その夜、俺の世界を覆っていた分厚い鉛の空がパトカーのサイレンと共に強引にこじ開けられた。警察の介入は迅速だった。だが事態の収束は俺が予想していたような「法による裁き」という形では訪れなかった。動いたのは宮本家だった。
『恥知らずが。……最後まで宮本の名に泥を塗りおって』
警察署に現れた祖父の代理人は俺の顔を見るなりそう吐き捨てた。彼らが恐れたのは、かつての跡取り息子が「売春や暴行事件に関与していた」というスキャンダルが世間に露呈することだけだった。裏でどんな取引があったのかは知らない。
だが圧倒的な政治力と金が動いたのは確かだ。俺を支配していた不良グループは逮捕されるどころか、この街から「消えた」 文字通り物理的に姿を消したのか、それとも社会的に抹殺され二度と俺の前に現れないよう脅しをかけられたのか。いずれにせよ彼らが俺に報復してくる可能性はゼロになった。
学校生活も激変した。俺は転校しなかった。経済的な理由もあるが何より「逃げる」という選択肢を宮本家が許さなかったからだ。「騒ぎ立てず、ほとぼりが冷めるまで息を潜めていろ」という命令。教室に戻った俺を待っていたのは完全なる「真空」だった。
誰も俺を見ない、話しかけない。いじめもしない。かつて俺を「女王様」と嘲笑い身体を触ってきた男子生徒たちも俺と目が合うと青ざめて逃げ出すようになった。「宮本に関わるとヤバい」 そんな噂が見えない防壁となって俺を孤立させていた。
平和だった。暴力も性的搾取もない静寂に満ちた日々。けれど俺の心に残ったのは安堵ではなかった。空っぽの空洞と焼き付いて離れない「ある光景」だけだ。鈍い音と共に鉄パイプを持った男が吹き飛ぶ光景。俺のために、どこの誰とも知らない汚れたゴミみたいな俺のために自分の人生を棒に振って拳を振るったあの少年の背中。
彼はあの後どうなったんだろう。警察に連れて行かれた彼は無事なのだろうか。その問いだけが34℃の冷たい身体の中で唯一の熱を持って燻り続けていた。
それから一ヶ月が過ぎた。一月も終わりかけ、一年で最も寒い時期を迎えていたある日の放課後。俺はふらりと、あの場所へ向かっていた。市境の大きな橋。あの少年と出会い、そして別れた橋のたもと。
会えるはずがない、会ってどうするんだ。謝るのか? それとも礼を言うのか? どっちにしろ彼の失ったものは戻らない。俺が顔を見せたところで彼を不快にさせるだけだ。 それでも俺の足はどうしようもなく、あの夜の残像を求めていた。
橋の欄干が見える。冷たい風が吹き抜ける中、そこに人影があった。
「……あ」
見間違えるはずがない、彼だ。学生服の上にダッフルコートを着て特に何をするでもなく、ぼんやりと川面を眺めている。逃げなきゃ、そう思ったのに足が凍りついたように動かなかった。彼がゆっくりと顔を上げる。目が合った。
時が止まった気がした。マフラーから覗く俺の顔、フードからこぼれる色が抜けきらない銀色の髪。彼は一瞬目を見開き、それから驚いたように、けれど優しく微笑んだ。
「……君か」
責めるような色はなかった、軽蔑も後悔もそこにはなかった。ただ旧友に会ったような懐かしい響き。俺はおずおずと彼に近づいた。隣に並ぶ、川を流れる水の音だけが聞こえる。
「……元気そうで、よかった」
彼が静かに口を開いた。
「怪我は? あの時の傷、大丈夫?」
「……うん。大したことなかったよ」
俺は掠れた声で答えた。心配されるべきは俺じゃない、あんたの方だ。
「学校……いじめられてたんだって。それどうなった?」
彼は慎重に言葉を選んで聞いてきた。
「……なくなったよ」
俺は自嘲気味に笑った。
「腫れ物扱いさ。誰も近寄らなくなった。……平和なもんだよ」
「そっか。……なら、よかった、のかな?」
彼は疑問符を浮かべつつも安心したように息を吐いた。その無垢な横顔を見ていたら、胸が苦しくなった。
「おまえこそ……手、大丈夫なのかよ」
俺は彼の右手を見た。まだ薄くテーピングが巻かれている。
「うん、骨には異常なし。後遺症も残らないってさ」
彼は右手をグーパーさせて見せた。
「……ボクシング、続けてんのか?」
俺が恐る恐る聞くと彼は少しだけ視線を落とし淡々と答えた。
「ジムは、退会することになったよ。破門だね」
「……え?」
「それと、決まっていたスポーツ推薦の話も取り消しになった」
ドクン、と心臓が跳ねた。スポーツ推薦、それは彼が努力して掴み取ったはずの未来への切符だ。高校進学、その先の人生。それが全部消えた?
「……嘘、だろ」
血の気が引いていくのが分かった。
「俺のせいで……おまえの未来、めちゃくちゃにしたのか……?」
俺みたいなゴミを守るために、一時の感情で彼は一生を棒に振ったのか。
「……ごめんなさい」
俺は頭を下げた。喉が詰まって息ができない。
「ごめんなさい……! 俺なんかのために……!」
「ううん、気にしないで」
彼の声は明るかった。無理をしているわけではない底抜けの明るさ。
「会長もね、立場上『破門』にするしかなかったんだけど、すごく心配してくれてさ。『これからは一人の知り合いとして遊びに来い』って言ってくれたんだ。……理解してくれてる人がいるってだけで十分だよ」
「でも……! あんた、悔しくねぇのかよ!? ゴミみたいな俺のために……!」
「ゴミじゃない」
彼は強い口調で遮った。そして真っ直ぐに俺の目を見た。
「後悔なんて一つもないよ。……だって僕は君を守れたんだから」
彼は川面を見つめ静かに語り出した。
「僕も昔、いじめられてたんだ。……何もできなくて、悔しくて、ただ泣くことしかできなかった」
「え……」
「強くなりたくてボクシングを始めた。誰かを守れるようになりたくて、必死に練習した。……だから、あの日君を守れたことは僕にとって『証明』だったんだ。僕がもう弱虫じゃないっていう証明」
彼は懐かしそうに目を細めた。
「いじめられてた時は世界中が敵だと思ってた。誰も助けてくれないって絶望してた。……でもね、違ったんだ」
彼は僕の方を向いた。
「世界には、ちゃんと味方になってくれる人がいる。僕の場合は両親や、ジムの会長だった。……そして君の場合は今回たまたま僕だった」
「……」
「だから絶望しないでほしい。君がどれだけ自分を卑下しても世界のどこかには君が生きててくれて良かったと思ってくれる人が必ずいる」
34℃の冷たい身体に熱いものが流れ込んでくるのを感じた。
味方。
ずっと欲しかった言葉、ずっと誰かに言ってほしかった言葉。それを俺のために全てを失った彼が何の迷いもなく言ってくれた。
「だから……希望を捨てないで」
彼は俺の肩に手を置いた。その手は温かく、力強かった。
「生きていれば、きっと景色は変わるから」
涙が溢れた。もう泣かないと決めていたのに止まらなかった。これは屈辱の涙じゃない、絶望の涙でもない。凍りついていた魂が溶け出す再生の涙だ。
「……ありが、とう」
俺は袖で顔を拭い彼を見た。
この人のようになりたい。
こんな風に誰かのために強くなれる気高い人間に。
「……俺、もう変なことしないから」
俺は誓うように言った。
「ちゃんと生きる。……おまえに助けられた命を無駄にしない」
「うん。信じてる」
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、僕は行くね。塾があるから」
彼は鞄を持ち直すと軽く手を振って歩き出した。夕陽に向かって歩くその背中は俺が見たどんな人間よりも大きく、そして輝いて見えた。
俺は彼が見えなくなるまで、その場から動けなかった。
「……変わらなきゃ」
俺は呟いた。宮本貴也は死んだ。銀色の蛹も、もう終わりだ。彼が「生きてて良かった」と言ってくれたこの命を、もっとマシなものにするために。彼のような「強くて優しい」人間になるために。
そのためには今のままじゃ駄目だ。学もない、品もない、ただの元不良のままじゃ彼に顔向けできない。
(勉強、しよう)
決意が固まる。残り一年、死ぬ気で勉強して一番いい高校に入ってやる。生まれ変わるんだ。誰が見ても恥ずかしくない立派な人間に。
「……見てろよ」
俺はマフラーを巻き直し顔を上げた。冷たい風が吹いている。けれど、もう寒くはなかった。胸の奥に灯った火が、俺を内側から温めていたからだ。
それからの学校の日々は奇妙な静寂と、まとわりつくような居心地の悪さの中にあった。事件の後始末を宮本家が裏で強引につけたことで教師たちは俺に対して過剰なほどに腫れ物に触るような態度を取るようになっていた。
「……宮本。進路調査票だが、この志望校で間違いないか?」
放課後の職員室、担任教師が俺が提出した用紙を見て眉間の皺を深くした。そこに書かれていたのは県内でも指折りの進学校の名前だったからだ。今の俺の荒れた内申点と一時期の成績不振を考えれば無謀とも言える挑戦だった。
「うん。……何か問題ある?」
俺は努めて静かに淡々と答えた。担任は視線を泳がせた。俺の目を見ようとしない。彼らの目にあるのは教育者としての慈愛ではない。「また何か問題を起こされたら困る」という保身。そして何より「いじめに気づいていながら見て見ぬふりをし、結果として生徒が破滅するのを放置した」というバツの悪さだ。俺が更生しようとしている姿は彼らにとって自分の怠慢を責められているようで直視できないのだろう。
「……いや、本気なら相当な努力が必要だぞ」
「分かってる。そのための補習と課題をお願いしに来たんだけど」
俺が頭を下げると担任は逃げるように書類に目を落とした。
それから俺は死に物狂いでペンを握った。休み時間も放課後も、家に帰ってからも。参考書の文字を目で追い数式を解き続ける。その単調な作業だけが、あの夜のフラッシュバックや自分の身体への嫌悪感を忘れさせてくれた。
そんなある日、受験勉強の息抜きに立ち寄った書店で俺は運命的な再会を果たした。正確には人との再会ではない。「罪の記憶」との再会だ。
文庫コーナーの棚、幾何学模様の地味な背表紙が不意に視界に入った。
『九条綴の完璧な余白』
著者は淡島宗太郎。そのタイトルを見た瞬間、脳の奥で錆びついた扉がギギと音を立てて開いた気がした。
(……あ)
思い出した。5年生の時だ、俺がゴミ箱に捨てた本だ。当時、俺がいじめていた男子生徒――名前も顔も、もう思い出せないほど記憶が摩耗してしまった「彼」が大事そうに読んでいた本。俺はそれを奪い「こんなもの」と嘲笑い踏みにじった。
胸の奥がチクリと痛んだ。橋の上で俺を助けてくれたあの少年は俺に「生きてて良かった」と言ってくれた。でも俺は過去に誰かの大切なものを奪って生きてきた人間だ。その罪は消えない。いじめていた相手が誰だったかすら思い出せない自分が浅ましくてどうしようもなかった。
(……どんな話なんだろう)
それは微かな贖罪の気持ちだった。かつて俺が傷つけた名前も忘れてしまった彼への、せめてもの歩み寄り。彼が何を愛し俺が何を壊したのかを知らなければならない気がした。俺はそれを手に取りレジへと持っていった。家に帰り机に向かう前のわずかな時間、ページをめくった。
衝撃が走った。
そこに描かれていたのは俺が今まで生きてきた世界とは正反対の景色だった。主人公・九条綴。神保町の古書店に住む彼女は決して声高に主張しない。暴力も振るわない。ただ、静謐な空間で玉露を啜りながら圧倒的な「論理」と「知性」だけで絡まった事件の糸を解きほぐしていく。
『……感情は事実を曇らせるノイズに過ぎません。ですが、そのノイズの中にこそ人間という不合理な生き物の真実が隠されているのです』
その一文を目にした時、俺は震えた。美しい、と思った。俺はずっと感情に振り回されて生きてきた。怒り、嫉妬、恐怖、絶望。そんな泥臭い感情の中で溺れ暴力を振るい、振るわれ泥沼を這いずり回ってきた。
けれど彼女は違う。汚れを知りながら決して染まらない。冷徹なまでに理知的でありながら、その根底には深い人間への洞察と優しさがある。
(これが……あいつが読んでいた世界か)
いじめていた彼が、なぜこの本を愛していたのか分かった気がした。そして同時に九条綴と俺を助けてくれたあの少年の姿が重なった。暴力に訴えず言葉で解決しようとした姿勢。殴られても揺らがなかった意志。彼もきっと、こういう「強さ」を知っている人間なのだ。
本を閉じた時、俺の中で一つの決意が固まっていた。
なりたい。俺も、こんな風に。ただ守られるだけの惨めな被害者ではなく、暴力を振りかざす愚かな加害者でもなく。知性と品格で武装した何者にも侵されない気高い人間に。 そうすれば、いつかあの救世主に再会できた時、胸を張れるかもしれない。
その日から俺の「変身」が始まった。
まずは形から入ることにした。鏡の前に立つ。そこには色が抜けきらない汚い銀髪の目つきの悪い女が映っていた。俺は美容院へ行った。母に頭を下げて金を借りた。
「……黒くして。一番、深い黒に」
数時間後、鏡の中にいたのは濡れたような黒髪を持つ見知らぬ少女だった。想像する九条綴の髪色だ。銀色の髪という「不良の象徴」が消えただけで顔つきまで変わって見えた。肌の白さが際立ち、どこか冷ややかで近寄りがたい空気を纏っている。
髪も伸ばそうと思った。女の身体を受け入れたくなくて、ずっと手入れのいらないショートカットを選んでた。鏡に映る姿に少しでも男だった自分の面影を残したくて。でも、そんな後ろ向きな考えは捨てる。今の自分の身体を受け入れ、新しい自分に生まれ変わると決めたのだから。
次に言葉遣いだ。「ふざけるな」「あ?」という染み付いた男言葉。これを矯正しなければならない。俺は部屋で一人、九条綴の台詞を朗読する練習を始めた。
「……ごきげんよう」
「……左様ですか」
「……冗談は止してください」
最初は吐き気がするほど違和感があった。自分じゃない誰かを演じているような、滑稽な茶番。けれど繰り返すうちに気づいた。丁寧な言葉を使うと思考まで冷静になっていく。これは「演技」ではない、「鎧」なのだ。「宮本貴也」という弱い中身を守り隠すための最強の鎧。
身体の変化も俺の背中を押した。アスリスの「最適化期」特有の現象――超常的な自然治癒力が俺の身体から過去の痕跡を消し去り始めていたのだ。
風呂上がり、鏡で自分の肌を確認する。背中にタバコで押し付けられた根性焼きの醜いケロイド。手首に刻んだ無数のリストカットの痕。毎晩のように受けた暴行の痣。それらが嘘のように薄れ、消えていく。新しい皮膚が再生し陶磁器のように滑らかで白い肌へと置き換わっていく。
(……消えるんだ)
嬉しかった。俺の汚れが物理的に浄化されていくようで。でも耳に残る8つのピアス穴だけは消えなかった。貫通し皮膚が完成してしまった穴はアスリスの治癒力でも塞がらない。鏡を見るたび、それが目に入る。これが唯一の俺が「地獄」を生き延びた証。九条綴にはない俺だけの汚点。普段は髪で隠そう。この穴は俺が驕り高ぶりそうになった時の戒めとして密かに持っておくことにした。
季節が巡り春が近づいていた。俺は志望校に合格した。猛勉強の成果だ、担任も母も驚いて泣いていた。入学手続きの日、俺は母と向かい合った。リビングのテーブルには新しい戸籍の書類が置かれている。
「……母さん」
俺は背筋を伸ばして言った。かつてのような甘えた声でも怒鳴り声でもない。少しだけ九条綴を真似た、落ち着いた声で。
「頼みがあるんだけど」
「なあに、貴也」
「名前……変えたいんだ」
母が目を見開いた。小学校の卒業時、あれほど頑なに拒絶し「宮本」の名前に執着していた俺が自分からそれを言い出したのだから。
「宮本貴也は、もういない」
俺は言葉を紡いだ。それは過去の自分への弔辞であり決別宣言だった。
「俺……いや、私は母さんの娘として新しく生きたい。宮本の名前も過去のしがらみも全部捨てて。……新しい私になりたい」
母の瞳から涙が溢れた。彼女は何度も頷き震える手で俺の手を握りしめた。
「うん……うん、そうね。……そうしよう」
書類にペンが走る。『宮本』の文字が消え、母の旧姓である『梶』という文字が刻まれる。名前はそのまま『貴也』とした。けれど俺の中での呼び名はもう決まっていた。
カヤ。
『貴也』の中にあった馴染みがあるけど新しい響き。どこかエキゾチックで少しミステリアスな響き。九条綴のような物語の登場人物にふさわしい名前。
「……よろしくね、カヤ」
母がそう呼んでくれた時、俺の胸の奥で重い鎖が弾け飛ぶ音がした。
四月、桜が舞う通学路。新しい高校の制服に袖を通した私はショーウィンドウに映る自分の姿を見た。
黒髪のロングヘア、縁の細い銀色の眼鏡。これは九条綴を真似た伊達眼鏡だ。肌は白く傷ひとつない。そこにいるのは、かつての傲慢な王様でも薄汚れた銀髪の娼婦でもなかった。
「……よし」
私は眼鏡の位置を直し口角をわずかに上げた。鏡の中の少女が理知的に微笑み返す。
完璧だ。これなら誰にもバレない。そして、いつかどこかで彼――私の救世主と再会できた時も胸を張って会えるはずだ。
『あなたが助けた人間は、こんなに立派になりました』と。
彼の正義が間違いじゃなかったことを私自身の存在で証明するために。
私はローファーのつま先を前に向けた。一歩、踏み出す。冷たい34℃の風が春の匂いを運んでくる。
宮本貴也の物語は終わった。ここから始まるのは「
アスリス罹患者は、元の面影を残しながらも「完璧な異性」へと変貌を遂げるため、自己アイデンティティの再構築が大きな課題となる。
過去の抹消: 傷跡一つない肌と新しい容姿は、過去の苦痛からの解放を意味すると同時に、過去の自分との連続性を失う恐怖も孕んでいる。
戸籍・家庭: 第3フェーズに至るまでの長い「調整期間」をどう過ごすか、社会的な支援体制が議論されている。