四月の西日が図書室の古びたブラインドを透過し、琥珀色の縞模様をリノリウムの床に焼き付けている。放課後の校舎特有の遠くで響く吹奏楽部の音階やグラウンドからの掛け声。それらはまるで水槽の外の出来事のように遠く、この図書室だけが世界から切り離された静寂の底にあった。埃とインク、そして酸化した紙が放つ甘く乾いた匂い。この匂いを肺の奥まで吸い込むと、ざわつく神経が少しだけ鎮まる気がする。
窓際の一番奥、誰にも邪魔されない特等席。 開かれた文庫本に視線を落としながら、意識を身体の細部へと巡らせる。
背筋を伸ばす。椅子に背中を預けず坐骨で体重を支えるように。 顎をわずかに引く。視線は伏せつつも決して卑屈には見えない角度で。ページをめくる指先は卵を包むように柔らかく揃えること。音を立ててはならない。そして呼吸。浅く、静かに。決して感情の波を外に漏らさないように。
(……大丈夫、不自然じゃないはず)
ガラス窓に薄く映る自分の姿を確認し心の中で反芻する。春休み中、鏡の前で何度も繰り返した『九条綴』の模倣。物語の中で、神保町の古書店で玉露を啜りながら事件を解く孤高の探偵。彼女ならば、きっとこうやって本を読むはずだ。かつてのように肩を怒らせて周囲を威圧する「王様」の姿勢でもなければ、泥水をすすりながら怯えて背を丸める「奴隷」の姿勢でもない。今の姿勢は、ようやく板についてきたように思う。
けれど、この「完璧な演技」の下で、この身体は常に悲鳴を上げている。34℃しかない低体温の身体は春の暖かさにも関わらず芯から冷え切っており、感覚過敏の肌は制服の擦れる音や他人の視線さえもノイズとして拾い上げる。気を抜けば、いつ「あぁ?」という男言葉が飛び出すか分からない。常に自分自身という猛獣の手綱を必死に握りしめている状態だった。
「……どうぞよしなに」
誰もいない書架に向かって、小声で呟いてみる。「ごきげんよう」「いかがいたしましたか?」……そんな現代の女子高生が使うはずのない芝居がかった台詞回し。最初は吐き気がするほど違和感があった。喉の奥がむず痒くなり自分の滑稽さに顔から火が出るようだった。けれど一ヶ月も続ければ慣れるものだ。
そのおかげでクラスメイトたちは「お嬢様学校から来た才女」だと勘違いし、遠巻きに憧れの視線を送ってくる。教師たちも、この丁寧すぎる言葉遣いと生活態度に騙され、優等生として扱ってくれている。
淑女になりたいわけではない、女性らしくありたいわけでもない。ただ人間としての「品格」が欲しいのだ。感情というノイズに振り回されず、論理という骨組みで立った気高い精神。それさえあれば、もう二度と泥の中に這いつくばることはない気がするから。
ページをめくる。『九条綴の完璧な余白』第二巻。幾何学模様の地味な装丁、手触りの良い紙質。この本を開くたび胸の奥の深い場所がチクリと痛む。それは甘美な感傷などではなく、古傷を針でつつくような鈍く重い痛みだ。
小学生の頃、その尊厳を踏みにじり、この大切な本を奪い取ってゴミ箱へ捨てた「彼」。顔も名前も、もう思い出せない。記憶の中の彼は黒く塗りつぶされた影のような存在だ。当時の最低な自分にとって彼は取るに足らない「背景」であり、虫けら以下の存在だと決めつけていたから。そこに人格があることさえ想像しなかった。けれど、今なら分かる。彼がどれほどこの物語を愛し、救いを求めていたか。そして、それを奪われることがどれほどの絶望だったか。
この本を手に取ったのは、ほんの気まぐれな贖罪だった。顔も忘れてしまった彼に対して今更謝る術はない。だからせめて彼が愛した世界を知ろうとした。そして読み進めるうちに自分はこの物語に救われてしまった。皮肉な話だ、加害者が被害者の聖域に土足で踏み入り、そこで暖を取っているのだから。
(……最低だ)
自嘲の念が湧き上がる。けれど本を閉じることはできない。この本は今の自分を支える杖でもあるのだから。
不意に右耳の奥が熱を持った気がした。艶やかな黒髪の下に隠された四つのピアス穴。左耳と合わせれば八つ。安全ピンと安物のリングで無理やり軟骨を貫いた痕跡。アスリスの「最適化期」にあるこの身体は驚異的な自然治癒力を持っている。背中に焼き付けられたタバコの火傷痕も、無数に刻んだリストカットの傷も薄皮が張るように消えていった。今では陶磁器のように滑らかな白い肌に覆われている。けれど完全に穴が開いて上皮化してしまったこのピアスホールだけは、消えなかった。
触りたくなる衝動を強い意志でねじ伏せる。触れてはいけない、その仕草一つが己の「品格」に亀裂を入れる。あの泥だらけの夜の記憶を引きずり出してしまう。
今の平熱は34.2℃。アスリス特有の低体温。指先は常に氷のように冷たい。けれど、この冷たさが逆に心地よかった。熱を持てば人は感情的になる、過ちを犯す。この冷え切った34℃の身体こそが、己が人間をやめて物語の中の登場人物に近づいた証拠のように思えるから。
(会えるだろうか……いつか)
思考があの冬の夜へと飛ぶ。雪が舞う橋の上、人生を終わらせようとした時、この腕を掴み引き戻した少年。汚れた自分を守るために己の未来も、キャリアも投げ打って不良たちに拳を振るった人。
『君を助けたいって思ったからだよ』
あの時の彼の声が耳に残っている。痛みを知り尽くした上で、それでも他者のために戦える強さ。彼こそが、この本の主人公「九条綴」が体現する「強くて優しい人間」そのものだった。
会いたい、生まれ変わったこの姿で。泥だらけの「銀髪の少女」ではなく気高い「梶貴也」として。そして胸を張って伝えたい。「あなたのおかげで私はまだ生きています」と。
けれど、まだ早い。今の姿は、ただ形だけを模倣した未熟な張りぼてだ。中身はまだ過去の罪と傷に怯える子供のままだ。もっと精神を研ぎ澄まさなければ、もっと完璧に演じきれるようにならなければ。今のままでは、彼に顔向けなどできない。
視線を落とし文字を追う。世界にたった一人しかいないような静寂。その静寂を破るように、書架の向こう側から微かな気配が近づいてくるのを感知した。
アスリスの影響で過敏になった聴覚がリノリウムを踏みしめる靴音を捉える。静かで、けれど芯のある足取り。一定のリズム。誰かが本を探している。
ページをめくる手を止めず呼吸を整えた。邪魔をしてはいけない。自分は硝子細工だ、風景の一部だ。気配を消し物語の世界に没頭するふりをする。足音は近づいてくる。文学の棚、まさに自分のいるこの列へ。
足音が止まった。書架の陰から一人の男子生徒のシルエットが西日の中に浮かび上がる。
「あの」
不意に声をかけられた。低く、穏やかで、どこか懐かしさを孕んだ声。物語の世界から意識を浮上させ、ゆっくりと顔を上げた。あくまで優雅に、驚きを見せないように。 数秒の間を作り、伊達眼鏡の奥からその人物を見上げる。
視界に彼の顔が映った瞬間、思考が真っ白に弾け飛んだ。時間が凍りついた、呼吸を忘れ心臓が肋骨を蹴破るほど大きく跳ねた。
(――――ッ!?)
そこにいたのは幻でも自分の願望が見せた夢でもなかった。少し伸びた背、高校の制服。 けれど見間違えるはずがない。あの冬の夜、橋の上で絶望の底から救い上げたあの少年。
声にならない呼気が漏れそうになり慌てて飲み込む。青天の霹靂とは、まさにこのことだ。どうして? なぜ、ここに? 彼が同じ高校に進学していたなんて微塵も知らなかった。事前のリサーチ不足か? いや、そもそも彼がどこの誰なのか名前さえ知らなかったのだから調べようがなかった。
驚天動地、世界がひっくり返るような衝撃が脳髄を揺さぶる。心の準備なんて何一つできていない。再会を夢見てはいた、毎晩のようにシミュレーションもした。けれどそれは自分がもっと完璧な人間になり、過去の穢れを完全に隠せるようになった、もっと先の未来の話だったはずだ。こんな、まだメッキが剥がれそうな不安定な状態で会うなんて――!
パニックで視界が揺れる。逃げ出したい、隠れたい。もしバレたら? この清楚な黒髪の女の中身が、あの夜の泥だらけの娼婦だと気づかれたら? あるいは元男の出来損ない女だと知られたら?
恐怖で指先が震えそうになる。けれど、その震えを凌駕するほどの圧倒的な熱量が胸の奥からマグマのように噴き上がった。
(会えた)
嬉しい。天にも昇るような目が眩むほどの歓喜。生きていてよかった、あの夜、冷たい川に飛び込まなくて本当によかった。目の前に彼がいる、生きて呼吸をしている。あの夜の悲壮な決意に満ちた鬼気迫る表情とは違う。今は驚きと戸惑いを浮かべた年相応の穏やかな少年の顔をしている。
けれど、その瞳の奥にある澄んだ光だけは変わらない。泥の中で失ってしまい二度と取り戻せないと思っていた汚れない魂の色。紛れもなく己が尊敬する恩人だ。
「……す、すみません。驚かせてしまって」
彼が恐縮して頭を下げる。背を丸め申し訳なさそうに眉を下げる。その姿を見て胸が締め付けられた。謝らないでほしい、頭を下げなければならないのは此方の方だ。自分は今、あなたに正体を隠している。「私はあの夜、あなたに助けられた銀髪の女です」と言えない。この身体に刻まれた入れ墨のような「過去」を、あなたのような綺麗な人に見せるわけにはいかない。
巨大な罪悪感が34℃の身体に重くのしかかる。騙している、彼の優しさを利用して「無関係な他人」のふりをしようとしている。でも言えない。今の自分はまだ未完成だ。あの惨めな夜の記憶と九条綴を目指す今の姿を繋げてしまえば、きっと彼は幻滅する、軽蔑する。それだけは耐えられない。
必死に理性を総動員した。演じろ、九条綴ならどうする? 動揺を見せるな、知的な微笑みを浮かべろ。今の自分は彼とは初対面の「
「その本」
彼が手元を指差した。
「棚に二巻だけなかったので、誰が読んでいるのかなと思って。……僕も、その本を探していたんです」
心臓が、もう一度大きく跳ねた。
え? 彼も、この本を?
知らなかった、彼が『九条綴の完璧な余白』を好きだなんて。顔も忘れてしまった「いじめの被害者」への贖罪として選んだこの本。それが、まさか「命の恩人」の愛読書でもあったなんて。
なんという巡り合わせだろう。これは偶然か? それとも運命か? 贖罪のための行いが、まるで救世主によって肯定されたような「君がそれを読むことは間違いじゃない」と許されたような錯覚。
「……これを、探していらしたのですか」
震え出しそうな声を喉の奥で濾過し、必死に「九条綴」のフィルターに通す。出てきた声は自分でも驚くほど冷徹で落ち着いていた。
「あ、はい。でも急かしたいわけじゃないんです。僕も昔読んだことがあって、懐かしくて読み返そうかなと思っただけなので」
彼は照れくさそうに頬をかき無邪気に笑った。その笑顔に向けられた瞬間、視界が滲みそうになった。直視できないほど眩しい。
「奇遇ですね」
自然と口元が緩む。これは演技じゃない、心からの喜びだ。尊敬する人と同じものを愛している、同じ物語を共有している。その事実だけで己の薄暗かった世界に光が差し込むようだ。
「私にとっても、これはバイブルですので」
バイブル、聖書。決して大袈裟な表現ではない。この本は己が人間として生き直すための指針なのだから。
「……僕もです」
彼の瞳が輝いた。星空のように深く澄んだ瞳。
「僕にとってもそれはバイブルなんです。小学生の頃ずっと読んでいました。……まさか、この高校で読んでいる人がいるなんて思わなくて」
ああ、なんて真っ直ぐな瞳だろう。正体を隠している後ろめたさはある、騙している罪悪感もある。けれど、それ以上に「今、彼と話せている」という事実が何物にも代えがたい幸福だった。この時間が永遠に続けばいいのに。嘘でもいい、偽りでもいい。この瞬間だけは彼の「同志」でいさせてほしい。
「九条綴の、あの生き方が好きなんです」
彼は少し前のめりになって熱っぽく語り出した。図書室の静寂など忘れたように。ずっと誰かとこの話を共有したかったのだろう。その純粋な情熱が痛いほど分かる。
「論理的で媚びなくて。……強くて優しい人だ」
強くて、優しい。その言葉を聞いた瞬間、呼吸が止まった。それは、あなたのことだ。 理不尽な暴力に立ち向かい、見ず知らずの人を守り、決して見捨てなかったあなたこそが本当の意味で強くて優しい人だ。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「そう、ですね。彼女は……余白の中に真実を見出す人ですから」
九条綴を演じる。未熟だけれど今のこの姿なら尊敬する彼と対等に言葉を交わせる。泥だらけの娼婦としてではなく一人の「文学を愛する少女」として。
文庫本の表紙を白く冷たい指先でそっと撫でた。そうでもしていなければ指が震えてしまいそうだったからだ。脳裏に浮かぶのは物語の中で九条綴が語っていた言葉たち。そして目の前にいる彼が、あの夜に見せてくれた気高い姿。それらが混ざり合い自然と唇から言葉がこぼれ落ちた。
「論理だけでは割り切れない人間の情動を理解しながら、それでも論理という光で闇を照らそうとする。……その高潔さは、とても得難いものです」
言い終えてから心臓が早鐘を打った。キザだっただろうか、滑稽だっただろうか。恐る恐る視線を上げると彼は笑ってはいなかった。むしろ、その言葉を噛み締めるように深く頷き感動したような瞳で此方を見ていた。
届いた、自分の言葉が
――借り物の言葉ではあるけれど、そこに込めた彼への敬意が真っ直ぐに届いたのだ。 その事実が凍えていた34℃の身体に温かい灯をともす。
嬉しい。あなたと同じものを愛し同じ言葉で共鳴できたことがたまらなく誇らしい。彼に向かって小さく、けれど精一杯優雅に見えるように会釈をした。
「同志に会えて光栄です」
それは演技でありながら、紛れもない本心だった。
「あ、あの。僕は、1年3組の瀬戸皓二朗といいます」
彼が名乗った。セト、コウジロウ、大切な名前。今日この瞬間から世界で一番大切な名前になった。忘れない、絶対に忘れない。
次は此方の番だ、名乗らなければ。緊張で指先が凍りつく。
「……梶、た」
一瞬、口が滑りそうになった。『
「――梶田、カヤです」
言えた。タカヤではなく、カヤとして、ほんのわずかな言い淀み。彼は気づかなかったようだ。
「梶田さん、これからよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
よろしくなんて言わないでほしい。その言葉の重みに34℃の身体が耐えきれそうにない。嬉しくて、申し訳なくて、胸が苦しい。でも嬉しい。 彼が「カヤ」として認識してくれた。その事実が新しい自分に命を吹き込んでくれる。
キーンコーンカーンコーン……
チャイムが鳴った、予鈴だ。救いの鐘であり残酷な終わりの合図だった。限界だった。これ以上ここにいたら緊張の糸が切れて、仮面が剥がれて、感情が決壊してしまう。
「……失礼します」
静かに席を立ち、本を胸に抱きしめる。彼との共通項、彼と自分を繋ぐ鎖。
「図書委員の当番がありますので。……それでは、ごきげんよう」
あくまで優雅に、九条綴のように背を向けて歩き出す。心臓が破裂しそうだ、足が震えている。でも振り返ってはいけない。今の背中は、きっと凛としているはずだ。そうであってほしい。
もういいだろうか。彼はもう出て行っただろうか。理性が「見るな」と警告しているのに身体がいうことを聞かなかった。どうしても、もう一度だけその姿を目に焼き付けておきたかった。
そっと振り返る。出入り口の扉の前、彼はまだそこにいた。そして、名残惜しそうに此方を振り返っていた。
目が合った。
胸の奥から、熱い塊が込み上げてくる。 嬉しい。ただその一言に尽きる。 命を救ってくれた恩人が、生きていて、同じ学校にいて、今こうして己を見てくれている。 感謝を伝えたい。「また明日も会いたい」と叫びたい。
反射的に右手が動いた、小さく手を振って彼を見送ろうとした。普通の高校生のように、親しい友人のように。けれど指先が肩の高さまで上がった瞬間、思考に急ブレーキがかかる。
(……あ)
空中で行き場を失いかけた手の軌道を無理やり変える。震える指先をそのまま顔の前へと持っていく。そして伊達眼鏡の銀色のフレームに触れ、クイと位置を直す仕草へとすり替えた。あくまで知的に、冷静に。それは別れの挨拶ではなく単なる「眼鏡のズレを直す」という機能的な動作。彼は一瞬、目を瞬かせたように見えた。けれど、すぐに納得したように小さく会釈をし、重厚な扉を開けて出て行った。
(……気づかれなかった、はず)
彼には単に眼鏡を直しただけに見えただろう。あるいは、逆光のせいで手を振ったように見間違い、違和感を覚えたかもしれない。誰もいなくなった閲覧席を見つめる。そこには、まだ彼と交わした言葉の熱が残っているような気がした。
尊敬する救世主。
顔も忘れてしまった彼への贖罪として読み始めた物語が、こうして命の恩人と自分を繋ぐ糸になるとは。罪悪感はある、彼を騙し続けることになるかもしれない恐怖もある。 けれど、胸の奥から溢れてくるのは、どうしようもないほどの「再会の喜び」と、彼への深い「感謝」だった。
(また明日も、会えるかもしれない)
眼鏡の位置をもう一度直し、口元を引き締める。もっと完璧に演じなければ。いつか、この仮面の下にある本当の顔で、彼に「ありがとう」と言えるその日が来るまで。
『九条綴の完璧な余白』を胸に抱きしめ、34℃の身体に灯ったばかりの温かい希望を噛み締めた。