強くて冷静なはずの彼女が、初めて弱さを見せる。
朝食後、コハクと凛馬は学校へ向かった。通学路で、またミケたちと合流する。
「にゃ!凛馬!コハクの家はどうだったにゃ?」
「凛馬くん……今日はヒョウカちゃんの家だね……」
「凛馬くん、おはようございます。今日も一日、頑張りましょうね」
「……おはよう。今日は私の家だ。覚悟しておけ」
ヒョウカが無表情で凛馬を見つめる。その黒い瞳は、何か期待のようなものが見え隠れしていた。
「ヒョウカの家って、どんな感じなのかしら?楽しみね、凛馬くん」
「にゃ……明日で最後にゃ……寂しいにゃ……」
ミケが凛馬の腕にしがみつく。アオも反対側から抱きついた。
「僕も……お泊まりウィーク、終わっちゃうの寂しいな……」
「でも、また凛馬くんとは毎日会えますから……ね?」
5人が凛馬を囲みながら、学校へ向かった。凛馬の心は、また少しずつ揺れ動いていた。
「ミナの言う通りだ。毎日会える」
「そうにゃけど……やっぱり寂しいにゃ……」
ミケが凛馬の腕をぎゅっと握る。その力は少し強く、離したくないという気持ちが伝わってきた。
その体温が伝わる距離に、凛馬の胸の奥がわずかに熱を帯びる。守りたい、という感情が自然に先に浮かび、自分でも少し驚いた。
「うん……凛馬くんと一緒にいられるのは嬉しいけど……やっぱり特別な時間だったから……」
アオが少し寂しそうに微笑む。その表情を見て、凛馬の胸が少し痛んだ。
その笑顔が曇るのは見たくない――そう思った瞬間、頭に浮かんでいたのがアオの顔だったことに、凛馬は気づかないふりをした。
「……お前ら、まだ今日がある。私の家で、ちゃんと楽しませてやるから」
ヒョウカが珍しく笑顔を見せる。その笑顔は小さいが、確かに温かかった。
「あら、ヒョウカが笑った。珍しいわね」
「……うるさい」
ヒョウカが顔を背ける。だが、その耳は少し赤くなっていた。
放課後。校門前。
「じゃあ、行くぞ。私の家は……ちょっと質素かもしれないが」
ヒョウカが凛馬の手を引く。その手は少し冷たいが、しっかりと凛馬を掴んでいた。
4人が名残惜しそうに手を振る。ヒョウカと凛馬が歩き出すと、夕日が二人を照らしていた。
「……私の家は、他の奴らみたいに豪華じゃない。普通のアパートだ。それでもいいか?」
ヒョウカが少し不安そうに凛馬を見上げる。その黒い瞳には、凛馬の反応を気にする気持ちが見えた。
「泊めてくれるだけで俺は嬉しいよ。気遣いありがとう」
豪華かどうかより、「ここに呼んでくれたこと」そのものが嬉しい――心の底からそう思えた。
「……そうか。なら、いい」
ヒョウカの表情が少しだけ柔らかくなる。よくある会話。よくある放課後。それでも、今日だけは少しだけ違って見えた。
二人は住宅街を抜け、古めかしいアパートの前に到着した。
「ここだ。113号室」
ヒョウカが階段を上り、鍵を開ける。
廊下の突き当たり、白いプレートに刻まれた数字が目に入る。
113号室。
どこにでもありそうな数字。よくあるアパート。よくあるワンルーム。
なのに、ここだけ時間がゆっくり流れている気がする。この扉の前だけは、少しだけ世界が遠い。
なぜか、この扉の前に立つと、胸が少し重くなる。静かなのに、うるさい。
逃げたくなるのに、ここでしか言えないことがある様な気がする。
「……入れ。立ったままじゃ話せない」
ヒョウカの声は低く、やわらかく、部屋の奥から静かに引き寄せてくる。
ヒョウカの家はワンルームの部屋に、ベッド、勉強机、本棚が並んでいる。壁には何枚かのポスターが貼られていた。
「……私は一人暮らしだ。親とは……色々あってな」
ヒョウカが少し寂しそうに呟く。その表情には、普段見せない脆さが垣間見えた。
「まあ、座れ。お茶を淹れる」
ヒョウカが小さなキッチンでお茶を淹れ始める。その背中は、どこか孤独を感じさせた。
部屋を見渡すと、本棚には哲学書や小説がぎっしり詰まっており、机の上にはノートとペンが綺麗に並んでいる。ヒョウカの几帳面な性格が表れている。
「……ほら、緑茶だ。少し苦いが、我慢しろ」
ヒョウカがカップを凛馬に渡し、自分も隣に座る。二人の間に、少し重い沈黙が流れた。
沈黙は嫌いじゃない。だが時々、沈黙は心の奥を暴く。
「……凛馬。お前、最近ぼーっとしてるな。何か、悩みでもあるのか?」
ヒョウカが真剣な表情で凛馬を見つめる。その黒い瞳には、凛馬を心配する気持ちが込められていた。
「私は……お前の力になりたい。だから、何でも話せ」
その言葉は優しい。優しいのに、どこか切実だった。
「本当になんでもない。心配ありがとう!まだ余韻が抜けないな〜」
凛馬が冗談めかしく笑う。まだ誰にも、この気持ちを言う訳にはいかなかった。
「そうか……」
ヒョウカがじっと凛馬を見つめる。見透かしているようで、でも踏み込まない。
「まあ、無理に聞き出すつもりはない。だが……お前が困ったときは、いつでも相談しろ」
ヒョウカがそっぽを向く。その耳が少しだけ赤くなっているのが見えた。
「……夕飯は、カレーでいいか?私が作る」
ヒョウカが立ち上がり、キッチンへ向かう。
「俺も手伝うよ。もてなさればっかりじゃ悪いよ」
「……っ」
ヒョウカの動きが一瞬止まった。その肩が小さく震える。ゆっくりと振り返ると、その黒い瞳が潤んでいた。
「……バカ。そんなこと言うな」
その声は少し震えていた。“必要とされたい”なんて、口には出せない。でも、その一言は確かに、深いところに触れていた。
「……手伝ってくれるなら、サラダを作れ。野菜は冷蔵庫にある」
二人は並んで料理を始めた。狭いキッチンで肩が触れ合うたびに、ヒョウカの身体がびくりと反応する。
ただ一緒に立っているだけ。それだけで、ヒョウカは少し救われた。
カレーとサラダが完成し、二人は小さなテーブルに向かい合って座った。
「……いただきます」
「……どうだ?美味いか?」
「すごく美味しい。店出せるよ」
ヒョウカの目がわずかに揺れる。
「私は……料理くらいしか、お前に提供できるものがない」
ヒョウカが俯く。
「ミケみたいに明るくもないし、アオみたいに可愛くもない。ミナみたいに優等生でもないし、コハクみたいにお金もない」
一拍の沈黙が流れた。
「特別なものなんて、何もない」
生活は続く。明日も来る。ここを出れば、またちゃんとした自分でいなきゃいけない。
「でも……お前と過ごす時間は……大切にしたい」
黒い尻尾がそっと触れる。
「でもヒョウカは、みんなの事をちゃんと見てるよな」
凛馬は少し考えるように言葉を探した。
「誰かが困ってる時、一番先に気づくのもヒョウカだし。皆が笑ってる時も、ちゃんと全員の様子を見てる」
ヒョウカの瞳がわずかに揺れる。
「……だからさ、多分ヒョウカって、ずっと“見る側”だったんじゃないかって思う」
一瞬、空気が止まった。
「でも俺は――ヒョウカのこと、ちゃんと見てるよ」
静かな声だった。
「強いふりしてるけど、本当は誰より優しいし。
無愛想に見えるのに、誰より気遣ってる」
凛馬は少し笑う。
「ヒョウカと話してると、不思議と落ち着くんだ。似た匂いがするっていうか……」
少し照れたように続けた。
「多分さ、俺もヒョウカも――
“一人で平気なふりが上手い側”なんだと思う。だから……一緒にいると、無理しなくていい気がする」
その言葉は、誰か一人への好意というより、ヒョウカという存在そのものを肯定する響きを持っていた。
ヒョウカの瞳が、大きく揺れた。返事をしようとして――言葉が出なかった。
「……っ……バカ……」
涙が落ちる。
「私は……お前みたいな奴、初めてだ。誰も……私を必要としていないと思ってた」
尻尾が強く絡んだ。
明日になれば、また日常が待っている。寄る辺のない日々は、きっとこれからも続く。
「……ありがとう、凛馬。お前が……ここにいてくれて」
それでもヒョウカは小さく微笑んだ。その笑顔は涙で濡れていたが、本当に幸せそうだった。
けれど、その指先だけが、わずかに震えていた。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
次回―ヒョウカが、ついに本音を口にします。止めていた想いは、もう隠せない様です。