銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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34℃のショコラティエと恋の贈与論

 二月上旬。一年で最も容赦のない寒波が日本列島を覆い尽くし、校庭の土は霜柱で白く凍りついていた。平熱34℃台という特異体質を持つ俺にとって、この季節の登校は文字通り生死を分けるサバイバルだ。どれだけ厚着をしてもマフラーで首元を厳重に防御しても、骨の髄まで冷え切っていく感覚は拭えない。

 

 1年2組の教室。フル稼働している暖房の恩恵にすがりつくようにして俺は自分の席で小さく丸まりながら文庫本のページをめくっていた。

 

 「おっはよー、カヤ! ……って、おおっ!?」

 

 登校してきた前の席の麻依が俺の顔を見るなり大げさに目を丸くして立ち止まった。

 

 「どうしたの、麻依。朝から大声出して」

 「いや、どうしたじゃないよ! カヤ、今日……学校に眼鏡してきてないじゃん! コンタクトにしたの?」

 「ううん、裸眼。最近少し視力が落ち着いてきたみたいで黒板の文字も普通に見えるから、もうなくても平気かなって」

 

 俺が本から視線を上げて「私」の口調で答えると麻依はズイッと顔を近づけて、まじまじと俺の素顔を覗き込んできた。

 

 「じゃあ、なんで今までずっとあんなインテリっぽい銀縁眼鏡かけてたのさ! 休日に遊ぶ時はたまに外してたけど、学校で完全に外してきたのって初めてだよね。まあ眼鏡のカヤも知的美人って感じで可愛かったけど、私的には今の裸眼のほうが自然体で似合ってると思うな!」

 「……大げさ。ちょっと、色々あって。もう無理して『そういうキャラ』を作らなくてもいいかなって思えたから」

 

 俺が苦笑しながら答えると麻依は何かを察したようにニヤニヤと笑い、俺の肩をポンポンと叩いた。

 

 「なるほどねー。クリスマスイブに皓二朗くんと一日中コタツに引きこもって愛を深め合った結果、さらに素の自分を見せられるようになったと。ヒューヒュー!」

 「ちょ、ちょっと麻依、声が大きい! 変な言い方しないでよ、別にそういうロマンチックなアレじゃなくて、ひたすらゲームしてピザ食べてただけだから!」

 

 からかう麻依を追い払いながら俺は自分の胸ポケットにそっと指先で触れた。

 

 銀縁の眼鏡。

 

 それは俺にとって、彼と自分が愛した物語のヒロイン『九条綴』という、気高く知的な理想の女性像に近づくための、そして彼女の完璧な振る舞いを模倣するための、大切な小道具だった。

 

 彼と対等な関係になり等身大の自分の足で歩き始めた今、もうその模倣のレンズを通して世界を見る必要はない。けれど、捨ててしまう気にはなれなかった。あの春の日、図書室で彼と初めて言葉を交わした時。あの眼鏡があったからこそ俺は彼と繋がることができたのだから。これは俺にとって過去の虚飾ではなく、彼と出会えた大切な「お守り」へと変わっていた。

 

 「まあ、いかにもカヤたちらしい健全なお付き合いで何よりだけどさ」

 

 麻依は自分の席にカバンを置き、くるりと振り返って俺の机に身を乗り出してきた。その瞳には女子特有の「恋バナ」を求める好奇心がギラギラと輝いている。

 

 「で? 来週はいよいよ『あの日』だけど準備は進んでるわけ?」

 「……あの日?」

 「とぼけないの! 二月十四日、セント・バレンタインデー! カヤはもちろん皓二朗くんに手作りチョコ渡すんでしょ?」

 「――っ!?」

 

 バレンタイン。その単語を聞いた瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。

 

 「えっ、て、手作り……!? いや、作ること自体は別にレシピさえあれば難しくないと思うけど……」

 「はあ? あんたたちお互いに好き同士なんでしょ!? 初めてのバレンタインで手作りチョコ渡さなくてどうするのさ! 絶対に皓二朗くんも期待してるって!」

 

 鼻息を荒くして詰め寄ってくる麻依から身を反らしながら、俺の脳内は凄まじい勢いで警鐘を鳴らしていた。

 

 (……お菓子作りなんて所詮は分量の計量と温度管理。化学実験の延長に過ぎない。俺の器用さとセンスをもってすれば高級店並みのチョコレートを作り上げることも造作はないだろう)

 

 俺は内心で冷静に分析する。問題は、そこではないのだ。

 

 (それを、あいつに『渡す』……? 俺が? モジモジしながら『これ、受け取って』と……?)

 

 想像した瞬間、全身から冷や汗が吹き出した。かつて「宮本貴也」という傲慢な男子だった頃、バレンタインとは己のカーストの高さを証明するためのイベントでしかなかった。そんな俺がエプロン姿でチョコを作り、あまつさえ恋する乙女のような顔をして彼にそれを差し出す?客観的に見てホラーだ。小っ恥ずかしすぎて俺のちっぽけなプライドが木端微塵に爆発四散してしまう。

 

 「だ、だからって手作りはハードルが高すぎるって……! 市販の板チョコで十分じゃない!? っていうか、渡す時のシチュエーションとか想像しただけで、恥ずかしくて発狂しそうなんだけど……!」

 「何言ってんの! そこは気合で乗り切るの! ほら、カヤって極度の冷え性だよね? 手、いっつも冷たいし」

 

 麻依は逃げ腰になる俺の手をガシッと掴み、ニカッと笑った。

 

 「チョコ作りには、その冷たい手が圧倒的に有利なんだよ! トリュフ丸める時とか手の温度が高いとチョコがドロドロに溶けちゃって大惨事になるんだけど、カヤの手の冷たさなら絶対に綺麗に丸められるよ! まさにショコラティエ向きの体質!」

 「……マジか」

 

 思わぬところで、この特異体質が肯定されてしまった。麻依にはアスリスのことは秘密にしているが彼女の言う通り、俺の冷え切った34℃の手ならチョコレートの繊細な温度管理を邪魔することはない。俺の器用さと、この体質が合わされば完璧なチョコレートが完成するだろう。

 

 (……皓二朗に、手作りチョコ)

 

 頭の隅にクリスマスイブの日にマフラーをプレゼントした時の、彼の底抜けに嬉しそうな笑顔がよぎる。あいつはきっと俺が市販のチョコを適当に投げ渡しただけでも、「カヤさんが僕のために買ってくれたんだね」と拝むように喜ぶだろう。でも、だからこそ。

 

 今まで数え切れないほどの熱と居場所をくれた彼に俺自身の「手」で作った完璧なものを渡してみたい。あいつとはお互いの過去の因縁を解消した次の日の放課後に「好きだ」と言い合ったけれど、まだ明確な「恋人」という言葉は交わしていない。この中途半端な距離感を、このバレンタインをきっかけにはっきりさせたいという思いも、心の奥底で静かに燻っていた。渡す時の羞恥心で死にそうになっても彼を喜ばせたい、関係を一歩進めたいという感情の方が、ずっとずっと大きくなっていた。

 

 「……麻依」

 「ん?」

 「……休日に、キッチン貸して。絶対に失敗しない最高のやつを作るから」

 「ふふっ、任せなさい! 最高に甘いやつ作らせてあげるからね!」

 

 こうして俺の『34℃の不器用なショコラティエ』への道が幕を開けたのである。

 

 放課後の図書室。いつもの窓際の特等席で僕は新しく借りた海外のミステリ小説を読んでいた。ガラリ、と引き戸が開く音がして冷たい空気と共に彼女がやってくる。

 

 「……お疲れ、皓二朗」

 

 向かいの席にドサリと鞄を置き、カヤさんが気怠げに椅子に座る。僕の前でだけ使う、少しぶっきらぼうな「俺」の口調。そしてその顔を見て僕は本を読む手を止め、思わずじっと見入ってしまった。

 

 「……何だよ、人の顔ジロジロ見て」

 「ごめん。……でも、やっぱりまだ少し見慣れないなと思って」

 

 三学期に入ってから、彼女は時折眼鏡を外して僕の前に現れるようになった。そして今日、彼女は学校でも完全に眼鏡をかけるのをやめ、裸眼のまま登校してきたらしい。銀縁のレンズという「境界線」が取り払われた彼女の素顔は、黒く澄んだ瞳の美しさや、長いまつ毛の繊細な影がダイレクトに伝わってきて、正直に言えば向かい合っているだけで少しドキドキしてしまうほどだった。

 

 「麻依にも朝から大騒ぎされたよ。……変か? やっぱり、なんか物足りないとか?」

 「ううん、すごく可愛いよ。素顔のカヤさんが真っ直ぐ見えて僕はこっちの方が好きかも」

 

 僕が素直な感想を伝えるとカヤさんは一瞬言葉に詰まり、すぐに耳を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。

 

 「……お前なぁ、ホントそういうことサラッと言うの禁止しろって言ってるだろ。俺の心臓が持たない」

 「ふふっ。でも、少し寂しい気もするかな。図書室の窓際で、あの銀縁眼鏡をかけて本を読んでるカヤさん、すごく知的で『九条綴』っぽくて綺麗だったから」

 

 僕が少しだけからかうように言うとカヤさんはピクッと肩を揺らし、流し目で僕を睨んできた。

 

 「……ふーん? お前、俺の素顔より、あの『完璧なヒロイン』のガワの方がお好みってわけか」

 「いや、そういうわけじゃ――」

 

 弁解しようとした僕の目の前で彼女は自分のブレザーの胸ポケットから、あの見慣れた銀縁の眼鏡を取り出した。

 

 そして、それをスッと耳にかける。次の瞬間、彼女を纏う空気が男友達のような気安い「カヤさん」から完全に別人のそれへと切り替わった。

 

 背筋をピンと伸ばし顎を微かに引く。両手を机の上で優雅に重ね、冷ややかでありながら、どこか慈愛に満ちた眼差しで僕を見つめてきた。

 

 「――瀬戸さん」

 

 アルトの、低くて滑らかな鈴の音のような声音。一人称も口調も完全に『九条綴』のそれに切り替わっている。

 

 「マルセル・モースは『贈与論』において、贈り物は単なる物の移動ではなく、魂の交歓であると定義しました。……さて、来たる二月十四日。貴方はカカオ豆の恩恵を、どのような形で享受するのがお好みですか? ビターな真実か、それともミルクのように甘い欺瞞か……」

 「〜〜〜〜ッ!!」

 

 不意打ちで放たれた完璧すぎる「九条綴モード」の引用に、僕の顔が爆発したように熱くなった。かつて僕が心底憧れ、そして初恋の対象であった物語のヒロインが現実世界に顕現して自分に「バレンタインのチョコは何がいいか」と遠回しに聞いてきているのだ。その破壊力たるや凄まじい。

 

 「や、やめてカヤさん……! それ、僕のトラウマというか、弱点なんだから……!」

 

 僕が耐えきれずに手元の本で顔を隠して身悶えするとカヤさんは眼鏡の奥の目を丸くして、それから「ふははは!」と、いつものぶっきらぼうな声で腹を抱えて笑い出した。

 

 「あっはは! お前、ホントにそのモードに弱いよな! 顔真っ赤だぜ!」

 「……ずるいよ。素顔で可愛い顔見せたかと思ったら、いきなりそんな必殺技……」

 「お守り代わりだよ。捨てようかとも思ったけど、たまにこうやってお前をからかう時に使えるだろ?」

 

 カヤさんは眼鏡のブリッジを指で押し上げながら悪戯っぽく舌を出した。

 

 「それに……まともに『どんなチョコが好きか』なんて聞くの俺のガラじゃないし、恥ずかしいからな」

 

 その言葉の奥にある彼女なりのいじらしい本音に気づき、僕の胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 かつて理想のヒロインへと近づくために彼女が自ら選んで身につけた「九条綴」という模倣のレンズ。それは今、照れくさい愛情を隠すための最高に幸せで、ほんの少し意地悪な「冗談」へと変わっていた。

 

 二月十三日、日曜日。バレンタインデー前日の午後。俺は麻依の家のキッチンで完成したばかりの「それ」を前にして静かに息を吐いていた。

 

 「うわあああ! すごいすごい! お店で売ってるやつみたいに真ん丸! カヤ、マジで魔法の手じゃん!」

 

 隣でエプロン姿の麻依が感嘆の声を上げて拍手をしている。深いネイビーのシックな包装紙に銀色のリボンがかけられた小箱。その中には先ほど俺が丸めた六つのトリュフチョコレートが綺麗に整列しているはずだ。

 

 「……まあね。言ったでしょ、お菓子作りなんて所詮は分量の計量と温度管理なんだから、レシピさえあれば難しくないって」

 

 俺は平静を装って肩をすくめた。事実、作業自体は拍子抜けするほど簡単だった。湯煎で溶かしたチョコレートに生クリームを混ぜ、冷やし固めたガナッシュを丸める。麻依が手本で見せてくれた時は彼女の手の熱でチョコがすぐに溶け出してしまっていたが、平熱34℃台で極度の冷え性である俺の手の中ではチョコは全く溶ける気配を見せず、まるで冷たい粘土を捏ねるようにスルスルと美しい球体へと形を変えていったのだ。

 

 (俺の器用さとこの体質が合わされば、これくらい造作もない)

 

 我ながら高級パティスリーのショーケースに並んでいても遜色のない出来栄えだ。

 

 「完璧だね! これで明日の放課後、チョコと一緒に皓二朗くんにバシッと告白して、正式にカップル成立間違いなし!」

 「…………」

 

 麻依が無邪気にガッツポーズをする横で。綺麗にラッピングされた箱をじっと見つめていた俺の背中に、急激に冷たい汗が流れ落ちた。

 

 (……待てよ?)

 

 手作りチョコを完成させ、彼に「渡す」という決心まではなんとか腹を括ることができた。だが問題はその「先」だ。俺は、このバレンタインというイベントをきっかけに今の「互いに好きだと言い合っただけの中途半端な関係」をはっきりさせたいと密かに企んでいた。

 

 『俺と……正式に、恋人になってください』

 

 それを明日、あの図書室で? 二人きりの状況で? 俺の口から、そんな甘ったるくて小っ恥ずかしい決定的な台詞を言うのか? かつて周囲からの好意を平気で捨てていたあの「宮本貴也」だった俺が!?

 

 「っ……む、無理だ……!!」

 「えっ!? ちょ、カヤ!?」

 

 俺は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

 

 「麻依。……ごめん、やっぱり明日、チョコを渡すだけにして告白はまた今度にしてもいいかな……」

 「はあああっ!? 何言ってんの!? せっかくバレンタインに手作りチョコ渡すっていう最高のシチュエーションなのに!」

 「だって……! あいつに好きだの恋人になってくれだの言う自分の顔とか態度とか想像したら、恥ずかしくて発狂する! 手作りチョコを渡すだけでもキャパオーバーなのに、その上正面から告白までしろとか客観的に見てホラーでしょ! 私のプライドが木端微塵に爆発四散してしまう!」

 

 完全に逃げ腰になり後ずさる俺を、麻依は鬼のような形相でガシッと両肩から捕まえた。

 

 「プライドが何! カヤはもう皓二朗くんに恋してる一人の女の子でしょ! 好きな人にチョコ渡して、ちゃんと告白しないでどうすんの! ここまできて逃げたら絶交だからね!!」

 「ひぃぃっ……!」

 

 結局、俺は麻依に退路を完全に断たれ震える手でそのネイビーの小箱をスクールバッグに押し込むことになった。

 

 

 

 

 二月十四日、放課後の図書室。いつもの窓際の特等席で文庫本を開いていたが活字はまったく頭に入ってこなかった。視線は活字の上を滑るだけで、僕の意識は図書室の重い引き戸の方へばかり向いている。

 

 朝からクラスの男子たちは机の中や下駄箱を覗き込んでは一喜一憂し、そわそわと落ち着かない空気を漂わせていた。僕自身も義理チョコをいくつか貰うことはあったけれど、今日の僕の心臓がこれほどまでに高鳴っている理由はただ一つ。

 

 数日前、カヤさんが「九条綴」の真似をして遠回しに聞いてきた、あの約束。彼女が僕にチョコレートを渡してくれるかもしれないという期待。

 

 ガラリ、と引き戸が開く音がした。顔を上げると冷たい外気と共に見慣れた姿が図書室に入ってくる。

 

 「……お疲れ、皓二朗」

 

 カヤさんは僕の向かいの席に座り、スクールバッグを膝の上に置いた。僕の前でだけ使う少しぶっきらぼうな「俺」の口調。素顔のままの彼女は、いつもより少しだけ血色が良く、そして明らかに挙動不審だった。視線が定まらずバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、唇を微かに噛んでいる。

 

 「お疲れ様、カヤさん。外、寒かったでしょ」

 「お、おう。……あのさ」

 

 彼女は深呼吸を一つして、膝の上のバッグから綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出した。深いネイビーの包装紙に銀色のリボンが結ばれている。シックで、とても彼女らしい包みだ。

 

 「これ。……その、お前に、やる」

 

 箱を差し出す彼女の手は微かに震え、顔は耳まで真っ赤に染まっていた。逃げ出したいような照れくささと必死に戦っているその不器用な姿が、僕はもう愛おしくてたまらなかった。

 

 「ありがとう。すごく嬉しい……開けてもいい?」

 「……ん」

 

 彼女が小さく頷くのを見て僕は丁寧にリボンを解き、箱の蓋を開けた。中に入っていたのは綺麗にココアパウダーがまぶされた、真ん丸なトリュフチョコレートが六つ。一つ一つの形が均一で、まるで高級なパティスリーで買ってきたかのような美しさだ。

 

 「うわぁ……すごい。これ、手作り?」

 「……まあな。麻依に作り方は聞いたけど作業は全部俺がやった」

 

 カヤさんは照れ隠しのように早口で言い訳を始めた。

 

 「言っとくけど俺が殊勝に女子力を発揮したとかそういうんじゃねぇからな! 元々俺は手先が器用だし何より俺の手は平熱が34℃台で冷たいだろ? だからチョコを手のひらで丸める時に手の熱で溶けなくて形が綺麗に整っただけだ! 物理的な有利さの証明であって別に、その、変な意味は……!」

 

 必死にまくし立てる彼女を見て、僕はたまらずに吹き出してしまった。かつては自分の体質を呪い、過去のプライドに縛られていた彼女が。今、その冷たい手を最大限に活かして羞恥心に耐えながら、僕のためにこんなに綺麗なチョコレートを作ってくれたのだ。

 

 「……食べてみて、いいかな」

 「あ、ああ。……でもここ、図書室だぞ。飲食禁止……」

 

 カヤさんが慌てて周囲を見渡すが、いつもカウンターにいる司書さんの姿はなかった。

 

 「司書さんなら、さっき『少し新刊の整理で奥の書庫に行ってきますね。他の生徒が来るまでは戻りませんから』って、目を細めて笑いながら出て行ってくれたよ。……だから、汚れさえ残さなければ、今だけは知らないふりをしてくれるみたい」

 「……そ、そうか。……なら、味は普通だと思うけど」

 

 僕は箱の中から一つトリュフをつまみ、口に運んだ。舌の上で上質なカカオの香りと生クリームの濃厚な甘さが、ゆっくりと溶けていく。

 

 「……美味しい」

 

 僕が心からそう言うとカヤさんの肩からフッと力が抜け、黒く澄んだ瞳が安堵に揺れた。

 

 「本当、か?」

 「うん。すごく甘くて、なめらかで……今まで食べたチョコレートの中で一番美味しいよ」

 

 僕が微笑みかけると彼女は自分の顔の熱さに耐えきれなくなったのか、「あーっ! もう無理!」と小さく叫び、ブレザーの胸ポケットに手を伸ばした。

 

 そして、スッとあの「銀縁眼鏡」を耳にかける。

 

 「……マルセル・モースは『贈与論』において、贈り物は単なる物の移動ではなく、魂の交歓であると定義しました」

 

 眼鏡の奥で知的なヒロイン『九条綴』が恥ずかしさを隠すための分厚い盾として、少しだけ意地悪に微笑んでいる。

 

 「私の冷たい手が作り出した甘い欺瞞(チョコレート)に、貴方がそこまで騙されてくださるのなら。……ショコラティエとしては本望というものです」

「あはは、またそれ。……でも、その欺瞞になら僕は一生騙されていてもいいかな」

 

 僕が笑って答えると彼女は「……バカ」と小さく呟き、自ら眼鏡を外した。素顔に戻った彼女の頬は夕日よりも赤く染まっている。

 

 彼女は膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと深呼吸をした。その真剣な空気に僕も自然と姿勢を正す。

 

 「……なあ、皓二朗」

 「うん」

 「あの日……お互いの過去の因縁を全部清算した、次の日の放課後にさ。……お互いに好きだって言ったけど。あれから俺たちって……その、なんだ。明確な言葉を交わしてなかっただろ」

 

 彼女の言葉に僕はハッとした。確かに、あの日僕たちは互いの想いを確認し合った。けれど、「付き合おう」という明確な契約のような言葉は口にしていなかった。僕としては彼女の過去の傷やペースを尊重したくて、急かすようなことはしたくなかったのだ。

 

 「だから、今日……このチョコを渡すのをきっかけに、俺の方から、はっきりさせておきたくて」

 

 カヤさんは恥ずかしさに耐えかねるように赤く染まった顔を上げ、黒く澄んだ瞳で僕を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥には、かつての逃げ腰だった彼女はもういない。大好きな人に向かって全身で勇気を振り絞っている一人の女の子の強さがあった。

 

 「俺と……正式に、恋人になってください」

 

 凛とした、けれど微かに震える声。図書室の静寂の中に響いたその真っ直ぐな告白に僕の胸の奥は、先ほど食べたチョコレートよりもずっと甘く、熱いもので満たされていった。

 

 「……はい。僕の方こそ、よろしくお願いします」

 

 僕が心からの笑顔で応えるとカヤさんはふわりと花が咲くように微笑み、それから恥ずかしさの限界を迎えたのか両手で顔を覆って机に突っ伏してしまった。

 

 「あーっ、もう! 一生分の勇気使った……! 心臓もたない……!」

 「ふふっ。ありがとう、カヤさん。……最高のバレンタインだよ」

 

 窓の外では木枯らしが吹き荒れている。けれど図書室の窓際のこの席だけは僕たちの体温と、チョコレートの甘い香りに包まれて春が来たかのように暖かかった。

 

 過去の傷も特異な体質も、プライドの高い照れ隠しも。そのすべてが愛おしい僕たちだけの初めてのバレンタインデーだった。

 

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