文化祭二日目。突き抜けるような青天は昨日から続いていたが、空気の密度は明らかに異なっていた。一般公開日を迎えた校舎は朝から飽和状態に近い熱気に包まれている。窓の外では正門から続く長蛇の列が動き出し、グラウンドからは運動部の掛け声や吹奏楽部の音合わせが風に乗って聞こえてくる。
1年2組の教室、『純喫茶・漱石』。開店準備に追われる店内で鏡に映る姿を確認した。
紫の矢絣模様の着物、海老茶色の袴、足元は編み上げのブーツ。そして顔には世界との間に引いた境界線である銀縁の眼鏡。
(……うん、良い感じ)
鏡の中の虚像を見つめる。昨日、この衣装を着て瀬戸くんの隣を歩いた。お化け屋敷の闇の中で繋いだ手の熱さ、体育館のステージで大音量の中で友人の名を叫んだ高揚感。そして、茜色の夕暮れの下で交わした「来年も」という約束。
それらの記憶が胸の奥で甘やかな炭酸のように弾けている。かつて自身を縛り付けていた鎖や重石は、今のこの瞬間だけは驚くほど遠くへ退いていた。視界に映るすべての色彩が鮮やかだ。まるで、今までモノクロームのフィルムを通して見ていた世界が、本来の色を取り戻したかのような感覚。今日という一日が昨日以上の素晴らしいものになるという確信だけが、身体中を駆け巡っている。
「おっはよー、カヤさん! 今日もバッチリキマってるね!」
背後から弾むような声がかかった。振り返ると給仕服のエプロンをつけた伊藤さんが、ニコッと笑って立っていた。彼女は昨日のダンスステージに出演していたため、今日が本格的なシフト入りだ。
「おはようございます、伊藤さん。昨日のステージ、とても素敵でしたよ」
「えへへ、ありがと! カヤさんが一番前の方で応援してくれたの、めっちゃ見えてたよ! あんな大きな声出すなんて意外だったけど、すっごい嬉しかった!」
伊藤さんは照れくさそうに鼻の下を擦った。昨日の振る舞いを思い出すと少し面映ゆいが、彼女の屈託のない笑顔を見ると、そんな羞恥心も悪くないものに思える。
「さあ、今日は長丁場だけど頑張ろうね! 私、昨日の分まで働くから!」
「ええ、頼りにしています」
周囲のクラスメイトたちは自分が「九条綴」という架空の探偵を演じていることなど露知らず、この古風で少し芝居がかった口調を「素の性格」だと思い込んでいる。だが、そんな誤解さえも今日は心地よい。この仮面は、もはや他人を欺くための道具ではなく、今日の祭りを最高に楽しむためのドレスコードのようなものだ。
開店と同時に『純喫茶・漱石』は満席となった。一般客に加え、他校の生徒や保護者など昨日とは比にならない数の人間が押し寄せる。忙しさは思考を停止させる良い薬だ。次々と入るオーダーを捌き、優雅に、かつ迅速にホールを回る。自分は完全に、物語の中のヒロインになりきっていた。
……はずだった。
「――おーい! ここだここ! すげー、マジで喫茶店になってる!」
昼過ぎ、客足が途絶えない店内に場違いなほど元気な声が響き渡った。静かなクラシック音楽が流れる店内の空気を切り裂くような甲高い声。入り口を見ると、受付係の男子生徒が困ったように立ち尽くしている。その足元には小学生とおぼしき五人の子供たちが群がっていた。
男の子が三人、女の子が二人。見覚えのある顔ぶれだ。以前、夏休みの公園で出会った子供たち。確か色鬼や缶蹴りに付き合わされ、最終的に全力疾走で追い回した記憶がある。
「おい、押すなよ!」
「すっげー、レトロ!」
「ねーねー、ここ入っていいの? お金持ってるよ!」
首から小銭入れを下げた少年たちが物珍しそうに教室内を覗き込んでいる。その中の一人、キャップを被った少年と目が合った。
「あ! やっぱり! 公園のねーちゃんだ!」
「げっ、マジだ! すげー格好してる!」
「コスプレ? ねーちゃん、コスプレしてんの?」
「ねーちゃん」と呼ばれた瞬間、周囲の客の視線が集まる。普段の「深窓の令嬢」としての振る舞いを知っているクラスメイトたちも驚いたようにこちらを見ていた。ここで彼らに騒がれると「九条綴」のイメージが崩壊しかねない。だが、不思議と焦りはない。彼らの笑顔を見ると、あの公園での無心に遊んだ時間の楽しさが蘇ってくる。
(……仕方ない、少しだけ付き合ってやるか)
自分は素早く周囲を見回した。他の客は談笑に夢中でこちらを見ていない。近くにいたクラスメイトも厨房の方へ入っていった。
――よし、今なら誰も見ていない。
スッ、と彼らの前に歩み寄り、しゃがみ込んで目線の高さを合わせる。そして、声を一段低く落とし公園で見せた「地」のトーンに切り替えた。
「……お前らなぁ、ここは図書館みたいに静かに楽しむ場所なんだよ。大声出すなら運動場に行ってきな」
少しドスを利かせて囁くと、少年たちは「うっ」と口をつぐんだ。だが、すぐにニカッと笑う。
「なんだよ、ねーちゃん今日は厳しいな!」
「俺たち客だぞー! ジュース飲みたい!」
「はいはい。……ったく、しょうがない連中だな。特別に入れてやるけど、騒いだら即退場だからな。分かったか?」
男の子たちの頭をワシワシと撫で回すと、彼らは「やめろよー!」と嬉しそうに笑う。その様子を見ていた後ろの女の子二人が遠慮がちに近づいてきた。公園で一緒に遊んだ際、一番懐いてくれた子たちだ。
「……カヤちゃん」
一人の少女が小さな声で呼んだ。その響きに胸の奥が柔らかく解ける。
「あら、来てくれたんだ。いらっしゃい」
男の子たちへの粗雑な対応とは打って変わって、女の子たちには努めて優しく、少しお姉さんぶった口調で微笑みかける。少女は頬を染めて、持っていた小さなポシェットをぎゅっと握りしめた。
「うん。カヤちゃん、その服、すごくかわいい」
「お姫様みたい!」
「ふふ、ありがとう。貴女たちも、とっても可愛いよ」
二人の頭を優しく撫でると彼女たちは照れくさそうに、でも誇らしげに顔を見合わせた。この子たちにとって今の自分は「遊んでくれる優しいお姉さん」なのだ。その信頼が、たまらなく愛おしい。
「さ、席に案内するからね。……おい野郎ども、レディーファーストだぞ」
男の子たちの背中を軽く叩き、空いていた奥のテーブル席へ誘導する。彼らは「すっげー!」「ランプかっこいい!」と目を輝かせ、自分にまとわりついてくる。その扱いには、もはや「深窓の令嬢」の欠片もなかったが、それが今の自分にとっては一番自然な呼吸のように感じられた。
ふと視線を感じて振り返ると、伊藤さんが配膳カウンターの陰で口元を押さえて肩を震わせていた。
「……カヤさん?」
しまった、と口元に手をやる暇もなかった。
完全に目が合った。
今の「お前らなぁ」という口調も、「野郎ども」という雑な扱いも、バッチリ聞かれていた。
「あ……」
言い訳を考える間もなく、その目が大きく見開かれ――そして、ニヤリと口角が上がった。
「見ちゃった~」
「い、伊藤さん……これは、その……」
しどろもどろになる自分を見て、彼女はくすくすと笑った。
「意外! カヤさんって、子供相手だとそんな感じになるんだ? なんかこう、姉御肌っていうか……男勝りな感じで、すっごいイイじゃん!」
「え……?」
「いつものお嬢様な感じもいいけど、今のギャップ萌えってやつ? あの子たちも懐いてるし面倒見いいんだねー」
伊藤さんは好意的に受け取ってくれたらしい。ホッと胸を撫で下ろすと同時に胸のつかえが取れたような開放感が広がる。「男勝り」という言葉すら今の幸福な自分にとっては心地よい響きだ。飾らない自分、少し乱暴な自分。それも含めて受け入れてもらえる場所が、ここにはある。
「……ふふ、お恥ずかしいところを見られました。彼らは近所の公園で少し顔見知りなもので、つい地が出てしまって」
「いーよいーよ、気にしないで! むしろ親近感湧いちゃった。さ、あの『リトルギャング』たちの注文、取ってきてあげてよ」
彼女に背中を押され苦笑しながら子供たちの元へ向かう。バレたかと思ったが結果的に株が上がったなら良しとしよう。今日の自分には幸運の女神がついているのかもしれない。
子供たちが嵐のように去っていき、再び店内に落ち着きが戻った頃。入り口に一人の少女が現れた。
中学生くらいだろうか。ピンク色のパーカーにデニムのスカートという活動的な服装。髪を高い位置でポニーテールに結い、大きな瞳をくるくると動かして店内を見渡している。その表情は明るく、好奇心に満ちあふれていた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「九条綴」の仮面を被り直し、静かに声をかける。少女はこちらを振り返ると、パァッと電球が灯ったように瞳を輝かせた。まるで有名人を見つけたファンのような反応だ。彼女は迷わず大股で自分の元へ歩み寄ってきた。
「あのっ! もしかして、2組の梶田カヤさんですか!?」
「え、ええ。左様ですが……」
勢いに押され、たじろぐ。彼女はまじまじとこちらの顔を見上げ、そして感嘆のため息をついた。
「うわぁ……! すごい! 本物だ!」
「は、はあ……?」
「すっごい美人! 写真とかないから想像だけだったけど、想像以上です! え、お兄ちゃん、こんな綺麗な人と仲良いの!? 信じらんない!」
「お兄ちゃん……?」
マシンガントークに圧倒されながら聞き捨てならない単語を拾う。彼女は「あっ、ごめんなさい!」と舌を出して笑うと、背筋を伸ばして名乗った。
「私、瀬戸千波です! 瀬戸皓二朗の妹です!」
瀬戸、皓二朗の、妹。
思考が真っ白になった。目の前の太陽のように明るく社交的な少女が、あの物静かな彼の妹?だが、よく見れば目元のあたりに彼と同じ誠実な光が宿っている。驚きよりも先に胸の奥から湧き上がってきたのは、強烈な親愛の情だった。彼の家族、彼と同じ血を分けた存在。
「ま、まあ……瀬戸くんの妹さん、でしたか」
動揺を悟られないよう扇子で口元を隠しつつ優雅に応対する。しかし、内心は心臓が早鐘を打っていた。彼の妹、彼が大切にしている家族。粗相があってはならない、ここは完璧な「お姉さん」として振る舞わねば。
「はい! さっき、お兄ちゃんのクラスに行ってきたんです。そしたらお兄ちゃんの友達が『瀬戸は2組の梶田さんとイイ感じだぞ』って教えてくれて!」
「イ、イイ感じ……!?」
「それで、お兄ちゃんを問い詰めたんですけど、あいつ全然口割らないんですよ! 家だと『うるさい』とか『関係ないだろ』とか言って、すっごい無愛想で!」
「そ、そうなのですか……」
「でも! 昨日の夜、しつこく聞いたら、やっと観念して。『……すごい、綺麗な人だよ』って、ボソッと言ったんです! 顔真っ赤にして!」
千波ちゃんの暴露に顔から火が出るかと思った。家での彼は自分のことを話さない。それは無関心だからではなく思春期の男子特有の照れ隠し。追い詰められて、ようやく吐露した言葉が「綺麗な人」。その光景を想像するだけで全身の血液が沸騰しそうなほど熱くなる。
彼は家で、どんな顔をして自分を思い出してくれていたのだろう。その言葉一つで、この世界全てを肯定されたような気分になる。
「だから私、どうしても見たくて来ちゃいました! ……うん、お兄ちゃんが隠したがるのも分かるかも。こんな綺麗な人、自慢したいけど自分だけの秘密にもしたいもん!」
千波ちゃんは屈託なく笑い、キラキラした瞳でこちらを見つめる。そこには一片の曇りもない好意だけがある。瀬戸皓二朗の妹、その響きだけで彼女のことが愛おしくてたまらない。千波ちゃんの笑顔は昨日見た彼の笑顔と同じ温度を持っていた。
この温もりに触れていると、自分が「梶田カヤ」としてここに存在することが世界から祝福されているようにすら思える。今はただ、彼が自分のことを想ってくれているという事実と、その妹が自分に好意を持ってくれたという事実だけを甘い砂糖菓子のように噛み締めていた。
午後二時を過ぎると、怒涛のようだった客足も少しずつ落ち着きを見せ始めた。
店内の喧騒は心地よいざわめきへと変わり、BGMのドビュッシーが再びその繊細な旋律を主張し始める。
「カヤさん、今のうちに休憩入っちゃって! ここ、私たちが回しておくからさ」
伊藤さんが配膳カウンターから顔を出して声をかけてくれた。本来のシフト交代の時間ではないが彼女の気遣いはありがたかった。昨夜の興奮と今日の忙しさで、さすがにアスリス特有の虚弱な体力が悲鳴を上げ始めていたからだ。
「ありがとうございます、伊藤さん。では、お言葉に甘えさせていただきます」
エプロンを外し、ホールの隅へ向かう。そこには、まだ紅茶を飲みながら文庫本を広げている千波ちゃんの姿があった。彼女の前の席が空いているのを見て自分は声をかけることにした。
「千波さん、ご相席よろしいですか?」
「あ、カヤさん! どうぞどうぞ! 休憩ですか?」
彼女はぱあっと顔を輝かせ読みかけの本を閉じた。向かいの席に腰を下ろす。彼女のカップにはまだ紅茶が残っており、自分が渡したクッキーの箱も大切そうに脇に置かれていた。
「瀬戸くん、お兄さんのこと、待っているのですか?」
「うん、まあそんなとこです。……あと、もうちょっとカヤさんとお話したいなって思って」
「私と? ふふ、光栄です」
他愛のない会話が弾む。学校のこと、好きな本のこと、今日の文化祭の出し物のこと。千波ちゃんは明るく、コミュニケーション能力が高い。話していると、まるで歳の離れた従妹と接しているような、温かい気持ちになる。
「……あのね、カヤさん」
一通り盛り上がった後、千波ちゃんがふと真面目な顔でこちらを見つめた。その瞳の奥には兄に向けられるものと同じ、誠実な色が宿っていた。
「私、カヤさんにお礼が言いたかったんです」
「お礼、ですか?」
「はい。……お兄ちゃん、高校に入ってからすっごく変わったんです。中学の頃はボクシングばっかりで、毎日ストイックで……なんかこう、生き急いでるみたいで怖かった」
彼女は視線を落とし、指先でカップの縁をなぞった。
「でも最近のお兄ちゃん、楽しそうなんです。家で本読んでる時も昔みたいに難しい顔してないし。……きっと、カヤさんのおかげだと思います」
「そんな……私は何もしていませんよ。瀬戸くんご自身の力です」
謙遜ではなく本心だった。自分はただ彼の隣で「九条綴」の真似事をしているだけだ。彼を変えたのは彼自身の優しさと強さだ。
「ううん、絶対そうです。……お兄ちゃん、小学校の頃、すごく辛いことがあったから」
千波ちゃんの声が一段低くなった。その言葉が出た瞬間、場の空気が少しだけ張り詰めた気がした。
「……ええ、伺っています。詳しくは存じ上げませんが、大変だったと」
自分は慎重に言葉を選んだ。彼がいじめを受けていたことは知っている。中学時代、自分を救ってくれた彼は過去に「理不尽な暴力」について語っていた。そして何より自分自身もまた、中学時代にいじめと暴力の被害者だった。だからこそ彼の痛みには共感できる。
「……そっか。お兄ちゃん、カヤさんにそこまで話してるんですね」
千波ちゃんは驚いたように目を見開き、そして安堵したように微笑んだ。
「お兄ちゃん、その話、家族以外には絶対にしなかったんです。……カヤさんのこと、本当に信頼してるんですね」
信頼。
その言葉が胸に温かく、そして重く響く。彼は自分に過去の傷を見せてくれたのだ。なら、自分もその痛みを受け止める義務がある。
「私でよければ、お話しいただけませんか。……彼が、何を乗り越えてこられたのかを」
「……はい」
千波ちゃんは小さく頷き、ぽつりぽつりと語り始めた。
「小学校の高学年の時でした。お兄ちゃん、クラスの中心人物に目を付けられて……最初は無視とか、教科書隠しとかだったんですけど、だんだんエスカレートして」
「……酷い話ですね」
眉をひそめる。自分も小学校時代、靴を隠されたり、教科書に落書きをされたりした。その陰湿な手口に胸の奥で義憤が湧き上がる。愛する彼を傷つけた誰かへの怒り。それは、かつての自分自身が受けた傷への怒りと重なっていた。許せない。瀬戸皓二朗という誠実な少年を、そこまで追い詰めた人間が。
「持ち物を壊されたり、池に落とされたり……あと、そのいじめっ子は自分のことを『王様』って呼ばせてて、逆らう人は全員ターゲットにするような人だったんです」
王様。
その単語が耳に入った瞬間、思考の歯車がカチリと音を立てて引っかかった。
(……王様?)
奇妙な既視感。背筋を冷たいものが這い上がる。だが、まだそれは具体的な形を結ばない。自分も小学校時代はクラスの「王」として振る舞っていた時期があった。よくある話だ、子供の世界の残酷なヒエラルキー。
「その人、家がお金持ちで、先生も逆らえなくて。……お兄ちゃん、すごく本が好きだったんですけど、その本を破かれて、『こんなゴミ読んでるから暗いんだ』って笑われて」
――『おい、何読んでんだよ。また探偵ごっこの本か?』
――『陰気くせぇな。そんなんだから友達できねーんだよ』
――『ほら、こうしてやるよ』
脳裏に、ノイズ交じりの映像がフラッシュバックする。誰かの手から本を奪い取る感触。嘲笑う自分の声。
……自分の、声?
(……なんだ、これ)
動悸が激しくなる。手足の先から急速に体温が奪われていく。千波ちゃんの話すエピソードの一つ一つが、忘れ去っていた記憶の彼方にある「何か」と共鳴し始める。
「お兄ちゃんが図書館で借りたハードカバーの本を……その人、みんなが見てる前でゴミ箱に投げ捨てたんです。バスケのシュートみたいに、笑いながら」
放物線を描いて飛んでいく本。ゴミ箱に吸い込まれる乾いた音。ドッと沸くクラスメイトの笑い声。
――『へぇ。じゃあ、これならどうだ?』
鮮明に蘇る。ゴミ箱を見つめて立ち尽くす少年の背中。泣くことさえ諦め、糸が切れた人形のように絶望していた、あの日の彼。
(……せと?)
記憶の中の少年が死んだような目でこちらを見ている。その顔は瀬戸皓二朗の顔だ。今よりも幼い、けれど確かに彼だと分かる目元。
「……う、そ……」
口から乾いた音が漏れる。指先が震え、カップとお皿がカチャカチャと音を立てた。千波ちゃんは気づかずに続ける。彼女の声には兄を傷つけた者への純粋な怒りが滲んでいた。
「私、絶対に許せません。お兄ちゃんをあんな風にした奴のこと。……この辺でも有名な名家の子供で、宮本って言うんです」
トドメの一撃だった。
宮本、地方でも有数の名家、祖父の厳しい顔、広い屋敷。そして、かつて自分が持っていた名前。
「宮本貴也。……お兄ちゃんを転校まで追い込んだ、最低の人間です」
世界が、反転した。
色彩が消える。音も、匂いも、温度も、すべてが遠のいていく。残ったのは千波ちゃんの口から紡がれた「真実」という名の鋭利な刃物だけ。
宮本貴也。それは、かつての自分。傲慢で、残酷で、人の痛みが分からなかった「王」。
自分が、彼をいじめていた? 自分が瀬戸皓二朗を地獄へ突き落とした張本人?愛する彼が乗り越えた過去の闇、その正体が――自分自身?
「……カヤ、さん?」
千波ちゃんが怪訝そうに顔を覗き込んでくる。彼女の顔が歪んで見える。違う。彼女は心配している。自分が「宮本貴也」だとも知らずに。
胃の腑から熱いものがこみ上げてくる。吐き気だ。強烈な自己嫌悪と、罪の意識が、内臓を雑巾のように絞り上げる。昨日感じた幸福、彼との約束、繋いだ手。それら全てが、汚泥にまみれた欺瞞だったと思い知らされる。
(……ああ、そうか)
思い出した。全部、思い出した。彼の涙も、絶望も、自分が与えたものだった。自分は被害者じゃない、加害者だ。世界で一番、彼の隣にいてはいけない人間だ。
◆
校舎の東側、昇降口付近の自動販売機前。僕はスポーツドリンクのボタンを押し、ガコンと落ちてくる音を聞いていた。どうやら千波が2組に顔を出しに行っているらしく、千波と梶田さんに差し入れを買った後、自分も喉が渇いたことに気づいて戻ってきたのだ。今日は昨日以上に忙しく、カヤさんの体調が少し気になっていた。彼女は責任感が強い。無理をしていないだろうか。
「……あれ? もしかして、瀬戸か?」
背後から声をかけられた。振り返ると、派手な髪型をして、着崩した制服を着た男子生徒が立っていた。この学校の生徒ではない。どこか軽薄そうな笑顔を浮かべている。見覚えがあった。小学校の頃、僕をいじめていたグループの一人。宮本貴也の取り巻きだった男だ。
「……久しぶり」
僕の声は、自分でも驚くほど冷えていた。かつてなら、この顔を見ただけで足がすくんでいただろう。だが、今の僕の心拍数は変わらない。恐怖はない。あるのは、ただの不快感だけだ。
「うわー、マジで瀬戸じゃん! 変わったなー、なんか強そうになっちゃって!」
男は馴れ馴れしく肩を叩こうとしてきたが、僕は半歩下がってそれを避けた。身体が自然に距離を取る。ボクシングで培った敵対的な相手への反射だ。
「悪いけど、急いでるんだ」
「冷てえなー。……あ、昔のことなら悪かったよ。俺たちもガキだったし? 宮本に乗せられてただけっつーかさ。若気の至りってやつ?」
ヘラヘラとした謝罪。そこに反省の色など欠片もない。僕が味わった地獄を、「若気の至り」という軽い言葉で片付けられる不快感。僕は湧き上がる怒りを論理で抑え込み、冷徹に男を見据えた。
「謝罪は受け取るよ。でも、二度と関わらないでくれ」
これ以上会話をする価値もない。踵を返し、その場を離れようとする。だが、男の次の言葉が僕の足を縫い止めた。
「そりゃねーよ。……てかお前、知ってんの? 宮本もこの高校にいんの」
「……は?」
心臓が大きく跳ねた。
宮本。
宮本貴也。
僕の人生を狂わせた元凶。あの悪夢のような日々の支配者。そいつが、この高校にいる?
「いやー、俺もビビったわ。中学の時の進学先リストでたまたま見かけてさ。『宮本貴也』の名前がこの高校にあったんだよ」
男はニヤニヤしながら続ける。どうやら、実際に姿を見たわけではないらしい。ただ名簿上の情報を面白がって伝えているだけだ。
「……待て。詳しく教えろ」
僕は男の方へ向き直り、詰め寄ろうとした。情報が必要だ、もし宮本がいるなら今の平穏が脅かされる可能性がある。どこにいる? 何組だ?
だが、その時。
「せ、瀬戸ッ!!」
廊下の向こうから、クラスメイトの男子が血相を変えて走ってきた。
「大変だ! カヤさんが……梶田さんが倒れた!」
「――ッ!?」
思考が真っ白になった。宮本の情報など一瞬で消し飛んだ。梶田さんが倒れた。その事実だけが脳内を占拠する。
「どこの病院だ!? いや、保健室か!?」
「あ、ああ、今運ばれて……意識はあるけど、様子がおかしくて……」
僕は男を睨みつけることも忘れ、全力で駆け出した。背後で男が「おい、まだ話終わって……」と何か言っていたが、もう耳には入らなかった。今は過去の亡霊よりも、現在の愛する人の方が重要だった。彼女の身に何が起きたのか。不安が胸を押し潰しそうになる中、僕は廊下を疾走した。
◆
保健室のベッドの上。カーテンで仕切られた狭い空間に荒い呼吸音が響いている。独特の消毒液の匂いが記憶のフラッシュバックを加速させる。自分はシーツを握りしめて震えていた。吐き気は収まらない。千波ちゃんの言葉が、過去の映像が、呪詛のように頭の中を駆け巡る。
(俺が……あの子の兄を……)
ガラッ、と保健室の扉が開く音がした。養護教諭と話す声。そして急ぐような足音がこちらへ近づいてくる。カーテンが少しだけ揺れた。
「……梶田さん?」
瀬戸くんの声だ。その声には隠しきれない焦燥と心配が滲んでいた。
「……瀬戸、くん……」
反射的に身体が強張る。見ないでほしい。今の、この罪に塗れた自分の姿を。
だが、彼は躊躇いながらもカーテンを開け、ベッドの脇に立った。汗ばんだ額、息を切らした様子。彼は自分のために全力で走ってきてくれたのだ。その事実が今は何よりも残酷で、そして痛い。
「大丈夫? ……顔色が、すごく悪いよ」
彼はベッドの端に手を置き、覗き込むようにして言った。その瞳は澄んでいて、どこまでも優しい。かつて自分がゴミ箱に投げ捨てた本を拾い上げ、絶望していたあの瞳とは違う。今の彼には光がある。そしてその光を曇らせたのが自分だという事実が胸を切り裂く。
「……ええ、大丈夫です。……少し、張り切りすぎてしまったようで」
自分は必死に唇の震えを抑え、いつもの「九条綴」の声を作った。
嘘だ。大丈夫なはずがない、心臓が破裂しそうだ。けれど、ここで崩れるわけにはいかない。もし今、感情を決壊させてしまえば、彼に悟られてしまうかもしれない。自分がただの体調不良ではなく、もっと深い闇に囚われていることを。
「……本当に?」
彼は少しだけ眉をひそめた。誤魔化しきれていない。彼は聡明だ、自分が何かを隠していることに気づいている。だが、彼はそれ以上踏み込んでこなかった。追求する代わりに彼はそっと自分の手に触れた。熱い掌。36℃の体温が、冷え切った34℃の皮膚に触れる。
「……分かった。今は、ゆっくり休んで」
彼は優しくそう告げた。理由を聞かない優しさ。その配慮が今の自分にはどんな尋問よりも苦しかった。
「……後夜祭、始まる前にまた来るよ。千波は僕が送っておくから、心配しないで」
「……はい。ありがとうございます」
彼はもう一度だけ心配そうにこちらを見つめ、それから静かにカーテンを閉めた。足音が遠ざかり保健室の扉が閉まる音が響く。
完全な静寂が戻ってきた。自分は一人、薄暗い空間に取り残された。
「……ぅ、あ……」
堰を切ったように嗚咽が漏れた。シーツに顔を埋め、声を殺して泣いた。体温の残る左手を右手で強く握りしめる。
もう、戻れない。昨日までの幸福な世界は音を立てて崩れ去った。「文化祭」という非日常の魔法は解け、残されたのは冷酷な現実だけ。
窓の外からは後夜祭の始まりを告げるファンファーレが聞こえてくる。
歓声と拍手、光と熱狂。そのすべてが今の自分には遠い世界の出来事のように感じられた。
(俺は、お前の隣にいちゃいけない人間だったんだ……)
銀の蛹は34℃の殻の中で、ただ絶望に震えていた。幸せだった文化祭は、こうして最悪の形で幕を下ろした。