その年の冬は僕の人生で最も寒く、そして世界から音が消え失せたかのように静かな冬だった。
小学5年生の1月、僕は隣町の公立小学校に転校した。「引っ越し」という体裁を取り繕ってはいたけれど実態はただの「逃走」だった。あの教室から、宮本貴也という絶対的な支配者が作り上げた息の詰まるような処刑場から。
新しい学校への初登校日、下駄箱の冷たい金属の感触に触れたとき指先が微かに震えたのを覚えている。上履きの中に画鋲が入っていないか。靴の裏にガムが張り付けられていないか。そんな確認を無意識にしてしまう自分がひどく惨めに思えた。
教室の扉を開けるとそこには暖房の効いた暖かい空気が満ちていた。黒板には『ようこそ、瀬戸くん』という歓迎の文字。担任の先生は笑顔で僕を紹介しクラスメイトたちは好奇心と好意の混じった拍手で迎えてくれた。
「瀬戸くん、おはよう。隣の席だね、よろしく」
隣の席の女子が屈託のない笑顔で話しかけてきた。僕はその笑顔を見て一瞬、呼吸が止まった。この笑顔の裏には何がある?
これは罠なんじゃないか?
あとで嘲笑うための前振りなんじゃないか?
脳内で警鐘が鳴り響く。 条件反射的に身構え喉が張り付いたように声が出ない。
「あ、……うん。……よろしく」
絞り出した声は掠れて小さかった。彼女は怪訝そうな顔をしたが、すぐに「教科書、見せようか?」と親切に申し出てくれた。
誰も僕の教科書に『死ね』とは書かない。誰も僕の給食に砂やチョークの粉を入れない。誰も僕を透明人間として扱い目の前で悪口を言ったりしない。
あまりにも当たり前の平和な日常。けれど、その「当たり前」が今の僕には直視できないほど眩しく、そして恐ろしかった。僕は温室に迷い込んだ深海魚のように温かい空気に馴染めず、ただ息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
放課後、逃げるように家に帰るとすぐに自分の部屋に鍵をかけた。
カチャリ、という施錠音がして初めて肺の奥まで酸素が入ってくる気がした。
ここは僕の城だ、唯一の安全地帯だ。机に向かう。そこには、まだ折り目のついていない真新しいノートと教科書がある。勉強をしなくては、遅れた分を取り戻さなくては。そう思うのに視線はどうしてもある一点に吸い寄せられてしまう。
本棚の片隅、一番取り出しやすい場所に置かれた一冊の文庫本。幾何学模様の装丁、静謐なタイトル。
『九条綴の完璧な余白』
著者は淡島宗太郎、僕がこの世で一番愛していた物語。論理と知性を武器に不可解な謎を解き明かす孤高の女探偵。彼女の凛とした生き方と推理に僕はどれほど心躍らされただろう。ページを開くワクワクは他のどんなものより強かった。「論理こそが世界を記述する唯一の言語だ」と語る彼女の言葉は僕にとっての憧れだった。
けれど、今の僕にとってその背表紙は恐怖のスイッチでしかなかった。
それを見た瞬間、脳の奥で火花が散り焼け付くような痛みが視界を覆い尽くす。
『こんなもんのどこが面白いんだよ』
『字ばっかりで、絵もなくてさ』
宮本貴也の声が蘇る。あの日の教室の張り詰めた冷たい空気。僕の手から本をひったくった時の乱暴な手つき。僕の聖域を土足で踏み荒らされる感覚。
『理解できない、だと? 調子に乗るなよゴミが』
やめてくれ、耳を塞いでも鼓膜の裏側で彼の声が反響する。本を奪い返そうとして突き飛ばされた時の床の硬さ。
メリメリ、と背表紙が悲鳴を上げた音、紙が裂ける感触。そして放物線を描いてゴミ箱へ放り込まれた時のあの乾いた音。
ゴミ箱の底に落ちた本の姿、クシャクシャになったページ、汚れた表紙。周囲のクラスメイトたちの、ドッと湧き上がる嘲笑と拍手喝采。
「う、っ……」
強烈な吐き気が込み上げてきた。僕は口元を押さえ床にうずくまった。あの日、僕は悟ったのだ。骨の髄まで理解させられたのだ。
「言葉」は無力だ、と。
僕は宮本くんに反論した、勇気を振り絞って「作者の自己満足なんかじゃない」、「君が理解できないだけだ」と精一杯の論理的な言葉で戦おうとした。それが正しいと信じていたから。言葉は剣よりも強いと物語が教えてくれたから。
だが、その結果はどうだ。絶対的な暴力と圧倒的な集団心理という理不尽な力の前に僕の言葉はあまりにも脆く枯れ葉のように踏み潰された。僕が何を言おうと彼らには届かない。正しいことが勝つわけじゃない、美しい言葉が世界を救うわけじゃない。
声が大きい者が、力が強い者が、腕っぷしの強い者がこの世界のルールを決めるのだ。
そんな残酷な真実を前にしてフィクションの中の正義など何の役にも立たなかった。
「……もう、いらない」
僕は震える手で本を手に取った。表紙を撫でる、愛おしさよりも苦しさが勝った。これを持っている限り僕はあの屈辱を忘れられない。それに今の弱くて惨めな僕には、空想の世界に逃げ込む資格さえない。現実の暴力に怯え逃げ出し、ただ震えているだけの敗北者が触れるなんて冒涜だ。
僕は部屋の隅からダンボール箱を引きずり出した。引っ越しの荷解きが終わっていない箱ではない。これから封印するための箱だ。
一冊、また一冊。本棚から小説を抜き出し箱の中へ沈めていく。ミステリー、SF、ファンタジー、古典文学。僕の孤独な魂を支えてくれた友人たち、僕の世界を広げてくれた教師たち。それを自らの手で葬っていく。
さようなら、僕の聖域。感情を揺さぶる美しい言葉も、心躍る物語も、現実の悪意の前では紙切れ同然だ。僕を守ってはくれない。
最後に『九条綴の完璧な余白』を入れた。箱がいっぱいになる。僕はガムテープを引き出し乱暴に音を立てて箱の口を塞いだ。
バリバリ、という音が僕と物語の世界との断絶の音のように響いた。
僕はその日、物語を読むことをやめた。必要なのはもっと現実的で確かなもの。理不尽を跳ね返し自分を守るための物理的な「力」だ。
ふと、鏡に映る自分を見た。そこにいたのは見るも無惨な少年の姿だった。痩せっぽちで、あばら骨が浮き顔色は青白く目の下に深い隈を作っている。
背中を丸め何かに怯えるように視線を泳がせている。宮本くんに「ゴミ」と呼ばれても言い返せなかった典型的な弱者。
「……嫌だ」
呟いた声が部屋の空気を揺らした。
「こんな自分はもう嫌だ」
このままじゃ駄目だ、場所を変えても学校を変えても僕自身が変わらなければいつかまた同じことが起きる。また誰かに大切なものを奪われゴミ箱に捨てられ尊厳を踏みにじられる。そして僕はまた無力に泣いて逃げ出すだけだ。
変わりたい、誰にも負けないくらい強く。言葉ではなく存在そのもので悪意を跳ね返せるくらいに。
その週末の夕食時、僕は箸を置き両親に向き直った。心臓が早鐘を打っていた。こんなことを言うのは僕の人生で初めてだったからだ。
「お父さん、お母さん。……話があります」
父と母が顔を見合わせ心配そうに箸を止めた。転校したばかりの息子がまた何か辛い思いをしているのではないかと、彼らはずっと気を揉んでいたのだ。
僕は深呼吸をして膝の上で拳を握りしめた。
「格闘技を、習いたいです」
一瞬の静寂。父が目を見開き母が小さく息を呑んだ。 無理もない、僕は運動神経も人並み以下で争いごとを何よりも嫌う性格だ。虫も殺せないような内気な息子が突然、殴り合いが当たり前の格闘技をやりたいと言い出したのだから。
「格闘技……って、本当?」
母が戸惑いながら尋ねた。
「皓二朗、何かあったの? いじめられたことと関係あるの? 喧嘩がしたいわけじゃ……」
母の声が震えている。いじめのトラウマで自暴自棄になり暴力に走ろうとしているのではないかと疑ったのだろう。
「違うよ、お母さん」
僕は首を振った。言葉を選びながら、けれど真っ直ぐに両親の目を見つめた。
「喧嘩がしたいわけじゃないんだ。誰かを殴り返したいわけでもない」
復讐じゃない。宮本くんを殴ったところで僕の失われた時間は戻らない、壊された本は戻らない。僕が欲しいのは攻撃力じゃない。
「ただ……守れるようになりたいんだ。自分のことも、大切なもののことも」
もう二度と大切なものをゴミ箱に捨てさせないために。 もう二度と理不尽な暴力に屈して何も言えずに立ち尽くさないために。 自分の中に揺るぎない「芯」を作るために。
「僕は弱かった。だから何も守れなかった。……それが悔しいんだ」
涙が出そうになるのを堪えた。父は僕の目をじっと見つめていた。普段は無口で穏やかな父。転校を決めた時も何も言わずに背中をさすってくれた父。彼はしばらく沈黙した後、深く力強く頷いた。
「分かった」
「あなた……」
「皓二朗の目は、逃げている目じゃない。……本気なんだな?」
「はい。本気です」
「なら、応援するよ。……男が強くなりたいと願うのは、悪いことじゃない」
父の言葉が温かく胸に染みた。許可は得た。あとは僕がやるだけだ。
数日後、僕は父に連れられて町外れにある「大田ボクシングジム」の門を叩いた。
雑居ビルの地下、重い鉄の扉。そこを開けた瞬間、熱気と騒音が波のように押し寄せてきた。
サンドバッグを叩く重い打撃音、床を刻む軽快なステップ音、縄跳びが風を切る音。そして男たちの荒い息遣いと怒号のような指示の声。
空気が違った。僕が今まで生きてきた図書館の静寂や教室の整然とした空気とは対極の世界。汗と革とワセリンと、そして男たちの熱気が混ざり合った強烈な臭い。
怖い、本能がそう告げた。リングの上ではヘッドギアをつけた二人の男が殴り合っている。汗が飛び散り血が滲んでいる。暴力だ、僕が一番恐れていたあの暴力がここにある。
足がすくみそうになった時、奥から一人の男が歩いてきた。白髪混じりの短髪、太い首、岩のような肩幅。鋭い眼光は猛禽類を思わせた。会長の大田だ。
「……なんだ坊主。見学か?」
低い声、腹の底に響くようなドスの利いた声。以前の僕ならその威圧感だけで泣いて逃げ出していただろう。宮本くんなんて目じゃない「本物の強者」のオーラ。
けれど不思議と僕は目を逸らさなかった。ここにある暴力は宮本くんのような「陰湿な悪意」とは違う。ルールがあり技術があり、そして敬意がある。純粋な「強さへの渇望」だけが渦巻いている空間だと直感したからだ。
「……入会したいです」
僕は一歩前に出た。
「強くなりたいんです」
大田会長は僕を上から下まで値踏みするように見た。ヒョロヒョロの身体、青白い顔。ボクシングの才能など微塵も感じさせない外見。
「喧嘩強くなりてぇのか? いじめっ子を見返したいのか?」
「違います」
僕は即答した。
「負けないために強くなりたいんです。……二度と自分を嫌いになりたくないんです」
会長は少しだけ眉を上げ、それから口角を吊り上げてニヤリと笑った。 それは獰猛だが、どこか温かみのある笑みだった。
「いい目をしてるな。……だが、うちは厳しいぞ。お遊びじゃねぇ、ゲロ吐くまでやらせるぞ。続くか?」
「続けます、絶対に」
「よし。……今日からお前は練習生だ、着替えてこい!」
それが僕の新しい人生の始まりだった。そして同時に地獄のような日々の幕開けでもあった。
練習は想像を絶する過酷さだった。
初日。
「まずは基本だ、縄跳び3分3ラウンド」
たかが縄跳びだと思っていた。小学校でもやったことがある。だがボクシングの縄跳びは違った。リズム、スピード、足の運び。1分も経たないうちに息が上がり、ふくらはぎが悲鳴を上げた。足がもつれロープが足に引っかかる。
ピシリ、と肌を打つ痛み。
「止まるな! 続けろ!」
トレーナーの怒声が飛ぶ。
3分が終わった時、僕は床に倒れ込んでいた。心臓が破裂しそうだった。だが休憩は1分しかない。
「はい次! シャドー!」
腕を上げるだけで肩が軋む。鏡の前で構える自分の姿はあまりにも無様で滑稽だった。猫背でへっぴり腰で拳の握り方さえ分からない。
一週間後、全身が激しい筋肉痛に襲われ朝起き上がることさえ困難になった。箸を持つのも辛い、階段を降りるのも一苦労だ。ジムに行くと練習の途中でトイレに駆け込み胃液を吐いた。苦しい、辛い、痛い。なんでこんなことをしているんだろう。家で寝ていたい、本を読んでいたい。弱い心が鎌首をもたげる。
でも、吐いた口を拭って鏡を見た時そこに映る自分の目に微かな光が宿っているのに気づいた。
『お前はゴミだ』
あの言葉が蘇る。ここで逃げたら僕は本当に一生ゴミのままだ。この筋肉痛は僕の身体が変わりたがっている証拠だ。この痛みには意味がある。殴られる痛みとは違う成長のための痛みだ。
「……まだ、やれる」
僕はジムのフロアに戻った。サンドバッグに向かう。
パンッ、という乾いた音が響く。まだ弱々しいけれど確かに僕の拳が叩いた音だ。
一ヶ月が過ぎた頃、僕はまだ誰よりも弱かった。けれど僕の心の中には、かつてなかった小さな炎が灯り始めていた。それは「論理」と「肉体」という裏切ることのない確かな武器を手に入れたという実感だった。
冬が終わり春が近づいていた。もうすぐ中学生になる。新しい制服、新しい環境。不安はある、でも恐怖はなかった。僕の背中にはもう数々の物語たちはいない。 代わりに汗と血の匂いが染み付いたバンテージが僕の新しいお守りになっていた。
桜が散り新緑の季節が過ぎる頃には僕の生活は完全に「ボクシング」を中心としたサイクルに固定されていた。
中学生になった僕はクラスの中で奇妙な立ち位置を確立していた。友達はいない、休み時間に誰かと群れることもない。けれど小学校時代のような「無視」や「嘲笑」の対象になることは二度となかった。
理由は単純だ、僕が圧倒的に「異質」だったからだ。
「……瀬戸くんってさ、何を読んでるの?」
ある日の休み時間、クラスの女子が恐る恐る話しかけてきた。僕は視線を落としていた本から顔を上げ表紙を見せた。『臨床スポーツ医学:筋骨格系の解剖と機能』 分厚い専門書だ。
「え……医学書?」
「筋肉のつき方と関節の可動域を調べていたんだ」
僕は淡々と答えた。彼女は引きつった笑みを浮かべて「そ、そうなんだ……すごいね」 と言って去っていった。これでいい、下手に愛想を振りまく必要はない。理解されないならそれで構わない。僕はもう他者からの共感など求めていなかった。
体育の授業でも変化は顕著だった。更衣室でシャツを脱ぐと周囲の空気が一瞬止まるのが分かる。中学1年生にしては異常に発達した広背筋、洗濯板のように割れた腹筋、無駄な脂肪が削ぎ落とされた機能美の塊のような肉体。男子たちがヒソヒソと囁き合う声が聞こえる。
「あいつ、マジですげえな……」
「なんか格闘技やってるらしいぜ」
「怒らせたらヤバそう」
かつて「もやしっ子」と馬鹿にされていた僕に向けられる視線が「畏怖」に変わっていた。暴力を行使しなくても、ただ「持っている」だけで抑止力になる。それが僕が求めていた「強さ」の形だった。
いつしか僕は陰でこう呼ばれるようになっていた。
『ロジカルゴリラ』
休み時間、常に難解な本を読んでいるのに中身は筋肉の塊だという意味らしい。悪くないあだ名だと思った。少なくとも「ゴミ」や「バイキン」よりはずっとマシだ。
学校が終わると僕は逃げるようにジムへ向かう。そこが僕の本当の居場所だった。
ジムの先輩たちは粗野だが裏表のない人たちばかりだった。殴り合い、汗を流し、終われば笑って肩を叩き合う。そこには小学校の教室に蔓延していたような「陰湿な空気」は微塵もなかった。強さだけが正義、努力だけが評価される。そのシンプルなルールが僕には心地よかった。
夏になり僕は初めてのアマチュアの試合に出ることになった。デビュー戦だ。相手は3年生、他ジムの期待の新人だという。身長もリーチも僕より一回り大きい。
「緊張してんのか、コジ」
リングサイドで大田会長がバンテージを巻きながら声をかけてきた。 僕は小さく頷いた。手が震えている、怖い。相手の男がコーナーポストで威嚇するようにシャドーをしているのが見える。その姿が一瞬だけかつての宮本貴也の姿と重なった。
(……勝てるだろうか)
不安がよぎる。殴られるのは怖い、痛いのは嫌だ。でも、それ以上に「負けて元の自分に戻る」ことが怖かった。
「いいか、コジ」
会長が僕のヘッドギアを叩いた。
「相手はデカい。パワーもある。……だが動きが雑だ。お前の目なら見えるはずだ」
「……はい」
「いじめっ子を思い出せなんて言わねぇ。……ただ練習してきたことを信じろ。お前の積み上げた努力は感情任せの暴力に負けねぇよ」
ゴングが鳴った。
僕はリングの中央へ進み出た。相手がいきなり大振りのフックを振るってくる。風切り音が聞こえるほどの剛腕だ。以前の僕なら目を瞑っていただろう。でも今の僕には見えた。
(右肩が下がった、予備動作が大きい)
冷静にバックステップでかわす、鼻先をグローブが掠める。相手は焦って連打してくる。だが、その全てが雑だ。力任せのただの暴力。怖いと思っていた相手が急に小さく見えた。こいつは強いんじゃない、ただ暴れているだけだ。
(見える……隙だらけだ)
教科書で読んだ知識が脳内で高速で検索される。『レバーブロー(肝臓打ち)、右脇腹にある肝臓は肋骨による保護が不十分であり神経が集中している急所である』 相手が右ストレートを放った瞬間、脇がガラ空きになった。
今だ。
僕は踏み込んだ。 体重を乗せ、腰を回転させ、左の拳を相手の右脇腹へ突き刺す。
肉に拳がめり込む鈍く重い感触。
一瞬の静寂。次の瞬間、相手の動きが止まった。顔が苦痛に歪み膝から崩れ落ちる。呼吸ができないのだ。肝臓への衝撃は横隔膜を麻痺させ強制的に身体機能を停止させる。
「ダウン! ワン、ツー、スリー……!」
レフェリーのカウントが響く、相手は立ち上がれない。マットの上で魚のように口をパクパクさせて悶絶している。
テンカウント。試合終了のゴング。
「勝者、赤コーナー! 瀬戸ー!」
レフェリーに手を挙げられた瞬間、会場が歓声に包まれた。
「すげえボディだ!」
「一発で沈めたぞ!」
拍手、称賛。それはかつて僕が本を捨てられた時に浴びた嘲笑の拍手とは似て非なるものだった。
僕は勝ったのだ。理不尽な暴力に、過去のトラウマに。そして弱かった自分自身に。
「やったなコジ!」
コーナーに戻ると会長がクシャクシャの笑顔で迎えてくれた。先輩たちが僕の頭を撫で回す。僕は泣かなかった。ただ静かに自分の拳を見つめた。赤いグローブ、その中にある硬く握りしめられた手。
(これが、力だ)
誰かを傷つけるためじゃない、自分を守るために磨き上げた論理と努力の結晶。この拳がある限り僕はもう二度と理不尽に踏みにじられることはない。
その夜、僕は久しぶりに熟睡した。夢も見なかった。宮本貴也の冷たい笑い声も破られた本の夢も出てこなかった。
それから季節は巡った。中学2年生になった。相変わらず友達はいなかったがジムでの生活が充実していたため、孤独を感じることはなかった。
ボクシングの実力も順調に伸び県大会でも上位に入賞するようになった。「将来有望な選手」として、スポーツ推薦の話もちらほらと出るようになっていた。
学校生活はモノクロームの映画のように淡々と過ぎていった。僕は誰にも心を開かず、ただ「優等生」としての役割を演じ放課後はジムで汗を流す。それが僕の世界の全てだった。
時折ふとした瞬間に思い出すことがあった。本棚の奥、ダンボールの中に封印した本たちのことを。今の僕なら胸を張って会えるだろうか。「強くなりました」と言えるだろうか。
(……いや、まだだ)
僕は首を振る。僕は強くなった、肉体的には。けれど心はどうだ? まだ人間不信のままだ。誰かと深く関わることを恐れている。本当に強い人間は優しさも兼ね備えているはずだ。今の僕はただの鎧を着た臆病者に過ぎない。
「もっと、強くならなきゃ」
それが口癖になった。
何のために? 誰のために?
その答えは見つからないまま僕はただひたすらにサンドバッグを叩き続けた。いつか現れるかもしれない「守るべきもの」のために。
そして中学2年の冬が訪れた。僕の運命を変えるあの夜。