、分不相応だ。俺が「つまらない」と言ったものをこいつは「面白い」と言った。俺の感性を、俺の言葉をこの底辺の雑草が否定した。

 

 「お前、今なんて言った?」

 

 声を低くして一歩踏み込む。普段の彼ならここで怯えて謝るはずだ。しかし今日の彼は違った。自分の聖域である「本」を侮辱されたことだけはどうしても許せなかったのだろう。彼は震える声で、けれど毅然と言い放った。

 

 「宮本くんが理解できないだけだ。……本を馬鹿にするな」

 

 ――プツン。俺の中で、理性の糸が焼き切れる音がした。

 

 「……理解できない、だと?」

 

 俺が? この選ばれた俺が? 貧乏人で、暗くて、友達もいないお前ごときに?

 

 「調子に乗るなよ、ゴミが」

 

 俺は反射的に彼が大切に抱えていた本をもう一度奪い取った。今度は放り投げるだけでは済ませない。両手で本を掴み逆方向に力を込める。メリメリ、と背表紙が悲鳴を上げた。

 

 「あっ、やめろ! やめてくれ!」

 

 瀬戸皓二朗が叫び俺に飛びかかろうとする。それを取り巻きたちが慌てて押さえつけた。俺は歪んだ笑みを浮かべ、彼の目の前でその本を床に叩きつけた。そして上履きのかかとで思い切り踏みにじった。

 

 グシャリ。 紙が折れ、汚れる音がした。

 

 「あ……、あ……」

 

 瀬戸皓二朗の顔から血の気が引いていく。彼は床に這いつくばり泥にまみれた本を拾い上げた。その震える背中を見て、俺の胸には暗い愉悦が広がっていった。

 

 ざまあみろ。これが王に逆らった報いだ。お前の大切なものなんて、俺がその気になればいつでもゴミに変えられるんだ。

 

 「……覚えとけよ、瀬戸」

 

 俺は彼を見下ろし冷酷に告げた。それは宣戦布告であり一方的な処刑の合図だった。

 

 「お前には学校に来る資格なんてない。……俺が分からせてやる」

 

 周りの取り巻きたちが卑屈な笑い声を上げる。教室の空気が完全に「加害」の色に染まった。誰も彼を助けない、先生も気づかない。ここはこの瞬間から俺が彼を狩るための処刑場になったのだ。

 

 床に座り込み汚れた本を抱きしめて泣く少年。その涙を見ても俺の心は痛みなど感じなかった。むしろ胸のつかえが取れたような清々しささえ感じていた。

 

 (潰してやる)

 

 徹底的に、精神が砕け散るまで。二度と俺に逆らう気力を起こせないように完膚なきまでに叩きのめしてやる。

 

 それが俺――宮本貴也の犯した、取り返しのつかない罪の始まりだった。後に自分自身の首を絞めることになる『九条綴』という名の楔。それを自らの手で汚したこの瞬間こそが俺の地獄への入り口だったのだ。

 

 その日を境に教室は「処刑場」へと変貌した。だが俺が選んだ処刑方法は単純な暴力という野蛮な手段ではなかった。俺は宮本家の人間だ。力任せに殴るだけならそこらの知性の足りないガキ大将でもできる。俺が求めたのはもっと洗練された、精神を根底から腐らせていくような「統治」だった。

 

 ターゲットである瀬戸皓二朗を教室という社会から抹殺する。物理的に殺すのではない。「存在していないもの」として扱うのだ。

 

 『透明人間ゲーム』 俺がそう名付けると取り巻きたちは下卑た笑みを浮かべて賛同した。ルールは簡単だ。瀬戸皓二朗を見ても反応しない、声をかけない、視界に入れない。もし彼が話しかけてきても空気に向かって独り言を言っているかのように振る舞う。

 

 効果は劇的だった。翌朝、瀬戸が「おはよう」と隣の席の女子に声をかけた瞬間その女子はまるで汚い音でも聞こえたかのように顔をしかめプイと横を向いた。瀬戸の顔が凍りつく。俺は教室の一番後ろ、王の席からその光景を眺め口角を吊り上げた。そうだ、それでいい。俺が右を向けと言えば右を向く。俺が「あいつはゴミだ」と定義すれば、彼はゴミになる。この教室のルールブックは俺だ。

 

 陰湿な攻撃は日を追うごとにエスカレートしていった。体育の授業前、着替えようとした瀬戸の体操服がない。彼が必死に探し回る姿を俺たちはニヤニヤしながら眺める。チャイムが鳴り、先生に怒鳴られる彼を見て俺たちは腹を抱えて笑った。実際には彼の体操服は掃除用具入れの雑巾の下に隠してあったのだ。

 

 給食の時間、彼の机の上にだけ「配膳ミス」が多発した。スープが極端に少なかったりパンが潰れていたり。時には誰が入れたとも知れない砂やチョークの粉が混入していることもあった。瀬戸は何も言わず、ただ青ざめた顔でそれを残すようになった。

 

 「あれぇ? 瀬戸くん、食べないの? もったいないなぁ」

 

 俺がわざとらしく声をかけると彼はビクリと肩を震わせ俯く。反論は許さない、泣き言も許さない。ただ黙って俺たちが与える理不尽を飲み込め。それが敗者の役割だ。

 

 教科書への落書きも日課となった。国語の教科書を開けばそこにはマジックで大きく『死ね』『キモい』『バイキン』といった言葉が踊っている。特に彼が愛していた読書の時間は徹底的に破壊した。彼が図書室で借りてきた本を見つけるたび、俺たちはそれを奪いドッグイヤーを折り、時にはページの端を破り捨てた。彼にとっての「聖域」が汚されるたび、瀬戸の瞳から少しずつ光が失われていくのが分かった。あの生意気な知性の光が消え、怯えた小動物のような濁った色が支配していく。

 

 「……返して、ください」

 

 ある日、瀬戸が蚊の鳴くような声で俺に懇願してきたことがあった。俺の手には彼が借りたばかりのハードカバーがあった。

 

 「あ? 聞こえねーな。透明人間が喋ってんのか?」

 

 俺は耳に手を当てて、わざとらしく首を傾げる。周囲からドッと笑いが起きる。

 

 「お願いです、宮本くん……。それは図書館の本だから、汚さないで……」

 

 彼は必死だった。自分のことよりも、本のことを心配しているのがまた癪に障った。こいつはまだ分かっていない。自分が何を失おうとしているのか。

 

 「へぇ。じゃあ、これならどうだ?」

 

 俺は冷酷に笑い、その本をゴミ箱へとシュートした。放物線を描いてゴミ箱に吸い込まれる本。乾いた音がして、クラス中が拍手喝采に包まれる。

 

 瀬戸皓二朗はもう泣くことさえしなかった。ただ呆然とゴミ箱を見つめ、糸が切れた人形のように立ち尽くしていた。その死んだような目を見た瞬間、俺は確信した。

 

 ――勝った。俺の支配に逆らうとどうなるかこの教室の全員に刻み込んでやった。秩序は保たれたのだ。

 

 季節は冬に向かっていた。窓の外の景色が寒々しい灰色に変わる頃、瀬戸皓二朗の限界は目に見えて明らかになっていた。彼は日に日に痩せ細り、顔色は土気色になり頻繁に腹痛を訴えて保健室へ逃げ込むようになった。精神的なストレスが身体を蝕んでいたのだ。給食もほとんど手を付けず、休み時間は机に突っ伏して動かない。

 

 「おい、死体ごっこかよ」

 

 通りすがりに机を蹴り飛ばしても反応は鈍い。面白くない。壊れかけの玩具ほどつまらないものはない。そろそろ飽きてきたな、と俺が思い始めた小学5年生の冬のある日。

 

 瀬戸皓二朗が、学校に来なくなった。

 

 最初は風邪か何かだと思った。だが一日、二日、三日と彼の席は空席のままだった。そして一週間が過ぎた朝のホームルーム。担任教師が、神妙な顔つきで教壇に立った。

 

 「えー、皆に知らせがある。……瀬戸くんだが急遽、転校することになった」

 

 教室がざわめく。皆が一斉に俺の方を見た。俺は頬杖をつき無表情を装いながら、机の下で拳を握りしめた。怒りではない、歓喜の震えだった。

 

 「家庭の事情で隣町の学校へ移るとのことだ。……急なことでお別れ会もできないが、皆も瀬戸くんの新しい学校での活躍を祈ってほしい」

 

 先生の言葉は空々しい建前だった。「家庭の事情」? 笑わせる、いじめに耐えきれず逃げ出しただけだ。俺が追い出したのだ。この神聖なる俺の王国から目障りな異物を排除したのだ。

 

 (俺の勝ちだ)

 

 心の中で、勝利のファンファーレが高らかに鳴り響いた。あの生意気な読書家気取り。俺を見下すような目をしていた雑草。それが今や尻尾を巻いて逃げ出した負け犬となった。

 

 放課後、俺は誰もいなくなった教室で瀬戸皓二朗が座っていた机の前に立った。空っぽの机。中にはもう、あいつが気取って読んでた本も汚れたノートもない。

 

 「ははっ」

 

 乾いた笑いが漏れた。清々しかった。窓を開けると冷たい冬の風が吹き込んできた。それは俺の勝利を祝福する風のように感じられた。邪魔者は消えた。これで教室は完全に俺のものだ。誰も俺に意見しない、誰も俺の機嫌を損ねない。完璧な世界の完成だ。

 

 俺は空の机に足を乗せふんぞり返った。王の凱旋。この時の俺は自分が世界の頂点にいると信じて疑わなかった。

 

 この勝利が実は破滅へのカウントダウンであることなど微塵も知らずに。追い出したはずの「被害者」が残した呪いが形を変えて俺自身に跳ね返ってくる未来など想像もせずに。

 

 俺はただ愚かにも傲慢に空っぽの机を踏みつけて笑っていた。「俺に逆らうから、こうなるんだよ」と。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。