銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

26 / 27
抗えない夏の誘惑と触れてもいい境界線

 高校二年生の七月。期末テストの重圧から解放され、校舎が本格的な夏休みの到来を前に浮き足立っている頃。俺は定期健診のために訪れた総合病院の診察室で、担当医の言葉に静かに耳を傾けていた。

 

 「血液検査の数値も細胞組織の再構成マーカーも非常に落ち着いていますね。梶さん、最近体調が良いと感じることは増えませんでしたか?」

 

 カルテから顔を上げた初老の医師の問いに俺は小さく頷いた。

 

 「はい。以前のような鉛を引きずるような重い倦怠感は減りました。突発的な眠気の頻度も随分と落ちている気がします」

 「ええ。検査結果からもそれがはっきりと裏付けられています。どうやらアスリスの『最適化期』のピークを越え、ようやく『安定期』へと向かいつつあるようです」

 

 医師はホッとしたように、目尻のシワを深めて微笑んだ。

 

 「もちろん平熱が34℃台という低体温の特異体質自体は、すぐには変わりませんし無理は禁物です。長時間の激しい運動や極端な温度変化には引き続き注意が必要ですが……去年よりはずっと活動的に過ごせるはずですよ。せっかくの夏休みですから少し羽を伸ばしてみてはいかがですか?」

 

 「……羽を、伸ばす」

 

 病院を出て容赦なく降り注ぐ真夏の太陽の下を歩きながら、俺はその言葉を反芻していた。

 

 去年の夏休み。俺と彼を取り巻く状況は目まぐるしく動いた。七月の終わりに彼と納涼祭へ行き、そこでかつて中学生の俺を「買っていた」男の一人と遭遇してしまった。彼に「耳に開けられた八つのピアス穴」や泥水をすすって生きていた凄惨な過去を知られ、それでも彼は「君じゃなきゃ駄目なんだ」と汚れた俺の手を強く引いてくれた。

 

 その後、たまたま近所の公園で見かけた小学生たちの遊びに本気になって混ざり、あられもない姿で全力疾走するという恥ずかしい失態を演じたものの、俺たちの距離は間違いなく近づいていた。だが、あの公園での全力疾走の代償は大きかった。アスリスの最適化期にある虚弱な肉体に強烈な負荷をかけた結果、俺は深刻な全身筋肉痛を引き起こし、自らを「緊急メンテナンスモード」と称して、八月の後半は始業式までずっとアパートの自室に引きこもる羽目になったのだ。

 

 けれど今年の夏は違う。俺の身体は安定しつつあり、何より隣には彼がいる。元男であることも、宮本貴也であることも、すべてを知った上で等身大の俺を受け入れてくれた彼が。

 

 『せっかくの夏休みですから』

 

 ふと、吹き抜けた熱風が俺の背中を軽く押してくれたような気がした。

 

 数日後。放課後の教室。日直の仕事を終えた俺と皓二朗が帰り支度をしながら他愛のない雑談を交わしていると、前のドアから勢いよく一人の男子生徒が飛び込んできた。

 

 「おっ、皓二朗! まだ残ってたか! 探したぜ!」

 「高橋? どうしたの、そんなに慌てて」

 

 皓二朗のクラスメイトである高橋くんだ。昨年のクリスマス、皓二朗にカードゲームとテレビゲームを貸してくれた気さくで明るい男子生徒である。

 

 「いやさ、隣の市に新しくできた大型レジャープール、お前もニュースで見たろ? スライダーとか波のプールがめっちゃデカいやつ! あそこ、夏休み入ったら絶対行こうぜ!」

 

 高橋くんはスマートフォンの画面を皓二朗に見せながら目をキラキラと輝かせている。インドアなテレビゲームからアウトドアなレジャープールまで、遊びと名のつくものなら何でも全力で楽しむ男。それが高橋くんだ。

 

 「プールか、確かに面白そうだね。でも僕ら二人で……?」

 「そうそう、だから他のヤツらも誘ってさ……おっ、梶田さんもいるじゃん! ちょうどいい、梶田さんも一緒に行こうぜ!」

 

 俺と目が合った高橋くんは一切の躊躇いもなく、まるで公園でサッカーに誘う小学生のようなノリで俺を指差した。相手の性別が女であろうと大人しい文学少女であろうと、彼にとって「遊びの輪に入れる条件」にそんなものは関係ないらしい。本当に裏表のない良い奴だ。

 

 「えっ……私、ですか?」

 「そう! 皓二朗と梶田さん、仲良いし! 人数多い方がスライダーも盛り上がるだろ?」

 「ちょっとちょっと! プールの話なら、私も混ぜてよ!」

 

 そこに廊下を通りかかった麻依が、聞き逃さないとばかりに教室に入ってきた。

 

 「お、伊藤! お前も行くか! よし、なら今回はこの四人だな! テーマパークに行くみたいだぜ! テンション上がるなぁ!」

 「いいねー! 私、そこのプールめっちゃ行きたかったの! ねえ、カヤも絶対行こうよ!」

 

 高橋くんの無邪気な牽引力と麻依のノリの良さ。あっという間に外堀が埋まっていく。

皓二朗は俺の体調を気遣い、こっそりと耳打ちしてくれた。

 

 「高橋がどうしてもって言うけど……無理しなくていいよカヤさん。人が多いところは疲れるだろうし暑いし」

 

 確かに炎天下のプール施設など、34℃の虚弱な俺にとっては過酷な環境に違いない。去年の俺なら一秒たりとも迷わずに「構造的欠陥により辞退します」と九条綴の口調でシャットアウトしていただろう。

 

 だが俺は麻依と高橋くん、そして隣の皓二朗の顔を順番に見つめた。プール、太陽、冷たい水。友達と大好きな恋人と行く、夏休みの行楽。それは、かつて「宮本貴也」だった頃に自ら手放し、一生手に入らないと思っていた「普通の学生の青春」そのものだった。

 

 「……行く。俺も、行ってみたい」

 

 皓二朗に二人の時の口調でそう耳打ちすると、皓二朗は一瞬呆気に取られ、それからパァッと花が咲いたように嬉しそうな笑顔を見せた。

 

 「そっか! うん、行こう! 無理しそうになったら僕が絶対に止めるからさ」

 「よっしゃあ! 決まりだな! 夏休み最初のイベントはプールで決定だぜ!」

 

 高橋くんがガッツポーズをし、麻依も「やったー! カヤの水着姿、超楽しみー!」と両手を叩いて喜んでいる。

 

 その時は俺自身も純粋に楽しみだったのだ。「水着」という女の身体に作り変えられた俺にとって、最も厄介で恐ろしい防具の存在を完全に失念していたから。

 

 「……麻依、私は帰る。今すぐ帰って家の押し入れで冬眠する」

 「バカなこと言ってないで早く歩きなさい! 冬眠って今は真夏だよ!」

 

 日曜日。駅前の大型ショッピングモール。俺は麻依に腕をガッチリとホールドされ、華やかな女性用フロアを半ば引きずられるようにして歩かされていた。

 

 プールに行く約束をした日の夜。自室のクローゼットを開けた俺は戦慄した。当然だが俺には「女性用水着」の持ち合わせなど一着もない。スクール水着はあるが、まさかレジャープールに学校のゼッケン付きで行くわけにはいかない。慌てて麻依に助けを求め、今日こうして買い出しに付き合ってもらっているのだが……周囲に立ち並ぶショップのディスプレイを見るたびに俺の羞恥心は限界を突破しようとしていた。

 

 (露出が高すぎる……! 布の面積がどう考えても致死量以下だろ!)

 

 「ほらカヤ、ここ! 今年の新作がいっぱい揃ってるから!」

 

 麻依に押し込まれたのはフリルやリボン、色鮮やかな花柄のビキニが所狭しと並ぶ水着専門店だった。俺はひきつる顔を必死に隠し、店内を見渡す。そして隅のラックにかかっていた「あるもの」を見つけ、安堵の息を漏らした。

 

 「……あった。麻依、私これにする」

 「はあ? どれどれ……って、ちょっと待って!?」

 

 俺が手に取ったのは首元から手首、そして足首までをすっぽりと覆い隠す漆黒のフルジップ・ラッシュガードとトレンカのセットアップだった。まるで特殊部隊の潜水服である。

 

 「これなら完璧。UVカット率99%、肌の露出も極限まで抑えられる。物理的かつ論理的な最強の防具と言えるよね」

 

 俺が自信満々に頷くと麻依は鬼のような形相で俺の手からその漆黒の潜水服をひったくった。

 

 「却下!! あんたは何と戦いに行くつもりなの!? UVカットは日焼け止めでどうにかしなさい!」

 「だって……! いくら最近、体調が良くなってきたとはいえ、まだこの身体を大勢の前に晒すなんて……それに私にはピアス穴だってたくさんあるし目立たない方が……」

 「皓二朗くんはそんなこと絶対に気にしないよ!」

 

 麻依はビシッと俺を指差した。彼女は俺が元男であることやアスリスのことは知らない。だが、俺が過去に色々と訳ありで自分の身体や傷跡に引け目を感じていることは察してくれている。

 

 「カヤはね、もうコソコソ隠れる必要なんてないの。皓二朗くんだって可愛いカヤの姿を見たいに決まってるじゃん! それに、そんな真っ黒の着てたら逆に悪目立ちして暑苦しいよ!」

 

 正論の連続コンボに俺はぐうの音も出なかった。確かに、彼と並んで歩くのに一人だけ全身黒タイツのような格好では彼の横にいる彼女としてあまりにも不釣り合いだ。

 

 「さあ、覚悟を決めなさい! 私がカヤの美人度を120%引き出す最強の戦闘服を選んであげるから!」

 「ひぃぃっ……お手柔らかにお願いします……」

 

 もはや抵抗する気力も失せ、俺は麻依が次々とラックから抜き出してくる色とりどりの布切れの束を受け取るしかなかった。

 

 (……皓二朗。お前と並んで歩くためのハードルは俺が思っていたよりずっと、ずっと高いみたいだ)

 

 試着室のカーテンの奥へ押し込まれながら俺は心の中で大好きな恋人の名前を呼び、深くため息をついた。

 

 

 

 

 迎えたプール当日。抜けるような青空とジリジリと肌を焼く太陽。絶好のプール日和だ。

 

 大型レジャープールのエントランスを抜け、波のプールの前に広がるパラソルエリア。

強烈な夏の日差しと水面が反射する乱反射の光の中で、僕は心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張と戦っていた。

 

 「おっそいなー、女子は。早くしないとメガ・スプラッシュ・スライダーの整理券なくなっちゃうぜ?」

 

 隣で準備体操をしながら不満げにぼやいているのは高橋だ。彼は半袖のラッシュガードに派手なボタニカル柄のサーフパンツという出立ちで、すでに心は水上のアトラクションへと飛んでいるらしい。僕自身もシンプルなネイビーのサーフパンツに日焼け対策のラッシュガードを着て待機していた。

 

 「着替えに時間がかかるのは仕方ないよ。日焼け止めを塗ったり髪をまとめたり、色々あるんだから」

 「お前はほんと気が長いっていうか、カヤちゃんに甘いよなー。……あ、来た来た!」

 

 女子更衣室の出口付近から手を振りながら歩いてくる二つの影が見えた。一人はスポーティで健康的なオレンジ色のビキニを着た伊藤さんだ。そしてもう一人が――カヤさんだった。

 

 「…………っ」

 

 彼女の姿が視界に入った瞬間、僕の脳の思考回路は完全にショートし、一切の言語機能が停止した。

 

 カヤさんが着ていたのは、淡いラベンダーブルーを基調とした、オフショルダータイプの水着だった。胸元と肩周りには繊細な白いレースのフリルがあしらわれており、下は同色の軽やかなパレオスカートがふわりと腰回りを包み込んでいる。過度な露出はないものの華奢な肩のラインやデコルテ、そしてスラリと伸びた脚が彼女の抜けるように白い肌をこれ以上ないほど際立せていた。

 

 長く艶やかな黒髪は高い位置でポニーテールにまとめられており露出した耳には、かつての地獄を生き抜いた証である八つのピアス穴がはっきりと見えている。だが、それすらも今の彼女のミステリアスな美しさを引き立てるアクセントにしか見えなかった。

 

 「お、やっと来たな! 二人とも水着似合ってんじゃん! よし、じゃあ早速スライダーの列に並びに行こうぜ!!」

 

 隣の高橋が一切の照れも躊躇いもなく大きな声で言い放った。

 

 (……こいつ、本当に性欲とかそういう概念が存在しないのか?)

 

 水着姿の同級生の女子を前にして視線が泳ぐことも頬を染めることもなく、ただ純粋に「遊び」のことで頭がいっぱいになっている高橋。ある意味で尊敬に値するほどの少年性だが今の僕には到底真似できそうにない。

 

 「ごめん、待たせたな。……あのさ、皓二朗」

 

 小走りで近づいてきたカヤさんがパレオの裾をそわそわと指先で弄りながら僕を見上げた。少し上目遣いになった黒く澄んだ瞳と照れ隠しで微かに赤く染まった頬。僕の前だけで使う男友達のような口調とのギャップが、あまりにも破壊力が高すぎる。

 

 「麻依に、これ以外は絶対に許さないって脅されて、仕方なく……その、変じゃないか?」

 「へ、変なわけないよ! その……す、すごく綺麗だ。似合ってる」

 「……っ、ありがと」

 

 僕が素直に答えるとカヤさんはさらに顔を赤くして俯いてしまった。

 

 「ほらほら、イチャつくのは後にして! まずは波のプールから行くよー!」

 

 伊藤さんが高橋の背中を押し、僕たちもそれに続く。高橋と伊藤さんが先陣を切って歩き出す中、僕はカヤさんの歩幅に合わせて隣に並んだ。

 

 「人、多いね。はぐれないように気をつけて」

 「ああ。……お前もな」

 

 カヤさんがそっと僕の手に自分の手を重ねてきた。夏の暑さの中でも彼女の指先はひんやりと冷たい。けれど、その奥にある鼓動は確かに熱を帯びていた。僕はその冷たい手をしっかりと握り返し、眩しい水面が広がるプールへと歩き出した。

 

 「うわあああっ! またデカい波来たぞ! 浮き輪しっかり掴まれ!」

 「ちょっ、高橋くんはしゃぎすぎ! 私まで沈むーっ!」

 

 巨大な造波プールの中、大音量で流れる陽気な音楽と共に人工の大きな波が次々と押し寄せてくる。高橋くんは巨大なシャチのフロートに跨って雄叫びを上げ、それに巻き込まれた麻依が派手に水飛沫を上げながらひっくり返っていた。

 

 「……あいつら、本当に高校生か? 小学生の夏休みみたいなテンションだな」

 

 俺は波打ち際から少し離れた足の着く浅瀬で二人用の大きな浮き輪の端に掴まりながら呆れ声を出した。隣にいる皓二朗にだけ聞こえる声量だったため、自然と口調は「俺」になっている。

 

 「ははは。でもカヤさんもさっき波被って、けっこう楽しそうに笑ってたよ」

 

 浮き輪の反対側で立ち泳ぎをしながら皓二朗が濡れた前髪を掻き上げて笑った。太陽の光を弾く水滴とラッシュガード越しにも分かる鍛え上げられた無駄のない肩幅。その眩しさに俺は思わず視線を逸らして浮き輪に顔を半分沈めた。

 

 「……気のせいだ。俺はただ、水圧に耐えていただけだ」

 「素直じゃないなぁ」

 

 俺たちは波のプールの後、全長数百メートルもある流れるプールへと移動した。浮き輪に身を預け、ただ水の流れに乗ってゆっくりと景色を眺めていると張り詰めていた心が不思議なほど解れていくのを感じた。

 

 太陽の光、冷たい水、青い空、そして隣で俺を気遣うように泳いでくれる彼。かつて「宮本貴也」だった頃、俺はこういう「普通の青春」を心底見下していた。汗水流してはしゃぐなんて無様で滑稽だと。そして中学生になって地獄に落ちてからは、こんな眩しい世界は一生自分には縁のないものだと諦めきっていた。それが今、フリルのついた水着を着て恋人と一緒に流れるプールを漂っている。人生とは本当に分からないものだ。

 

 「……カヤさん。唇、少し青いよ。冷えたんじゃない?」

 

 ふいに皓二朗が心配そうな顔で俺の頬にそっと触れた。彼の36℃の掌の熱が水に濡れた肌にじんわりと伝わってくる。

 

 「……そうか? 自分じゃあんまり分からないけど」

 「平熱が34℃台なんだから普通の人より水に熱を奪われるのが早いはずだよ。安定期に入ってきたとはいえ無理は禁物。そろそろ上がって休もう」

 

 彼に言われて初めて自分の指先が少し白っぽくなり、身体の芯が微かに震え始めていることに気がついた。

 

 「……おう。分かった」

 「おーい! 高橋、伊藤さん! カヤさんが少し冷えちゃったみたいだから僕たち一回上がって休憩するよ!」

 

 皓二朗が遠くを流れていた二人に声をかけると、シャチのフロートに乗った高橋くんがバシャバシャと水を掻いて近づいてきた。

 

 「えっ、もう休憩!? マジかよ、俺これからあそこのメガ・スプラッシュ・スライダー連続で三周くらいループしてこようと思ってたのに!」

 

 高橋くんは本気で残念そうな顔をして巨大なスライダーの塔を指差した。

 

 「……高橋くん、本当に元気だね。体力おばけですか」

 

 俺が呆れ半分で「私」ベースの口調で言うと、高橋くんは「当たり前だろ!」と白い歯を見せて笑った。

 

 「せっかくのプールなんだから遊び倒さないと損だぜ! あー、でも二人で休むなら俺一人でスライダー行ってきていいか?」

 

 同級生の、しかも水着姿の女子が体調を崩しかけているというのに、彼の頭の中には「スライダーへの渇望」しか存在していないらしい。ある意味、ここまで性欲や下心が皆無で純粋に「遊び」に特化している少年性は清々しいほどだった。

 

 「いいよ、行っておいで。僕たちはパラソルの下で休んでるから」

 「よっしゃ! じゃあ先行って列並んでくる!」

 

 皓二朗が頷くが早いか、高橋くんは弾かれたようにプールサイドへ上がり、スライダーの入り口へ向かって猛ダッシュで消えていった。

 

 「……本当にただの小学生男子だな」

 「あはは、高橋らしいよ」

 

 俺たちが苦笑していると浮き輪を抱えた麻依が呆れ顔で上がってきた。

 

 「ちょっと、皓二朗くん! あんな小学生マインドの男子を一人で放流したら、どこで何しでかすか分かんないよ! 迷子センターで呼び出されでもしたら恥ずかしいし!」

 「えっ、でも高橋なら大丈夫じゃ……」

 「だーめ! 私が監視役としてガッチリついてってあげる! というわけで二人はパラソルの下で、ゆ〜っくり、甘〜く休んでてね! じゃあね!」

 

 麻依は皓二朗の言葉を遮るようにまくし立てると俺に向かってバチコンと特大のウインクを飛ばし、高橋くんの後を追って小走りで去っていった。

 

 「……あいつ、絶対に後で奢らせる気だぞ」

 

 親友のあまりにも、あからさまな気遣いに俺は頬を引きつらせながら皓二朗に向かって呟いた。

 

 場所取りをしておいたパラソル席のデッキチェアに戻ると皓二朗がすぐに大きなバスタオルを広げ、俺の肩からすっぽりと掛けてくれた。

 

 「……ありがと」

 「寒くない? 日陰だと風が冷たいかもしれないから、しっかり拭いてね。……あ、温かい飲み物買ってこようか?」

 「いや、いい。外の熱気があるから、タオル被ってればすぐにちょうどよくなる。……それよりさ」

 

 俺はタオルで濡れた髪と身体を大雑把に拭きながら、自分のスクールバッグからウォータープルーフの日焼け止めボトルを取り出した。

 

 「これ、さっき水ではしゃぎすぎたせいで、だいぶ落ちちゃったみたいなんだ。塗り直したいんだけど……背中、届かなくて」

 

 俺は日焼け止めのボトルを皓二朗に差し出した。

 

 「……背中、塗ってくれないか」

 「――――えっ?」

 

 皓二朗は目を丸くしてボトルと俺の顔を交互に見た。そして、みるみるうちに耳の先から首の付け根までを真っ赤に染め上げ、信じられないほど狼狽え始めた。

 

 「えっ、あ、ええっ!? せ、背中!? ぼ、僕が塗るの!?」

 「当たり前だろ、ここに麻依はいないんだから。他に誰がいるんだよ」

 「で、でもっ、カヤさんの、背中って……その、水着の……っ!?」

 

 顔の前で両手をパタパタと振り、あからさまに視線を泳がせる皓二朗。いざって時はどんな相手にも冷静に対処するくせに、こういう時のこいつは本当に純情というか、初々しすぎる。

 

 そして彼がそこまで強烈に意識してパニックを起こしているのを見ると、頼んだ側の俺まで急激に恥ずかしくなってきた。顔に熱が集まるのを感じながら俺はわざとぶっきらぼうな口調で彼を急かした。

 

 「い、いいから早くしろよ! お前がそんなに慌てると、こっちまで恥ずかしくなってくるだろ! パパッと事務的に塗ればいいんだから!」

 「じ、事務的にって……! わ、分かった、失礼します……!」

 

 俺はデッキチェアに浅く座り直し、皓二朗の方へ背中を向けた。ラベンダーブルーのオフショルダー水着は、肩甲骨から背中の半ばまでが大きく開いている。

 

 背後で皓二朗が日焼け止めのボトルを振るカチャカチャという音が聞こえ、やがて彼の指先が、そっと俺の肩甲骨の間に触れた。

 

 「……ひゃっ」

 「ご、ごめん! 冷たかった!?」

 「ううん……逆。お前の手、すごく温かいから、びっくりしただけ」

 

 平熱34℃台の俺の冷えた肌に36℃の皓二朗の掌が滑っていく。彼の指は壊れ物を扱うようにひどく慎重で、そして優しかった。ひんやりとした日焼け止めの感触と彼の指先から伝わる圧倒的な熱量が混ざり合い、背中から全身へと甘い痺れのようなものが広がっていく。

 

 「……なぁ、皓二朗」

 「な、なに……?」

 「俺の背中……綺麗だろ?」

 

 俺がポツリとこぼすと背後で日焼け止めを伸ばす彼の手が、一瞬だけピタリと止まった。

 

 「……うん。すごく、綺麗だ」

 「だろうな。……でも、昔は酷かったんだぜ」

 

 俺はパラソルの外で眩しく光る水面を見つめながら、静かに語り始めた。

 

 「中学生の頃、不良たちに『玩具』にされてた時期……タバコを押し付けられた根性焼きの痕とか、殴られた痣とか、擦り傷とか。俺の背中には消えない傷跡が数え切れないくらいあったんだ」

 

 皓二朗は何も言わなかった。ただ俺の背中に触れている指先に、ほんの少しだけ力が入ったのが分かった。

 

 「でもアスリスのおかげで……身体が女性の細胞に再構成される『最適化期』の自然治癒力で、そういう外側の傷跡は耳のピアス穴以外、全部綺麗に消えちゃったんだ。まるで何もなかったみたいに」

 「……うん」

 「……外側の傷は消えた。でも内側はそう簡単にはいかなくてさ。……正直に言うと俺、今でも男の人に不意に触られたり、大声を出されたりすると当時の記憶がフラッシュバックして恐怖で身体がすくむことがあるんだ」

 

 自分でも情けないと思う。宮本貴也としての傲慢なプライドはとっくに粉々に砕け散り、俺の精神構造の根本には泥の中で蹂躙された、あの暗い日々の恐怖が未だに黒い染みのようにこびりついている。

 

 「それに……俺のこの身体、元は男だったわけだろ。いくら外見が女になったからって、こんなフリルの水着を着て、男に背中を触られて……自分が『真っ当な女の子』として扱われることに葛藤みたいなものが拭えなくてさ」

 

 俺はパラソルの外で光る水面から少しだけ目を伏せ、自嘲気味に言葉を続けた。

 

 「だから……本当はこんなこと……絶対無理だって思ってたんだ」

 「……カヤさん」

 

 背中に触れていた皓二朗の両手が、ゆっくりと俺の肩を包み込むように置かれた。その圧倒的で絶対的な安心感を持つ熱に俺は自然と目を閉じた。

 

 「……でも、お前は別だ」

 「えっ……」

 「お前の手は嫌じゃない。お前に触れられると、怖いどころか……すごく落ち着くんだ。心臓の嫌な動悸が止まって身体の芯から温かくなるみたいで」

 

 背中越しに皓二朗が息を呑む気配がした。俺は恥ずかしさで顔から火が出そうになりながらも、ずっと心の中にあった思いを絞り出すように言葉にした。

 

 「よく考えたら俺たち……恋人同士になったのに、いつも手を繋ぐくらいしかしてないよな。それ以上は去年の梅雨、俺が体調崩した時に相合傘で肩を抱かれたか、大泣きした時に抱きしめて慰めてくれた時くらいで」

 「そ、それは……! カヤさんの体調もあるし僕がそういうのに慣れてないっていうか、その、大切にしたいから……!」

 「分かってるよ。お前が真面目で俺のことを誰よりも大事にしてくれてるのは」

 

 俺は振り返らずに肩に置かれた彼の手の甲に、そっと自分の頬をすり寄せた。

 

 「だから……その。……もっと、触ってもいいよ。皓二朗なら」

 「――――ッ!!」

 

 背後で皓二朗の思考が完全にショートし、爆発した音が聞こえたような気がした。肩に置かれた彼の手が微かに震え、俺の体温を一気に急上昇させる。言ってしまった、自分からあんなこと。顔が茹でダコみたいに真っ赤になっているのが分かる。

 

 「か、カヤ、さん……それ、本気で言って……」

 

 皓二朗の掠れた声が俺の耳元すぐ近くで聞こえた。彼が身を乗り出し、その温かい腕が俺の背中から腰へと滑ろうとした、その時だった。

 

 「おーい! 二人ともお待たせー! スライダー超ヤバかったぜ!!」

 

 パラソルの外から無邪気すぎる高橋くんのドデカい声と、その後ろで「ああもう、ちょっと空気読みなさいよこのバカ!」と頭を抱えている麻依の姿が見えた。

 

 「っ……!!」

 

 俺と皓二朗は弾かれたように身体を離し、ありえない距離までデッキチェアを引いて、二人揃って明後日の方向を向いた。

 

 「あ、おかえり高橋! スライダー楽しかったみたいだね!」

 「え、あっ! 麻依と高橋くん、早かったじゃん! 日焼け止め塗るのちょうど終わったとこ!」

 

 裏返った声で必死に誤魔化す俺たちを見て、高橋くんは不思議そうに首を傾げていたが麻依だけはすべてを察したように生温かく、そしてひどくニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

 

 照りつける太陽と冷たい水。そして、パラソルの下で交わしたふたつの熱と、ほんの少しの約束。安定期に向かいつつあるこの身体と共に彼との物語もまた少しずつ、けれど確実に甘くて穏やかな場所へと進んでいく。

 

 そんな確かな予感と背中に残る彼の指の感触を反芻しながら俺はタオルの中で一人、こっそりと頬を緩めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。