平和だった日常は、静かに終わりへ向かい始める――。
暗闇の中、重い扉が静かに閉まった。
石造りの広間。高い天井。壁に刻まれた古い紋章。
中央の長机を囲む影たちは、誰一人として声を上げない。
ただ――
奥の玉座だけが、異様な存在感を放っていた。
そこに座るのは一人の獣人。黄金の鬣を持つ男。
ライオン族。ゆっくりと脚を組み替えるたび、空気が張り詰める。
誰も目を合わせない。それだけで、この場の頂点が誰なのか分かった。
側近が一歩前へ出る。
「獅子王様。報告いたします。“例の個体”の所在を確認しました」
机の中央に資料が滑らせられる。写真の中には、学園で笑う凛馬がいた。
男は、視線だけを落とした。長い沈黙の後、やがて低い声が落ちる。
「……これが、か」
低く、重い声だった。怒りも感情もない。ただ事実を確認する声で。
「元人間でありながら獣人化に成功しています。複数血統との適合反応も確認済みです。」
「均衡を崩す可能性、極めて高いと判断されます」
幹部が続ける。
「現在は学園にて保護下に――」
その瞬間。ギシ、と椅子が鳴った。それだけで全員の言葉が止まる。
男が、ゆっくり立ち上がった。
影が床に長く落ちる。
「……感情に流された結果が、これか」
誰に向けた言葉でもない。だが全員が頭を下げた。
「純血は秩序だ」
静かに言う。
「混ざりは、例外ではない。――歪みだ」
低く吐き捨てる。その声音には、理屈ではない拒絶が混じっていた。
「放置は許されない」
短く告げる。
「通達を送れ」
側近が顔を上げる。
「学園へ、ですか?」
「ああ」
わずかに笑った。だがそこに温度はなかった。
「礼儀は通さなければならん」
そして。
「純血主義者の名の下に――対象を回収する。抵抗した場合――排除する。」
その場の空気が凍りついた。
校舎地下、測定室。
昼休みのはずなのに、室内は暗く、機械音だけが響いていた。灰谷は椅子に深く腰掛け、モニターをぼんやり眺めていた。
端末には学園の生活ログが流れている。ふと視線が止まる。
昼休み、学食のカメラ。あの六人の姿。笑っている凛馬とアオ。少し距離の近い二人。
灰谷が小さく鼻で笑った。
「……森下くんと凛馬、結ばれたんか」
椅子を軽く回す。
「めでたい話やで、ほんま」
誰に言うでもなく呟く声は、どこか柔らかかった。
「やっと普通の学生です、みたいな顔しとるやんけ」
その時――
「灰谷さん!!」
扉が勢いよく開いた。研究員が駆け込んでくる。
その息は荒かった。手には黒い封筒がある。
「……なんや、昼休みくらい落ち着きや」
いつもの調子で言いながらも、灰谷の視線は封筒へ落ちていた。
「外部からの転送です。検閲、通ってません」
灰谷の表情がわずかに変わる。封筒を受け取ると、黒い封蝋に見慣れない紋章があった。
「……嫌な予感しかせんな」
封を切る。紙を開く。
そこに書かれていた文字は――
我々〈純血主義者〉は異物を確認した。異物の存在は均衡を乱す。
対象:元人間個体 ― 凛馬
速やかな身柄引き渡しを要求する。拒否した場合、排除を開始する。
灰谷の目が、ゆっくり細くなる。
「……はぁ」
小さく息を吐いた。モニターへ視線を戻す。
そこにはまだ――笑っている六人。何も知ない顔で昼飯を食べていた。
灰谷が低く呟いた。
「……せっかく今、ええところやろうに。気の毒やな」
紙を握り潰す。
「やっと普通の学生、やっとんねんぞアイツ」
声に、わずかな苛立ちが混じる。
研究員が慎重に言う。
「周辺監視網に反応があります。接触準備の可能性が――」
椅子が音を立てて引かれる。灰谷が立ち上がった。もう笑っていない。
「いつ届いた?」
「十分前です」
灰谷が舌打ちをし、コートを掴む。
「今、昼休みやな」
「はい」
灰谷は天井を見上げた。その上で続いている、何気ない日常を思うように。
そして灰谷は歩き出した。
「どちらへ?」
灰谷は振り返らず、低く短く言った。
「決まっとるやろ。本人に伝えに行く」
自動ドアが開く。遠くから笑い声が聞こえる。平和な音だった。灰谷の足音だけが速くなる。
「……間に合ってくれよ」
――まだ六人は知らない。
自分たちの日常が、もう狙われていることを。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
次回、凛馬の前に再び灰谷が現れます。