銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

5 / 27
悪夢の回廊:泥濘の箱庭

 冬休みが明け三学期が始まった。教室の窓ガラスは外気と室温の差で白く結露している。その淀んだ湿り気は今の俺を取り巻く空気そのものだった。

 

 あの日――二学期の終わりの部室棟裏での事件。あれが全ての「タガ」を外してしまった。俺が泣いて命乞いをする無様な姿や下着を引き裂かれた哀れな写真が冬休みの間に裏サイトやグループLINEを通じて拡散されたらしい。「元・王様が堕ちた」「あいつはもう、何をしてもいい玩具だ」そんな共通認識が腐ったウイルスのように学年中に蔓延していた。

 

 登校し下駄箱で靴を履き替える。ただそれだけの動作の間にも視線が突き刺さる。以前のような遠巻きな嘲笑ではない。もっと直接的で粘着質な視線だ。

 

 「よぉ、宮本。スカート短くね?」

 

 すれ違いざま背後から尻を揉まれた。ビクッ、と身体が跳ねる。振り返ると知らない男子生徒たちがニヤニヤと笑っている。俺がいじめていた奴らですらない。ただの野次馬たちが俺を「共有財産」として扱い始めている。

 

 「……やめろ」

 

 俺は低い声で威嚇した。だが、その声にはかつてのような覇気はなかった。抵抗しても無駄だということを俺の身体は学習してしまっている。抵抗すればあの写真を見せびらかされる。もっと酷いことをされる。恐怖が俺の首に見えない首輪をつけていた。

 

 教室に入ると空気が一瞬で澱む。俺の机の上には花瓶が置かれていたわけではない。もっと悪質なものが置かれていた。使用済みのティッシュの山。そして黒板には大きく『公衆便所』という文字。

 

 「……ッ」

 

 俺は無言で黒板消しを掴み文字を消した。背後でクスクスという笑い声が聞こえる。男子だけではない。女子生徒たちの笑い声だ。

 

 三学期に入ってから女子からの当たりが劇的に強くなっていた。以前は「関わりたくない」という無視が主だったが男子たちが俺に群がり身体を触るようになってからは明白な「嫌悪」と「攻撃」に変わった。

 

 「マジでキモいんだけど」

 「男に媚び売ってんじゃねーよ」

 「元男のくせにチヤホヤされていい気になってるよね」

 

 彼女たちの目には俺がいじめられている被害者ではなく「男好きの尻軽女」として映っているようだった。あるいはかつて俺が男子として人気があった頃の妬みだったり、俺の容姿が悔しいことにアスリスによって整っていることへの嫉妬もあったのかもしれない。

 

 俺が席に着くと前の席の女子がわざとらしく机を前にずらした。俺との距離を少しでも取りたいという意思表示。休み時間になれば俺の机にわざとぶつかってきたりトイレで水をかけられたりした。

 

 「ごめーん、見えなかった」

 「汚いから近寄らないでくれる?」

 

 冷たい言葉の礫、俺は孤立無援だった。男子からは性の捌け口として扱われ女子からは汚物として排除される。この学校という箱庭の中に俺の味方は一人もいなかった。

 

 授業中も地獄だった。教師が黒板に向いている隙に後ろから消しゴムのカスや丸めた紙屑が飛んでくる。時には背中をペン先でつつかれる。ブラジャーのホックのあたりを執拗に。

 

 俺はただ34℃の冷たい身体を小さく丸め嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。過去のことなど考える余裕はなかった。かつて読んだ本のことや転校していった誰かのことなど、今の俺にとっては前世の記憶よりも遠い。ただの無意味なノイズでしかなかった。今の俺にあるのは「この一時間をどうやってやり過ごすか」という動物的な生存本能だけだった。

 

 そして、ある日の放課後。俺の肉体に消えない烙印が刻まれることになった。

 

 いつものように呼び出されたのは部室棟の空き部屋だった。そこにいたのは佐藤と北野、そして数人の男子生徒。彼らはいつものように俺を弄び写真を撮り嘲笑った。だが、今日の彼らの「遊び」はそれでは終わらなかった。

 

 「なぁ宮本。お前さ、なんか地味じゃね?」

 

 佐藤が俺の耳元で囁いた。俺は床に座り込んだまま乱れた服を直す気力もなく俯いていた。

 

 「せっかく女になったんだからさ、もっとオシャレしろよ」

 「……なんの話だ」

 「ピアスだよ、ピアス」

 

 佐藤がポケットから何かを取り出した。銀色に光る鋭利な針。安全ピンだった。それも名札につけるような小さなものではない。ゼッケンを留めるような太くて大きなやつだ。

 

 「ひっ……」

 

 本能的な恐怖で身体が後ろに下がる。だが背後は壁だった。北野たちが俺の両腕を掴み動けないように固定する。

 

 「や、やめろ……何する気だ……!」

 「穴開けてやるって言ってんだよ。感謝しろよ」

 

 佐藤がライターを取り出し安全ピンの先を炙り始めた。青い炎が針先を舐める。消毒のつもりだろうか、そんな気遣いすら拷問の準備にしか見えなかった。

 

 「動くなよ。ズレたら痛いぞ?」

 「嫌だ! やめろ! 離せッ!!」

 

 俺は首を振って暴れた。だがバスケ部の男が俺の頭を鷲掴みにし強引に横を向かせた。  右耳が無防備に晒される。熱を帯びた針先が耳の上部に触れた。ジッ、という微かな音と皮膚が焼ける臭い。

 

 「あーあ、暴れるから。……まあいいや、いっちゃえ」

 「ぎゃあああああああッ!!」

 

 絶叫した。熱い、痛い。肉を無理やり貫通する異物の感覚。軟骨が砕けるようなゴリッという鈍い感触が頭蓋骨に響く。

 「お、貫通した」

 「すげー、血が出てきた」

 「宮本、いい声で鳴くなぁ」

 

 彼らは笑っていた。俺が痛みで涙と涎を垂らし白目を剥きそうになっているのを最高のショーとして楽しんでいた。

 

 「あ、ぐ、ぅ……ぁ……」

 

 針が通り抜け金具が留められる。右耳に重くて熱い異物感が残る。ジンジンと脈打つような激痛が俺の思考を白く塗りつぶしていく。

 

 「似合うじゃん、宮本」

 

 佐藤が俺の顔を覗き込み満足そうに言った。

 

 「これで少しは女らしくなったな。……これ、外すなよ? 次見た時に外してたらもう一個開けるからな」

 「……は、い……」

 

 俺は掠れた声で答えるしかなかった。耳から滴る血が首筋を伝って制服の襟を汚していく。けれど、それ以上に心が冷え切っていた。

 

 俺の身体はもう俺のものじゃない。彼らが好き勝手に傷つけ、穴を開け、所有権を主張するためのキャンバスだ。その事実が焼印のように魂に刻み込まれた。

 

 彼らが去った後、俺はしばらく動けなかった。右耳の激痛が現実を繋ぎ止める唯一の感覚だった。鏡を見る気にもなれなかった。見なくても分かる。そこには安全ピンをぶら下げた無様で哀れな「奴隷」の顔があるはずだ。

 

 「……っ、うぅ……」

 

 痛い、痛いよお母さん。心の中で母を呼んだ。だが、口に出すことはできない。この耳を見られたら母はきっと悲鳴を上げる。隠さなきゃ。髪で、隠さなきゃ。

 

 俺は震える手で髪を下ろし血に濡れた右耳を覆い隠した。 これが俺の身体に刻まれた最初の「穴」だった。屈辱と自傷の歴史の始まり。

 それからの日々は泥濘の中を這いずり回るようなものだった。学校に行き嘲笑され、呼び出され蹂躙され帰る。そのサイクルだけが世界の全てだった。思考は鈍り感情は摩耗し俺はただの「反応する肉の塊」になり果てていた。

 

 三月の終わり、修了式の日。俺は通知表を受け取った。成績はガタ落ちだった。かつてトップクラスだった学力は見る影もなく低迷していた。授業の内容など頭に入るはずもなかった。黒板の文字よりも背後からの視線といつ飛んでくるか分からないゴミの方に神経を使っていたのだから。

 

 「宮本、お前……もう少し頑張れよ」

 

 担任教師は俺にそう言った。呆れたような軽蔑するような目で。この教師も知っているはずだ。俺が何をされているか。耳に安全ピンがついていることだって気づいているはずだ。それでも彼は「成績が落ちたのはお前の怠慢だ」と切り捨てた。面倒事には関わりたくないのだ。

 

 俺は無言で通知表を鞄に突っ込んだ。

 

 校門を出る。桜の蕾が膨らんでいる。去年俺が小学校を卒業した時と同じ景色。だが俺の中身はもうあの頃とは別人だった。「宮本貴也」という傲慢な王は死んだ。ここにいるのは右耳に安全ピンを刺し男たちの欲望を処理するためだけの中身の空っぽな器だ。

 

 (……2年生になれば、クラスが変わる)

 

 ふと、そんな希望が頭をよぎった。だが、すぐに打ち消した。クラスが変わってもあいつらはいる。写真はネットの海を漂い続ける。俺がこの学校にいる限りこの地獄は終わらない。

 

 「……帰ろう」

 

 俺は誰に言うでもなく呟いた。帰る場所なんて本当はどこにもないのに。母の待つアパートは俺が汚れた身体を隠し嘘をつき続けるための仮宿でしかない。

 

 そして1年が終わった。俺の人生で最も長く最も暗い一年が。だが、もっと深い闇が待つ2年生の春へと時間は無慈悲に進んでいく。

 

 四月、学年が上がりクラス替えが行われた。新しい教室、新しい座席、そして新しい名簿。だが、俺を取り巻く環境は何一つ変わらなかった。

 

 「げ、また宮本と一緒かよ」

 「マジかー。教室が臭くなるじゃん」

 

 新しいクラスメイトたちの反応は1年生の頃の連中と全く同じだった。「元・王様」で「今はオモチャ」 そのレッテルはもはや俺の皮膚の一部のようにへばりついて剥がれない。メンバーが多少入れ替わったところで俺という「異物」に対する扱いは変わらないのだ。

 

 2年1組、それが新しい処刑場だった。担任は若くて熱意のありそうな女性教師だったが俺は彼女に何の期待もしなかった。どうせすぐに見て見ぬふりをするようになる。あるいは生徒たちに同調して俺を疎むようになる。大人は頼りにならない、それはこの一年で骨身に沁みて理解していた。

 

 そして予想通り地獄は再開された。いや、悪化したと言っていい。2年生になり男子生徒たちの身体つきが大人びてくるにつれ彼らの欲望はより凶暴に、より直接的になっていた。

 

 「なぁ宮本、春休み何してたんだよ? 相手して欲しかったなー」

 

 休み時間、俺の席を囲むのは新しいクラスの男子たちだ。佐藤や北野とは違う顔ぶれだがやることは同じだ。スカートをめくる、ブラの紐を弾く、太腿を触る。

 

 そして俺の右耳を見てニヤリと笑う。

 

 「お、穴開いてんじゃん。生意気ー」

 

 男子生徒の一人が、俺の耳軟骨の穴がある部分を指で強く摘んだ。

 

 「……っ」

 

 俺は顔をしかめたが悲鳴は上げなかった。あの日、安全ピンで無理やり貫通させられた右耳の穴。普通なら化膿して塞がるかあるいは長い時間をかけて安定するものだ。だが俺の身体は違った。アスリスの「最適化」による異常な自然治癒力なのだろう。開けられた穴は驚くべき速さで上皮化し、わずか数週間で完全に「ピアスホール」として定着してしまったのだ。

 

 だからもうあの太い安全ピンは刺さっていない。代わりにそこにはぽっかりと空いた小さな空洞があるだけだ。身体が傷を受け入れることに順応してしまっている。その事実がいじめられることよりも恐ろしく、そして俺を絶望させた。

 

 「反応薄いなー。つまんね」

 「放課後、空いてるよな? トイレ来いよ」

 

 拒否権はない。断れば写真をばら撒かれる、暴力を振るわれる。俺は思考停止したままただ頷くことしかできなかった。

 

 (疲れた……)

 

 授業中、俺は虚ろな目で窓の外を眺めていた。桜はもう散り若葉が茂っている。俺の心もあの桜のように散ってしまえばよかったのに。

 

 毎日毎日、同じことの繰り返し。朝怯えながら登校し昼は針の筵に座らされ放課後は蹂躙される。家に帰っても母に嘘をつき汚れた身体を洗うだけ。こんな日々があと2年も続くのか? いや、高校に行っても社会に出ても一生続くのかもしれない。「元男の女」という烙印は死ぬまで消えないのだから。

 

 その時、校庭の隅にたむろする集団が目に入った。金髪や茶髪、改造した制服。3年生の不良グループだ。教師たちでさえ腫れ物に触るように扱うこの学校の食物連鎖の頂点。彼らが大声で笑いタバコの煙をふかしている姿を見て俺の中の何かがカチリと音を立てた。

 

 あいつらは誰にもいじめられない。あいつらは誰からも命令されない。あいつらは「強者」だ。

 

 (もし……俺が、あっち側に行けば?)

 

 正常な思考ではなかった。だが連日のストレスと不眠、そしてアスリスによるホルモンバランスの乱れは俺の判断力を極限まで低下させていた。今の苦しみから逃れられるなら悪魔とだって契約できる。いや、ハイエナの群れに食い殺されるくらいならライオンの餌になった方がマシだ。

 

 その日の放課後、俺はクラスの男子からの呼び出しを無視した。スマホが震え続けるのを無視して俺は屋上へと続く階段を上った。そこは立ち入り禁止区域だが鍵が壊されていて不良たちのたまり場になっているという噂があった。

 

 重い鉄扉を開ける。夕日が眩しい。コンクリートの床に座り込みタバコを吸っている数人の男たちがいた。全員3年生だ。身体が大きく目つきが鋭い。

 

 「あ? 誰だテメェ」

 

 金髪の男が俺を睨みつけた。リーダー格の男だ。名前は知らない。知る必要もなかった。俺にとって重要なのは彼がこの学校で一番「怖い」存在であるということだけだ。

 

 俺は震える足を押さえつけ、彼らの前へと歩み寄った。

 

 「……お願いが、あります」

 

 声が裏返る。不良たちが顔を見合わせ嘲笑った。

 

 「はぁ? なんだこのアマ。迷子か?」

 「つーかこいつ噂の宮本じゃね? ほら、元男の」

 

 彼らも知っていた。俺の知名度は最悪の形で学校中に浸透していた。

 

 「へぇ、お前が宮本か。……で? 俺らに何のお願いだよ」

 

 リーダーが煙を吐き出しながら俺を品定めするように見上げた。その視線はクラスの男子たちのものとは違った。もっと暴力的で冷酷で人間としての温かみを一切感じさせない目。まるで精肉店の主人が肉を見るような目だ。

 

 俺はスカートの裾を握りしめ、一世一代の取引を持ちかけた。

 

 「……俺を、守ってください」

 「あ?」

 「2年の連中が、うざいんです。……先輩たちの力で、あいつらを黙らせてください」

 

 場が静まり返った。次の瞬間、ドッと爆笑が起きた。

 

 「ギャハハ! 聞いたかよ! ボディーガードの依頼だってよ!」

 「ウケる! 何様のつもりだよ!」

 

 リーダーも鼻で笑った。

 

 「おいおい、俺たちは便利屋じゃねーんだよ。……帰ってママにでも頼めよ」

 「……タダとは、言いません」

 

 俺は一歩踏み出した。ここで引くわけにはいかない。ここで帰れば呼び出しをすっぽかした報復が待っている。俺にはもう後がないのだ。

 

 「なんでも、します。……先輩たちの言うことなら、なんでも聞きます」

 

 俺は上目遣いでリーダーを見た。34℃の体温、青白い肌、整いすぎた顔立ち。自分がどう見えているか今の俺は本能的に理解していた。この身体こそが俺が差し出せる唯一の対価だ。

 

 リーダーの目が細められた。笑いが消える。

 

 「……なんでも、つったな?」

 

 彼は吸い殻を靴底で踏み消しゆっくりと立ち上がった。俺の目の前に立つと威圧感が凄まじい。

 

 「証明してみろよ」

 

 彼は自分のズボンのベルトに手をかけた。

 

 「ここで今すぐだ」

 

 周囲の不良たちが口笛を吹く。ここは屋上だ。風が吹き抜け空が見える開放的な場所。  こんなところで?

 

 正常な神経なら逃げ出していただろう。だが俺の神経はとっくに焼き切れていた。

 羞恥心よりも恐怖よりも「この地獄から抜け出せるかもしれない」という蜘蛛の糸への執着が勝った。

 

 俺は震える手で膝をついた。コンクリートの冷たさが膝に染みる。見上げるとリーダーが見下ろしている。それは新たな「畜類」を見る目だった。

 

 「……はい」

 

 俺は従った。その瞬間、俺は人間であることをやめて彼らの「所有物」になった。

 

 効果は劇的だった。翌日の昼休み、いつものように俺の机を取り囲んでいたクラスの男子たちのもとに3年生の不良たちが乗り込んできたのだ。

 

 「オラァ! テメェら調子こいてんじゃねーぞ!」

 

 繰り出される問答無用の暴力。リーダーの拳が俺をいじめていた男子の顔面にめり込む。机がなぎ倒され悲鳴が上がる。

 

 「い、痛い! ごめんなさい! なんで!?」

 「宮本は俺らの連れだ。……次手ぇ出したら、殺すぞ」

 

 その一言で世界が変わった。昨日まで俺を見下し嘲笑っていた連中が今は床に這いつくばり恐怖に震えている。その光景を見て俺の胸に暗い愉悦が広がった。

 

 (ざまあみろ……)

 

 俺は間違っていなかった。力こそが正義だ、暴力こそがルールだ。俺はより強い暴力の傘下に入ったことでこの箱庭での安全を手に入れたのだ。

 

 それ以降クラスメイトからのいじめはピタリと止んだ。誰も俺に話しかけない、目も合わせない。俺が廊下を歩けばモーゼの十戒のように道が開く。そこにあるのは「畏怖」だった。かつて小学校時代に俺が君臨していた頃のような絶対的な恐怖による支配。

 

 俺はそれを取り戻したのだと錯覚した。

 だが、その代償はあまりにも大きかった。

 

 俺はもう、ただの女子生徒ではいられなかった。「不良グループの女」としての証を刻まれたのだ。

 

 「宮本、その髪ダセェな。染めろよ」

 

 ある日リーダーにそう命令された。俺の黒髪が気に入らないらしい。拒否権はない、俺は彼らの所有物なのだから。

 

 俺は市販のブリーチ剤を買い自分で髪を脱色した。ムラのある安っぽい金髪。さらにそこへ銀色のカラーバターを入れるように指示された。

 

 鏡の中に映ったのは色素の抜けた銀髪の少女だった。黒い瞳と銀色の髪。右耳には安全ピンの跡地に安っぽいリングピアスが光っている。そのコントラストはこの世のものとは思えないほど異質でそして美しかった。けれど、それはもう「宮本貴也」の顔ではなかった。

 

 「へぇ、いいじゃん。人形みたいで」

 「宇宙人みてー」

 

 先輩たちは面白がった。俺は彼らにとって珍しいペットであり、着せ替え人形であり、そして便利な性処理道具だった。

 

 放課後は毎日彼らのたまり場へ行かなければならなかった。カラオケボックス、先輩の家、時には公園のトイレ。そこで行われる行為は同級生たちとのそれとはレベルが違った。加減がない、愛情もない、ただの消費。34℃の身体は常に痣だらけになり声は枯れ、心は摩耗しきっていた。

 

 それに彼らの要求は性的なことだけではなかった。

 

 「おい宮本、ジュース買ってこい」

 「タバコ切れたから万引きしてこいよ」

 

 パシリ、犯罪の片棒。俺は言われるがままに動いた。万引きが見つかりそうになって冷や汗をかいたことや、手が震えて止まらなかったこともあった。

 

 それでも俺は彼らに従い続けた。なぜなら彼らから捨てられれば、またあの「不特定多数からのいじめ」という地獄に戻されるからだ。一人の主人に仕えるか、群れ全体に食い荒らされるか。究極の選択の中で俺は前者を選び続けるしかなかった。

 

 学校での俺は完全に孤立していた。銀髪に耳にはピアス。スカートを極限まで短くし虚ろな目で廊下を歩く少女。誰も近寄らない、先生さえも目を逸らす。俺は学年で一番の「アンタッチャブル」な存在になっていた。

 

 クラスメイトたちが遠巻きに俺を見てヒソヒソと囁く。

 

 「あいつ、ヤクザの女になったらしいよ」

 「終わってるな」

 「関わったら殺されるぞ」

 

 聞こえていた。でも、どうでもよかった。お前らに何を言われようと関係ない。俺には最強のバックがいる。そんな歪んだ優越感だけが空っぽの心を埋めていた。

 

 自分が人間としての尊厳を完全に売り渡し、底なし沼に沈んでいることに気づかないふりをして。俺は銀色の髪をなびかせながら泥濘の箱庭を彷徨い続けていた。

 

 季節が夏から秋へと移ろう頃には俺の身体はより派手なキャンバスへと変貌していた。

 

 鏡に映る自分の顔を見る。右耳に4つ、左耳に4つ。合計8つの銀色のリングが左右対称に並んでいる。

 右耳の最初の一つは、あの日佐藤に安全ピンで無理やり貫通させられた「奴隷の烙印」だ。鏡を見るたびにその穴が目に入るのがどうしようもなく不快だった。右耳だけに穴があることが自分が一方的に支配されている証のように思えてならなかった。だから俺は自分で左耳に穴を開けた。

 

 「……これで、対等だ」

 

 それは宮本貴也の中に残っていた残りカスのような反骨精神の現れだった。奴らに開けられたなら自分で自分の身体を傷つけることで上書きしてやる。そんな歪んだ意地。

 

 それからはストレスが限界を超えるたびに俺は自分で安全ピンを突き刺した。

 プツリ、という皮膚が破れる音と走る鋭い痛み。その瞬間だけは泥のような日常を忘れ自分が自分の身体の持ち主であることを確認できた。増えていく穴は俺の悲鳴の数であり、行き場のない怒りの排出口だった。結果として残った左右対称の8つのリングは俺の精神の均衡を保つためのギリギリの重石となっていた。

 

 だが俺がどれだけ意地を張ろうと彼らにとって俺は便利な玩具であることに変わりはなかった。身体に刻まれるのはピアス穴だけではなかった。

 

 ある日の放課後、先輩の部屋でのことだ。いつものように行為が続いていた最中、背後から乗っかっていた男が不満げに呟いた。

 

 「なんか飽きたな。宮本、最近反応薄くね?」

 「慣れちまったんじゃねーの? つまんねーな」

 

 俺はシーツに顔を埋めただ終わるのを待っていた。心を殺し無反応を貫くことが唯一の防御だったからだ。だが、それが彼らの嗜虐心に火をつけた。

 

 「おい、ちょっといいモンあるぜ」

 

 ジッ、というライターの音がした。タバコの焦げる匂い。

 

 「な、なにを……」

 

 顔を上げようとした瞬間、背中の肩甲骨あたりに灼熱の激痛が走った。

 

 「ぎゃあああああああッ!!」

 

 絶叫した。熱い、焼ける、肉が焦げる。火のついたタバコを直接肌に押し付けられたのだ。

 

 「おー、いい声!」

 「すげえ締まった! やっぱ痛み与えると最高だな!」

 

 俺がのた打ち回り涙を流して悲鳴を上げると彼らは興奮した様子で笑った。痛い、熱い。

 

 ジュウ、と皮膚が焼ける音が耳にこびりつく。その日、俺の背中には醜い火傷の痕が刻まれた。「よく鳴いて具合が良かった」という吐き気のするような理由と共に。

 

 そして秋が深まり始めたある日。俺の運命を底なしの地獄へと突き落とす会話がなされた。

 

 事後の倦怠感の中でリーダーがスマホを見ながら何気なく呟いた。

 

 「なぁ。アスリスってさ、ガキできねえんだろ?」

 

 俺は服を整えながらビクリと肩を震わせた。アスリスの「最適化期」 肉体が性別を転換し安定するまでの期間。医師からは生殖機能が未発達であり、妊娠の可能性は極めて低いと告げられていた。それは俺にとって数少ない「救い」だった。万が一の恐怖に怯えなくて済むのだから。

 

 「……医者は、そう言ってました」

 

 俺が小声で答えるとリーダーの目が爬虫類のように細められた。その場にいた他の先輩たちも一斉に俺を見た。その視線に含まれているのは欲情ではない。もっと冷徹な「計算」の色だった。

 

 「へぇ……できねえんだ」

 「ゴムいらねえってことか」

 「つーかさ、それって『商品』として最高じゃね?」

 

 嫌な予感がした、背筋を冷たい汗が伝う。商品? 何の話だ?

 リーダーが俺の顎を掴み、強引に上を向かせた。

 

 「おい宮本。お前、これから稼いでこいよ」

 「……え?」

 「俺らの小遣い稼ぎだよ。……お前みたいなレアな身体、金払ってでも抱きたい奴はいっぱいいるんだよ」

 

 意味を理解した瞬間、血の気が引いた。

 

 売春。

 

 俺に身体を売れと言うのか。見知らぬ他人に、金のために。

 

 「い、嫌です……! それだけは……!」

 

 俺は必死に首を振った。先輩たちの相手をするのとは訳が違う、不特定多数の大人に身体を売るなんて人間としての一線を越えてしまう。

 

 「あ? 嫌?」

 

 突然乾いた音がして俺の視界が明滅した、殴られたのだ。

 

 「誰が選んでいいっつったよ。テメェは俺らの所有物だろ?」

 

 リーダーが俺の髪を掴み、地面にねじ伏せた。

 

 「妊娠しねえ便利な穴なんだよ、お前は。……それとも親の財布から金くすねてくるか?」

 「う、うぅ……」

 「その価値を有効活用してやるっつってんだ。感謝しろよ」

 

 反論は許されなかった。背中の根性焼きがズキズキと痛み、恐怖が俺を縛り付けた。

 

 それからの日々は記憶がおぼろげだ。あまりにも辛すぎて脳が記憶することを拒絶しているのかもしれない。

 

 放課後になると指定された場所へ行く。駅前のロータリー、ホテルのロビー、薄暗い路地裏。待っているのは見たこともない男たちだ。サラリーマン、作業員、大学生。彼らは俺の銀髪と8つのピアス、そしてセーラー服姿を見て下卑た笑みを浮かべる。

 

 「君が『銀色の少女』?」

 「へぇ、本当に綺麗だ。ピアスすごいね」

 

 ホテルへ連れて行かれると俺は人形になる。心なんていらない、感情なんて邪魔だ。ただ相手の要求に応え終わるのを待つだけ。34℃の冷たい身体が他人の熱で汚されていく。背中の火傷痕を見られて「何これ、すごいね」と指でなぞられるたびに俺の中身が削れていく。

 

 終わると金を受け取る。その金はすべて先輩たちに巻き上げられ、俺の手元に残るのは小銭程度の「餌代」と消えない汚れだけ。

 

 「宮本、今日も稼げたか?」

 「いい子だなー。よしよし」

 

 金を渡すとリーダーは俺の頭を撫でる。ペットを褒めるように、俺はそれを無表情で受け入れる。俺はただの集金システムだ、生きているATMだ。

 

 学校での俺は完全に廃人のようだった。授業中は机に突っ伏して眠るか虚空を見つめているだけ。クラスメイトたちは俺の変貌ぶりにドン引きし遠巻きに噂をするだけだった。

 

 「あいつ、マジでヤバいらしいよ」

 「売春してるって噂だぜ」

 「病気うつされそう」

 

 誰も助けてくれない、先生でさえ俺と目を合わせようとしない。俺は世界から切り離されていた。泥濘の底で一人きりで腐っていく感覚。

 

 そして冬が来た。あの日と同じ凍えるような冬。

 

 その日、俺は酷い客に当たった。いつも以上に乱暴に扱われ、身体中が痛み、心は限界を超えていた。解放されたのは夜遅くだった。この後先輩たちに金を渡せばやっと一人になれる。重い足取りで向かう途中、ふと立ち止まった店のショーウィンドウが無機質な鏡となって己の姿を映し出した。

 

 「…………っ」

 

 品のない銀色の短い髪、ストレスの影響で開けた八つのピアスホールは無理やり軟骨にまで穿たれており痛々しさを放っている。不良たちの機嫌を取るために袖を通した露出の高い服は、今の自分の身分を表すように薄汚れている。そこに映っていたのは卑しい娼婦だった。

 ガラスの中の『少女』が俺の動きに遅れて、ゆっくりと右耳のピアスに触れた。その虚ろな瞳と目が合った瞬間、俺の口から乾いた砂のような声が零れ落ちた。

 

「……おまえは、誰だ」

 

 俺ではない。けれど宮本貴也でもない。名前を呼んでくれる家族も、守るべき未来も、温かい体温さえも持たない。あらゆる苦痛に耐え泥の中を這いずり回るだけの、この空っぽの器は一体何なのだ。

 

 返事をする者は誰もいなかった。 ただ、冷たい風が銀髪を揺らし耳のピアスが夜のネオンを反射して、無機質に光っているだけだった。

 

 「……寒い」

 

 コートを着ていても寒さが骨まで染みてくる。アスリスの身体にとって冬の夜気は死神の鎌のようだ。ガタガタと震えが止まらない。でもアパートに帰る気にはなれなかった。 母の顔を見たくなかった。こんなに汚れて、穴だらけで、傷だらけになった俺を見たら母はどう思うだろう。

 

 「……もう、いいかな」

 

 不意にそんな言葉が口をついて出た。頑張った、俺は頑張ったよ。宮本の名前にしがみついて男の意地を張って、地獄の中を這いつくばって生きてきた。でも、もう限界だ。右も左も穴だらけ。背中には消えない火傷。俺にはもう守るべき尊厳も未来も、何もないじゃないか。

 

 足が勝手に動いていた。向かう先は学校の裏手、川沿いの土手。

 

 大きな橋が見えてくる。街灯に照らされた冷たいコンクリートの橋。その下を流れる川の水は黒いインクのように重く、そして静かだった。

 

 あそこなら全てを洗い流せる。34℃の熱さえも奪い去って永遠の静寂をくれる。

 

 俺は欄干に手をかけた。冷たい鉄の感触。8つのピアスが風に吹かれて冷たく耳を刺す。

 

 「……さよなら」

 

 誰への言葉だったのか。自分自身への別れの言葉か。

 

 俺は虚ろな瞳で黒い水面を見下ろした。ここが終着点だ。宮本貴也という愚かで哀れな物語の誰も望まない結末。

 

 雪がちらちらと舞い始めていた。銀色の髪に白い雪が降り積もる。その光景は皮肉なほどに美しく、そして残酷だった。




アスリスの最適化期は、肉体を新たな性別へと精密に適合させるため、恒常的に代謝資源(糖代謝や熱産生エネルギー)が細胞の再構成へと優先配分される。
これにより、標準的なホメオスタシス(恒常性)が一部制限され、以下の特有な症状群が定着する。

1. 制御型嗜眠(Controlled Deep Sleep)
通称「サナギの微睡」。脳内および全身の細胞再構成を効率化するため、生体が強制的に活動を停止させる自己防衛現象である。
特性: 1回につき10分から30分程度の極めて深い昏睡状態に陥る。この間、外界からの物理的刺激(揺り起こし等)に対する反応は著しく低下する。
生理状態: 通常の失神や気絶とは異なり、呼吸・脈拍・血圧は極めて安定しており、医学的には「生理的な熟睡」に近い。
制御性: 眠気に襲われる数分〜十分前に、脳が特有の「痺れ」や「予兆」を感知する。これにより、罹患者は自立的に安全な場所(個室、自宅など)へ移動し、体制を整えてから入眠することが可能である。

2. 慢性低体温および基礎代謝の変容
熱産生エネルギーが組織構築へと転用されることに伴う、アスリス罹患者に最も普遍的な臨床的特徴である。
平熱の低下: 定常的な体温が34℃から35℃ 台で推移する。
習慣的倦怠感: 常に疲弊しているわけではないが、体内での再構成強度が強まる「活動周期」に合わせ、波のある倦怠感に襲われる。

3. 感覚器官の鋭敏化と拒絶
内分泌系(ホルモンバランス)の劇的な変化により、脳内の感覚処理プロセスが再定義される。
嗅覚・味覚の変容: 刺激の強い匂い(タバコ、男性特有の汗の匂い、人工香料)や、刺激の強い食べ物(過度な香辛料、極端に脂っこい食事)に対し、脳が防御反応として強い拒絶を示す。これは、再構成中の過敏な細胞を外部刺激から守るための本能的な反応と考えられている。
視力の不安定化: 細胞再構成の影響は眼球形状や角膜の厚み、ピント調節能力にも及ぶ。一時的な乱視や視力低下が生じることがあるが、実生活に支障がない程度の軽症に留まる。

4.生殖制限
全身の細胞再構成および神経系の適合へ膨大な代謝資源が優先配分される。このため、生命維持に直接関わらない生殖システムは事実上の「休止状態」へと移行する。
最適化期の罹患者は、再構成中の性別に応じ、標準的な医療診断における以下の機能不全状態と酷似した生理環境下に置かれる。これらは一時的な生理的制限であり、原則として恒久的な不妊を意味するものではない。
造精機能不全(男性化プロセス中、または旧性別が男性の場合): 精細胞の形成・成熟に必要とされる代謝エネルギーおよびホルモン供給が細胞再構成へ転用される。これにより、精子の産生能力が著しく低下、あるいは完全に停止する。
排卵および月経障害(女性化プロセス中、または旧性別が女性の場合): 性腺刺激ホルモンの分泌が肉体の最適化プロセスに干渉され、卵胞の成熟や排卵が阻害される。結果として、無排卵周期症や月経不順(あるいは無月経)が慢性化し、受胎能力が極めて低い状態となる。

5. 再構成痛と超常的自然治癒力
第2フェーズにおける細胞の再構成は、メリットとデメリットを同時に供給する。
微細再構成痛: 第1フェーズ(劇的再構成期)のような激痛ではないものの、骨格の微調整や筋肉の付着点の移動に伴い、成長痛や生理痛に似た鈍痛が周期的に発生する。
治癒能力の亢進: 細胞のターンオーバーが異常に活性化しているため、擦り傷や打撲などの外傷、さらには過去のケロイドや痣さえも「新しい性別の組織」として迅速に修復・置換される。
組織の定着: ただし、既に上皮化し「正常な組織」として安定してしまったピアス穴などは、再構成の対象外となる。これらを消失させるには、アスリスの自然治癒力ではなく物理的な外科手術が必要となる。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。