銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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最終章 完璧じゃない余白を愛するための、緩やかなエピローグ
聖夜のコタツと少年の日の延長戦


 十二月二十四日、午前10時。

スマートフォンの無機質なアラーム音が、冷え切った自室の空気を震わせた。毛布と掛け布団の間に深く潜り込んでいた俺は不快な電子音を止めるために、温かい結界の中から渋々右腕だけを外へと伸ばした。

 

 「……っ、寒……」

 

 指先が外気に触れた瞬間、肌を刺すような冷たさに思わず声が漏れた。平熱34℃台という低体温動物にとって、本格的な冬の到来は生命の危機に等しい。アスリスによって極端に基礎代謝を削り落とされたこの身体は、自ら熱を生み出すことを完全に放棄している。

 

 アラームを止め、再び布団の奥へと腕を引っ込める。微睡みの淵に沈みかけながら、ぼんやりと天井の木目を見つめた。

 

 あの日。秋の終わりの図書室で俺が元男であり、彼を地獄に突き落とした「宮本貴也」であるという最悪の真実をすべて打ち明け、そして彼――瀬戸皓二朗と「男同士」の決着をつけてから、あっという間に一ヶ月以上の月日が流れていた。

 

 この数週間の間に俺の周囲の環境は劇的に、しかしひどく穏やかに変化した。

 

 まず、学校生活における「九条綴」という完璧なヒロインの仮面を完全に脱ぎ捨てたこと。背筋を張り詰め他者を寄せ付けない孤高のオーラを纏うのをやめた俺は、授業中に欠伸を噛み殺すこともあれば、ちょっとしたことで笑うようにもなった。その結果、クラスメイトたち――特に前の席の麻依との距離が劇的に縮まった。伊藤麻依。今ではお互いに「麻依」「カヤ」と下の名前で呼び捨てにする仲にまでなっている。完璧な余白を手放した俺を麻依は「そっちの方が人間らしくて好き」と、あっさりと受け入れてくれたのだ。

 

 そして何より彼との関係だ。

 

 『おはよう、カヤさん』

 

 あの日から彼は俺のことを「梶田さん」ではなく、「カヤさん」と下の名前が由来の愛称で呼ぶようになった。図書室で「一人の女の子として好きだ」と言われ俺もその好意から逃げずに受け入れたあの日の直後は、顔を合わせるたびに沸騰しそうになっていた。

 

 だが互いに恋愛感情としての「好き」を口にしておきながら、俺たちはまだ明確に付き合い始めているわけではない。

 

 過去の重すぎる因縁があるせいか、あるいは互いに不器用すぎるせいか。あの日から俺の口調が男だった頃の「俺」ベースに戻ったこともあり、二人きりの時の空気感は奇妙な「気心の知れた悪友」のようなものに落ち着きつつあった。

 

 学校で周囲の目がある時、俺は一応「瀬戸くん」と呼び、少しだけ大人しい女子生徒としての振る舞いを保っている。だが誰もいない図書室や帰り道など完全に彼と二人きりになった瞬間、俺の口調は一切の遠慮のない男友達へのそれに切り替わるのだ。彼は俺のその「スイッチ」を心底面白がっている節があった。

 

 「……よし、起きるか」

 

 両手で自分の頬をパチンと叩き、気合を入れて布団を蹴り飛ばす。今日はクリスマスイブ。世間一般の高校生たちならばイルミネーションの輝く街へお洒落をして出かける日だろう。だが俺たちの今日の予定は全く色気のないものだった。

 

 「お母さん行ってらっしゃい。夜勤、無理しないでね」

 「ええ、ありがとう。カヤも瀬戸くんとゆっくり過ごしてね」

 

 昼前に出勤していく母さんを見送ると俺はすぐに部屋の暖房の設定温度を限界まで上げ、リビングの真ん中に鎮座するコタツの電源を入れた。

 そう、今日の舞台はここ、俺のアパートだ。34℃の虚弱な身体で人混みと寒空の下を歩き回るのは自殺行為に等しいという彼の判断により、「イブはカヤさんの家でコタツに入ってダラダラ過ごす」という協定が結ばれたのである。

 

 着替えを済ませ軽く髪を梳かす。服装はゆったりとしたグレーのパーカーに裏起毛の温かいスウェットパンツ。メイクはおろかコンタクトレンズすら入れず、度の入った黒縁眼鏡をかけただけの完全な「干物」スタイルだ。

 

 ピンポーン。

 

 正午ちょうど。アパートのチャイムが鳴った。玄関のドアを開けると、そこには厚手のピーコートを着込み、両手に大きなスーパーのビニール袋を提げた瀬戸皓二朗が立っていた。

 

 「メリークリスマス、カヤさん。……って、見事なまでの部屋着だね」

 「お前が『絶対に出かけないから一番リラックスできる格好でいろ』って言ったんだろ。……ほら、早く入れよ。外の冷気が入ってくる」

 

 俺がぶっきらぼうにそう言うと瀬戸は「お邪魔します」と笑いながら靴を脱ぎ、リビングへと上がってきた。

 

 「うわ、部屋の中めっちゃ暖かい。っていうか暑いくらいだね」

 「俺にとってはこれが適温なんだよ。……で、その大荷物はなんだ? 食い物か?」

 「うん。チキンとか、ピザとか、ケーキとか。カヤさんでも食べられそうなスパイス控えめのやつを選んできたよ」

 

 瀬戸がコタツの上に買ってきたものを並べていく。俺は早速コタツの中に下半身を滑り込ませ、至福の熱にふぅっと息を吐いた。冷え切った血流がゆっくりと溶かされていくのが分かる。

 

 「瀬戸、お茶淹れるけど、温かいのでいいか?」

 「うん、お願い。……あ、そうだ。食料以外にも、今日はとっておきの『暇つぶし』を持ってきたんだ」

 

 瀬戸はそう言って自分のリュックサックの中から、いくつかの見慣れない箱と見慣れたプラスチックの束を取り出してコタツの上に置いた。

 

 お茶を注ぎながらそれを見た瞬間、俺の目は釘付けになった。

 

 「おい、瀬戸……それって」

 「そう。クラスの男子から借りてきたんだ。……『モンスターズ・クロニクル』のカードデッキと、昔みんなでやってた格闘ゲームのソフト」

 

 モンスターズ・クロニクル。俺たちが小学五年生の頃、男子の間で爆発的に流行っていた対戦型トレーディングカードゲームだ。そして隣に置かれているのは最大四人で乱闘できる、当時誰もが熱中したテレビゲームのパッケージだった。

 

 「……マジか。お前、そいつからわざわざ借りてきたのかよ」

 「うん。……あの頃、うちは両親が共働きで裕福じゃなかったから、こういうの買ってもらえなくてさ」

 

 瀬戸は少しだけ懐かしそうに色褪せたカードの束を指先でなぞった。

 

 「休み時間はいつも図書館で本を読んでたけど、本当は教室の後ろで盛り上がってるみんなの輪にちょっとだけ憧れてたんだ。……いつかやってみたいなって、ずっと思ってた」

 

 彼のその言葉が俺の胸の奥をチクリと刺した。当時の俺たちには、「一緒に遊ぶ」という接点など微塵もなかった。教室という箱庭の「王様」だった俺と、その輪に入れず一人で本を読んでいた彼。俺が彼に向けたベクトルは理仏尽な苛立ちと、一方的で陰湿ないじめだけだったのだから。

 

 「カヤさん……いや、宮本は昔教室で無双してたでしょ? レアカード自慢してさ」

 「っ、それは……!」

 

 過去の痛い記憶を掘り起こされ俺は思わず口ごもった。確かにあの頃、俺は祖父や親の金にモノを言わせて箱買いを繰り返し、最強のレアカードでデッキを固めていた。そして手駒である周囲の男子たちを完膚なきまでに叩きのめしては悦に浸る嫌なガキだった。「どうだ、俺が一番強いだろ」と金の力で無双しただけの結果を自分の実力だと勘違いしていたのだ。

 

 だが瀬戸皓二朗はその輪にすら入っていなかった。俺たちはカードを交えることも、コントローラーを握って並んで座ることもなかった。つまり俺と彼がこうして向かい合い、「ゲーム」というただの遊びに興じるのは人生で初めてのことなのだ。

 

 「ルールは教えてもらったから大体分かるよ。今日は、あの頃できなかった『放課後のゲーム対決』を申し込もうと思って」

 

 瀬戸は悪戯っぽく笑いながら二つのデッキをコタツの上に並べた。俺はマグカップを置き、その片方のデッキを手に取った。過去の罪悪感と、それ以上に彼が今日この日のためにわざわざ友人からゲームを借りてきてくれたという事実が俺の胸を熱くさせる。

 

 「……いいぜ、あの頃みたいに金の力は使えないけど頭脳戦なら負けねぇからな。ボコボコにしてやるよ」

 

 俺が口角を上げ、男特有の好戦的な笑みを浮かべると瀬戸はわざとらしく肩をすくめた。

 

 「おや、随分と口が悪くて自信満々だね。……そういうところは相変わらず『貴也くん』なんだな」

 「〜〜〜ッ!!」

 

 不意打ちで放たれたその呼び名に俺の顔が一気に沸騰した。

 

 『貴也くん』

 

 こいつは俺が男らしい口調を使ったり、かつての「宮本貴也」のような負けず嫌いな態度を見せたりした時だけ、あえていじるようにその名前で呼ぶのだ。元男としての過去を許してくれているからこその彼なりのジョークだと分かってはいるが、女の身体になった今その名前で呼ばれるのは、とてつもなく小っ恥ずかしい。

 

 「う、うるさいっ! 今はカヤじゃなくて貴也でいいんだよ! 勝負事に男も女も関係ねぇ!」

 「ははは! 頼もしいな。それじゃあ負けた方がピザとケーキの取り分け係ってことで」

 

 瀬戸は心底楽しそうに笑いながらコタツの上でカードの山をシャッフルし始めた。

 

 外は街のあちこちでロマンチックな空気が流れるクリスマスイブ。だが俺たちの小さなアパートのリビングには、そんな雰囲気など微塵もなかった。あるのは小学生の男子二人が放課後に集まってゲームをするような騒がしくて、遠慮がなくて心から安らげる「少年の日の延長戦」の空気だけ。

 

 交わることのなかったあの頃の空白を、今このコタツの上で埋めていく。

 

 「先行はもらうぜ、瀬戸。……ドロー!」

 

 俺は眼鏡を指で押し上げ、勢いよくカードを引いた。

 

 ……

 …………

 ……………………

 

 「そこっ! 隙だらけだぜ! メガスマッシュ!!」

 「あーっ! また、またやられた……!」

 

 狭いアパートのリビングにカヤさんの歓喜の声と僕の情けない悲鳴が響き渡った。テレビ画面の中でデフォルメされた格闘ゲームのキャラクターが派手なエフェクトと共に場外へと吹き飛ばされ、『GAME SET』の文字が残酷に浮かび上がる。これで僕の通算十二戦全敗だ。

 

 「はははは! 弱っ! 瀬戸、お前ホントにこういうゲーム才能ねぇな!」

 

 パーカー姿のままコタツから身を乗り出しコントローラーを握りしめて高笑いする彼女の顔は、今まで見たどんな顔よりも生き生きとしていた。度の入った黒縁眼鏡が鼻から少しずり落ちているのも気にならないらしく、画面に向かってドヤ顔をキメている。学校での「清楚で大人しい図書室の文学少女」の面影は、そこには微塵もなかった。

 

 「……仕方ないだろ。僕、家にこういうゲーム機なかったからコントローラーのボタンの位置すらまだ怪しいんだよ」

 「言い訳すんなって。ボクシングで鍛えた動体視力とか反射神経とかあるだろ?」

 「画面の中の動きと指先の連動は、また別の話なんだよ……」

 

 僕がコタツの天板に突っ伏してため息をつくと、カヤさんは「ふふん」と鼻を鳴らし僕の頭をポンポンと、まるで子供を労うように乱暴に叩いた。

 

 「ま、あの頃お前が経験できなかった『放課後のゲーム対決』ってやつを、今俺が全力で叩き込んでやってるんだ。感謝しろよな」

 

 かつて「宮本貴也」だった頃の彼女なら弱者を徹底的に嘲笑い、尊厳を抉るような言葉をぶつけていただろう。だが今の彼女の口調には悪意の欠片もない。ただ純粋に対等な悪友とゲームで勝ったことの優越感を楽しんでいるだけの、無邪気で等身大の「少年の顔」だった。それが僕にはたまらなく愛おしく、そして同時に少しだけ悔しかった。

 

 「……もう一回。次こそは勝つ」

 「おっ、言うねぇ。いいぜ、何度でも相手してやるよ。……でも、ただやるだけじゃつまんねぇな」

 

 カヤさんはコントローラーを置き、腕を組んでニヤリと笑った。

 

 「よし。じゃあ、ちょっとした『人参』をぶら下げてやる。次の試合でお前が俺に勝てたら、俺が何でも一つ、お前の言うことを聞いてやるよ」

 「えっ」

 「パシリでもいいし、肩揉みでもいい。何なら次のデートの行き先をお前の好きに決めてもいいぜ。どうだ? これなら少しはモチベーション上がるだろ」

 

 得意げに言い放つ彼女の言葉を聞いた瞬間。僕の脳裏に、ある「明確な願い」が閃いた。

 

 一つ、言うことを聞く。僕が彼女に望むことなんて、もうそんなに多くはない。過去の罪も異質な身体もすべて受け入れて、こうして互いに好意を口にし合える関係になれただけで十分すぎるほど幸せだからだ。ただ、たった一つだけ。彼女に「変えてほしい」と密かに願っていたことがあった。

 

 『瀬戸』

 『瀬戸くん』

 

 彼女が僕を呼ぶ時の名前。学校では「瀬戸くん」。そして二人きりの時は男友達のようにぶっきらぼうに「瀬戸」 それは確かに僕たちが「加害者と被害者」という呪縛を抜け出し、対等な関係になれた証だった。

 

 でも僕たちはもう、ただのクラスメイトでも悪友でもない。明確な関係の名前こそまだお互いに口にしていないけれど、「好きだ」と言い合った特別な関係のはずだ。だから僕のことも下の名前で呼んでほしい。

 

 (……勝つ。絶対に勝つ)

 

 僕の腹の底に、かつてリングの上でゴングを聞いた時のような、静かで熱い闘志がボワッと燃え上がった。

 

 「……本当だね? 何でも言うことを一つ、聞いてくれるんだね」

 

 僕が姿勢を正し、低い声で念を押すとカヤはビクリと肩を震わせた。

 

 「お、おう。……俺は二言はねぇよ」

 「分かった。じゃあ、次の試合は本気でいくよ」

 

 僕はコントローラーを握り直し、画面を真っ直ぐに見据えた。視界が極限まで狭まり画面の中のキャラクターの挙動、ボタンのストローク、フレームの隙間だけが脳内にクリアな情報として流れ込んでくる。動体視力と集中力。ボクシングで培ったすべてを今この親指の先に集約させる。

 

 「ちょ、ちょっと待て……お前、なんか急に空気変わってないか……?」

 

 僕の異様な集中力を察知したのか、隣に座るカヤさんの声が微かに震えを帯びた。

 

 「せ、瀬戸……? お前、俺に何させる気だ……?」

 

 彼女が恐る恐る僕の顔を覗き込んでくる。もしかして、とんでもなく変態的な要求をされるのではないかと、過去のトラウマも相まって想像が膨らんでしまったのだろう。黒く澄んだ瞳が揺れ、少しだけ怯えたように身体を縮こまらせている。

 

 「心配しないで。カヤさんが嫌がるようなことは絶対に言わないから」

 「そ、そうか? ならいいけど……お前、たまに真っ直ぐな目でとんでもなく重いこと言ってくるから、心臓に悪いんだよ……」

 

 「ROUND START !」

 

 画面の電子音が鳴り響いた瞬間、僕は一切の躊躇なく指を動かした。今までの十二戦で彼女の攻撃パターン、癖、回避のタイミングは完全に頭に叩き込んである。あとは、それに指が追いつくかどうかだけだ。

 

 「なっ……! お前、なんで今の躱せるんだよ!」

 「そこ、右からの攻撃の後は必ずガードが甘くなるでしょ」

 「くそっ、ならこっちから……!」

 「遅い。カウンター」

 「うわああああああっ!?」

 

 数分後。僕の操作するキャラクターの渾身の必殺技がカヤのキャラクターに直撃し、画面いっぱいに『KO!』の文字が躍った。

 

 「…………嘘、だろ」

 

 カヤさんはコントローラーを取り落とし、ポカンと口を開けて画面を見つめていた。僕は深く息を吐き出し、強張っていた両手の指をほぐす。

 

 「よし。……僕の勝ちだね」

 

 僕が微笑みかけるとカヤはハッと我に返り、それから悔しそうにコタツの天板に突っ伏してジタバタと暴れ始めた。

 

 「あーっ! クソォォォ! 油断した! お前、学習能力高すぎだろ!」

 「伊達にジムで毎日スパーリングの分析してないからね。……さて、それじゃあ約束通り僕のお願い、聞いてもらおうかな」

 

 僕が言うとカヤはピタッと動きを止め、のろのろと顔を上げた。耳まで真っ赤に染め、首元までパーカーのジッパーを引き上げて防備を固めながら恐る恐る僕を見る。

 

 「……な、なんだよ。言っておくけど、俺の身体は低体温だし、アスリスのせいで体力もないし、変なこと要求されても……」

 「だから、変なことはしないってば」

 

 僕は苦笑し、コタツの中で彼女の左手をそっと握った。ゲームの熱気で彼女の指先はいつもより少しだけ温かかった。

 

 「カヤさん。……僕のこと、『皓二朗』って呼んでみて」

 「……えっ?」

 

 カヤは目を丸くしてパチパチと瞬きをした。予想外の要求だったのか、それとも意味を理解するのに時間がかかっているのか、彼女の口元が微かに動いたまま固まっている。

 

 「いつも『瀬戸』とか『瀬戸くん』でしょ。……僕たち、お互いに好きだってちゃんと言い合った特別な関係なんだから、そろそろ下の名前で呼んでほしいなと思って。それが僕のお願い」

 

 僕が真っ直ぐに見つめて言うとカヤさんの顔がみるみるうちに、これ以上ないほど真っ赤に沸騰し始めた。ボフッ、と頭から湯気が出そうな勢いだ。

 

 「なっ……そ、それだけ!? ていうか、下の名前って……!」

 「うん、呼んでみて」

 「む、無理だ! ハードル高すぎるだろ! 俺とお前は小学生の頃からずっと名字で呼び合うしか接点がなかったのに、いきなりそんな……!」

 「約束は約束だよ、貴也くん」

 

 僕がわざと男友達をいじる時のように『貴也くん』と呼ぶと、彼女は「ぅぅ……っ」と呻き声を上げ、両手で顔を覆ってしまった。

 

 「……卑怯だぞ、お前。そういう時だけ、俺が絶対断れない空気作りやがって……」

 

 指の隙間から恨めしそうな声が漏れる。しばらくの間、彼女はコタツの中で身悶えしていたが、やがて観念したように大きく深呼吸をし、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。

 

 照れと恥ずかしさで潤んだ瞳が揺れている。男友達のような「俺」の口調から、一人の女の子としての「カヤ」へと完全にスイッチが切り替わった瞬間だった。

 

 「……こ、皓二朗……くん」

 

 消え入るような、震える声。それは九条綴を演じていた時のアルトの作り声でも、男言葉の時のぶっきらぼうな声でもない。素の「梶田カヤ」としての、ひどく甘くて、柔らかい響きだった。

 

 「……うん。すごくいいよ、カヤさん」

 「〜〜〜ッ! もう一回ゲームだ! 今度は絶対に負けないからな!」

 

 耐えきれなくなったカヤが照れ隠しで再びコントローラーに手を伸ばそうとする。僕はそれを優しく遮り、立ち上がった。

 

 「ゲームはまた後で。……お腹すいたでしょ、ピザ温め直すしケーキも切るよ。勝者は敗者に奉仕してもらえるんじゃなかったの?」

 「……っ、お前が自分でやるなら奉仕でもなんでもないだろ……」

 

 カヤさんはコタツに顔を半分埋めながら、ブツブツと文句を言っている。僕はキッチンに立ち、電子レンジのボタンを押した。

 

 外はすっかり日が落ち、窓の外にはクリスマスイブの夜景が広がり始めている。イルミネーションの輝く街に出かけるのも素敵だけど、僕は今、この小さなアパートの部屋でコタツに入ってゲームをして、ショートケーキを切り分けているこの時間が世界中のどんなロマンチックな光景よりも愛おしかった。

 

 「……なあ、皓二朗」

 

 ピザの温め終わりを待っていると、背後から少しだけ恥ずかしそうな、けれど穏やかな声が聞こえた。

 

 「俺……今日、お前と一緒に遊べてすごく楽しかった」

 「……僕もだよ、カヤさん」

 

 振り返ると彼女はコタツの中で丸くなりながら、今までで一番優しくて嘘のない微笑みを浮かべていた。

 

 その笑顔にたまらなく胸が熱くなり僕はキッチンから戻ってコタツに入り直すと、自分のカバンを引き寄せた。中から綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出し、彼女の前にそっと差し出す。

 

 「はい、これ。……メリークリスマス」

 

 僕が箱を差し出すと彼女は驚いたように目を丸くし、身体を起こしてそっと包装紙を開けた。中に入っているのは裏地にふかふかのボアがついた、キャメル色の手袋だ。

 

 「カヤさんの平熱だと、これからの季節の登下校は本当に辛いだろうから。少しでも温かくなればと思って」

 

 平熱が34℃台しかない彼女の特異体質。それが彼女にとってどれほど過酷な「呪い」であるかを僕は知っている。だからこそ少しでもその冷たさを和らげたかった。

 

 「……ありがとう。すげぇ嬉しい」

 

 手袋を大切そうに胸に抱きしめ、彼女が柔らかく微笑む。すると、カヤさんはふいにコタツから立ち上がりクローゼットの奥に隠してあったらしい紙袋を取り出して戻ってきた。

 

 「俺からも。……はい」

 

 差し出された紙袋から僕は少し震える手で中身を取り出した。

 

 「わぁ……マフラーだ。すごく綺麗なネイビーだね」

 「お前、いっつもシンプルな格好ばっかりだろ? だから何にでも合わせやすい色にしておいた」

 

 彼女はそっぽを向きながら少しぶっきらぼうに言い訳を並べた。けれど僕のために悩みながらこれを選んでくれた彼女の不器用な優しさが伝わってきて、僕は今までで一番の笑顔になっていたと思う。

 

 「ありがとう、カヤさん! すごく温かい……明日から毎日学校につけていくよ」

 

 僕は早速そのネイビーのマフラーを首に巻きつけ、幸せを噛み締めるように目を細めた。カヤさんは僕の首元を見て、つられたように自然と顔を綻ばせた。

 

 交わることのなかった過去の空白は今日、この温かいコタツの上で完全に埋められた。これからはもう誰の真似も必要ない。不格好で、騒がしくて、けれど嘘の全くない等身大のふたりだけの物語。

 その新しいページが聖夜の静寂の中で、ゆっくりと確かにめくられていった。

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