図書室の冷たいリノリウムの床にへたり込んだまま、僕はどれくらいの時間を過ごしただろうか。怒り、憎悪、嫌悪。それらが嵐のように吹き荒れた後、残ったのはひどく冷たくて虚無的な静寂だった。
宮本貴也。あいつが梶田カヤさんだった。
僕の尊厳を奪い、学校という世界を地獄に変えた悪魔。それが僕が初めて恋をした相手の正体。
「……ふざけるなよ」
絞り出した声は自分でも驚くほど掠れていた。じゃあ、あれは全部演技だったのか?僕をもう一度絶望に突き落とすための悪趣味なゲームだったのか?
いや、違う。
論理的思考が感情の暴走にブレーキをかける。
もし彼女が最初から僕を「かつての玩具」だと認識していたなら、あんな怯えた顔をするはずがない。文化祭で千波が宮本の名前を出した瞬間に倒れたこと。そして今日、僕を激しく拒絶して逃げ出したこと。それはつまり彼女も「昨日まで気づいていなかった」ということだ。
僕が背も伸びてボクシングで体格も変わり、かつての面影を失っていたように。
彼女もまた、アスリスによって完全に別の生き物になっていたから。お互いに過去の因縁に気づかないまま、惹かれ合っていたのだ。
そして、もう一つの残酷な事実が僕の胸を鋭く抉る。中学二年の冬、橋の上で出会った「銀髪の少女」としての彼女の姿。
『因果応報ってやつ。……だから今の俺がどうなろうと、しょうがないんだよ』
あれが宮本だった。かつて絶対的な王として君臨していた男が病によって女になり、不良たちに慰み者にされ、赤の他人と無理やり売春を強制され、泥の底で泣き叫んでいた。僕が受けたイジメなど比にならないほどの、凄惨で圧倒的な暴力と絶望。それを僕は「瀬戸皓二朗」として、この拳で救い出してしまったのだ。
(……宮本、お前は……)
嘲笑ってやればよかったのだろうか。「ざまあみろ」と、唾を吐き捨ててやればよかったのだろうか。
だが僕の脳裏に浮かぶのは、あの雨の日に僕のブレザーを羽織って震えていた華奢な肩だ。
図書室で重い百科事典を持ち上げられずに顔を赤くしていた姿だ。『私は、本当にダメな人間です』と自己嫌悪に沈んでいた彼女の横顔だ。
『九条綴』という仮面を被って過去の汚れを隠し、必死に僕の隣にいようと背伸びをしていた、いじらしい一人の少女の姿だ。
僕が愛したのは宮本貴也という過去の幻影ではない。過去の罪に苛まれ、それでも前を向こうと足掻いていた『梶田カヤ』という不器用な人間だ。
僕はゆっくりと立ち上がった。外はもう完全に日が落ちていた。冷たい夜風が図書室の窓をガタガタと揺らしている。行かなければ。真実を知ってしまった今の彼女が、どれほどの絶望の底にいるか僕には痛いほど分かるから。
翌日の放課後、僕は職員室に直行し1年2組の担任教師のデスクの前に立っていた。
そして周囲の教員たちの視線も気にせず深く頭を下げた。
「お願いします。梶さんのご自宅の住所を教えていただけないでしょうか」
静かに、けれど決して迷いのない懇願。担任は目を丸くし、やがて困惑したように眉をひそめた。
「瀬戸……お前が梶を心配してくれているのは分かるがな。今は個人情報の取り扱いが厳しくて、いくら同じ学年の生徒同士でも教員がホイホイと住所を教えるわけにはいかないんだよ」
「分かっています。ですが、どうしても彼女に直接会って伝えなければならないことがあるんです。どうか……!」
頭を下げたまま必死に懇願する。担任はしばらく無言で僕を見下ろしていたが、やがて周囲を気にするように小さくため息をついた。
「……まったく、お前と梶が仲が良いのは体育祭の借り物競争での一件もあって、うちの教員の間でも有名だからな」
担任の声が一段低くなった。あの日全校生徒の前で彼女が「尊敬する人」として僕を呼び出したエピソードは、教師たちの間でも微笑ましい話題として共有されているらしかった。
「それに瀬戸、お前は成績も優秀で普段の生活態度も極めて真面目だ。お前なら変な真似はしないだろうと俺も信用している」
ガサガサと紙を擦る音がして、僕の目の前に小さく折り畳まれた付箋が差し出された。
「……絶対に内緒だぞ。他の奴に聞かれたら俺の首が飛ぶからな」
「……! ありがとうございます!」
付箋を握りしめ、僕はもう一度深く一礼してから職員室を飛び出した。
待っていてくれ、梶田さん。いや、宮本。どんなに拒絶されても今日こそ絶対に逃がさない。
◆
その日の夕方。私は――いや、俺は自室のベッドの上で丸くなっていた。暖房の設定温度を限界まで上げ、毛布を頭まで被っているのに震えが止まらない。34℃の身体は自ら熱を生み出すことを放棄したかのように芯から冷え切っていた。学校から逃げ帰ってきてから、ずっとこのままだ。
昇降口で彼の手を振り払った時の、あの傷ついた顔が瞼の裏に焼き付いている。最低だ。結局、俺は昔から何も変わっていない。自分の保身のために他人を傷つける身勝手な化け物だ。
『虐めた側は簡単に忘れるが、虐められた側は一生忘れない』
ありふれた言葉だが、それがどれほど残酷な真理か今の俺には痛いほど分かる。俺自身がまさに、その醜悪な加害者の典型だった。文化祭で彼の過去を聞かされるまで自分が徹底的に尊厳を破壊し、ゴミのように捨てた『瀬戸皓二朗』という少年の顔も、名前すらも俺の記憶からは完全に欠落していたのだ。自分がどれほど他人の痛みに無頓着で非道な加害者だったか、という吐き気のするような証明だ。
自分が「王」の座から転落し、逆にクラスメイトに蹂躙される被害者となって痛いほど思い知ったはずなのに。俺を嬲り、泥の中に沈めたあの人間たちの顔を、声色を、絶望の記憶を俺は一生忘れることができない。奪われた側にとって加害者の存在は脳裏に焼き付いて離れない呪いなのだ。
それなのに俺は自分の被害者である彼を忘れ、あろうことか彼の優しさに縋り、「九条綴」という彼が愛した物語のヒロインの皮を被って、のうのうと彼の隣で笑っていた。これほどのグロテスクな喜劇があるだろうか。
もう、学校には行けない。彼と同じ空気を吸う資格なんてない。いっそ退学の手続きをとって遠くへ、誰も俺を知らない場所へ逃げてしまいたい。だが、そんなことおいそれとできるはずがなかった。宮本家から絶縁された後、女手一つで身を粉にして働き、無理をしてこの進学校に入れてくれた母さんの苦労を無下になどできない。梶家の経済事情を考えれば私立への転入やフリースクールなど夢のまた夢だ。
かと言って、このまま学校に在籍し続け廊下で、あるいは図書室で彼と顔を合わせることに俺の精神が耐えられるとも思えなかった。なら、どうする? このまま『体調不良』を口実にベッドに引きこもり何日も休み続ければ、ただでさえ夜勤で疲労している母さんを深く心配させることになる。最悪の場合、不登校になれば彼女に今以上の多大な精神的、経済的迷惑をかけることになってしまう。
退学もできない、登校もできない、休むことすら許されない。あちらを立てればこちらが立ち行かず、様々な不安と罪悪感に苛まれ俺の思考は完全に出口のない迷路に陥っていた。
でも「九条綴」の物語はここで終わりだ。これだけは、どんな問題があろうと変わらない決定事項だ。余白を埋めることなど最初から不可能だったのだ。この泥にまみれた過去がある限り俺はどこへも逃げられない。
ピンポーン。
不意にアパートのチャイムが鳴った。ビクリと身体が跳ねる。母さんだろうか? いや、今日は夜勤だと言っていたはずだ。新聞の勧誘? それとも宅配便? 居留守を使おう、今は誰の顔も見たくない。誰の声も聞きたくない。
ピンポーン。ピンポーン。
チャイムは執拗に鳴り続ける。そして玄関のドアの向こうから、くぐもった声が聞こえた。
「……梶田さん、いるんでしょ。開けて」
心臓が喉から飛び出しそうになった。呼吸が止まる。
瀬戸皓二朗。
どうして、俺の家の住所なんて知らないはずなのに、なぜ彼がここにいる。俺は彼を突き放したはずだ、冷たく拒絶したはずだ。それなのに、どうして彼は俺を追いかけてくるんだ。
「開けてくれるまで、ここで待ってるから」
その声は静かだったが決して引かないという強烈な意志が込められていた。逃げられない。彼が俺の罪を、俺の正体を暴きに来たのだ。
震える足でベッドから降りる。まるでギロチン台へと向かう死刑囚のような足取りで玄関へと向かった。冷たいドアノブに手をかける。ガチャリ、と鍵を開け、少しだけドアの隙間を開けた。廊下の冷たい外気が流れ込んでくる。そこに立っていたのは真っ直ぐな瞳で俺を見据える瀬戸皓二朗だった。
「……瀬戸、くん……」
恐怖で喉が引きつり、掠れた声が出る。彼は俺の顔をじっと見つめ、そして静かに決定的な一言を放った。
「……名前、変えたんだね。宮本」
その瞬間。俺の「梶田カヤ」としての偽りの命は完全に息の根を止められた。冷たい外気と共に流れ込んできたその言葉は死刑宣告よりも重く、そして残酷に響いた。心臓が一度大きく脈打った後、完全に凍りついたかのように沈黙した。肺から酸素が押し出され、息の吸い方が分からなくなる。
目の前に立つ瀬戸皓二朗の瞳には、かつて向けられていたような優しい光はなかった。
かといって憎悪の炎が燃え盛っているわけでもない。ただ、底知れぬ深い悲しみと静かな怒り、そしてどうしようもない戸惑いが混ざり合った酷く傷ついた色をしていた。
(……終わった)
すべてが終わったのだ。誤魔化すことも逃げることもできない。彼の口から「宮本」という名前が出た時点で自分が懸命に紡いできた「梶田カヤ」という虚構の物語は無残に引き裂かれたのだ。
「……ッ、は……」
喉の奥から空気が漏れるような情けない音が鳴る。ドアノブを掴んでいた指から力が抜け、膝から崩れ落ちそうになるのを辛うじて壁に手をついて堪えた。視界がぐらぐらと揺れる。彼を見るのが怖い、その瞳に、かつての自分――「王」として君臨し彼を嘲笑い、絶望の淵へ突き落とした悪魔の姿が映っているのだと思うと今すぐこの場で喉を掻き切って死んでしまいたかった。
「……中へ入ってもいいかな」
彼の言葉に俺は無言のまま、震える手でドアを大きく開けた。彼が玄関に足を踏み入れドアが閉まる。密室となった空間に重苦しい沈黙が落ちた。
「……リビング、あっちでしょ」
彼に促されるまま操り人形のように重い足を引きずってリビングへと向かう。狭いアパートの部屋。いつもなら、この空間は母と二人で過ごす安全な繭だった。だが今は逃げ場のない処刑場にしか感じられない。テーブルを挟んで彼と向かい合う。自分は椅子に座ることもできず、ただ床にへたり込むようにして膝を抱えた。
「……いつから」
沈黙を破ったのは彼だった。絞り出すような、痛みを伴う声。
「いつから、僕が『瀬戸皓二朗』だって気づいてた?」
その問いに己の罪の深さを改めて思い知らされる。
「……文化祭の、二日目……です」
掠れた声で、どうにかそれだけを答えた。「です」という敬語が今はひどく空々しい。
「千波が……妹が、君に僕の過去を話した時か」
「……はい」
「じゃあ、それまでは……本当に、気づいていなかったんだね」
「……はい」
彼は深く重い溜息を吐いた。それは安堵から来るものではなく、あまりにも皮肉な運命に対する脱力のように聞こえた。
「……図書室の貸出システムを見たんだ。『梶 貴也』という名前があった。……そして、アスリスという病気について調べた」
彼が真実に辿り着いた経緯を淡々と語る。論理的で聡明な彼だ、ピースさえ揃えばこの有り得ない現実の正体に辿り着くことなど容易だったのだろう。
「……中学二年の冬。橋の上で会った時、君は自分のことを『因果応報だ』と言った。自分が過去に誰かを虐めていたから罰が当たったんだと」
その言葉が出た瞬間、己の身体がビクッと大きく跳ねた。あの冬の夜、不良たちに陵辱され売春を強制される日々に、すべてを諦めて欄干から身を投げようとした自分を彼は己のキャリアを投げ打って救ってくれた。加害者である自分を被害者である彼が救うという、この上なく残酷な喜劇。
「……ごめんなさい……」
震える唇から勝手に言葉がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……俺が、俺のせいで……ッ」
もはや「九条綴」としての理知的な女性の言葉遣いは跡形もなく崩れ去っていた。自分の中にずっと封じ込めていた醜く、弱く、卑怯な「宮本貴也」という本性が剥き出しになる。
「俺は……最低だ。お前をあんなに傷つけて……人生を壊したのに……。お前だと気づかずに、のうのうと……お前の優しさに甘えて……ッ」
ボロボロと止めどなく涙が溢れ出す。床に額を擦りつけるようにして彼に縋った。
「知らなかったんだ……本当に……。お前だなんて、思わなかった……。お前の本を捨てて、笑って……あんな地獄に落とした張本人が、お前に好きだって言われて……喜んで……ッ! あぁぁ……ッ!!」
嗚咽が部屋に響く。自分の愚かさが罪深さが胃の腑をナイフで抉り回すように痛い。殺してくれ、と思った。いっそ彼の手でこの首を絞めて息の根を止めてほしかった。彼にはそれをする権利がある。
だが彼は動かなかった。怒号を上げることも暴力を振るうこともなく、ただ静かに床で泣き崩れる自分を見下ろしている。
「……宮本」
冷ややかな響きを持った声。その名で呼ばれることが、どれほど恐ろしいことか。
「僕は、君のことを一生許さない」
その宣告は当然の報いだった。許されるはずがない、あんな陰湿で残酷な虐めを主導しておいて時間が経ったから、姿が変わったからといって許されるわけがないのだ。
「僕がどれだけ苦しかったか。どれだけ絶望したか。……君に奪われた尊厳は、今でも僕の心に暗い影を落としてる」
彼の言葉一つ一つが鋭い針となって皮膚に突き刺さる。そうだ、もっと罵ってくれ、もっと責めてくれ。
「でも……」
彼の声が、ふっと揺れた。顔を上げると、彼の瞳からも一筋の涙が頬を伝って落ちていた。
「どうして……どうして、君なんだよ……」
彼は顔を歪め、両手で顔を覆った。
「どうして、僕が心から好きになった人が……僕を一番傷つけた人間なんだよ……ッ!」
彼の悲痛な叫びが自分の魂を粉々に打ち砕いた。彼を泣かせている。また自分は彼から笑顔を奪い、絶望させている。宮本貴也としての暴力ではなく、梶田カヤとしての「裏切り」で彼を深く、深く傷つけている。
(……償わなければ)
パニックに陥った脳が一つの極端な思考を弾き出した。許されないことは分かっている。彼を傷つけた事実は消えない。だが、このまま彼に見捨てられることだけは、どうしても耐えられなかった。彼との繋がりが切れてしまったら、自分は二度と呼吸ができなくなる。
今の自分に彼に差し出せるものは何がある?
「九条綴」という嘘の知性はもう通用しない。
宮本貴也としての尊厳はとうの昔に泥に沈んだ。
残っているのは、ただ一つ。
アスリスによって作り変えられ、元同級生たち、不良たち、そして不特定多数との望まない行為によって「男を喜ばせるための道具」として徹底的に価値を刷り込まれた、この肉体だけだ。
自分は震える足で立ち上がり彼の前に立った。そして、着ていたカーディガンのボタンに冷たい指をかけた。
「……何をしてるの」
彼が顔から手を離し、信じられないものを見るような目でこちらを見上げた。自分の指は震えながらも、カーディガンのボタンを外し、次いでブラウスの襟元へと手をかけている。
「……償います」
焦点の定まらない目で虚空を見つめながら口を動かす。その声は自分のものではないように冷たく、ひび割れていた。
「俺には……もう、これしかないから。……好きにしていい。殴ってもいい、蹴ってもいい……。この身体でお前が満足するまで、言うことを聞くから……」
ブラウスのボタンが外れ、白い肌と華奢な鎖骨が露わになる。アスリスによって最適化された皮肉なほどに女性らしい身体。かつて同級生たちに無理やり服を剥ぎ取られ、絶望の中で蹂躙された記憶がフラッシュバックし、吐き気がこみ上げる。だが、それを無理やり飲み込んだ。
彼に許してもらうためではない。ただ、彼との関係を繋ぎ止めるための、これしか「価値の証明」を知らないのだ。底辺を這いずり回った自分には身体を差し出すことでしか、他者から必要とされる術を学習してこなかったのだから。
「だから……捨てないで、瀬戸くん……。お願いだから、一人にしないで……」
スカートのホックに手をかけようとした瞬間。
「やめろッ!!」
彼の激しい怒声が響き、手首を強く乱暴に掴まれた。ビクッ、と身体が大きく跳ねる。
「……ッ!」
「ふざけるな……! 君は、僕をそういう人間だと思ってるのか!?」
彼の瞳に、かつてないほどの激しい怒りが燃え上がっていた。掴まれた手首が痛い。だが、彼の怒りの理由は自分が彼を「かつての自分をいたずらに嬲る人間たちと同じように身体で機嫌をとれる人間」として扱ったことへの強烈な侮辱に対するものだった。
「違う、そうじゃなくて……俺はただ、お前に償いを……」
「これが償いになるわけないだろ!」
彼は自分の手首を掴んだまま強く引き寄せた。そしてブラウスの胸元を乱暴に合わせ、前を隠すように塞いだ。
「自分を安売りするな! ……君がそんな風に自分を傷つけて僕が喜ぶとでも思ったのか!」
彼の声は怒りに震えていたが、同時にどうしようもない悲しみに満ちていた。その瞳の奥には橋の上でボロボロになっていた自分を見つけた時の、あの痛ましいものを見るような色が浮かんでいる。
「……宮本のことは一生許さない。あいつが僕にしたことは、絶対に消えない」
彼は一言一言、噛み締めるように言った。それは彼自身の尊厳を守るための絶対に譲れない境界線だった。当然だ、俺もあんなクズは絶対に許されるべきではないと思う。
「でも……」
彼の手が不意に優しくなった。手首を掴んでいた力が緩み、代わりに冷え切った自分の頬を36℃の温かい掌がそっと包み込んだ。
「でも……僕は、『梶田カヤ』のことも、同じくらい愛してるんだ」
「……え」
息が止まった。頭が真っ白になる。今、彼はなんと言った?
「図書室で本を大切そうに読んでいた君。重い荷物を持てなくて悔しそうにしていた君。……一生懸命、理想を演じようとしていた君。……その全部が愛おしかった」
彼の親指が頬を伝う涙を静かに拭う。その熱が凍りついていた細胞の奥深くまで浸透していく。
「君がどれだけ過去の泥にまみれていようと、どれだけ自分を汚いと思っていても。……僕が愛したのは過去の罪に苦しみながら、それでも前を向こうともがいていた、今の君なんだよ」
「……ッ、あ……」
声にならない嗚咽が漏れた。自分という存在の「過去の罪」は絶対に許さないと切り捨てながら、それでも「今の努力」を全肯定してくれる。そんな奇跡のような救済が、この世界に存在していいはずがない。
「瀬戸、くん……でも、俺は……俺は……」
「いいよ、もう。……自分のことを『俺』って呼ぶ、不器用で、臆病な君のままでいい」
彼はそう言って自分を力強く抱きしめた。彼の胸に顔を埋め、俺は子供のように泣きじゃくった。彼が俺の長い黒髪を優しく撫で、耳に残る八つのピアス穴に労わるように触れてくれる。どれくらいそうしていただろうか。やがて涙が枯れ果て、俺の震えが少しずつ収まってきた頃。彼はそっと身体を離し、真っ直ぐに俺の目を見た。
「……一つだけ、聞かせてほしい」
彼の声は、ひどく穏やかだった。
「どうして君は、あんなに本を読むようになったの? 小学生の頃の君は僕が本を読んでいることすら馬鹿にしていたのに」
その問いに俺は俯き、自嘲気味に口の端を歪めた。
「……お前が読んでいたからだ」
「え?」
「俺がゴミ箱に捨てた、あの本。……『九条綴の完璧な余白』 お前があんなに必死に守ろうとしていた物語に一体何が書かれているのか……頭の片隅に、ずっと引っかかっていたんだ」
かつての傲慢な自分と、すべてを失った地獄の日々が脳裏をよぎる。
「中学でどん底に落ちて、お前に助けられて生まれ変わろうと思った時、ふと、あの本を読んでみようと思った。俺が顔も名前も覚えていない、かつて傷つけた相手へ罪を償う方法はないかって考えて……最低なすがり方だよな」
彼は息を呑み、黙って俺の言葉に耳を傾けている。
「でも、救われたんだ。物語の中の彼女は、かつての俺みたいに他人を威圧する『王様』でもなければ不良たちに怯えて泥をすする『玩具』でもなかった。誰にも侵されない気高くて美しい『余白』を持っていた」
春休み、新しい自分になるために狭いアパートの鏡の前で何度も練習した日のことを思い出す。
「俺は高校に入ったらあんな風に凛とした人間になりたいと思った。だから必死に本を読んで九条綴の真似をしたんだ。お前への、せめてもの贖罪のつもりで……」
言葉にするのがひどく滑稽で情けなかった。
「だから、四月に図書室でお前が話しかけてきてくれた時……俺にとってのヒーローが、その本をバイブルって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだ。お前が『瀬戸皓二朗』だとは夢にも思わずに、のうのうと……俺は、お前が愛した物語に救われていたんだよ。笑えない因果応報だろ」
俺が自虐的に笑うと彼は驚いたように目を丸くした。俺が本好きになったのは元からではない。彼から奪ったものを拾い集め、それを道標にして泥沼から這い上がろうとした、無様な努力の結果だったのだ。
その事実を知った彼はやがて困ったような、けれどひどく優しい笑みを浮かべた。
「……そっか。君は僕が愛した物語に救われて、あの図書室にいてくれたんだね」
「……」
「結果はどうあれ、今の僕たちは同じ物語の面白さを語り合える『同志』になったじゃないか」
彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。そして床に座り込む俺を見下ろし、スッと右手を差し出した。
「え……?」
「梶田カヤと瀬戸皓二朗として、じゃなくて」
彼の瞳には、かつて教室の隅で俺に怯えていた少年の面影はない。ただ、一人の人間として対等な相手を見る真っ直ぐな光が宿っていた。
「まずは……宮本貴也と瀬戸皓二朗として、仲直りをしよう」
その言葉に胸の奥が熱く粟立った。
彼は男の俺に、加害者である俺に手を差し出しているのだ。
同情でも哀れみでもない。過去の因縁を清算し、同じ高さの目線で向き合うための対等な男としての誘い。俺は震える手で目元を乱暴に拭い、立ち上がった。そして差し出された彼の大きな右手を、同じように右手だけで力強く握り返した。
「……うん。……ごめんな、瀬戸」
「……もう気にしなくていいよ、貴也くん」
ギュッと互いの手に力がこもる。見た目は背の高い男子高校生と華奢な女子高校生だ。けれど、今この瞬間に手を握り合っているのは紛れもなく「男同士」だった。かつて同じ教室で最悪のすれ違いをした二人の少年が長い地獄と痛みを経て、ようやく同じ地平に立ち、真の友人として和解した瞬間だった。
重く冷たかった過去の鎖が音を立てて砕け散っていくのが分かった。彼と握り合った掌から36℃の熱が流れ込んでくる。
完璧な余白など最初から必要なかったのだ。俺たちの物語は傷だらけで矛盾に満ちていて、決して綺麗とは言えない。けれど、この熱だけは確かに本物だった。
冷え切った銀の蛹は、彼という熱の中でようやく本当の意味で過去という呪縛という殻を破り、そして羽化しようとしていた。