測定終わりの昼下がり。六人は街を歩いていた。
買い物帰りの人々、笑い声、カフェの香り。穏やかな空気が流れているはずなのに――凛馬の心だけが、どこか取り残されていた。
「凛馬、大丈夫にゃ?なんか疲れてない?」
ミケが手を握る。その温かさが、少しだけ現実へ引き戻す。
「お昼、食べに行こうよ!凛馬の好きなもの、なんでも奢るから!」
アオが明るく笑う。
「あ〜、それいいね〜!凛馬、何食べたい?」
コハクが身を乗り出す。
「……お前、本当に大丈夫か?無理してないか?」
ヒョウカが静かに覗き込む。その黒い瞳には、はっきりと心配が浮かんでいた。研究施設で向けられた視線が、まだ背中に残っている気がする。
――新しい存在。その言葉が、頭から離れなかった。
人間でもない。獣人でもない。では、自分は何なのか。
そして――皆への想い。
答えが出ないまま、胸の奥だけが重く沈んでいく。
「皆、心配ありがとう。ちょっと疲れただけ。……先行ってて。一人になりたい」
空気が止まった。
「え……?凛馬、一人で休むの……?」
ミケの耳がしおれる。
「凛馬……僕たち、一緒にいちゃダメ……?」
アオの声は、本気で不安だった。
「凛馬〜……私たち、うるさかった?」
コハクが珍しく視線を落とす。
「……そうか。なら無理はするな」
ヒョウカが肩を軽く叩く。
「何かあったら連絡してくださいね」
ミナが静かに言った。
「凛馬……嫌いになっちゃった……?」
アオのその一言に、胸がちくりと痛んだ。
「……行くぞ、お前ら。凛馬が休みたいって言ってるんだ」
ヒョウカが皆を促す。五人の背中が遠ざかっていく。
ミケは何度も振り返り、アオは小さく手を振り、
コハクは無理に笑い、ヒョウカは一度だけ振り返り、ミナは最後まで心配そうに見ていた。
――そして。凛馬は一人、ベンチに腰を下ろした。休日の公園は賑やかだった。子供の笑い声。犬の鳴き声。遠くの噴水の音。
なのに、自分の周りだけ音が遠い。虹色の耳を風が撫でる。
手を見る。人間だった頃の手。今は獣人の特徴を持つ手。
『新しい存在』
灰谷の言葉が、何度も繰り返される。
アオの笑顔。ミナの優しさ。コハクの明るさ。ミケのまっすぐさ。ヒョウカの静かな強さ。全員が大切だ。
でも――選べない。
その時。足音が止まった。
――やっぱり、一人にはしてくれないか。
「……凛馬」
聞き慣れた声。顔を上げると、ヒョウカが立っていた。
「……一人にしろって言ったけどな。やっぱり放っとけなかった」
普段乱れない前髪が、少しだけ崩れていた。探してきたのだと、すぐ分かった。
「……話、聞くぞ」
ヒョウカが隣に座った。肩が触れる。
その瞬間――凛馬の中で、何かがすっと落ち着いた。ミケの手の温かさとも、アオの笑顔の柔らかさとも、コハクの距離の近さとも、ミナの優しさの丁寧さとも違う。
ヒョウカのそばは、静かだった。励ましも、慰めも、答えの押し付けもない。「どうするの?」と迫ってこない。「大丈夫だよ」と軽くまとめない。ただ、そこに座って、同じ景色を見ている。
――それが、怖いくらい安心できた。
凛馬は思い出す。研究施設で、あの言葉を浴びたとき。“新しい存在”。“希望”。“調和”。
誰も悪気はないのに、どんどん「役割」にされていく感覚。
その場で一番早く気づいていたのは、ヒョウカだった。
結果を見て笑ったのに、すぐ目が曇った。「本当に元人間か?」と疑ったのも、責めるためじゃない。“お前が、お前のままでいられるか”を、真っ先に気にしていた目だった。
ヒョウカは、言葉が少ない。でも、少ない分だけ、嘘が混ざらない。必要なことしか言わないから、言った言葉が軽くならない。
それに――ヒョウカは「同情」で寄り添ってこない。かわいそうだから守る、じゃない。不安だから慰める、でもない。
「お前が苦しいなら、聞く」それだけの距離で、隣にいる。
凛馬は、その距離を知っていた。誰かの期待に合わせて笑ってしまう癖。本音を言うほど、関係が壊れそうで黙る癖。
“皆が大切”と言いながら、誰も選べず自分だけ孤独になる癖。
凛馬は思わず視線を落とした。何も言われていないのに、心の奥を静かに触れられた気がした。
(この人なら、俺が一番言いたくないとこまで、否定せずに聞くよな)
そう思った瞬間、胸の奥の重さが、言葉に変わり始めた。
頭で考えるより先に、喉が開いた。
「俺さ……皆に囲まれてるのに、ずっと一人なんだ」
言葉が止まらない。
「特別な存在とか、新しい存在とか……そんな名前、欲しかったわけじゃない」
ヒョウカは何も言わない。ただ聞いている。
「アオも、ミナも、コハクも……」
言葉が一度途切れる。
「ヒョウカも、俺のこと想ってくれてる。でも……」
一瞬、息が詰まる。それでも続けた。
「それでも、アオのことだけは……」
名前を口にした瞬間、心臓が強く鳴った。
「会いたい理由も、そばにいたい理由も、説明できないのに。気づいたら、頭から離れなくて。大事だって言葉にするには、軽すぎて。でも、なんでもないって言うには……重すぎる」
風が二人の間を抜ける。
「……そうか。アオか」
ヒョウカは静かに笑った。
「まあ……アオは可愛いからな。無邪気で、優しくて、いつも笑ってる。お前が惹かれるのも分かる」
小さく笑う。その目だけが少し寂しそうだった。
「でも……凛馬。本当にそれでいいのか?アオだけじゃない。ミナも、コハクも、ミケも……みんな、お前が好きだ」
「お前がアオを選べば……他は傷つく」
「……」
「そして……私も傷つく。でも、それは覚悟してる」
ほんの少しだけ目を逸らす。ヒョウカは一瞬だけ迷うように指を止め、それから凛馬の手を握った。
「でもな。今のお前は孤独じゃない。焦るな。ゆっくり考えろ」
ヒョウカは一度だけ視線を落とした。言葉にしてしまえば、もう後戻りはできないと分かっているように。
ヒョウカは小指を差し出した。
「この話は秘密にする」
そして―― ヒョウカが小さく息を吸う音だけが、静かな公園に落ちた。
「……私は、お前が好きだ。これからも味方だ」
頬が少し赤かった。ヒョウカが立ち上がり、手を差し出す。
「戻るか?あいつら、心配してる」
凛馬はその手を取る。
「いくぞ。お前は独りじゃない」
休日の光の中、二人は歩き出した。
少し歩いたところで、凛馬はふと足を止めた。
「……ヒョウカ」
呼び止められ、ヒョウカが振り返る。
「さっきさ。なんで……ヒョウカには話せたんだろうって、考えてた」
風が静かに吹く。
「多分さ……ヒョウカは、答えを出そうとしないからだと思う」
ヒョウカは何も言わない。ただ続きを待っている。
「励まそうともしないし、無理に前向かせようともしない。でも……ちゃんと隣にいてくれる」
少し照れたように笑う。
「だから……これからも、悩んだ時はさ。相談してもいいか?」
ほんの少しだけ間が空いた。ヒョウカの目が、わずかに揺れる。
「……ああ。いくらでも聞く」
短い返事だった。でもそれで十分だった。
凛馬は小さく息を吐く。胸の中の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
恋とは少し違う。
――そう言い聞かないと、怖かった。
でも確かに、失いたくない距離だった。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
次回、感情が崩れます。隠していた想いは、もう止まらない様です…