「あ!お茶切れちゃったにゃ!凛馬、買ってきてくれるにゃ?」
リビングからミケの声が飛んできた。
「オッケー、行ってくるよ」
凛馬は軽く手を振り、財布をポケットに入れる。
いつもと変わらない、なんでもない日常のやり取りだった。
「夕方だし、暗くなる前に帰ってくるにゃよ?」
ミケがキッチンから顔を出す。
その声はいつも通り明るい――
はずなのに、どこか少しだけ引っかかる響きがあった。
「大丈夫だって。すぐそこだし」
靴を履きながら笑う凛馬。ミケは少しだけ迷うように視線を揺らし、それから小さく言った。
「……なんか、分かんないけどさ」
「ん?」
「今日は、ちょっとだけ気をつけてね」
凛馬は一瞬きょとんとしたあと、苦笑した。
「なにそれ。母親みたい」
「家族だからにゃ!」
ミケは胸を張る。けれど、その赤い猫耳はわずかに揺れていた。
「……いってらっしゃい」
「いってきます」
凛馬は手を振り、玄関の扉を開ける。
――その時、なぜか背中に視線を感じた気がした。振り返ると、ミケがまだこちらを見ていた。
「どうした?」
「……ううん。なんでもないにゃ」
ミケは笑った。
だがその笑顔は、ほんの少しだけ――不安を隠しているようだった。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
そして、なんでもないはずの日常は、静かに終わりを迎えようとしていた。
凛馬は紅葉家からの買い出しを終え、買い物袋を両手に提げて帰路についていた。
夕暮れの商店街は人通りが少なく、シャッターの降り始めた店から柔らかな光が漏れている。
「……平和だよな」
小さく呟いた、その時――
「紅葉凛馬君だね?」
背後から低い声がかかった。
振り向くと――
黒いスーツの豹族の男。その隣に狼族の男。どちらも、明らかに一般人ではない空気を纏っていた。
「少し話がある。ついてきてもらおうか」
凛馬の虹色の耳がぴくりと動く。
――空気の揺れ、足音、呼吸。路地裏にさらに三つの気配。合計五人。全員、戦闘訓練経験者のようだ。
「……純血主義者、か?」
凛馬が静かに言う。
豹族の男が笑った。
「察しがいいな。我々は“純血の誇り”。」
「五種族混血の君は非常に価値がある。協力してもらいたい」
男たちはゆっくり距離を詰める。
「断ればどうなるか分かるだろう? 君の周囲には大切な人がいる。特に――熊族の少女、森下アオ。」
その名前が出た瞬間、空気が変わった。虹色の耳が鋭く立つ。瞳の温度が消えた。
「……アオの名前を出すな」
声が低く沈む。
路地裏から三人が現れ、完全に包囲した。
「さあ、大人しく――」
凛馬は買い物袋を静かに地面へ置いた。
「……警告したからな」
虹色の尻尾が、ゆっくり揺れる。
「俺の大切な人に触れるなら――容赦しないって」
五人が一斉に動いた。
その瞬間――
世界がスローになる。
踏み込み。リングの床。ミットを打つ音。
「もっと腰入れろ!」というトレーナーの声。
次の瞬間、現実へ戻る。
バキィッ!
狼族の男の顎へアッパーが炸裂した。
男は声も出せず倒れる。身体が自然に動く。回転。
――鏡張りのスタジオ。何度も失敗したターン。笑われながらも繰り返したステップ。
ドスッ!
肘打ちが狐族の脇腹へ沈む。
「がはっ……!」
凛馬は止まらない。リズムのように、呼吸のように動く。
踏み込みはボクシング。回転はダンス。
現実で無駄だと思っていた時間が、今すべて繋がっていた。
「なっ……速い!?」
地面を蹴る。豹族へ接近。
ゴッ!!
拳が腹部に突き刺さり、男が壁へ吹き飛ぶ。
残りの二人に恐怖が浮かぶ。
「こいつ……化け物――」
その言葉が終わる前に、
バキッ! ドカッ!
裏拳が左右同時に炸裂。
二人は崩れ落ちた。戦闘時間は一般にも満たなかった。
倒れた豹族の男が、かすれた声で笑った。
「……次は……あの熊族の女からだ……」
ドクン、と心臓が鳴る。その時、音が消えた。視界が暗く沈む。拳が、無意識に持ち上がる。
あと一歩。振り下ろせば終わる。骨が砕ける未来が見えた。
――その時。
「凛馬が嬉しそうだと嬉しいよ」
アオの声が蘇る。学食の光景。笑顔。握った手。
「……っ」
拳が止まった。数センチ手前で。荒く息を吐く。
「……違う」
その声は震えていた。
「俺は……守るために戦ってる」
ゆっくり拳を下ろす。視界の色が戻る。胸の奥で、危険な何かが静かに沈んだ。
凛馬は男たちを見下ろした。
「殺しはしない。安心しろ」
冷静な声。
「でも上に伝えろ。次、アオや親友を狙ったら――次はない」
豹族の男が呻く。
「……化け物め……」
凛馬は小さく息を吐いた。
「そうかもな。でも――」
買い物袋を拾い上げる。
「守れるなら、化け物でもいい」
路地裏を後にした。
現実では役に立たないと思っていたものほど、
この世界では誰かを守る力になっている。
あの時間がなければ、今の自分はいなかった。
自宅に着き、何事もなかったように玄関を開ける。
「ただいま」
「凛馬、お疲れ様にゃ!今日の夕飯はカレーにゃ!」
ミケが嬉しそうに鍋をかき混ぜている。スパイスの香りが部屋に広がり、いつも通りの温かい空気がそこにあった。
「楽しみだなぁ」
凛馬は笑って答える。
――本当に、いつも通りだった。
笑い声。湯気。食器の音。守りたかった日常が、目の前にある。
けれど、買い物袋を置いた手が、わずかに震えていることに、誰も気づかなかった。
路地裏での光景が、一瞬だけ脳裏をよぎる。倒れた男たち。向けられた殺意。アオの名前。
凛馬はそっと拳を握り、すぐに力を抜いた。
(……言わない)
心の中で静かに決める。
(まだ、言う必要はない)
ミケが振り返る。
「どうしたにゃ?」
「いや?なんでもない」
自然に笑う。
――嘘が、驚くほど簡単に出てきた。
「今日は早く寝るにゃよ?」
「分かってるって」
ミケは満足そうに頷き、また鍋へ向き直った。その背中を見ながら、凛馬は思う。
(絶対に――)
視線をリビングへ向ける。ここにいる家族。学校で笑っていた親友たち。夕焼けの中で笑った恋人。
(この日常には、触れさせない)
胸の奥で、静かに何かが変わる。
守ると決めた瞬間から、自分はもう――
同じ場所には立てないのかもしれない。
それでもいい、と凛馬は思った。
「……いただきますにゃ!」
ミケの明るい声が響く。凛馬はいつも通り席に座り、笑った。
その笑顔だけは、嘘じゃなかった。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
次回、静かな日常の裏で、組織が本格的に動き始めます。