十二月二十四日、世間が浮かれる聖夜。僕は一人、凍てつくアスファルトの上を走っていた 。
吐く息が白く凍りつく。心拍数は150をキープ、思考はクリアだ。大田ボクシングジムに入門して約2年、かつて「もやしっ子」と嘲笑された僕の身体は今や鋼の鎧をまとっていた。身長は171センチに伸び、体脂肪率は一桁台。学校でつけられた『ロジカルゴリラ』というあだ名も今では「弱者」の殻を破り捨てた勲章のように感じている。
もうすぐ新人戦だ。勝たなければならない。かつて本を奪われ尊厳を踏みにじられ泣き寝入りしたあの頃の自分に二度と戻らないために。勝利という「結果」だけが今の僕を肯定してくれる唯一の根拠だ。
折り返し地点である市境の大きな橋が見えてきた。街灯が等間隔に並び、その下を流れる川は黒いインクのように重く沈黙している。
ラスト2キロ、ペースを上げようとした時だった。視界の端、橋の中央付近に異質なノイズが映り込んだ。
欄干に寄りかかる人影。街灯の逆光で表情は見えないが、そのシルエットはあまりにも細く、危うい。そして何より目を引いたのは特徴的な髪色だった。
銀色。プラチナのような輝きが冷たい夜気の中で揺れている 。
次の瞬間、人影が動いた。欄干に手をかけ身を乗り出す 。
(――ッ!?)
自殺。脳裏に警鐘が鳴り響く。関わるな、と冷徹な理性が囁く。大会前の大事な時期だ。トラブルに巻き込まれれば調整に響く、見て見ぬふりをするのが一番「合理的」だ。
だが僕の足は理性を無視して加速していた。
見捨てるのか、強くなったと言いながら目の前の絶望から目を逸らすのか。それは本当に「強さ」なのか。
「……おい!」
僕は地面を蹴った。ボクシングで培った瞬発力を全開にし橋の上へと駆け上がる。
「早まるな!!」
銀髪の人影がビクリと震えた。だが遅い、その身体は既に重力に引かれていた。靴がコンクリートから離れる。
間に合え、僕は身体ごと飛び込んだ。欄干越しに手を伸ばし宙に浮きかけたその腕を掴む。
折れそうなほど細い腕、強烈な負荷が僕の肩にかかる。だが絶対に離さない。
「ぐぅううッ! 上がれぇ!」
気合い一閃、全身のバネを使ってその身体を強引に引きずり戻した。勢い余って二人してもつれ合うように歩道へと倒れ込む。背中を打ち付けた痛みに顔をしかめながら僕は慌てて相手を確認した。
「……おい、大丈夫か」
言葉が詰まった。街灯の下、露わになったその姿に戦慄したからだ。
透き通るような銀髪、泥と汚れにまみれたコート、その下には季節感のないデコルテを大きく露出させた服を着ており、短いスカートから伸びた脚は傷だらけだ。そして何より異様なのは、その耳だった。右耳に4つ、左耳に4つ。びっしりと並んだ銀色のピアスが病的な威圧感を放っている。
少女は僕の胸元から顔を上げた。大きな瞳が僕を射抜く。そこにあるのは感謝ではない。底のない絶望と邪魔をされたことへの激しい憎悪だった。
「……なんで」
鈴を転がすような美声。けれど、その口調は耳を疑うほど粗雑だった。
「なんで、邪魔したんだよ……ッ!」
彼女――いや、その銀髪の少女は僕の胸をドンと突き飛ばした。力は弱く震えている。ふらつきながら立ち上がると彼女は欄干に背を預けてへたり込んだ。
「死ねたのに……やっと、終われたのに……クソッ……」
彼女は両手で顔を覆い男のような低い唸り声を漏らした。ただの不良少女ではない。漂ってくる微かな臭い、泥と汗とそして何か生臭い体液の臭い。この少女は何か酷い目に遭った直後だ。
「……死ぬところだったんだぞ」
僕は努めて冷静に声をかけた。
「放っておけるわけないだろ」
「うっせぇよ! 関係ないだろ! てめぇ誰だよ!」
ヒステリックな罵声。だが、その肩は寒さと恐怖でガタガタと震えている。唇は紫色に変色していた。
「……温かい飲み物買ってくる」
僕は上着のポケットに手を伸ばし、中にある財布の存在を手で確認する。
「いらない……優しくするな……」
彼女はその行動を抑止するよう吐き捨てるように言った。その瞳が虚ろに濁る。
「どうせ、お前も身体が目当てなんだろ……? 助けた代償にヤらせろって……?」
「は?」
僕は耳を疑った。
「金はない……。けど身体なら好きにすればいいよ……」
彼女は虚無的な表情で汚れたスカートの裾を捲り上げようとした。その脚には濁りのある液体か何かが乾いたであろう汚れがこびりついている。人間としての尊厳を完全に放棄した壊れた人形の仕草。
「ふざけるな!」
僕は怒鳴り彼女の手首を掴んで止めた。驚くほど冷たい肌、死体のような温度。
「僕はそんなことのために助けたんじゃない。……バカにするな」
僕が睨みつけると彼女は呆然と動きを止めた。初めて予想外の反応をされたという顔で。
「……じゃあ、なんでだよ」
「目の前で人が死ぬのが嫌だっただけだ。寝覚めが悪くなる」
ぶっきらぼうに答えて僕は彼女の両の肩に手を置いた。
「いいから身体を労われ。……そして帰れ、親が心配してるだろ」
「親なんて……いないよ」
彼女は喉が痙攣している時のような掠れた声で呟いた。
「帰る場所なんて……どこにもない」
その言葉の重みに僕は息を呑んだ。帰る場所がない、それはかつて僕が一番恐れていた孤独だ。世界中から拒絶されたような暗闇の底。
「……くだらない話をしてやるよ」
銀髪の少女は欄干に背を預けたまま独り言のように呟き出した。視線は虚空を漂っており、その語り口は自分自身の人生を他人事のように突き放した乾いた響きだった。
「俺は昔いじめる側だったんだ。……周りの奴らはみんな俺の言いなりで、気に入らない奴は踏み潰して笑い者にしてた。それが当たり前だと思ってた」
彼女は鼻で笑った。
「でも、バチが当たったんだろうな。……ある日全部ひっくり返った。俺が逆にいじめられる側になった。それだけの話」
淡々とした言葉。けれど、その底にある諦念の深さに僕は言葉を失った。加害者が被害者に転落した。だから今の惨めな状況も甘んじて受け入れるしかない。彼女はそう自分に言い聞かせ心を殺して生きているのだ。
「因果応報ってやつ。……だから今の俺がどうなろうと、しょうがないんだよ」
「……そんなこと」
「あるんだよ」
彼女は僕の言葉を遮った。
「俺はゴミだ。……誰でもいい、金さえ払えば誰でも使える公衆便所。それが今の俺の価値でお似合いなんだよ」
あまりにも自虐的な言葉。僕は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。かける言葉が見つからない。「そんなことない」なんて安っぽい慰めは彼女の傷口に塩を塗るようなものだ。
不意に彼女のポケットで電子音が鳴った。彼女はビクリと肩を震わせ、ひび割れた画面のスマートフォンを取り出した。画面を見た瞬間、彼女の顔から表情が抜け落ちた。恐怖、純粋な生存本能としての恐怖。
「……行かなきゃ」
彼女は肩に乗っていた僕の両の手を払いのけ、よろめきながら立ち上がった。
「待て、どこへ行くんだ」
「所有物は所有者のところへ行くだけだ」
彼女はうわごとのように言った。
「金……渡さなきゃ。今日稼いだ分、全部渡さなきゃ……」
「金? 誰に?」
「あいつらに……」
彼女はふらつく足取りで歩き出した。その背中は絞首台へと向かう罪人のように重く、そして絶望的だった。引き止めなければ。頭では分かっていたけれど、彼女自身が「救われること」を諦めきっているという事実が僕の勇気を挫いた。
少女の姿が夜の闇に溶けていく。僕は一人、橋の上に残された。
(……これでいいのか?)
理性的にはこれでいいはずだ。僕には来週大事な試合がある、見ず知らずの他人のトラブルに首を突っ込んで人生を棒に振る必要なんてない。
『お前の積み上げた努力は感情任せの暴力に負けねぇよ』
会長の言葉が蘇る。僕は強くなった。論理的に、合理的に。だからこそ「損得」で考えればここで帰るのが正解だ。
――でも。
『僕は弱かった。だから何も守れなかった。……それが悔しいんだ』
別の記憶がフラッシュバックする。ボクシングを始めると決めた日、両親に頭を下げた時の自分の言葉。「守れる人間」になるために強くなりたいと誓ったはずだ。
もし、ここで背を向けたら。僕はあの頃の「何もできずに震えていた弱虫」と何が違うんだ?
(――違う)
僕は地面を蹴った。理性をねじ伏せる、損得勘定をゴミ箱に捨てる。走る、さっきまでのロードワークとは違う。ただ、あの子に追いつくために。
橋を渡った先の河川敷の公園。そこに車のヘッドライトが見えた。
「……いた」
駆けつけた僕の目に映ったのは、ちょうど少女が男たちと合流した瞬間だった。公園の公衆トイレの前、数台のバイクとワンボックスカー。たむろする5、6人の男たち。その中心に銀髪の少女が立ち尽くしている。僕は息を整える間もなく彼らの間へ割って入った。
「……やめろ」
少女を背に庇い男たちの前に立ちはだかる。
「あ? なんだテメェ」
リーダー格らしき金髪の男が不快そうに顔を歪めた。僕は努めて冷静に言葉を選んだ。
「彼女は嫌がっている。……離してやってくれ」
「はぁ?」
「未成年だろ、こんな時間に連れ回すのは犯罪だ。……穏便に済ませたいなら彼女を帰してくれ」
精一杯の説得。正論のはずだった。だが男たちの反応は冷ややかだった。嘲笑も怒号もない。ただ無機質な「処理」の対象を見るような目。
「……うっせぇな」
リーダーが短く呟き顎をしゃくった。次の瞬間、視界の端から影が動いた。
鈍い音がして脇腹に衝撃が走った。鉄パイプだ。予告も威嚇もなく、いきなりのフルスイング。
「ぐッ……!」
僕は膝をつきかけたが何とか堪えた。痛い、骨がきしむ。だが僕はガードを固めたまま動かなかった。殴り返してはいけない。僕はボクサーだ、素人に拳を使えばそれは凶器になる。言葉で解決しなければ。
「暴力はやめろ……! 話し合えば……」
「話? 何言ってんだこいつ」
男たちが一斉に襲いかかってきた。蹴り、パンチ、鈍器による殴打。彼らは無駄に騒ぐこともなく、ただ淡々と邪魔者を排除するための作業として暴力を振るった。そこには熱がない、激情もない。ただ冷たく重い純粋な悪意だけの暴力。
僕は亀のように身体を丸め急所だけを守って耐え続けた。言葉が通じない、論理が通用しない。かつて僕が絶望した「理不尽な暴力」そのものがここにある。
「やめて! やめてください!」
少女の悲鳴が聞こえた。
「そいつは何もしていません! ただの通りすがりです! 俺が戻ります! 言うこと聞くから、そいつを殴らないで!」
彼女が男たちの足元に縋り付いた。泥だらけの地面に膝をつき必死に懇願している。
リーダーが僕を蹴る足を止め、少女を見下ろした。
「……うるせぇよ、宮本」
乾いた音が響いた。リーダーが少女の頬を張り飛ばしたのだ。
少女が地面に転がる。口元から血が流れている。
「いっ……」
「お前、最近調子乗ってんじゃねぇのか? 勝手に死のうとしたり、男作ったりよぉ」
リーダーは少女の髪を乱暴に掴み無理やり顔を上げさせた。その目は氷のように冷たかった。
「そんなにそいつが大事か? なら交換条件だ」
彼はスマホを取り出しカメラを起動した。
「ここで脱げ」
「……え?」
「聞こえねぇのか? 全裸になって土下座しろ。……そしたら、そいつは見逃してやる」
「……ッ!?」
僕は耳を疑った。この寒空の下で、男たちの前で。そして自分を助けに来た僕の前で。それは彼女に残された最後の尊厳――「恥じらい」さえも粉々に粉砕する、死よりも残酷な命令だった。
僕は男たちを振り払い立ち上がろうとした。だが男たちに抑え込まれ動けない。
「……分かり、ました」
小さな声が聞こえた。見ると少女が震える手で羽織っているショートコートに手をかけていた。
「やる……やりますから、その人に手を出さないでください……」
彼女の目に迷いはなかった。ただ虚無だけがあった。自分には守るべき尊厳などない、この身体はただの道具だ。だから見知らぬ少年を救うための対価として差し出すことに何の躊躇いもないのだ。
コートが地面に落ち、白い肌が寒風に晒される。彼女は続けてスカートのホックに手をかけた。
「へへっ、素直でいい子だ」
「早くしろよ、寒いだろ?」
男たちが下卑た笑みを浮かべスマホを構える。一人の人間が心も身体もボロボロにされて全てを捨てようとしているのを最高の娯楽として消費している。
僕の中で何かが完全に断ち切れる音がした。
ジムの教え?
ボクサーの誇り?
将来の夢?
そんなものは今この瞬間の「正義」の前では紙切れ同然だ。目の前の少女が魂まで殺されようとしている。それを救えない拳に何の意味がある?
(……いい加減にしろ)
僕はリミッターを外した。抑え込んでいた男たちを全身のバネを使って弾き飛ばす。
「……あ? なんだテメェ、まだやんのか?」
リーダーがヘラヘラと笑いながら振り返った。少女から目を離し無防備に僕の方を向く。脇が空いている、顎が上がっている、重心が浮いている。
隙だらけだ。
僕は無言で踏み込んだ。アスファルトを蹴る音、腰の回転、背中の筋肉の収縮。積み上げてきた論理と鍛え上げた肉体が一つの点に向かって収束する。
右ストレート。
一切の容赦のない怒りの一撃。
リーダーの顔面を僕の拳が撃ち抜いた。鈍い音が響き男の身体がマネキンのように吹き飛ぶ。そして糸の切れた人形のように地面に沈んだ。白目を剥きピクリとも動かない。完全なノックアウトだった。
「あ……」
取り巻きの男たちから間の抜けた声が漏れた。彼らは理解が追いついていないようだった。自分たちが絶対的な強者だと信じて疑わなかったリーダーがたった一発で、しかも一瞬で沈められた光景を。
僕は拳を下ろした。右手の甲に鈍い痛みが走る。
やってしまった。
人を殴った。リングの外で、素手で。それはボクサーとして人間としての一線を越えた瞬間だった。きっと試合には出られない。推薦も取り消しだ。積み上げてきた全てがこの一撃で灰になった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
目の前で震えている少女を守れた。その事実だけで、胸の奥が焼けるように熱かった。
「テ、テメェ……何しやがった……!」
ようやく我に返った男の一人が震える声で叫んだ。だが、その足は後ずさりしている。暴力だけで繋がっている群れはより強い暴力を前にすると脆い。僕がゆっくりと視線を向けると彼らは悲鳴のような声を上げてたじろいだ。
「ひっ……!」
その時だった。
夜気を切り裂くサイレンの音が急速に近づいてきた。赤い回転灯の光が河川敷の木々を不気味に照らし出す。
「け、警察だ!」
「ヤベェ、逃げろ!」
誰かが叫んだ。おそらく、さっきの騒ぎを聞きつけた近隣住民か通りがかりのドライバーが通報したのだろう。パトカーが土手の上の道路に滑り込んでくるのが見えた。
「おい、リーダー運べ!」
「無理だよ置いてけ!」
男たちはパニックに陥り蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。気絶したリーダーを引きずろうとしたが諦めてバイクにまたがる者、走って闇に消える者。彼らにとっての「仲間」などその程度のものだったのだ。
あっという間に公園には静寂が戻った。残されたのは僕と倒れ込んだままの少女だけ。
「……大丈夫か」
僕は膝をつき彼女に声をかけた。少女は放心状態ではだけた胸元を震える手で押さえていた。泥と涙と血で汚れた顔。けれどその瞳だけは、信じられないものを見るように僕を見つめていた。
「なんで……」
彼女の唇が震えた。
「なんで、殴ったんだよ……。おまえ、ボクサーなんだろ……? 殴ったら今後はどうなるんだよ……」
僕は苦笑するしかなかった。
「ああ、多分終わりだね」
「だったら、なんで……! 俺なんかのために……!」
「君を助けたいって思ったからだよ」
僕は脱ぎ捨てられていた上着を拾い上げ、彼女の肩にかけた。彼女はもう拒絶しなかった。ただ溢れ出す涙を止めることもできず子供のように嗚咽を漏らした。
「う、ぅ……あぁぁ……」
その泣き声は張り詰めていた糸が切れ、抑圧されていた感情が一気に決壊した音だった。強がって、虚勢を張って、心を殺して生きてきた「銀髪の少女」が、ただの「傷ついた子供」に戻った瞬間だった。
「こら! そこで何をしてる!」
懐中電灯の光が僕たちを捉えた。制服警官たちが駆け寄ってくる。
「君たち大丈夫か!? 怪我は!?」
警官の一人が少女の惨状を見て息を呑んで無線に怒鳴った。
「至急、救急車の手配を! 暴行事件の被害者と思われる少女と少年一名!」
僕は抵抗しなかった。両手を挙げ無抵抗を示す。殴った拳がズキズキと痛む。これが僕の正義の代償だ。少女が担架に乗せられる直前、彼女は僕の方を振り返った。銀色の髪が赤色灯の光を受けて血のように赤く輝く。
「……ありが、とう」
蚊の鳴くような消え入りそうな声。けれど、それは彼女が初めて見せた嘘偽りのない感情だった。僕は小さく頷いた。名前も知らない、どんな罪を背負っているのかも知らない。けれど僕たちはこの夜、確かに魂の深い場所で触れ合った。
彼女は救急車で運ばれ僕はパトカーに乗せられた。窓の外を流れる冬の景色を見ながら僕は考えていた。ボクシングは辞めることになるだろう。でも後悔はない、僕は守ったのだ。自分のキャリアよりも一人の人間の尊厳を。それは僕がずっと憧れている物語の主人公たちの生き方に少しだけ近づけた証のような気がした。