銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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悪夢の回廊:王冠の失墜

 勝利の美酒はあまりにも短命だった。俺が「完全な世界」の完成を信じて疑わなかったその時間はわずか数日で終わりを告げた。

 

 きっかけはあまりにも些細で、そして致命的なミスだった。

 

 瀬戸皓二朗が転校してから三日後。放課後の教室。担任教師が瀬戸の使っていた机の中を整理していた時のことだ。本来なら空っぽであるはずの机の奥から、くしゃくしゃに丸められた紙屑が出てきた。それは俺が瀬戸に「ゴミ」として投げつけたメモの切れ端だった。

 

 『死ね』『バイキン』『調子に乗るな、ゴミが』

 

 汚い字で殴り書きされた罵詈雑言。そして最悪なことに俺はそのメモの裏に暇つぶしの落書きと一緒に自分のイニシャルを書き残していたのだ。俺の王国において俺の筆跡を知らない者などいない。それが決定的な証拠となった。

 

 「……宮本」

 

 翌日、俺は職員室に呼び出された。担任の顔は、いつものへつらうような笑顔ではなかった。軽蔑と面倒ごとの元凶を見るような冷ややかな目。目の前に突きつけられたメモを見て俺は瞬時に思考を切り替えた。ここでは「優等生の宮本貴也」を演じなければならない。

 

 「何ですか、先生。……これ、僕が書いたとでも言うんですか?」

 

 俺は心外だという顔を作り、一人称を「僕」に変えて訴えた。

 

 「瀬戸くんが自分で書いたんじゃないですか? 彼は少し被害妄想が激しいところがありましたから。僕を陥れようとして……」

 

 今までなら、これで通った。先生も「宮本くんがそんなことをするはずがない」と俺の肩を持ったはずだ。だが今回は違った。

 

 「とぼけるな!」

 

 机を叩く音。怒声。俺は驚いて顔を上げた。瀬戸の両親が教育委員会に訴え出る寸前だという話が既に学校側に届いていたのだ。学校の保身のためには生贄が必要だった。そしてその生贄には、明確な証拠を残した俺が選ばれた。

 

 「お前の字だということは分かっている。それに、クラスの何人かからも話を聞いたぞ」

 

 先生の視線の先には廊下で様子を窺っていた佐藤や北野たち――俺の取り巻きの姿があった。目が合う。彼らはサッと視線を逸らした。

 

 「『全部、宮本くんに命令されたんです』『逆らったら僕たちもやられるから、仕方なくやりました』……みんな、そう言っているぞ」

 

 裏切り。その言葉の意味を理解した瞬間、俺の頭の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。あいつらは俺の手足だったはずだ。俺の威光にぶら下がって甘い汁を吸っていた寄生虫どもが宿主である俺を売ったのか?

 

 「……ふざけるな」

 

 俺は立ち上がった。優等生の仮面が剥がれ落ちる。

 

 「あいつらだって喜んでやってたじゃないか! 瀬戸の教科書を破ったのは佐藤だ! 靴を隠したのは北野だ! 僕だけが悪いわけじゃない!」

 「見苦しいぞ、宮本」

 

 先生は冷たく言い放った。

 

 「首謀者がお前であることに変わりはない。だからお前が壊した瀬戸の私物は勿論、図書館の本は全部親御さんが弁償することになった。……失望したよ、優等生だと思っていたのに」

 

 家に帰るともっと恐ろしい地獄が待っていた。学校からの連絡を受けた祖父が客間に俺を呼び出したのだ。怒鳴られることはなかった。殴られることもなかった。祖父は上座に座り、ただ静かに能面のような無表情で俺を見下ろしていた。

 

 「……話は聞いた」

 

 重々しい声。俺は畳に額を擦り付けるように平伏した。

 

 「お、お爺様……違うんです。僕はハメられたんです。あいつらが勝手に……」

 「黙れ」

 

 一喝。身体が竦み上がる。

 

 「お前が何をしたかはどうでもいい。問題なのは『宮本の名に泥を塗った』という事実だ」

 

 祖父にとって俺の人格などどうでもよかった。大切なのは世間体と家の格式だけ。それを汚した俺はもはや可愛い孫ではなく欠陥品だった。

 

 「一度だけだ」

 

 祖父は冷酷に告げた。

 

 「今回だけは私が揉み消してやる。だが二度目はないと思え。……次に失態を晒せば、お前に宮本の敷居を跨ぐ資格はない」

 

 それは最後通牒だった。部屋に戻った俺は爪が食い込むほど拳を握りしめた。許さない。瀬戸も、先生も、裏切ったあいつらも。俺はまだ「王」だ。まだ終わっていない。学校に戻ればまた恐怖で支配してやる。

 

 翌日、教室に戻った俺を待っていたのは奇妙な空気だった。無視されるわけでも糾弾されるわけでもない。どこか腫れ物に触れるような、探るような視線。

 

 「……よぉ、貴也」

 

 昼休み、佐藤たちが近づいてきた。彼らは卑屈な愛想笑いを浮かべていた。自分たちが先生に俺を売ったことをどうにか誤魔化そうとしているのが見え透いていた。

 

 「昨日は災難だったな。先生、すげー怒ってたけど……大丈夫だったか?」

 「俺らもさ、先生に無理やり言わされて……本当は貴也のこと庇ったんだぜ?」

 

 へらへらとした笑い。その顔を見た瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが切れた。こいつらは俺がまだ「宮本家の跡取り」としての力を持っていると思っている。だからこうして保険をかけに来たのだ。その浅ましさがどうしようもなく癇に障った。

 

 「……触るな」

 

 俺は佐藤の手を振り払った。

 

 「は? いや、だから俺たちは……」

 「うるさいんだよ! 役立たずのくせに! 俺に話しかけるな!」

 

 俺は叫び、近くにあった机を蹴り飛ばした。ガシャーン、と大きな音が響き、教室が静まり返る。苛立ちが収まらなかった。祖父に見放されかけた恐怖とプライドを傷つけられた屈辱。その全てを俺は彼らにぶつけた。

 

 「お前らなんか俺がいなきゃ何もできないゴミじゃないか! 裏切り者のくせに馴れ馴れしくするな!」

 

 俺は彼らを睨みつけた。いつもならこれで彼らは縮み上がり謝罪するはずだった。

 

 だが、佐藤の顔からすぅっと笑みが消えた。

 

 「……はーあ」

 

 わざとらしいため息。佐藤は面倒くさそうに頭をかき、隣にいた北野と顔を見合わせた。

 

 「なんかさぁ、もう良くね?」

 「だな。気を使ってやってんのに、何様だよ」

 

 その瞳に宿っていたのは畏怖ではなかった。軽蔑と見下すような冷たい色。彼らは気づいてしまったのだ。俺がもう絶対的な守護者を持たないただのヒステリックな子供に過ぎないということに。

 

 「お前さ、親とか先生とかバックにつけて卑怯なんだよ」

 「王様気取りも大概にしろよ、宮本」

 「な……」

 

 言葉が出なかった。今まで俺の足元にひれ伏していた手駒たちが牙を剥いた。オセロの駒がひっくり返るように世界が反転した。昨日まで加害者だった俺が今日からは被害者になった瞬間だった。

 

 その日を境に教室は俺にとっての「処刑場」となった。

 

 俺の教科書がなくなる、上履きに画鋲が入れられる、黒板に『宮本菌』という落書きがされる。全部、俺が瀬戸にやったことだ。それが何倍にもなって返ってきた。

 

 「やめろ! 俺は宮本だぞ! お前らとは違うんだ!」

 

 叫べば叫ぶほど彼らは喜んだ。プライドの高い俺が必死になる姿は彼らにとって最高の見世物だったのだ。教師たちは「自業自得だ」と言わんばかりに見て見ぬふりをした。俺は教室の隅、かつて瀬戸皓二朗が座っていた席で膝を抱えるようになった。

 

 地獄のような日々が一年続き、季節は6年生の冬を迎えていた。心は擦り切れプライドはずたずただった。それでも俺は「いつか見返してやる」という暗い執念だけで学校に通い続けていた。

 

 あの日も雪が降りそうな寒い日だった。学校から帰った俺は異常な寒気を感じてベッドに潜り込んだ。毛布を被っても震えが止まらない。歯がカチカチと鳴る。風邪だろうか。いや、違う。

 

 「……ぐ、ぅ……!?」

 

 体の芯、骨の髄から得体の知れない熱と激痛が湧き上がってきた。それは全身の骨を万力で締め上げられ、内臓を雑巾のように絞られるような痛みだった。ミシミシ、と自分の身体がきしむ音が聞こえる気がした。骨盤が割れるような、肋骨が内側に食い込むような耐え難い苦痛。

 

 「あ、が……っ! 痛い、痛いッ!」

 

 喉から獣のような悲鳴が漏れる。シーツを握りしめた指が白く変色する。脂汗が噴き出し視界が真っ赤に染まる。

 

 何かが起きている。俺の身体の中で、何かが壊れ作り変えられていく。男としての俺が。宮本家の跡取りとしての俺が。細胞レベルで崩壊していく感覚。

 

 『高負荷再構成痛』 後にそう診断されることになる、ある奇病の発症の合図。

 

 (助けて、お爺様、お父さん、お母さん……!)

 

 声にならない叫びを上げた時、全身が焼け付くような熱を持った。焼失する。俺の身体が。俺の存在価値が。

 

 あまりの激痛に意識が白く弾けた。俺の意識は深い底のない闇へと吸い込まれていった。それが宮本貴也としての「死」と悪夢のような「再生」の始まりだった。

 

 意識が浮上したのは深い泥のような眠りの底からだった。目を開けるとそこは無機質な白い天井だった。鼻をつく消毒液の匂い。機械的な電子音。俺は……生きているのか?

 

 記憶にあるのは身体が内側から砕け散るような激痛と絶叫だけだ。あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。不思議と痛みはなかった。あれほど暴れ回っていた苦痛の嵐が嘘のように消え去り、代わりに奇妙な「軽さ」と芯まで凍えるような「冷たさ」だけが残っていた。

 

 「……っ」

 

 身体を起こそうとして違和感に気づいた。視界が、違う。身体の重心が、違う。シーツから出した腕が、驚くほど白く細い。

 

 「な、んだ……これ」

 

 声が出た。けれどそれは俺の声ではなかった。高く、澄んだ鈴を転がすような少女の声。

 

 恐る恐る自分の胸元に手をやる。あるはずのない膨らみがあった。柔らかく温かい、異物の感触。さらに下へ手を伸ばす。

 

 ない。

 

 男としての証が、跡形もなく消滅している。

 

 「嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だッ!」

 

 俺は点滴の管を引きちぎる勢いでベッドから飛び起き、洗面台の鏡に齧り付いた。

 

 そこに映っていたのは宮本貴也ではなかった。濡れたような黒髪。大きな瞳。陶磁器のように滑らかな白い肌。長い睫毛。息を呑むほどに美しい、あどけない少女が蒼白な顔でこちらを見つめていた。

 

 「ひ、あ……」

 

 鏡の中の少女が引きつった笑みを浮かべる。俺だ。これが俺なのか? あの痛みは、俺の肉体を作り替えるための工事の音だったのか?

 

 ガラリ、と病室のドアが開いた。振り返ると医師と二人の男女が入ってきた。父と母だった。

 

 「お、お父さん! お母さん!」

 

 俺は縋るような思いで駆け寄ろうとした。母は真っ赤に泣き腫らした目で俺を見つめ、口元を押さえて泣き崩れた。しかし父は違った。父はまるで出来損ないの書類を見るような無機質な目で俺を一瞥しただけだった。

 

 「……目が覚めたか」

 

 父の声は事務的だった。

 

 「医師から説明は聞いた。『後天的性別転換症候群』 ……お前は、女になったそうだ」

 

 淡々とした事実の確認、そこには息子を心配する情など微塵もなかった。

 

 「そ、そんな……お父さん、僕、どうなるんですか? 治るんですよね? 手術とかで、元に戻れるんですよね!?」

 

 俺は必死に父の袖を掴んだ。一人称を「僕」にして、従順な息子として哀願した。だが、父はその手を鬱陶しそうに振り払った。

 

 「不可能だそうだ。……まあ、命に別状がないならいい」

 

 父は懐から手帳を取り出し、時間を確認した。

 

 「父さん――お爺様からの伝言だ。『退院したら、すぐに本家に来い』とな」

 「え……」

 「要件はそれだけだ。私は仕事に戻る。会議があるんでな」

 

 父は踵を返した。あまりの冷淡さに俺は言葉を失った。息子がこんな奇病にかかり、性別が変わってしまったというのに会議?

 

 「あ、あなた! 待ってよ!」

 

 泣き崩れていた母が立ち上がって父の背中に食い下がった。

 

 「貴也はこんな状態なのよ!? 怖がってるじゃない! 父親なら、もっとかける言葉があるでしょう!」

 「うるさいぞ」

 

 父は母を冷たく見下ろした。

 

 「お前が甘やかすからこんな軟弱な身体になったんじゃないか。……それに、女になった息子に何を言えというんだ。時間の無駄だ」

 

 父はそれだけ言い捨てると一度も振り返ることなく病室を出て行った。残されたのは絶望的な静寂と母の嗚咽だけだった。

 

 それからの入院生活は地獄のような孤独と母の重苦しい献身の日々だった。母は毎日病室に通ってくれた。離婚届に判を押す準備を進め弁護士と話し合い、着々とこの家を出る手はずを整えていたことをその時の俺はまだ知らなかった。母の目はいつも濡れていたが、その奥にはかつてないほどの強い覚悟の光が宿っていた。

 

 対照的に父は一度も来なかった。見舞いの品一つ、手紙一通すら届かなかった。俺は悟った。父にとって俺はもう「息子」ではないのだと。宮本家の跡取りとしての価値を失った俺は父の関心の対象から外されたのだ。

 

 そして一ヶ月後、俺は退院の日を迎えた。身体の再構成は安定し俺は完全に「少女」として社会に放り出されることになった。

 

 「……行きましょう、貴也」

 

 母に促されタクシーに乗り込む。向かう先は宮本家の本邸――祖父の待つ屋敷だ。

 

 重厚な門をくぐり手入れの行き届いた日本庭園を横目に客間へと通される。かつては我が物顔で走り回っていたこの屋敷が今はひどくよそよそしく威圧的に感じられた。

 

 上座には祖父が座っていた。父もその横に控えていたが俺と目を合わせようともしなかった。

 

 「……退院したか」

 

 祖父の声は氷点下のように冷たかった。俺は慌てて畳に額を擦り付けた。

 

 「は、はい! ご心配をおかけしました、お爺様……!」

 「顔を上げるな」

 

 一喝。身体が竦み上がる。

 

 「貴様に見せる顔はない」

 

 祖父は湯呑みを置き静かに、けれど決定的な宣告を口にした。

 

 「本日をもって、貴様を宮本家から除籍する」

 「……え?」

 「宮本の家督を継ぐのは男のみ。女ごときに用はない。……ましてや、一度ならず二度までも、宮本の名に泥を塗った恥知らずなど」

 

 泥を塗った? ああ、そうか。いじめの発覚、そしてこの「病気」 祖父にとって俺の存在そのものが輝かしい宮本家の経歴における汚点になってしまったのだ。

 

 「手切れ金はくれてやる、母親と一緒にどこへなりとも消え失せろ。……二度と宮本の敷居を跨ぐな」

 「そ、そんな……待ってくださいお爺様! 僕がいなくなったら、誰が宮本を継ぐんですか!? 僕は長男ですよ!?」

 

 俺は必死に訴えた。宮本家を継ぐこと。それだけが俺のアイデンティティの全てだった。

 祖父は冷ややかな目で俺を見下ろし鼻で笑った。

 

 「心配するな。……宮本にはまだ次男がいる」

 「――え?」

 

 思考が停止した。弟? あいつが? いつも俺の後ろに隠れて、目立たなくて、成績も平凡なあの弟が?

 

 「幸いあやつは健康な『男』だ。お前のような恥さらしよりもよほど役に立つ」

 「嘘だ……あいつはスペアじゃないか! 本物は僕だ! 僕が一番優秀なんだ!」

 「黙れ!」

 

 祖父の怒声が響いた。

 

 「優秀? 笑わせるな。女になった時点で貴様は無価値だ。……さっさと連れて行け」

 

 祖父が手を振ると控えていた使用人たちが俺に近づいてきた。

 

 「いやだ! 離せ! お父さん、助けてよ! 僕だよ、貴也だよ!」

 

 俺は父に助けを求めた。だが父は書類に視線を落としたまま眉一つ動かさなかった。彼にとっても俺はもう「処理済みの案件」でしかないのだ。

 

 「立ちなさい、貴也」

 

 凛とした声が響いた。母だった。母は泣いていなかった。真っ直ぐに祖父と父を見据え、それから俺へと手を差し伸べた。

 

 「行くのよ。こんな人たちに頭を下げる必要なんてないわ」

 

 母の手には記入済みの離婚届があった。彼女は知っていたのだ、俺がこうなることを。だから、俺を守るためにこの家と縁を切る覚悟を決めていたのだ。

 

 「自分の足で歩きなさい。……あなたはもう宮本の道具じゃないのよ」

 

 母の言葉は優しかった。けれど俺にはその優しさが残酷に響いた。歩く? どこへ? 宮本家以外の場所に俺の居場所なんてあるわけがない。

 

 「嫌だ……僕は宮本だ……ここが僕の家だ……!」

 

 俺は畳にしがみついた。プライドも何もかもかなぐり捨てて無様に喚き叫んだ。

 

 「追い出さないで! 何でもします! 使用人でもいい、犬でもいいから! ここに置いてください!」

 「見苦しい。……つまみ出せ」

 

 祖父の冷徹な命令。使用人たちの太い腕が俺の細くなった身体を乱暴に掴み上げた。

 

 「あ、が……っ! いやだぁぁぁッ!!」

 

 俺はボロ雑巾のように引きずられていった。母は悲痛な顔で一瞬俺を見つめたが、すぐに唇を噛み締め毅然とした足取りで玄関へと向かった。彼女は自分の足で、この地獄から去ることを選んだのだ。

 

 重い門の外へ俺は放り出された。砂利の上に転がる。膝が擦りむけ血が滲む。

 

 バタン、と重厚な門が閉ざされる音。それは俺の人生の「第一章」が強制終了させられた音であり、俺の世界が完全に崩壊した音だった。

 

 終わった。王の座も、未来も、家も、全て。俺はただの「女」になった。いや、それ以下だ。弟に取って代わられ家を追い出された元・男の出来損ない。

 

 俺たちが移り住んだのは町外れの安アパートだった。薄い壁、カビ臭い畳。宮本の屋敷にある俺の部屋よりも狭い空間に母と二人きりの生活。

 

 引越しの片付けの最中、母がおずおずと切り出した。

 

 「ねえ、貴也。……これからのことなんだけど」

 

 母の手には役所の書類があった。籍を抜かれた俺たちの新しい戸籍についての書類だ。

 

 「お母さんの旧姓に戻そうと思うの。……貴也も、名前を変えましょう」

 

 母は俺の身を案じているようだった。宮本家から絶縁された以上「宮本」を名乗る理由はない。それに俺が学校でどんな立場にいるか母も薄々気づいている。新しい名前になれば心機一転できるかもしれない。母はそう言いたげだった。

 

 けれど。

 

 「……嫌だ」

 

 俺は書類を睨みつけた。

 

 「貴也? でも……」

 「嫌だ! 僕は変えない! 僕は宮本だ! 宮本貴也なんだ!」

 

 俺は叫んだ。それは理屈ではなかった。家を追い出され男という性別も失い、何もかも剥奪された俺に残された最後の欠片。それが「宮本」という名前だった。もしこれまで捨ててしまったら、俺は本当に何者でもなくなってしまう。あの惨めな「元手下」たちと同じただの有象無象になってしまう。

 

 「お爺様だって、いつか許してくれるはずだ! 僕が優秀なところを見せれば、また認めてくれる! 賢斗なんかより僕の方がすごいって分からせてやる! だから……名前だけは捨てない!」

 

 それは滑稽なほどの執着だった。もう二度と戻れないことは頭では分かっていた。それでも俺はその腐りかけた蜘蛛の糸を放すことができなかった。

 

 「……分かったわ」

 

 母は悲しげに微笑み俺の頭を撫でた。

 

 「貴也がそうしたいなら、そうしましょう。……貴也は強いわね」

 

 違う、強さなんかじゃない。これはただの弱さだ。現実を直視できない臆病者の哀れな足掻きだ。けれど今の俺にはそれしか縋るものがなかった。

 

 こうして俺は「宮本貴也」のまま残り少ない小学校生活へと戻ることになった。それが自ら地獄の釜の蓋を開ける行為だとは知らずに。自分じゃない身体で震える俺を待っていたのは、かつて俺が作り上げた処刑場への最悪の帰還だった。




後天的性別転換症候群 (A.S.R.S.)
後天的性別転換症候群(こうてんてきせいべつてんかんしょうこうぐん、英: Acquired Sex Reconversion Syndrome)は、思春期前後の若年層において、全身の細胞組織および表現型性別が反対の性別へと再構成される疾患である。公的な場や医学的コミュニケーションにおいては、略称であるアスリス(Asris)が一般的に用いられる。また、肉体再構成の過程で深い眠りを伴うことから、俗称として「サナギ病」とも呼ばれる。

概要
アスリスは、既存の性染色体や内分泌系を無視し、生体組織を根本から作り替える不可逆的な現象である。この再構成プロセスは、単なる外見の変化に留まらず、骨格の微調整、内臓配置、生殖器の置換にまで及ぶ。最大の特徴は、元の人物の面影を強く残したまま、反対の性別へと最適化される点にある。

容姿の変容と特徴
アスリスによる肉体再構成は、個人の遺伝的特徴を維持したまま、性別的な表現型のみを変換する。
造形の維持: 目元や鼻筋など、顔の核心的な造形は元の人物の面影を色濃く残す。そのため、性別が転換した後も、知人が対面した際に「本人である」と直感できる要素が維持される。
性的特徴への変換: 男性から女性へ転換する場合、輪郭に丸みを帯び、まつ毛が伸長・濃密化し、肌質がきめ細かく滑らかな質感へと再構成される。これらは、元々の本人の顔立ちを「女性的な特徴」で描き直したような仕上がりとなる。
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