かつて人が笑い、妖が息づいていた場所は、
今では静寂と瓦礫に覆われた。
それでも、生き残った者たちは歩き続ける。
守るものがある限り、立ち止まることは許されない。
新たな場所。
新たな出会い。
そして、わずかに残された「日常」。
だが――
その穏やかさは、本当に安らぎなのか。
それとも、嵐の前の静けさなのか。
少女たちはまだ知らない。
自分たちが踏み込もうとしている場所が、
どれほど脆く、そして歪な均衡の上に成り立っているのかを。
静かな街に、異物が紛れ込む。
それは、やがて――
小さな綻びとなって、世界を揺らし始める。
レミリアとフランは、クサリに導かれ、その拠点──街へと辿り着いた。
瓦礫と死に満ちた外の世界とは対照的に、そこには確かに「生活の気配」が残っていた。
辿り着くまでに、およそ一日。
「……ここが、そうなのかしら?」
レミリアは足を止め、隣に立つクサリへと視線を向ける。
「ああ、ここだ」
クサリは短く頷いた。
目の前に広がる街並み。
人の姿もある。煙も上がっている。
だが……
「……穏やかすぎるわね」
レミリアはわずかに目を細めた。
その声には、警戒と違和感が混じっている。
「……だろう?」
クサリは苦笑した。
どこか自嘲を含んだ笑みだった。
「この街の連中は、戦いを知らない。いや……知ろうともしない」
その言葉を受け、レミリアは肩をすくめる。
「……なるほどね。兵士が育たない理由が、よく分かるわ」
ため息混じりの声音だった。
クサリは一瞬だけ黙り込み、やがてゆっくりと口を開く。
「……だから、頼みがある」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
そして──
深く、頭を下げる。
「兵が育つまででいい。
この街の兵士として、力を貸してくれないか」
唐突な行動に、レミリアは目を瞬かせた。
「……頭を上げてちょうだい」
小さく息を吐き、周囲を見渡す。
「街の長がそんなことをしていたら、余計な注目を集めてしまうわ」
案の定、通りを行き交う人々の視線が、こちらへと向けられ始めていた。
「……ああ、すまない」
クサリははっとしたように顔を上げ、頭を掻く。
「余計なことをしたな」
先ほどの鋭さはなく、ただ一人の男としての気まずさが滲んでいた。
レミリアは、その様子を静かに見つめる。
そして……ほんのわずかに、目を細めた。
レミリアとフランは、クサリに案内され、街の中心にある建物へと足を踏み入れた。
かつての役所のような役割を持つ場所らしく、人の出入りも多い、だが……
廊下を進むにつれ、視線が集まっていくのを感じた。
「……見ろよ、あの羽……」 「人間じゃないのか……?」 「子供……なのか……?」
抑えた声の囁きが、あちこちから漏れてくる。
好奇と警戒、そしてわずかな恐怖。
そのすべてが、二人に向けられていた。
レミリアは気にした様子もなく、ただ前を見て歩く。
こうした視線には、もう慣れている。だが……
(フランは……)
隣を歩く妹の様子を、ちらりと窺う。
しかし、その表情から何を感じているのかまでは、読み取れなかった。
やがて、クサリが一つの部屋の前で足を止める。
「ここを使ってくれ」
扉が開かれ、二人は中へと通された。
簡素な室内だったが、外に比べれば十分に整っている。
フランは興味深そうに辺りを見回し、レミリアは静かに椅子へと腰を下ろした。
背筋を伸ばし、足を組み、手を膝の上に置く。
まるで、来客を迎える側のような姿勢だった。
しばらくして、扉が開く。
戻ってきたクサリは、その光景を見た瞬間、思わず声を上げた。
「お前……律儀だな!?」
予想外の反応に、レミリアはわずかに眉を寄せる。
「……そう、かしら?」
本気で困惑している様子だった。
本人にとっては、これが「普通」なのだ。
そのやり取りを見ていたフランが、小さく笑う。
「お姉様」
少しだけ首を傾げて、柔らかく言った。
「たまには、もっと楽にしてもいいと思うよ?」
無邪気な声音だったが、どこか優しく諭すようでもあった。
レミリアはその言葉に、一瞬だけ目を細め……
そして、小さく息を吐いた。
「……こ、こう?」
レミリアは戸惑いながら姿勢を崩してみせる。
だが、それは「楽にする」というよりも、どこかちぐはぐで不自然な体勢だった。
「──お、おい……」
クサリが思わず声を詰まらせる。
「その……見えてるぞ」
言い終えるよりも早く、彼は咄嗟に視線を逸らした。
「……っ!」
レミリアは一瞬で状況を理解し、慌てて姿勢を正す。
だが、その動きはどこかぎこちなく──
頬には、みるみるうちに朱が差していった。
沈黙。
言葉を失ったまま、レミリアはただ前を向いている。
そんな姉の様子を見て、フランは堪えきれずに笑い声を漏らした。
「あははっ、お姉様、顔赤いよ!」
無邪気な指摘に、レミリアはわずかに肩を揺らす。
だが、何も言い返さない。
ただ、ほんの少しだけ……
視線を逸らした。
その夜、レミリアはほとんど眠ることができなかった。
理由は自分でも分からない。
だが、目を閉じるたびに、落ち着かない感覚だけが残り続けていた。
そして──朝。
吸血鬼である彼女にしては珍しく、目尻にはうっすらと隈が浮かんでいる。
どこか焦点の定まらない視線と、重たそうなまぶた。
明らかに、寝不足だった。
用意された朝食の席についても、その様子は変わらない。
「……ふぁ……」
小さく欠伸が漏れる。
すぐに口元を押さえたものの、取り繕うには遅すぎた。
普段のレミリアなら、決して見せない隙。
だが今日は、どういうわけか、身体が言うことを聞かない。
眠気が、思考の端にまとわりついて離れなかった。
「お姉様……今日は眠いの?」
朝食の席で、フランドールが小さく問いかけた。
その声には、わずかな心配が滲んでいる。
レミリアは一瞬だけ動きを止め──すぐにいつもの表情を作った。
「大丈夫よ、フラン」
柔らかく微笑む。
「私は、いつも通り元気だから」
その声音は穏やかで、揺らぎはない。
少なくとも、そう聞こえるように整えられていた。
「……ふぅん」
フランは短く相槌を打つ。
だが、その目は細められたままだった。
無邪気な笑顔の裏で、何かを測るように。
レミリアは視線を逸らし、何事もなかったかのように食事へと手を伸ばす。
……だが、その指先は、ほんのわずかに遅れていた。
穏やかな場所だった。
人がいて、声があって、日常がある。
それは、この壊れた世界において、確かに「救い」と呼べるものだった。
だが――
その穏やかさは、どこか歪だった。
戦いを知らない者たち。
守られることに慣れた街。
そして、その外に広がる、変わらぬ死の世界。
レミリアは、それを見逃さない。
フランドールは、それを言葉にしない。
だからこそ、二人は気づいている。
この場所は、安全ではあっても、安定ではないことに。
そして――
ほんの小さな綻びが、すでに生まれ始めていることに。
眠れぬ夜。
消えない違和感。
わずかに揺らぐ日常。
それはまだ、形を持たない。
だが確かに、そこにある。
静かな街に潜む影は、やがて輪郭を持ち、
少女たちの前に姿を現すだろう。
次に崩れるのは――
世界か、それとも。