銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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木枯らしの終わりと春風がめくるページ

 十二月二十四日、午後6時。街はシャンパンゴールドの光に包まれ、冷たい夜気を震わせるようにクリスマスソングが至る所で鳴り響いていた。

 

 駅前の巨大なクリスマスツリーを見上げる人波の中で、俺は自分のコートのポケットに入れた右手を隣を歩く彼の大きな左手としっかりと絡ませていた。

 

 「すごい人だね。カヤさん、寒くない? 歩き疲れてないかな」

 

 すれ違う人々にぶつからないよう俺の肩を庇うように歩きながら、皓二朗が心配そうに覗き込んでくる。その首元には去年のクリスマスに俺が贈ったネイビーのマフラーがしっかりと巻かれていた。

 

 「……大丈夫だ。ヒートテック二重に着てカイロもあちこちに貼ってきたし。それに……」

 

 俺はポケットの中で繋いだ手を、ギュッと握り返した。

 

 「お前の手が温かいから全然寒くない」

 

 俺が少しだけ上目遣いで言うと皓二朗は嬉しそうに目尻を下げ、俺の手をさらに強く握りしめてくれた。

 

 高校二年生のクリスマスイブ。去年の今日、俺たちは俺の狭いアパートの部屋でコタツに潜り込んで延々と対戦ゲームをし、宅配ピザを食べるという色気も何もない一日を過ごした。アスリスの最適化期による体調不良もあったし何よりあの頃はまだ、彼と「世間一般的な恋人らしいデート」なんて小っ恥ずかしいことをするには俺の照れと心の準備が全く追いついていなかったからだ。

 

 けれど今年は違う。俺たちは今、世間一般的な恋人同士がするようにイルミネーションで煌めく街を歩き、少し背伸びをして予約してくれたお洒落なイタリアンレストランでディナーを楽しんだ帰り道だった。

 

 ショーウィンドウのガラスに俺たちの姿が薄く映り込む。背が高く、無駄のない筋肉質な体格の影響で服の上からだとスラっとした痩身な皓二朗の隣には、白いウールのコートを着て、赤いマフラーに顔を埋めるようにしている長い黒髪の少女が寄り添っている。

 

 かつて男として周囲を支配し、その後どん底の泥水をすすった「宮本貴也」だった自分が、こんな風に真っ当な女の子の格好をして大好きな人とクリスマスデートをしているなんて。数年前の俺が知ったら発狂して気絶するに違いない。

 

 「……なんか、不思議だな」

 「えっ、何が?」

 「去年の今頃は俺の部屋でムキになって格闘ゲームのコマンド入力してたのにさ。一年で随分と『普通のカップル』みたいなことしてるなって思って」

 

 俺が苦笑交じりに言うと皓二朗も可笑しそうに声を立てて笑った。

 

 「確かに。でも去年のコタツで過ごしたクリスマスも僕はすごく楽しかったよ。結局、僕一回しかカヤさんに勝てなかったけど」

 「当たり前だろ、その一回だって実質マグレみたいなものだし……まあ、来年もまた対戦してやってもいいけどな」

「あはは、望むところだよ。次は絶対に負けないからね」

 

 他愛のない冗談を言い合いながら俺たちは駅前の喧騒を抜け、少し静かな公園へと足を踏み入れた。冬枯れの木々には控えめなイルミネーションが施され、冷たい空気がピンと張り詰めている。ベンチに腰を下ろすと皓二朗が近くの自動販売機で買ってきたホットココアを渡してくれた。

 

 「……ありがとう」

 

 温かい缶を両手で包み込み、ゆっくりと一口飲む。甘くて濃いカカオの風味が34℃台の冷え切った身体にじわじわと染み渡っていく。

 

 「美味しい?」

 「ああ。……最高」

 

 皓二朗も隣に座り、自分のコーヒーのプルタブを開けた。吐く息は白く、夜空には冬の星座が冷たく瞬いている。

 

 「……あっという間の一年だったな」

 

 俺がポツリと呟くと皓二朗も深く頷いた。

 

 「本当にね。去年とは全然違う、普通の高校生らしい思い出がたくさんできた」

 「テスト勉強もさ、去年は中学時代の地獄のブランクがあったせいで、お前に数学とか教えてもらってばかりだったけど……今年は俺も本来のペースを取り戻して、麻依に教える側になれたしな。お前は高橋くんに教えてて四人でファミレスに集まって」

 「あの時、カヤさんが急に『九条綴』の口調を真似して教え始めたから伊藤さん大ウケしてたよね。『うわー懐かしい! 一年の最初の頃のカヤだ!』って」

 

 俺はココアの缶で少し頬を温めながら、ふっと笑った。

 

 「昔から『良い子ぶる』のは得意だったからな。……あの仮面も今じゃただの持ちネタだ」

 

 自分の過去を自虐交じりの冗談として口にできた俺を皓二朗は少し驚いたような、それでいてひどく嬉しそうな目で見つめていた。

 

 「勉強会の後、四人で行ったカレー屋も楽しかったね」と皓二朗。

 「ああ。甘口じゃない普通のスパイスのカレーを久しぶりに食べられたのはマジで感動した。アスリスの感覚過敏も、だいぶマシになってきた証拠だしな」

 「夏休みの納涼祭も今年は四人で行けるかと思ったんだけどね」

 「それな。俺たちが去年偶然見つけた『花火が綺麗に見える穴場』を教えたら麻依のやつ『これで今年はいつものメンバーで最高の花火が見られる!』ってめちゃくちゃ息巻いてたのに」

 

 俺が呆れ交じりに肩をすくめると皓二朗も苦笑した。

 

 「高橋、地元の男友達と先に約束入れちゃってたんだよね。あいつ遊びに関しては全力だから」

 「麻依が本人のいないところで、あんなにブーブー拗ねてるとは思わなかったよ。……俺としては親友の恋路を応援してやりたいけど、あの『遊びに全力少年』が相手じゃ、お前みたいな色恋沙汰になるのはまだ当分先になりそうだよな」

 「そうだね。結局、僕とカヤさんと伊藤さんの三人で穴場で花火見ることになって……伊藤さん、途中から『なんか私、すっごいお邪魔虫みたいじゃない!?』って一人でキレてたし」

 「あれはなだめるのが面倒くさかったな……。でも、その後の夏休みに近所の公園でまたガキんちょたちと全力で遊んだ時は、高橋もいて面白かっただろ」

 「カヤさん結局また負けて地面に這いつくばってたけどね」

 「うるさいな! 一年の時よりは善戦しただろ! ……まあ、結局またお前に砂を払って介抱される羽目になったけど」

 

 俺が口を尖らせると皓二朗は可笑しそうに肩を揺らした。

 

 「秋の体育祭も面白かったな。今年は僕が借り物競争に出る番だったから」

 「あれは本当に心臓に悪かった。お前がいきなり俺の手を引いてゴールまでダッシュするから、会場中が『今年こそ公開告白か!?』って異常に盛り上がって……」

 「で、僕が引いたお題のカードをめくったら、偶然にも去年カヤさんが引いたのと同じ『尊敬する人』で全校生徒が綺麗にズッコケるっていうね」

 「あれは奇跡的なオチだったな」

 

 去年の俺と全く同じ構図の盛大なズッコケを思い出し、俺は声を上げて笑った。だが、隣の皓二朗は少しだけ口元を尖らせ、コーヒーの缶を見つめながら呟いた。

 

 「……でもさ、文化祭でカヤさんが伊藤さんたちのグループに混ざってステージでダンスを披露した時は……正直、ちょっと複雑だった」

 「え? なんで?」

 「だって、お腹も足もガッツリ出てる衣装だったじゃないか。男子たちがみんなカヤさんのこと釘付けになって見てて……その、すごく綺麗だったから、他の奴らに見せたくないなって……」

 

 もごもごと拗ねたように言う皓二朗の横顔を見て俺は思わず苦笑した。

 

 「なんだよそれ。あの時は麻依たちに押し切られて渋々着たんだぞ。それに大勢の男子に見られて、俺の内心は昔のトラウマでビビりまくってたんだ。お前が最前列で、ずっと俺から目を逸らさずに見守ってくれてなかったら途中で足がすくんでた」

 「そ、そうだったの? ごめん、僕ったら自分の独占欲ばかり拗らせて……」

 「悪くない。むしろ、そういうお前も結構好きだ」

 

 俺が笑って肩を小突くと皓二朗は照れくさそうに耳を赤くして笑い返してくれた。

 

 「そういえば……今年の文化祭は千波ちゃんに遭遇しなかったな」

 

 俺がふと思い出して尋ねると皓二朗は柔らかく頷いた。

 

 「千波は今年、受験生だからね。本人は『今年こそカヤさんと楽しく過ごしたかったのに!』って、家ですごく悔しがってたよ」

 「そっか……」

 

 千波ちゃんの、少し不器用だけど真っ直ぐな笑顔を思い出し、俺の口元は自然と綻んだ。けれど、その笑顔の裏側にある事実が頭をよぎり、俺は膝の上のココアの缶に視線を落とした。

 

 「……千波ちゃんは、まだ知らないんだよな。お前の隣にいる『梶田カヤ』が、かつて大好きなお兄ちゃんを地獄に落とした『宮本貴也』本人で元は男だったってこと」

 

 言葉にすると改めてその事実の重さと残酷さに胸が押し潰されそうになる。俺と皓二朗の間ではすべての罪と因縁は清算されたが、ご両親や千波ちゃんにとっての「宮本」への傷は、まだ何も癒えていない。

 

 「俺の身体も夏の頃よりずっと体調が良くなったとはいえ、完全に『安定維持期』に入ったわけじゃない。医者にも言われてるんだ。身体の機能の回復も含めて、細胞が完全に定着するまではまだ数年かかるかもしれないって」

 

 アスリスという奇病は、ただ外見を女性に変えるだけの魔法ではない。俺の身体は今もまだ、ミリ単位で再構成を続けている。極度の冷え性も、突発的な眠気も、感覚過敏も、まだ完全には消え去っていない。

 

 いつか……千波ちゃんやご両親にすべてを話さなきゃいけない日が来る。その時、彼女たちはどれほど傷つき混乱するだろう。俺を罵倒し、皓二朗から引き離そうとするかもしれない。

 

 言葉にすればするほど、その残酷な未来が現実味を帯びて迫ってくる。もし彼らがすべての真実を知ったら、やっと手に入れたこの温かい居場所は一瞬で消え去ってしまうのではないか。そんな最悪の想像が頭をよぎり、胸の奥が冷たく締め付けられる。

 

 「……怖いよ。正直、めちゃくちゃ怖い。せっかくお前とこうして笑い合えるようになったのに、また全部壊れちゃうんじゃないかって」

 

 吐き出した声の語尾が自分でも分かるほど情けなく震えていた。膝の上でココアの缶を持つ手も小刻みに震え始める。

 

 すると隣に座っていた皓二朗が、その俺の震える両手を缶ごと自分の大きな両手でそっと包み込んでくれた。

 

 「……カヤさん」

 

 彼の36℃の掌の熱が手袋越しにじんわりと伝わってくる。

 

 「急がなくていいんだよ、今すぐに全部を打ち明ける必要はない。カヤさんの身体が完全に安定して、もっと自信が持てるようになってからでいい」

 「でも……」

 「それに僕も一緒に言うから。一緒に謝って一緒に分かってもらえるように頭を下げる。カヤさん一人に背負わせたりなんて絶対にしない」

 

 皓二朗は俺の目を真っ直ぐに見つめ、あの冬の夜、橋の上で俺を地獄から引き上げてくれた時と同じ揺るぎない強さを持った声で言った。

 

 「問題が山積みだっていい。カヤさんの身体がまだ不安定だって構わない。……二人で乗り越えよう。これから先、何十年かかっても僕がずっとカヤさんの隣にいるから」

 

 その言葉が、凍りついていた俺の心の奥底を春の雪解けのように溶かしていく。

 

 かつての俺は彼に見捨てられるのが怖くて九条綴という仮面を被り、嘘で塗り固めた城の中に引きこもっていた。けれど今は、この温かい掌が不器用で醜い「俺」のすべてを繋ぎ止めてくれている。

 

 「……バカ。お前は本当に……お人好しすぎる」

 

 俺は涙がこぼれそうになるのを誤魔化すように、彼の手の中で自分の手を裏返し、その長く節だった指に自分の指をきつく絡ませた。

 

 「……約束だぞ。途中で逃げ出したりしたら絶対に許さないからな」

 「逃げるわけないよ。僕にとってカヤさんは世界で一番大切で、大好きな人なんだから」

 

 皓二朗は優しく微笑み、絡ませた手にそっと自分の額を押し当てた。俺もまた、彼の肩に自分の頭を預けようとして――ふと、思い出したように顔を上げた。

 

 「……でもさ。暗い話ばっかりじゃないんだ」

 「え?」

 

 少しだけ視線を逸らし、俺は膝の上のココアの缶を見つめながら、ひどく熱くなった頬をマフラーに半分埋めた。

 

 「医者には完全に定着するまで数年かかるって言われたけど……。実は、先週……初めて、来たんだ」

 「……来た?」

 「……っ、言わせんなよ。その……生理、だよ」

 

 絞り出すように言うと、隣で皓二朗が小さく息を呑む気配がした。アスリスを発症してからずっと無月経だった俺の身体。元が男である以上、生殖機能の獲得は最も難易度が高く、一生機能しない可能性もあると心のどこかで覚悟していた。

 

 「正直、腹は痛いし気分は最悪だったけど……。でも、俺の身体……少しずつだけど、本当に普通の女の子に近づいてるみたいだ」

 

 そこまで言うと俺はさらに深くマフラーに顔を埋め、消え入りそうな声で、けれどはっきりと付け加えた。

 

 「……だから。もし、俺たちがこの先……そういうこと、するってなったら……子供、できるかもしれないから」

 「えっ」

 「……ちゃんと、つけろよな」

 「〜〜〜〜ッ!?」

 

 皓二朗の顔が街灯の光の下でも分かるほど一瞬で沸騰したように赤くなった。目を見開き、口をパクパクさせている。

 

 「あ、う、うん……! も、もちろん! っていうかカヤさん、それ……!」

 「とにかく! だから、お前との未来も、俺は絶対に諦めたりしないって……そういう意味だ!」

 

 俺が照れ隠しに早口で言い切ると、皓二朗は限界まで赤くなった顔のまま泣きそうなほど優しく、心底嬉しそうな顔を崩した。

 

 「そっか。……よかった。カヤさんの身体、ちゃんと前に進んでるんだね」

 「……まあな」

 

 至近距離で見つめ合う。彼の黒い瞳の奥には隠しきれないほどの熱が揺れていた。だが次の瞬間、皓二朗はふと真面目な顔になり、俺の冷たい手を両手でそっと包み直した。

 

 「……ありがとう、カヤさん。でも無理は絶対にしないで。……カヤさんが望むなら僕はこれから先もずっと、今みたいに手を繋ぐだけでも十分幸せだから。隣にいられるだけで僕はいいんだ」

 

 それは俺の過去のトラウマや体調を何よりも気遣ってくれる、彼なりの最大限の思いやりだった。嬉しい。彼の底なしの優しさと過保護さは、ひどく心地いい。……でも。

 

 (……なんで、そこで仏みたいな顔になるんだよ)

 

 今の俺は過去最大の勇気を振り絞ってめちゃくちゃ恥ずかしい爆弾発言をした直後なのだ。それを「手を繋ぐだけでも」なんて綺麗にまとめられると、まるで俺の決意が蔑ろにされたような気がして、少しだけムッとしてしまった。

 

 「……皓二朗のバカ」

 「えっ?」

 

 俺は繋いでいた手を強引に振りほどき、彼のコートの胸元を両手でガシッと掴んだ。そして戸惑う彼の顔を思い切り引き寄せ――冬の冷たい夜気の中で、その温かい唇に自分の唇を押し当てた。

 

 「…………ッ!?」

 

 皓二朗の肩がビクッと大きく跳ねた。34℃台の俺の冷え切った唇に、彼の36℃の確かな熱がじんわりと溶け込んでいく。ほんの数秒、ただ触れ合うだけの不器用で乱暴な、大好きな人との初めてのキス。

 

 ゆっくりと唇を離すと皓二朗は目を見開いたまま、完全にフリーズしていた。

 

 「……っ、いきなりして、その、ごめん」

 

 自分でも顔が火を噴きそうに熱いのが分かる。俺は少しだけ視線を逸らし、ボソッと一言だけ謝った。だが、すぐに再び彼を真っ直ぐに睨みつける。

 

 「でも……お前、本当にヘタレすぎる。夏にプール行った時も俺が勇気出して『もっと触っていい』って言ったのに、結局あれからずっと手繋ぐだけじゃないか」

 「あ、えっ……あ……」

 「俺は、お前にもっと触れてほしいって言ってるんだよ」

 

 俺が真っ赤な顔で睨みつけると皓二朗はようやく意識を取り戻したように両手で顔を覆い、深くため息をついた。

 

 「……ごめん。僕、ほんとカッコつかないな」

 「……」

 「告白も、初めてのキスも……全部カヤさんからさせちゃった。こういうのって普通は男からするものだと思ってたのに。……情けないよ」

 

 項垂れる彼の頭を見て俺は思わず吹き出しそうになった。本当に、こいつはどこまでも真面目で不器用だ。

 

 「お前は俺を地獄から引き上げてくれた時から、ずっと俺にとって一番カッコいい人間だよ」

 

 俺は彼の大きな左手を取り、再び自分の右指をしっかりと絡ませた。

 

 「それに……俺たちの関係なんて、男とか女とか、そんな簡単な言葉の括りで説明できるものじゃないだろ」

 「え……?」

 「異性としての恋人同士でもあるし。性別なんて関係ない、同じ物語を愛する『同志』でもある。部屋でゲームする時みたいに男友達としてムキになる関係でもある」

 

 俺は彼に向かって今日一番の、嘘偽りのない真っ直ぐな笑顔を見せた。

 

 「だから……どっちからキスしたって、そんなの別にいいだろ」

 

 俺の言葉を聞いた皓二朗は覆っていた手をゆっくりと下ろし、泣き笑いのような、これ以上ないほど優しい顔になった。

 

 「……敵わないな、カヤさんには」

 

 彼は照れ隠しのように目を細め、絡ませた手にそっと自分の額を押し当ててきた。俺もまた、彼の肩に自分の頭を預け、冷たい冬の夜気の中で静かに目を閉じる。解決しなければならない過去の因縁も、この特異な身体の不調も、まだ完全には消えていない。それでも、この温かい掌が隣にある限り、俺たちはどんな未来だって歩いていける。

 

 シャンパンゴールドの光に包まれたこの聖夜が、俺たちにとっての新しい「始まり」になることを、俺は確信していた。

 

 

 

 

 それから、いくつかの季節が巡った。

 僕たちの歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。

 

 高校を卒業し、僕がスポーツ科学を学ぶために大学へ進学し、彼女が文学部に進んだ頃。僕たちはついに両親と妹の千波にすべての真実を打ち明けた。大好きな兄の恋人が、かつてのいじめっ子「宮本貴也」であり、特異な奇病によって女性になった存在であるということ。その告白を聞いた時の、両親の絶句した顔と千波の泣き崩れる姿は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。激しい拒絶と混乱、そして当然の怒り。僕たちは何度も頭を下げ、時間をかけて対話を重ねた。

 

 『……お兄ちゃんがそこまで言うなら、私はもう何も言わない。でも、絶対に……絶対に幸せにしてよね』

 

 数え切れないほどの涙の果てに、千波がそう言って彼女の34℃の不器用な手を握ってくれた日のことを、僕は一生忘れないだろう。

 

 過去の罪。周囲からの理解。数え切れないほどの夜を僕たちは手を取り合い、時には涙を流しながら乗り越えてきた。

 

 そして――現在。

 

 「……皓二朗。ねえ、皓二朗ってば」

 

 頬をツンツンと突く冷たい指先の感触に僕はハッと意識を引き戻された。春の柔らかな日差しが降り注ぐ休日のリビング。ソファでうたた寝をしていた僕の顔を覗き込んでいたのは少し髪を短く切り、すっかり大人の女性の落ち着きを纏った彼女だった。

 

 「あ、ごめん。少し寝ちゃってたみたいだ。……体調はどう? 寒くない?」

 「大丈夫よ。あなたがさっき毛布をかけてくれていたから。……それより、ほら」

 

 彼女は優しく微笑み、僕の腕の中へ「それ」をそっと差し出した。

 

 「お腹が空いたみたいで、さっきから少しグズっているの。私がミルクを作ってくるから、少し抱っこしていてくれる?」

 「うん、任せて」

 

 かつての彼女は、僕の前では「俺」という一人称を使い、ぶっきらぼうな男言葉で話していた。あの『九条綴』の完璧な仮面を脱ぎ捨てた後の、それが彼女なりの不器用な素顔だったからだ。

 

 けれど、彼女のお腹にこの小さな命が宿ったと分かった時。僕は「自然体のままでもいいんだよ」と言ったのだが、彼女は「言葉遣いが荒いせいで子どもに悪影響が出たら嫌だから」と、自ら進んで女性らしい自然な口調へと矯正したのだ。今ではもう、その穏やかで優しい口調が作られたものではない彼女の本当の「自然体」としてすっかり馴染んでいた。

 

 僕の腕の中にすっぽりと収まった、柔らかくて驚くほど温かい小さな命。生後半年を迎えた僕たちの娘だ。

 

 『おめでとうございます。細胞の定着も完璧で、アスリスは完全に完治しています。母子ともに全く問題ありませんよ』

 

 大人になり、そんな確かな報告と共に新しい命を授かったと聞いた時。二人で病院の待合室で声を上げて泣いた日のことが昨日のことのように思い出される。数え切れないほどの困難と不安を乗り越え、僕たちはようやく本当の意味で「家族」になることができたのだ。

 

 「……よしよし。ママがミルク作ってくれるからね」

 

 僕が腕の中で揺らすと娘は大きな黒い瞳を瞬かせ、僕の指を小さな手でギュッと握りしめてきた。その瞳は彼女にそっくりで、吸い込まれそうなほど澄んでいる。

 

 「ふふっ。相変わらず、あなたにはべったりね」

 

 キッチンから哺乳瓶を持って戻ってきた彼女が少しだけ呆れたように、けれど心底愛おしそうに僕たちを見下ろした。彼女は僕の隣に腰を下ろし、娘の口元に哺乳瓶をそっと添える。

 

 「君にも似ているよ。特に、この負けん気の強そうな眉のあたりとか」

 「もう、やめてよ。私の昔の嫌な部分には似てほしくないわ」

 

 僕がからかうように言うと彼女は照れ隠しに目を伏せ、娘の柔らかい頬を指先でそっと撫でた。

 

 彼女は今、「瀬戸伽也(かや)」という名前を名乗っている。僕と籍を入れたことで苗字が変わり、同時に下の名前も「貴也」から改名したのだ。

 

(とぎ)」という字には、人の相手をする、寄り添う、という意味がある。かつての傲慢な王冠()を捨て去り、これからは僕に、そして生まれてくる子どもに寄り添って生きていくという誓い。そして過去の罪を無かったことにして逃げるのではなく、一生の戒めとして背負い続けるために、あえて「也」の一文字だけは残した。それが、彼女が自ら辞書を引き、悩み抜いて決めた新しい名前だった。

 

 「……温かいわね」

 

 伽也の呟きに僕は彼女の横顔を見つめた。

 

 「私の平熱は今でも35℃台で低いままでしょ。……でも、この子の体温はあなたと同じ36℃台なのよね。こうして抱いていると昔あなたが私の手を握ってくれた時みたいに身体の芯から温かくなる気がするわ」

 

 彼女の右耳には今でもあの頃のピアス穴が微かに残っている。泥水をすすり、絶望の中で生き延びた銀髪の少女の痕跡。けれど今の彼女を包んでいるのは、過去の呪縛ではなく確かな命の温もりだ。

 

 「……伽也」

 

 僕は哺乳瓶を支える彼女の少し冷たい左手に自分の右手をそっと重ねた。

 

 「昔、君は言ってたよね。自分の身体も過去の罪も、全部が呪いみたいだって」

 「……ええ」

 「でも君が逃げずに僕の隣にいてくれたから。……この温かい奇跡に出会えたんだ。君が生き抜いてくれて僕を選んでくれて、本当に良かった」

 

 僕の言葉に伽也は重ねられた僕の手をギュッと握り返した。その黒く澄んだ瞳から一粒の涙がポロリとこぼれ落ち、娘を包むおくるみの上で小さく光った。

 

 「……私の方こそよ。あなたが、あの冬の夜に私を見つけてくれなかったら。私の手を引いてくれなかったら……私は幸せな今日を迎えることはできなかった」

 

 伽也は涙で濡れた顔のまま僕に向かってこれ以上ないほど美しく、無防備な笑顔を見せた。

 

 「……ねぇ、皓二朗」

 「ん?」

 「私……今、すげぇ幸せだ」

 

 ふいに昔の口調が混ざった彼女の言葉に僕は目を丸くした後、たまらないといった表情で彼女の肩をそっと抱き寄せた。

 

 「……僕もだよ、カヤ」

 

 腕の中の小さな命が満腹になって幸せそうに微睡み始める。春の陽だまりの中、僕たちは互いの肩を寄せ合い、ただ静かにその寝顔を見つめていた。

 

 かつて傲慢な王だった少年と絶望の淵にいた弱虫な少年。

 

 地獄を這いずり回った銀の蛹と彼女を救おうと拳を握った不器用な少年。

 

 僕たちの物語は傷つけ合い、すれ違い、そして許し合うための長くて痛みを伴う旅だった。けれど今、僕たちの目の前に広がる未来には、もう何の隠し事も嘘の仮面もない。35℃台の少し冷たい彼女の掌と僕の36℃の掌。

 

 その二つの熱が重なり合う限り、僕たちの「ありふれた幸福」は、この先もずっと優しく温かく続いていくのだ。

 

 

 

『銀の蛹は34℃の殻で微睡む』 おわり




最後までご愛読いただきありがとうございました。
お気に入り登録やコメント、高評価など執筆する上で大変励みになりました。
皆様の応援のおかげで無事に完結まで書き切ることができました。

第1章の投稿が終わった頃、アクセス数の伸びが芳しくなく現実に打ちのめされました。
それでも他の方からアドバイスをいただいてあらすじを変えるなど試行錯誤し、拙作を目に留めてくださった皆様の力を借りて何とかここまで漕ぎ着けました。

途中で作品名を変えようかと悩んだこともありました。
しかし作品の雰囲気をどうしても守りたくて、それは最後の手段だと留めていました。
結果として皆様の温かい応援のおかげでタイトルを変えることなく完結を迎えることができました。
自分の美学を最後まで貫き通せたのはひとえに皆様のおかげです。

本当にありがとうございました。


この話のクリスマスでキスをした直後のふたりを描いた短編を書きました
他にも2人のその後、2人のもしもを描いた話も書きました
気になる方はR-18小説検索から「銀の蛹は34℃の殻で微睡む」で検索してください
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