文化祭の振替休日が明け、校舎には再び日常の空気が戻っていた。しかし、登校する生徒たちの顔にはまだ祭りの余熱が微かに残っており、廊下ですれ違う会話の端々には後夜祭の思い出や、クラスの出し物の反省などが楽しげに混ざり合っている。
だが、自分にとってのその喧騒は水槽の分厚いガラス越しに聞くノイズでしかなかった。
1年2組の教室。自分の席に座り、ただ机の木目を見つめている。文化祭の二日間、完璧に纏っていたはずの「九条綴」という仮面は、もはや己の顔に張り付いてはくれない。皮肉なことに「宮本貴也」としての冷徹で傲慢な記憶が、その完璧な余白を黒く塗りつぶしてしまったからだ。
『宮本貴也。……お兄ちゃんを転校まで追い込んだ、最低の人間です』
千波さんの言葉が脳内で無限にリフレインしている。そのたびに胃の腑が痙攣し、冷や汗が背中を伝う。平熱34℃の身体はさらに体温を失い、カーディガンを羽織っていても指先の震えが止まらない。
自分が瀬戸皓二朗の人生を狂わせた。彼が心から愛していた物語を侮辱し、尊厳を踏みにじり絶望の淵へと追いやった。そんな人間が、どの面を下げて「彼に相応しいヒロイン」を気取っていたというのか。滑稽だ、あまりにも無様で醜悪で吐き気がする。
「……カヤさん、おはよう。体調、もう大丈夫なの?」
不意に声をかけられ、ビクリと肩が跳ねた。顔を上げると前の席で伊藤さんが心配そうにこちらを覗き込んでいる。文化祭の二日目、自分が保健室に運ばれたことはクラス中に知れ渡っていた。「働きすぎて貧血で倒れた」ということになっているらしい。
「……ええ。お騒がせして申し訳ありませんでした。もう、平気です」
努めて「九条綴」のトーンを取り繕い、小さく微笑む。だが顔の筋肉がひきつっているのが自分でも分かった。
「本当? なんか、まだ顔色悪いよ。……無理しないでね。カヤさん、頑張り屋だからさ」
彼女の優しい言葉が鋭い棘となって胸に刺さる。違う、自分は頑張り屋などではない。ただ己の罪から目を背け、嘘の皮を被って他人の好意を搾取していただけの卑怯な泥棒だ。
「……お気遣い、感謝します」
それ以上言葉を紡ぐことができず視線を落として文庫本を開いた。活字を追っているふりをして外界とのシャッターを下ろす。彼女もそれ以上は踏み込んでこず、他の友人との会話に戻っていった。
(……逃げなければ)
本の内容など一文字も頭に入ってこない。彼に会うのが怖い。今の彼には、あの純粋な光がある。もし自分が「宮本貴也」だと知られたら、あの光は憎悪の炎に変わるだろう。
かつて彼が見せた死んだような瞳。あれをもう一度、自分に向けられることだけは耐えられそうになかった。だから、これ以上彼に関わってはいけない。彼の視界から、彼の手の届かない場所へ自分という汚物を隠さなければならない。
その日の放課後。ホームルームが終わるや否や、自分は誰よりも早く鞄を掴み教室を飛び出した。向かう先は下駄箱だ。普段なら図書室へ向かう時間。彼が、あの西日の差し込む窓際の席で自分を待っているはずの時間。だが、その聖域に足を踏み入れる資格は、もう自分にはない。
足早に廊下を歩く。アスリスの虚弱な身体が息切れを起こすが足を止めるわけにはいかなかった。もし、彼に見つかってしまったら。「大丈夫だった?」と、あの温かい声で労わられてしまったら。己の罪深さに耐えきれず、その場で狂ってしまいそうだった。
昇降口に辿り着き、上履きをローファーに履き替える。そして逃げるように校門へと向かおうとした、その時だった。
「……梶田さん」
背後から最も聞きたくなかった、そして最も聞きたかった声が自分を呼び止めた。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。足がコンクリートに縫い付けられたように動かなくなる。振り返るな、そのまま走って逃げろ。理性がそう叫んでいるのに身体は抗い難い引力に引かれるように、ゆっくりと声の主の方へ向き直ってしまった。
そこには瀬戸皓二朗が立っていた。少し息を切らしている。おそらく自分が図書室に来ないことを察し、急いでこちらへ探しに来たのだろう。
「……瀬戸、さん」
声が震えた。いつもの「瀬戸くん」という親しみを込めた呼び方ができなかった。自分には彼をそんな風に呼ぶ権利はない。彼は自分の余所余所しい呼び方に微かに眉を動かしたが、すぐに心配そうな表情を浮かべた。
「よかった、帰る前に会えて。……体調はどう? 文化祭の時は最後までいられなくてごめん」
彼はゆっくりとこちらへ近づいてくる。その一歩が、まるで死刑台への階段を上る足音のように恐ろしかった。
「……もう、問題ありません。ただの、貧血でしたから」
後ずさりしそうになるのを必死に堪え、冷淡な声を装う。彼と目を合わせないように視線を彼の手元のあたりに固定した。
「そっか。……でも、まだ無理はしない方がいいよ。今日も図書室の仕事は僕が代わっておくから早く帰って休んで」
彼はどこまでも優しい。己を地獄に突き落とした加害者に対して、そんな温かい言葉をかけてくれる。その優しさが今は何よりも残酷な拷問だった。
やめてくれ。
そんな目で、そんな声で、自分を見ないでくれ。俺はお前を壊した「宮本貴也」なんだぞ。
「……お構いなく。委員の仕事は体調が戻り次第、自身で処理します」
自分でも驚くほど冷たく、硬い声が出た。それは「九条綴」の凛とした態度ではなく単なる拒絶の壁だった。彼がピタリと足を止め、戸惑ったように目を瞬かせる。
「……梶田、さん?」
「……申し訳ありませんが今日はこれで失礼します。用事がありますので」
これ以上ここにいたら感情が決壊してしまう。彼に真実を叫んで土下座して泣き喚いてしまいそうになる。それを堪えるために自分は無理やり背を向けた。
「待って」
彼の手が伸びてきて自分の手首を掴んだ。
その瞬間。
ビクッ、と身体が過剰に反応してしまった。
彼の熱い36℃の掌。文化祭の夜、心地よいと感じたその熱が今は自分の皮膚を焼き焦がす烙印のように感じられた。
「……ッ、触らないで……!」
思考を介さず、反射的に彼の手を振り払っていた。パチン、と乾いた音が昇降口に響く。
沈黙が落ちた。弾かれた彼の手が空中で行き場を失って止まっている。彼の顔には明確な傷つきと深い戸惑いが浮かんでいた。
(……あ、)
やってしまった。違う、嫌いになったわけじゃない。拒絶したかったわけじゃない。ただ自分が汚れているから、貴方に触れる資格がないから。弁解の言葉が喉まで出かかったが、それを音にすることは許されない。
「……申し訳、ありません。……失礼します」
自分はそれだけを言い残し、逃げるように走り出した。背後で彼が何かを言おうとする気配がしたが振り向くことはできなかった。彼を傷つけてしまった。だが真実を知られれば、これの何倍も彼を傷つけることになる。ならば理由も告げずに理不尽に突き放し、嫌われた方がまだマシだ。冷たい秋風が吹き抜ける中、自分はただ、己の罪と絶望を引きずりながら、家路を急いだ。
◆
昇降口には彼女の乾いた足音だけが遠ざかっていく音が響いていた。
宙に浮いたままの僕の右手は、つい数秒前まで彼女の手首を包んでいた感触を微かに残している。
パチン、という冷たい破裂音。振り払われた。明確な拒絶だった。
「……梶田、さん」
呆然と立ち尽くす僕を置き去りにして彼女の細い背中はあっという間に校門の向こう側へと消えていった。その後ろ姿は、まるで何かの化け物から逃げ惑う小動物のように見えた。
(僕が何かしたのだろうか……)
自分の手のひらを見つめながら思考を高速で回転させる。文化祭の二日目、彼女が保健室に運ばれる前まで僕たちは確かに分かり合えていたはずだ。お化け屋敷の闇の中で繋いだ手、夕暮れの渡り廊下で交わした約束。あの時の彼女の笑顔に嘘はなかったと今でも信じている。
だが、保健室のベッドで再会した彼女はまるで別人のようだった。青ざめた顔、小刻みに震える指先。そして僕を見る時の、あの怯えたような瞳。先ほど僕の手を振り払った時の彼女の表情もそうだった。怒りや嫌悪ではない。あれは「恐怖」だ。それも僕に対する恐怖というよりも何かもっと別の、彼女自身を内側から食い破るような巨大な絶望に向き合っているような顔だった。
(……分からない)
どれだけ論理的に考えても彼女の急変の理由が導き出せない。重い足取りで自分の下駄箱へ向かい靴を履き替える。冷たい秋風が吹き込む昇降口を出て僕はいつもの帰り道である河川敷へと向かって歩き出した。
彼女の抱えている「闇」は僕が想像しているよりも遥かに深いのかもしれない。中学時代、橋の上で出会った「銀髪の少女」が、どれほどの地獄を這いずり回ってきたのか。僕はそのすべてを知っているわけではない。あの頃の悍ましい記憶のフラッシュバックが今の彼女を苦しめているのだろうか。
――いや、待てよ。
河川敷の土手を歩きながら、ふと、ある記憶の破片が脳裏に蘇った。文化祭の二日目。彼女が倒れたという知らせを聞く直前、僕に声をかけてきた男の言葉だ。
『てかお前、知ってんの? 宮本もこの高校にいんの』
『中学の時の進学先リストで見かけてさ。「宮本貴也」の名前がこの高校にあったんだよ』
心臓が、嫌な音を立てて大きく脈打った。
宮本貴也。
その名を頭の中で反芻するだけで胃の奥が冷たく重くなる。小学五年生の時の、あの息の詰まるような教室、ゴミ箱に投げ捨てられた本、僕からすべてを奪い尊厳を徹底的に破壊した、あの絶対的な「王」の名前。
あいつが、この学校にいる?
(……なぜだ?)
宮本は、この地方でも有数の名家の長男だったはずだ。あの異常なまでのプライドと特権意識の塊だった男が私立の進学校ではなく、僕たちと同じ普通の公立高校に進学している?
だが問題はそこではない。問題は、あの「宮本貴也」という人間の皮を被った怪物が僕と、そして梶田さんと同じ空間に存在しているかもしれないという事実だ。
(……まさか)
思考が一つの最悪な仮説に結びつく。梶田さんが急に怯え始めたこと。彼女が僕を激しく拒絶し、逃げるように去っていったこと。
もし、彼女が「宮本貴也」と接触していたとしたら?
宮本は目ざとく他人の弱点を見つけ出し、そこを徹底的に抉ることに快感を覚える異常者だ。もしあいつが何らかの形で梶田さんの過去――彼女が「銀髪の少女」として泥の中を這いずり回っていた凄惨な過去を知り、それをネタに彼女を脅迫していたとしたら。彼女の耳に残る痛々しい八つのピアス穴。彼女がどれほど傷つき他人の悪意に蹂躙されてきたか、その痕跡を宮本が見逃すはずがない。
「……ッ」
無意識のうちに両手がきつく拳を握りしめていた。爪が掌に食い込み、微かな痛みをもたらす。そうだ、それなら辻褄が合う。彼女が僕に理由を言わず無理やり突き放したのは僕を巻き込まないためだ。僕という存在が宮本の標的になるのを防ぐために、あえて冷たく接して距離を置こうとしているのだとしたら。
(……ふざけるな)
腹の底から黒く熱い感情が湧き上がってくる。ボクシングジムで徹底的に鍛え上げ、論理という檻の中に閉じ込めてきたはずの「怒り」が檻を壊して暴れ出そうとしていた。
僕をいじめたことは、もういい。あの時の僕は弱かった。無力で泣き寝入りすることしかできなかった。だが今は違う。僕はもう、あの時の怯えるだけの子供ではない。理不尽な暴力に立ち向かうために血を吐くような努力でこの「力」を手に入れたのだ。
もし宮本が僕の最も大切な人である彼女を傷つけようとしているのなら。彼女の築き上げてきた「完璧な余白」を、あの泥にまみれた手で汚そうとしているのなら。
(絶対に、許さない)
立ち止まり、夕暮れの川面を睨みつける。冷たい風が火照った頭を強制的に冷却していく。怒りに身を任せてはいけない、感情論で動けば相手の思う壺だ。必要なのは情報だ。「宮本貴也」という人間が今この学校の何年何組に所属しているのか。それを見つけ出し僕が彼女を守る。これ以上、あいつの好きにはさせない。
僕はスマートフォンを取り出し画面を見つめた。連絡先には『カヤ』という二文字がある。メッセージを送ろうとして指が止まる。今、彼女に連絡しても、きっと突き放されるだけだ。彼女は一人で戦おうとしている。ならば僕も僕のやり方で戦うしかない。
「……待っていて、梶田さん」
誰にも聞こえない声で小さく呟く。僕はただ、愛する人を救うという純粋な正義感に燃えていた。
翌日の放課後。僕は一人、静まり返った図書室のカウンターに座っていた。西日が差し込む特等席には今日、誰も座っていない。梶田さんは学校を休んだ。担任からの連絡では「文化祭の疲れによる体調不良」とのことだったが、僕にはそれが単なる風邪や貧血ではないと分かっていた。彼女は逃げたのだ。僕から、あるいは彼女を脅かしている「何か」から。
『宮本もこの高校にいんの』
『中学の時の進学先リストで見かけてさ。「宮本貴也」の名前がこの高校にあったんだよ』
あの男が言った言葉が泥のように頭の中にこびりついている。
宮本貴也。僕の人生を一度完全に破壊した、あの傲慢な王。そいつがこの学校にいて、梶田さんの過去をネタに彼女を脅迫している。それが僕の立てた仮説だった。
「……探さなきゃ」
誰にも聞こえない声で呟き、カウンターのパソコンのキーボードに手を伸ばす。
僕は図書委員ではない。だが以前梶田さんの仕事を手伝った際、司書の先生から特別に許可をもらい、この貸出管理システムの操作方法を教わっていた。本来なら、こんな個人的な目的でシステムを利用してはいけない。他人の情報を検索するなど明確なルール違反であり、罪悪感が胸をチクリと刺す。
それでも今は手段を選んでいる余裕はなかった。全校生徒の顔写真付き名簿を自由に見られるわけではないが、本を借りるために図書登録をしている生徒なら名前で検索をかけることができる。
僕は震える指で検索ボックスに『宮本』と打ち込んだ。
該当なし。
「……いない?」
エンターキーを何度か叩くが結果は変わらない。どういうことだ、あの男の「進学先リストにあった」という情報自体がガセだったのか? それとも入学してすぐに退学でもしたのだろうか。
(……いや、待てよ)
もう一度、論理的に状況を整理する。そもそも、あの宮本が普通の公立高校に進学していること自体が不自然だ。彼は地方でも有数の名家の長男であり、あの異常なまでの特権意識を持っていた男だ。普通なら私立の進学校や県外の有名な学校へ行くはずだ。それが、なぜ僕たちと同じ普通の高校に?
考えられる理由はいくつかある。一つは親の事業の失敗などによる経済的な没落。もう一つは彼自身が何か致命的な不祥事を起こし、宮本家を勘当されたか。
もし後者だとしたら……いや、前者でも同じか。どちらにせよ彼を取り巻く家庭環境が激変していることは間違いない。だとしたら両親の離婚や親族への預かりなどで今の彼は「宮本」という苗字ではないという可能性は……確率としては低いかもしれないが、ゼロではないのではないか。
僕はダメ元で検索条件を変え、今度は下の名前である『貴也』で全校生徒を検索してみた。
該当者、数名。2年生や3年生の男子生徒がヒットしたが、どれも出身中学が違うか、顔を知っている先輩で宮本とは別人だった。1年生の中に、『貴也』という名前の男子生徒は一人だけ存在した。しかも偶然、1年2組に『梶貴也』という生徒が在籍していたのだ。
目にした瞬間はまさか、と思った。しかし、僕は梶田さんを訪ねるために何度か2組の教室に顔を出している。そのことごとくで偶然、宮本と遭遇しなかっただけか? もし、宮本が居たなら分からないはずがない。アイツが大人しく息を潜めているとも思えない。
「……結局、見つからないか」
これ以上システムを無闇にいじっても埒が明かない。目的外利用をしているという後ろめたさと苛立ちが募る。論理のピースが足りない、推論を進めるための確定的な事実が欠落している。
僕は一度作業を止め、重い溜息を吐いた。まずは本来の目的である貸出・返却処理の手伝いを終わらせてしまおう。手元にあるのは昨日から今日にかけて返却ボックスに入れられていた本の山と、それに挟まっていた貸出カードだ。
一番上の本を手に取る。『テセウスの船』の思考実験について書かれた哲学書。見覚えがあった、梶田さんが文化祭の前に借りていた本だ。
(……梶田さん)
彼女の名前を思い浮かべるだけで胸が締め付けられるように痛む。彼女を守りたい、彼女のあの怯えた顔を二度と見たくない。僕は祈るような気持ちで、その本に挟まっていた貸出カードを抜き取りバーコードをスキャナーで読み込んだ。
『ピッ』
無機質な電子音と共にパソコンの画面に返却者のデータが表示される。そこに表示された文字列を見て、僕の指がキーボードの上で完全に凍りついた。表示されていた名前は『梶田カヤ』ではなかった。
【 1年2組 梶 貴也 】
「……え?」
自分の目を疑った。先ほど『貴也』で検索した時にヒットし、ノイズとしてスルーした「1年2組の生徒」 それが梶田さん?
システムの誤作動か? いや、そんなはずはない。貸出カードのバーコードは個人の生徒IDと完全に紐づいている。そこに表示されているのは紛れもなく彼女のデータのはずだった。なら、貸出カード自体が入れ替わっているという説は……
(カジ……タカヤ?)
思考が、急速に音を立てて逆回転を始める。
梶、貴也。
ふと、文化祭の準備中や廊下で彼女のクラスメイトである1年2組の生徒たちが、彼女に話しかけていた時の記憶が蘇る。
『おーい、梶さん!』
『カヤさん、これ手伝って!』
あの時僕は、それを『梶田』の略称、あるいは親しみを込めた下の名前での呼び方なのだと勝手に解釈していた。だが、もしあれが略称や愛称ではなく単に『梶』という本名の苗字だったら。そして『カヤ』という本名の下の名前を、もじった愛称で呼んでいただけだとしたら?
「カジ、タカヤ……カジ、タカヤ……カジ・タ・カヤ……」
声に出して、その名前を反芻する。
梶、タカヤ。
カジタ、カヤ。
(……梶田、カヤ)
背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような強烈な悪寒が走った。偶然の一致? そんなわけがない。彼女が名乗っていた「梶田カヤ」という名前は、本名である「梶貴也」の区切りを意図的にずらしただけの単なる言葉遊び――偽名だったのだ。
「そんな、馬鹿な……」
息が詰まる。図書室の静寂が急に耳鳴りに変わった。
梶田さんの本名が梶貴也。宮本貴也が苗字を変えてこの高校に進学しているという仮説。
宮本、貴也。梶、貴也。
だとしたら梶貴也=宮本貴也ということになる。だが、それはあり得ない。決定的な矛盾がある。宮本貴也は男だ、梶田さんは紛れもなく女性だ。いくら何でもそんな魔法のようなことがあるはずがない。
(……本当に、あり得ないのか?)
僕は震える手で制服のポケットからスマートフォンを取り出した。ブラウザを開き、検索窓に『性別 変わる 病気』と打ち込む。いくつかヒットした記事は、どれも都市伝説やオカルトじみたものばかりだ。だが、検索結果をスクロールする僕の脳裏に彼女が抱えていた「特異な体質」が次々と蘇ってくる。
『私、持病で平熱が34℃台しかなくて……』
検索窓の語句の後ろにスペースを空け、『低体温 34度』と追加して再び検索ボタンを押した。
画面が切り替わる。一番上に表示された、ある公的な医療機関の聞き慣れない疾患の解説ページ。そこに書かれていた文字が僕の視界を黒く塗りつぶしていった。
『後天的性別転換症候群(A.S.R.S.)』――通称、アスリス。
思春期前後の若年層において、元の面影を残したまま全身の細胞組織が反対の性別へと完全に再構成される極めて稀な奇病。そして、その主な副作用として記載されていた項目。
『平熱の著しい低下(34〜35℃)』
『最適化期における筋力の低下』
『味覚や嗅覚の過敏化』
『制御不能な突発的睡眠(サナギの微睡)』
ガタンッ!
勢いよく立ち上がった拍子に座っていたパイプ椅子が後ろに倒れた。大きな音が図書室に響くが今の僕にはそんなことを気にする余裕はなかった。全身の血が沸騰し同時に氷水に浸けられたように冷たくなる感覚。
(梶田さんが……アスリス?)
点と線が恐ろしいスピードで繋がっていく。
なぜ彼女は、あんなに重い荷物を持ち上げられなかったのか。
なぜ彼女は、極端に辛いものを食べられなかったのか。
なぜ彼女は、僕と一緒にいる時に不自然なほど深い眠りに落ちたのか。
そして、極めつけの事実。中学二年の冬、僕が橋の上で助けたあの「銀髪の少女」が言っていた言葉。
『因果応報ってやつ。……だから今の俺がどうなろうと、しょうがないんだよ』
そうだ、なぜあの時、あの少女は自分のことを『俺』と呼んだのか。精神的なショックで口調が荒れているだけかと思っていた。だが、もしあの少女がアスリスによって『男から女に変わった存在』だったとしたら、一人称が男のままだったことも完全に辻褄が合う。
僕が助けたあの少女。不良たちに尊厳を踏みにじられていたあの少女。耳に痛々しい八つのピアス穴を開けていた、あの少女。
そのすべてが「宮本貴也」だったとしたら?
「……あ、あぁ……」
喉の奥から乾いた掠れ声が漏れた。視界が激しく揺れる、机の縁を掴まなければ立っていられなかった。
宮本貴也はアスリスを発症して女になった。かつての王はその力を失い、底辺へと転落した。僕が橋の上で助けたのは僕の人生を破壊した憎き加害者だった。
そして、その少女が猛勉強の末にこの進学校に入り「梶 貴也」としてではなく、「梶田 カヤ」という偽名を名乗り、僕の初恋の相手である『九条綴』の完璧な模倣をして僕の隣にいた。
昨日、彼女が見せたあの絶望に満ちた恐怖の表情。あれは僕が宮本を憎んでいると知ったからだ。千波の言葉で自分が過去にどれほど残酷なことをしたのかを思い出したからだ。彼女は宮本貴也に脅されていたのではない。彼女自身が「宮本貴也」という逃れられない呪いそのものだったのだ。
「……嘘だろ」
僕は両手で頭を抱え、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
騙されていた、ずっと騙されていた。あの清楚な文学少女の仮面の下には僕の教科書を泥水に沈め、僕の本をゴミ箱に投げ捨てて嘲笑った、あの傲慢な王の顔が隠されていた。
怒りか、悲しみか。それとも絶望か。自分の内側で渦巻く感情に、もはや名前をつけることはできなかった。
ただ一つ確かなことは。
僕が心から愛し、守りたいと願った『梶田カヤ』という存在は、最初からこの世界のどこにもいなかったという残酷な真実だけだった。