翌朝、目を覚ました俺の視界はひどくぼやけていた。理由は明白だ。昨夜、自室に乗り込んできた瀬戸皓二朗の胸で何年分もの涙を流し、これまでの罪と後悔、そして安堵がないまぜになった感情を爆発させて小さな子供のように泣きじゃくったせいだ。瞼は重く腫れ上がり、視界の端がじんじんと熱を持っている。鏡を見なくても今の自分がどれほど酷い顔をしているか容易に想像がついた。
「……最悪だ」
掠れた、ひび割れたような声で呟きながらベッドの中で身悶えする。十一月も中旬に差し掛かり、朝の冷え込みは容赦なく体温を奪っていく。毛布を引き被り、冷え切った34℃の身体を丸めると昨日の出来事が鮮明なフラッシュバックとなって脳裏に蘇ってきた。
自分が「宮本貴也」であるという絶対に逃れられない最悪の過去を暴かれ、絶望のどん底に突き落とされたあの瞬間。彼に見捨てられることへの強烈な恐怖から、浅ましくもこの身体を差し出すことでしか関係を繋ぎ止められないと思い込み、自ら服を脱ごうとしたこと。彼がそれを激怒して止め、俺の卑屈な献身を真っ向から否定してくれたこと。
夏休みの納涼祭の夜、彼に自分が「不良たちに蹂躙された銀髪の少女」であった凄惨な過去を知られた時、彼は『嘘をついて騙したなんて思わないで。君が今の姿になろうとした努力も全部ひっくるめて君なんだから』と、俺が『九条綴』の仮面を被って必死に背伸びをしていた不器用な時間ごと丸ごと肯定してくれた。
あの時、俺は確かに救われたはずだった。だが、心の最も深い底には決して触れてはならない「二つの爆弾」が手付かずのまま残っていたのだ。
一つは、この身体がアスリスによって作り変えられたものであり、俺が元々は「男」であったという事実。
そしてもう一つは俺自身がかつて他人を地獄に突き落とした加害者であるという事実だ。
納涼祭の時点では俺はこの異質な身体の秘密と、かつて最低ないじめっ子だったという漠然とした過去だけを恐れていた。まさか目の前にいる彼が、俺が小学生の時に尊厳を破壊した『瀬戸皓二朗』その人だとは夢にも思っていなかったのだ。自分の被害者の顔も名前も忘却したまま、偶然にも彼の愛した『九条綴』の皮を被って、のうのうと好意を受け取っていたなんて。
文化祭でその真実に気づいた時、俺は絶望のどん底に突き落とされた。『自分がいじめられ、陵辱された哀れな被害者の少女である』という傷跡は受け入れてもらえたとしても、この真の正体を知られればどうなるか。元男のいじめっ子が病気で女になったのをいいことに自分の被害者にすり寄り、あろうことか彼にとっての理想のヒロインを演じて騙していた。――これほど醜悪で吐き気のする残酷な皮肉はない。真実を知れば今度こそ完全に軽蔑され、見捨てられるに決まっている。
その罪の意識があったからこそ文化祭以降の俺は絶望に打ちひしがれ、彼から逃げ出し一人で怯え続けていたのだ。
しかし昨夜、彼はその最後の壁をも完全に打ち砕いた。俺の最大の罪と隠し続けてきた性別の真実を突きつけられた上で、彼は『宮本貴也のしたことは絶対に消えないし、許さない』と毅然と境界線を引いた。その上で『でも、梶田カヤのことは同じくらい愛している』と告げてくれたのだ。
そして互いの過去の因縁を清算し、一人の人間として対等な「男同士」の握手を交わした。元男であることを知りながら、それを気味が悪いと切り捨てることもなく男としてのケジメに正面から付き合ってくれた。
そのすべてが夢ではなかったという証拠に、俺の右の掌には彼と力強く握り合った時の、あの36℃の確かな熱がまだ残っているような気がした。
(あいつ……頭おかしいんじゃないのか)
布団の中で足をバタバタと動かしながら自嘲気味に思う。いくら俺が猛勉強して「梶田カヤ」としての人生をやり直そうとしていたとはいえ、かつて自分を地獄に突き落とした元男の加害者を許容し、あろうことか「愛している」とまで言いのけたのだ。彼の器のデカさは、もはや論理や常識の範疇を完全に超えている。お人好しにも程がある。
だが、彼から与えられたその理不尽なまでの優しさが、ずっと俺の心臓に食い込んでいた「加害者としての呪い」と「偽物の女であるという自己嫌悪」という最も重い鉄の鎖を、ついに断ち切ってくれたのは事実だった。
「……起きるか」
のろのろとベッドから這い出し、狭い自室のドアを開ける。数歩進めばもうそこはリビングだ。ヒンヤリとした廊下の空気に身震いしながら足を踏み出すとキッチンからは出汁の優しい香りと、ごま油で何かを炒める香ばしい匂いが漂ってきた。
「おはよう、カヤ。……あら、起きてきたのね」
キッチンに立っていた母さんが振り返って声をかけてきた。昨夜は夜勤だったはずだ。目の下には薄く隈があり、制服から着替えたばかりの部屋着姿が彼女の疲労を物語っている。それなのに帰ってきてそのまま台所に立ち、朝食を作ってくれていたらしい。
「母さん、夜勤明けでしょ? 寝ててよかったのに」
「カヤが昨日、学校を休んでずっと部屋にこもってたから心配だったのよ。はい、温かい豚汁。大根に味染みてるわよ」
テーブルには湯気を立てる具沢山の豚汁と甘い卵焼き、それに塩結びが二つ並べられていた。俺がアスリスを発症して女になってからというもの、母さんは俺に対してどこか「壊れ物を扱うような」気遣いを見せることがあった。俺自身も母さんが女手一つで身を粉にして働いてくれている負い目から、無用な心配をかけまいと家の中でも少しだけ気丈に振る舞い、完璧な「梶田カヤ」を演じる癖がついてしまっていた。
だが、今日の俺は椅子の背もたれにだらりと体重を預けて無防備に座り込んだ。
「……ありがとう。いただきます」
お椀を両手で包み込むと34℃の冷え切った手にじんわりと陶器の温かさが伝わってくる。一口すすると根菜の甘みと味噌のコクが、冷え切った胃の腑に優しく染み渡った。味覚過敏の傾向があるこの身体でも母さんの作る和食は決して不快な刺激にならない。
「……って、カヤ。あなた、すごい顔してるわよ」
向かいの席に座った母さんが俺の顔を見るなり目を丸くした。
「目、真っ赤じゃない。それに髪もボサボサだし……昨日、部屋で泣いてたの?」
「……うん。まあ、昨日ちょっと、友達と色々あってさ。泣きすぎた」
俺がぽつりとこぼすと、母さんは一瞬驚いたように瞬きをし、それからフッと柔らかく微笑んだ。
「……そう。例の彼と、ちゃんと話せたのね」
母さんはそれ以上深くは追及せず、自分の分のお茶をゆっくりと啜った。母親には彼が俺の「命の恩人」であることは教えておらず、あくまで肉体的には異性の親しい友達としか瀬戸のことを知らないでいる。しかしおそらく、俺が彼に対して抱えていた複雑な感情の機微も、親の直感でなんとなく察していたのだろう。
「なんだか今日はすごく『スッキリ』した顔をしてるわね。憑き物が落ちたみたい」
俺は少し驚いて母さんの顔を見上げた。親の目というのは本当に誤魔化しがきかないものらしい。
「……そう見える?」
「ええ。背負い込んでた重たい荷物を、やっと下ろせたような顔よ。……今のカヤ、すごく自然でいいわ」
照れくさくなって視線を逸らし塩結びに手を伸ばす。美味い。今日の俺は、この温かさを素直に身体に受け入れることができている気がした。
食後、洗面台の鏡の前に立つ。冷水で顔を洗い、タオルで拭う。夏休み以降、彼に対して無理に「九条綴」を演じることは少なくなっていた、それでも学校という社会的な空間においては俺は依然として「完璧で隙のない優等生」の殻を被り続けていた。毎朝、髪を一本一本丁寧に梳かし一切の乱れがないようにスプレーで固定し、何よりあの凄惨な過去の象徴である耳の八つのピアス穴が絶対に見えないように、サイドの髪をピンで厳重に留めるのが日課だった。
だが、今日の俺は洗面台のトレイに置かれたヘアピンをじっと見つめ、やがてそこから手を引っ込めた。
ただ軽くブラッシングをしただけで髪は自然な位置に下ろしたままにしておく。少し首を傾げたり風が吹いたりすれば、軟骨にまで穿たれた痛々しいピアス穴が容赦なく晒されるだろう。けれど、もう必死に隠そうとは思わなかった。彼が、あの罪と罰の痕跡ごと俺を受け入れると、そして元男であることすら飲み込んで「同志」として対等に歩こうと手を差し出してくれたのだから。俺が俺自身の過去から目を背け、いつまでも怯えて隠れていては、彼の覚悟に応えられない。
登校し、1年2組の教室のドアを開ける。いつもなら背筋をピンと伸ばし、誰の視線にも動じない孤高のオーラを纏って自分の席へと向かう。だが、今日の俺は少し猫背気味に重いスクールバッグを肩に引っ掛けて、ごく自然な足取りで歩いた。昨日の今日で、いきなり完璧なヒロインの余韻を引きずる気力など残っていないし、もう「周囲からどう見られるか」という強迫観念で自分を縛り付ける必要もないのだと心から思えたからだ。
「あ、カヤさん! おはよ……って、え?」
前の席の伊藤さんが俺の顔を見て固まった。体育祭や文化祭を経てクラスの中で一番親しくなった同性の友人だ。
「お、おはよう。カヤさん……なんか今日、雰囲気違わない?」
「……おはよう。寝坊して、髪とか適当になっちゃったんだよね。目も腫れてるし、最悪」
俺は自分の机にドサリと鞄を置き、大きな欠伸を一つ噛み殺した。完璧で隙のない優等生として一番の記号であった敬語や丁寧語は使わなかった。自然に出た言葉は少しぶっきらぼうで、けれど等身大の高校生としてのそれだった。
「え、嘘! カヤさんが寝坊!? あの超完璧主義で、いつも本から抜け出してきたみたいなお嬢様のカヤさんが!?」
伊藤さんは目を丸くして俺の顔をまじまじと見つめてくる。
「私だって人間だもん。疲れる時は疲れるし寝坊くらいするよ」
苦笑しながらそう返すと伊藤さんは一瞬あっけにとられていたが、すぐにパァッと顔を輝かせた。
「……そっか! だよね、カヤさんだって普通に寝坊くらいするよね! なんか安心したー、今まで完璧すぎて隙がない感じだったからさ。……今日のカヤさん、すごく自然体で可愛いよ!」
「……からかわないでよ」
伊藤さんが親しげに俺の肩を叩いて笑う。なんだ、元男としての引け目も完璧でなければならないという重い鎧も、完全に脱ぎ捨てて素の自分を少し見せても、他人は俺を拒絶したり見下したりしないじゃないか。
窓の外には突き抜けるような秋晴れの空が広がっている。冷たい木枯らしが教室に吹き込んできても今日の俺は不思議と、それを「寒い」とは感じなかった。
◆
放課後の図書室。いつもの窓際の特等席で僕は開いた文庫本のページに視線を落としながら、心臓が落ち着かないリズムを刻むのを感じていた。十一月も中旬を過ぎ、日が落ちるのがずいぶんと早くなった。ブラインド越しに差し込む西日が、リノリウムの床に琥珀色の長い縞模様を落としている。空間を満たす古い紙とインクの匂いすら今日の僕にはどこか真新しく、そして少しだけくすぐったく感じられた。
昨日の夜の出来事が、まるで熱に浮かされた夢だったのではないかと今日一日中何度も疑ってしまった。
彼女の――いや、かつて彼であった、今の「彼女」のアパートへ乗り込み残酷な真実を突きつけた。自分の正体が「宮本貴也」という最悪のいじめっ子であること。そして、その身体がアスリスによって作り変えられた「元男」であること。
その二つの致命的な秘密を暴かれた彼女は、絶望のあまり自らの服を脱ぎ、身体を差し出すことでしか僕との関係を繋ぎ止められないと思い込んでいた。かつて多くの人間たちに蹂躙され、自尊心を徹底的に砕かれた彼女が泥の底で学習してしまったあまりにも悲惨で痛々しい防衛術。
僕はそれを激怒して止め、僕の人生を一度壊した「宮本貴也」という人間は一生許さないと伝えた上で、今もがき苦しみながら生きている「梶田カヤ」を愛していると告げた。そして、かつて最悪の敵同士だった二人の少年は凄惨な過去の因縁を清算し、一人の人間として、対等な「男同士」の握手を交わしたのだ。
(……理屈じゃないんだよな)
自分の右手を見つめる。昨日、彼女と力強く握り合った感触がまだ掌の奥に熱として残っている。論理的に考えれば加害者と被害者が和解し、さらに加害者が奇病で性別が反転しており、そこに恋愛感情まで絡んでいるなんて破綻しきった異常な関係だ。普通なら嫌悪感を抱くか混乱して逃げ出してしまうかもしれない。
文化祭で妹の千波から過去を聞かされるまで彼女自身も僕が自分の被害者であることに気づいていなかったのだと、昨夜の対話でようやく完全に腑に落ちた。自分の被害者だと知らずに惹かれ、彼にとっての理想のヒロインの皮を被って隣にいたこと。そして自分が「元男」であること。文化祭以降、彼女がどれほどの吐き気と自己嫌悪、そして僕に見捨てられる恐怖に苛まれていたのか想像するだけで胸が締め付けられる。
でも、真実をすべて知った僕の心は驚くほど晴れやかだった。彼女が抱えていた「男であった」という事実すらも今の僕にとっては、彼女が這い上がってきた地獄の深さと僕の隣にいるためにどれほど血の滲むような努力をしてきたのかを物語る「証」に過ぎない。嘘の仮面の下で、ずっと一人で怯えていた彼女を、ついに見つけ出し泥の中から完全に引っ張り上げることができたという確かな実感があった。
ガラリ、と図書室の重い引き戸が開く音がした。顔を上げると、そこに彼女が立っていた。
「……お疲れ」
彼女は僕の前の席に座るなりスクールバッグを放り出して机に突っ伏した。その姿に僕は思わず目を丸くした。
「梶田さん……?」
「……今の俺の顔あんまり見ないで。目、めっちゃ腫れてるから」
腕の中に顔を埋めたまま彼女はくぐもった声で言った。一人称が「俺」。そして、あの優雅で隙のない「九条綴」の面影は微塵もなく、ただ部活帰りの男子生徒のように気怠げで無防備な態度。なにより、いつもならヘアピンで厳重に固定されていたはずのサイドの髪が、今日は自然に下ろされたままになっていた。机に突っ伏した拍子にその黒髪がさらりと流れ、軟骨にまで穿たれた痛々しい八つのピアス穴が隠されることなく晒されている。
それが、あまりにも彼女の美しい顔立ちとギャップがありすぎて僕は呆気に取られた後、思わず吹き出してしまった。
「ふっ……ははは!」
「……笑うな。お前が昨日あんなに泣かせるからだろ」
彼女が恨めしげに顔を半分だけ上げて僕を睨む。腫れぼったい目元と少し尖らせた唇。完璧なヒロインの殻が完全に剥がれ落ちたその素顔は生意気だった小学生の頃の宮本の面影を微かに感じさせつつも、ひどく等身大の不器用な少女のものでしかなかった。
「ごめんごめん。……でも、なんかすごく新鮮でさ。無理してない感じが、すごくいいよ」
「……ッ」
僕が素直に褒めると彼女は耳まで真っ赤にして再び机に顔を伏せてしまった。
「お前さぁ……そういうことサラッと言うの禁止」
「事実を言ってるだけだよ。ほら、ピアスも隠さなくなったんだね」
「……お前が全部知った上で受け入れるって言ったんだろ。今更コソコソ隠してたら俺の覚悟が嘘になる」
ぶっきらぼうな言い草だったが、その言葉には過去から目を背けないという彼女なりの強い誠実さが込められていた。僕は自分のスクールバッグから自販機で買っておいたホットのミルクティーのペットボトルを取り出し、彼女の前にコトンと置いた。
「体調は大丈夫? 冷えてない? 図書室は飲食禁止だから今はカイロ代わりにして。飲むのは帰りにね」
「……サンキュ」
彼女は身体を起こし、両手で温かいペットボトルを包み込むようにして持った。その温もりに少しだけ頬を緩める仕草は、やっぱりどこか女の子らしくて庇護欲をそそられる。中身がかつて僕を支配していた傲慢な「王」だとは言われなければ絶対に信じられないだろう。
「今日、クラスではどうだった? いきなりキャラが変わって驚かれなかった?」
「……伊藤さんには『寝坊して適当になった』って誤魔化した。そしたら『そっちの方が隙があって可愛いし自然体で良い』とか言われて……正直、拍子抜けした。俺、今までどれだけ周りから張り詰めて見えてたんだよって」
「伊藤さん見る目あるね。僕もそう思う」
「だから、からかうなっての」
指先から伝わる熱のおかげか彼女の顔色が少しずつ良くなっていく。しばらくの間、僕たちは静かに並んで窓の外で少しずつオレンジ色から群青色へと変わっていく秋の空を見つめていた。図書室の静寂が今までとは違う、穏やかで温かいものに感じられる。
「……なあ、瀬戸」
ふいに、ペットボトルを見つめたまま彼女の声が真剣な響きを帯びた。僕も姿勢を正し彼女の目を見る。
「俺はお前にひどいことをした。元男のいじめっ子が病気で女になって、被害者のお前だと気づかずに近づいて、あろうことかお前が大切にしてた本のヒロインの真似をして騙してた。……本当に、吐き気がするくらい最低な人間だ。俺の中にある『宮本貴也』の罪も、この異質な身体も一生消えないし俺自身も許すつもりはない」
「……うん」
「でも……お前が、そんな俺でもいいって、隣にいていいって言ってくれたから。……俺はもう逃げない。過去の醜い自分からも、お前からも」
彼女の瞳は夕暮れの光を反射して琥珀色に澄み切っていた。もうそこに見捨てられることへの怯えや自分を偽る嘘はない。あるのは取り返しのつかない傷と罪を抱えながらも、それでも前を向こうとするひとりの人間の強くて美しい意志だけだ。
「……ただ、一つ確認していいか?」
彼女が、もじもじと視線を泳がせながら急に歯切れ悪く口を開いた。
「昨日、お前……『梶田カヤのことも愛してる』って、言ったよな」
「うん、言ったよ」
「それって……その。……本を愛する『同志』として、とか同じ傷を共有する『人間』として、っていう……そういう広い意味での『愛』だよな? だって俺たち、昨日過去を清算して、『男同士』で握手したし……」
しどろもどろになりながら聞いてくる彼女の姿があまりにも可笑しくて、そして愛おしかった。彼女の頭の中では「元男である自分」という最大の罪を許してもらったことで、僕との関係は「精神的な男同士の友情」や「同志愛」に落ち着いたと必死に解釈しようとしているらしい。自分が女性として恋愛対象に見られているなどという図々しい考えは、彼女の自己嫌悪が許さないのだろう。
精神的には男同士の決着をつけた。お互いの人生の因縁を清算し同じ高さの目線に立った。だが肉体的には、そして僕がこの数ヶ月間彼女に惹かれ続けてきた感情の矢印は紛れもなく「一人の女の子」に対するものだ。
僕は意地悪く微笑んでテーブルから身を乗り出した。
「どうだろうね。……もちろん、同志として愛してるし、人間としても愛してるよ」
「だよな! よかった、俺また変な勘違いするとこだった――」
「でも、一番は……一人の女の子として好きだよ、カヤさん」
「――――ッ!!」
彼女の顔が文字通り茹でダコのように真っ赤に沸騰した。ペットボトルを両手で持ったまま声にならない悲鳴を上げて硬直している。瞳孔は限界まで開き、口元はワナワナと震えている。34℃の低体温の彼女が、今間違いなく36℃以上の熱を急激に発しているのが分かった。
「せ、瀬戸……おま、お前……っ! 俺、元男だぞ!? お前をいじめてた宮本だぞ!?」
「知ってるよ。でも今僕の目の前にいるのは、僕のために一生懸命変わろうとしてくれた不器用で可愛い女の子だから」
僕がからかうように言うと彼女はついに耐えきれなくなったのか、机の上に置いてあった分厚いハードカバーの哲学書――『テセウスの船』を両手で持ち上げ、自分の顔を完全に隠してしまった。本の後ろから、「死ぬ」「熱い」「頭おかしくなる」「こいつの器どうなってんだ」という、かつての暴君らしからぬ情けない呟きが漏れ聞こえてくる。
『すべての部品が置き換わった船は、果たして元の船と同じものと言えるのか?』
彼女が顔を隠したその本のタイトルを見て、僕は内心で静かに微笑んだ。身体が女性に置き換わり、傲慢だった性格が自己嫌悪と優しさに置き換わり、かつての「宮本貴也」を構成していた部品は今やもうどこにも残っていない。それでも僕が惹かれたのは過去の罪に苦しみながらも、必死に新しい部品を拾い集めて修復し前へ進もうとする今の彼女の魂そのものだ。
僕は本の後ろで身悶えしている彼女を見つめながら、心からの安堵と幸福の息を吐いた。
悲しい過去も取り返しのつかない罪も、決して消えることはない。僕たちの物語は九条綴の小説のような綺麗な余白ばかりではない。泥にまみれ、破れかけ、いくつもの矛盾を孕んだ歪な物語だ。それでも、こうして笑い合い、お互いの熱を共有し不器用に関係を築き直していくことはできるのだ。
銀の蛹は本当はとっくの昔に、その硬い殻を破っていた。けれど彼女はずっと怯えていたのだ、自分自身の醜い過去と隠し持つ罪の重さに縛られ、濡れた羽を広げることもできずに。ただ冷たい風に震えながら空へ飛び立つことを恐れて、暗い足元だけを見つめてうずくまっていた。
でも、もう大丈夫だ。こうして分かち合った熱が彼女の冷え切った羽をすっかり乾かし、凍えるような恐怖を完全に溶かしてくれたから。
これからは九条綴という他人の偽物の羽ではなく、彼女自身の等身大の羽で。凍てつくような冬の寒さに震えることなく、温かい春の日差しの中を二人でどこまでも飛んでいけるはずだ。