夕焼けに染まる帰り道。
凛馬たちと別れたあと、コハク、ヒョウカ、ミナの三人は並んで歩いていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。足音だけが静かに重なる。
いつもなら、コハクが何か冗談を言って、ヒョウカが呆れて、ミナが苦笑する――そんな流れになるはずだった。
けれど今日は、誰もその役を引き受けなかった。
やがてコハクが、小さく笑った。
「……なんかさ。普通に戻った感じ、しない?」
夕焼けが長く影を伸ばす。三人の影は足元で重なり、歩くたびに少しずつ形を変えていった。
「普通、か」
ヒョウカが短く返す。
「ええ。少なくとも、凛馬君はそう見えましたね」
ミナが穏やかに頷いた。
今日の凛馬は、よく笑っていた。無理をしているようにも見えなかった。それが、なぜか少しだけ胸に残る。
コハクは何か言いかけて、やめた。
――前みたいに戻れたらいいね。
その言葉を、飲み込む。
「……あいつ、楽しそうだったな」
ヒョウカの呟きに、二人は何も返さなかった。
否定する理由がなかったからだ。
風が吹き、沈黙が落ちる。
気づけば、さっきまで赤かった空がゆっくりと色を失い始めていた。
何か話すべきことがあった気がした。けれど、誰も口にしなかった。
ミナがふと視線を落とす。
「……それが、一番ですね」
静かな声だった。三人の影はさらに長く伸び、
一度だけ重なって、やがて静かに離れていった。
コハクが空を見上げる。夕焼けが、少しだけ眩しかった。
「……まー、いっか」
軽い声だった。けれどその言葉は、諦めでも投げやりでもなく、どこか優しい終わり方のように聞こえた。
三人は、そのまま歩き続けた。同じ方向へ。
まだ誰も、それが小さな区切りだったことに気づいていなかった。
玄関の扉が開くと、キッチンの方から声が飛んできた。
「おかえり。なんだか凛馬くん久しぶりね?」
「あ、はい。ただいまです」
「ふふ、もう慣れたわね」
鍋の蓋が鳴る音と、味噌汁の匂いが漂ってくる。
いつもの光景だった。まるで最初から、ここにいたみたいに。
靴を脱ぐ音。鞄を置く音。テレビのリモコンを探す小さな物音。全部、いつも通りだった。
「今日、楽しかったね」
凛馬がソファに腰を下ろしながら言う。
「にゃ…」
「なんかさ、普通っていいなって思った」
その言葉に、ミケの手が一瞬だけ止まった。
背中を向けたまま、小さく息を吐く。
「そっか」
凛馬は気づかないまま続ける。
「みんなと笑って、帰って……ああいうの、すごく好きだ」
その笑顔は、穏やかだった。守られている顔ではなく、安心している顔だった。
ミケは静かに目を伏せる。
――ああ。そういうことなんだ。
この家に帰ってきて、当たり前みたいに「ただいま」と言えること。
それが、凛馬にとっての幸せなんだ。
自分が望んでいたのは、隣に立つことじゃなくて、この笑顔だったのかもしれない。
しばらくして、ミケは振り返り、いつもの笑顔を作った。
「凛馬くん、先にお風呂入っちゃいなさい」
母が促す。
「はーい」
凛馬が立ち上がり、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。さっきまで聞こえていた生活音が、一瞬だけ途切れる。
ミケはその場に立ったまま、小さく息を吐いた。
夜。それぞれの部屋、それぞれの時間。
隣の部屋から聞こえる物音に、ミケは小さく笑った。
恋人じゃなくてもいい。こうして同じ家に帰ってきて、同じ時間を過ごせるだけで、十分だったのかもしれない。
言葉にしなかった気持ちは、消えたわけじゃない。
ただ、今はもう伝えなくていいと思えた。
「……おやすみ、凛馬」
届かない声で呟いて、ミケはそっと目を閉じた。
廊下に、小さな足音が響く。
水を取りに来た母が、半分だけ開いたミケの部屋の扉に気づいた。
眠っている娘の横顔を、しばらく静かに見つめる。
枕元に置かれたスマートフォン。握ったままの毛布。何も聞かなくても、なんとなく分かってしまった。
母は小さく微笑むと、そっと扉を閉めた。
「……おやすみ」
誰にも聞こえない声で呟き、明かりを消して、廊下を戻っていった。
コハクの部屋。
部屋の灯りを消したあとも、コハクはしばらく目を閉じられなかった。天井をぼんやり見つめながら、小さく息を吐く。
「……楽しかったなあ」
思わず零れた言葉に、自分で少し笑ってしまう。
叶うとか、叶わないとか。そんなことより――
あの時間が確かにあったことの方が、ずっと大事だった気がした。
凛馬と過ごした日々は、誰かの物語の脇役みたいで、でもちゃんと、自分の中では主役だった。
好きだった気持ちも、笑った時間も、全部、嘘じゃない。
だからきっと、終わりってほどでもないんだろう。
「……ま、いっか」
軽く呟いて、寝返りを打つ。
胸の奥の熱は、まだ少し残っていたけれど、それを無理に消そうとは思わなかった。
この恋も、自分の物語の一ページとして残しておけばいい。
そう思えた瞬間、ようやく眠気が訪れた。
ヒョウカの部屋。窓を少しだけ開けると、夜の空気が流れ込んできた。ヒョウカは制服のまま、しばらく立ち尽くしていた。
街の灯りをぼんやり眺めながら、小さく息を吐く。
「……楽しそうだったな」
誰に向けたわけでもない言葉。今日の凛馬の顔を思い出す。無理をしていない笑顔だった。
それで、十分だった。最初から分かっていた気がする。
あいつは、“守るべき存在”で、“奪い合う相手”じゃないって。
好きだったのかと問われれば、たぶんそうだ。
けれど――手に入れたいと思ったことは、一度もなかったのかもしれない。
ヒョウカは窓を閉めた。小さな音が、やけに大きく響く。
「……これでいい」
呟いた声は、ほとんど夜に溶けた。
胸の奥に残る感情は消えていない。ただ、もう名前をつける必要がなくなっただけだった。
ベッドに腰を下ろし、灯りを消す。暗闇の中で、ヒョウカは目を閉じた。
明日もきっと、いつも通りだ。それでいいと、静かに思えた。
ミナの部屋。机の上に広げたノートを、ミナはゆっくり閉じた。部屋は静かで、時計の音だけが響いている。
今日の帰り道を思い出す。皆が笑っていた。凛馬も、自然に。あの笑顔を、守りたいと思った自分がいた。
それを見て、安心した自分もいた。
「……これで、いいんですね」
誰に確認するでもなく、小さく呟く。胸の奥には、確かに感情が残っている。消えたわけではない。
手放そうとするほど、胸の奥の重さだけが増えていく気がした。
けれど――その気持ちを優先しない未来も、選べるのだと気づいてしまった。
選ばれなくても、そばにいられる形があるのだと。
好きだった時間は、本物だった。だからこそ、無理に続ける必要はない。
ミナは眼鏡を外し、目を閉じる。少しだけ、息が震えた。それでも涙は落ちなかった。
「……大丈夫です」
自分に言い聞かせるように呟き、机の灯りを消す。暗くなった部屋の中で、胸の奥の想いをそっと置いていく。
忘れるのではなく、持ったまま前に進むために。
――もう、行かなくちゃ。
明日もきっと、同じように笑えるだろう。そう思えたことが、答えだった。
夜はとっくに更けていた。部屋の灯りを消しても、アオは眠れずにいた。
天井を見つめながら、何度も寝返りを打つ。目を閉じるたびに、今日の光景が浮かんだ。
凛馬の笑顔。皆で歩いた帰り道。「普通っていいな」と笑って言った声。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
……普通。その言葉を、頭の中で繰り返す。
本当は、嬉しかった。あの時間が戻ってきたことが。
でも同時に、どこかで分かってしまった。皆が、少しずつ前に進もうとしていることを。
「……なんでだろ」
小さく呟く。
同じ時間を過ごしたはずなのに、自分だけ取り残されている気がした。
忘れようとした。友達として笑おうとも思った。
なのに――
凛馬の名前を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。
「……まだ、好きなんだ」
言葉にしてしまってから、アオは慌てて口元を押さえた。誰も聞いていないのに、秘密を漏らしてしまった気がした。
諦めた方がいい。きっとその方が、皆と同じ場所に立てる。
分かっている。それでも、心だけが前へ進もうとしてしまう。止まってくれないんだ。
アオはゆっくり身体を起こし、カーテンを少し開けた。
夜風が頬を撫でる。遠くの街灯が、静かに揺れていた。
「……もう少しだけ」
誰に向けた言葉でもなく、自分自身に許すように呟く。
あと少しだけ、この気持ちのままでいさせてほしい。
窓を閉め、布団に戻る。胸の鼓動はまだ速いままだった。
けれど不思議と、涙は出なかった。
終わらせる夜ではなく、
始まってしまった夜だった。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
皆が恋心を諦めた今、残ったのはまだ気づかない一人の心でした。