守り続けた均衡。失った未来。そして、掴めなかった想い。
彼が出した答えとは?
夜風が、静かに校門を吹き抜けていた。戦いはほとんど終わっていた。
地面には無数の傷跡。血の匂い。倒れた実働隊。そして――
立ったまま動かない獅子王レオン。呼吸は浅い。脇腹の深傷から血が流れ続けている。
それでも、倒れない。
凛馬は双剣を下ろしたまま、警戒を解かなかった。
「……まだやるか」
問いではなく、確認だった。だがレオンは答えない。ただ、空を見上げていた。
夜空は静かで、戦場とは思えないほど穏やかだった。
その時――
風が揺れた。焚き火の匂いがした気がした。
「……相変わらず、無茶するね」
懐かしい声。レオンの視界の端に、少女が立っていた。長い髪。狼耳。少し困ったような笑顔。シオンだった。
当然、誰にも見えていない。レオンだけが、静かに呟く。
「……遅いぞ」
シオンが笑う。
「そっちが頑張りすぎなんだよ」
軽い声。戦場に似合わない声。昔と同じだった。
凛馬は眉をわずかに寄せる。
(誰に言ってる?)
その時――
視界の端で、白い何かが揺れた気がした。風に溶けるような、長い髪。風に揺れた白い残像は、敵意ではなく、ただ優しかった。
一瞬だけ、凛馬と目が合った――気がした。
だが次の瞬間には、何もない。
「……?」
胸の奥が、わずかに温かくなる。戦場に似つかわしくない、柔らかい感覚。
(……誰だ)
名も知らないはずなのに、なぜか“安心した”。
アオが小さく息を呑む。
「……凛馬」
レオンの目が、もう凛馬を見ていない。どこか遠くを見ている。戦う目じゃない。帰ろうとしている。
凛馬はゆっくり双剣を下ろす。
「……もう、終わりだな」
凛馬は小さく呟いた。アオが凛馬の袖を掴む。
「……うん」
少しだけ間を置いて、続ける。
「ちゃんと、終われそう」
凛馬がわずかに横目で見る。アオは微笑んでいる。
「……誰かが、支えてくれてるみたい」
その言葉に、凛馬の胸の奥がまた静かに温まる。
二人とも理解している。これは勝敗の瞬間じゃない。
“役目が終わる瞬間”だと。
「まだ戦ってるんだね」
「……均衡を守るためだ」
即答だった。だがシオンは首を傾げる。
「ほんとに?」
レオンは黙る。
視線の先には――凛馬とアオ。互いを支えるように立つ二人。
シオンが小さく息を吐く。
「ねえレオン」
静かに言う。
「大事なもの傷つけてまで守る均衡って、かっこいい?」
レオンの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……合理だ」
短い返答だった。シオンは苦笑する。
「合理でもさ、ダサいことってあるんだよ」
一瞬、焚き火の音が蘇る。レオンはほんの一瞬、目を伏せる。
「……王は、格好で戦わん」
その声は、前よりも低かった。シオンは首を振る。
「私なら怒るよ」
レオンの喉がわずかに鳴る。
「……知っている」
その一言で、鉄拳が少しだけ崩れる。
「今、時間戻せたらって思った?」
胸の奥がわずかに軋んだ。
瓦礫の村。血。あの日の事が去来する。
「……思わん」
そう答えながらも、声はわずかに揺れていた。
シオンは怒らず、ただ炎を見るような目で続ける。
「違う未来だったかなって、考えたでしょ」
レオンは否定しなかった。
「でもさ」
シオンが笑う。
「もう後戻りできないよ、私たち」
優しい声だった。責める響きは一切ない。
「だったらね」
凛馬を見る。
「掴み損なった未来、迎えに行けばいいじゃん」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。レオンの視線が揺れる。
目の前の少年。守るために壊れかけながら、それでも誰かの隣に立っている存在。
(……違うのか)
混血は均衡を壊す存在。そう信じてきた。
だが――
均衡とは、止まることではなかったのではないか。更新され続けるものだったのではないか。
シオンが静かに言う。
「私、間違ってなかった?」
レオンの喉がわずかに鳴る。長い沈黙の後。
「……ああ」
初めて認めた。
「お前は……正しかった」
シオンが安心したように笑う。
「よかった」
一歩、風が強くなる。
「ねえ、またどこかで会える気がするでしょ?」
その姿が、少しずつ風に溶けていく。
「もういいんだよ、レオン」
最後に優しくそう言った。焚き火の音が消え、幻は静かに消えた。
レオンの膝がわずかに揺れる。だが倒れない。
「……終わりだな」
レオンはゆっくり視線を向けた。黄金の瞳は、もう戦士の目ではなかった。静かで穏やかだった。
「紅葉凛馬」
低く呼んだ。
「お前は……均衡を壊す者ではない」
一呼吸。
「更新する者だ」
その言葉は、判決のようでもあり、継承のようでもあった。
凛馬は何も言わない。ただ真っ直ぐ見返す。レオンが続ける。
「もう……後戻りは、できんな」
夜空を見上げる。
「ならば進め」
視線を凛馬へ戻す。
「迎えに行け」
何を、とは言わない。だが伝わった。
凛馬は少しだけ目を伏せ――そして答える。
「……ああ」
短い返事だった。
「ちゃんと連れていく」
風が止まった気がした。凛馬は続ける。
「誰も置いていかない世界にする」
ほんのわずか、間が空いた。
「……そこにいた人も、そう願ってるんだろ」
静かな声だった。その瞬間——
レオンの背後で、風が揺れる。
誰にも見えない場所で、長い髪の少女が、ほんの少しだけ微笑んだ。
レオンの瞳が、わずかに見開かれる。驚きでも警戒でもない。理解だった。
そして。ふっと、小さく笑った。
それは戦場で一度も見せなかった、ただの男の笑みだった。
「……そうか」
静かな声だった。レオンの身体がわずかに揺れる。それでも倒れない。
その時、レオンの視界が揺れた。
光。柔らかな鐘の音。紫の花びらが舞っている。
「ほらレオン!こっち向いて!」
弾んだ声。振り向くと、そこにシオンがいた。白い衣装。少し照れたように笑っている。
「どう?」
くるりと回る。
「似合ってる?」
レオンは、ほんの一瞬だけ目を見開く。そして――
小さく、笑った。戦場で一度も見せたことのない笑み。
「……似合ってるよ」
短い言葉だった。だがシオンは、嬉しそうに笑う。
「でしょ?」
その瞬間――
風が吹き、花びらが舞い上がる。光が静かに消え、そして弾けた。
「思い出話は……その時にしよう」
レオンが立ったまま、空を見上げる。
夜風が吹く。その足元に、いつのまにか小さな紫の花びらが一枚、風に運ばれて落ちた。
誰も気づかない。ただ凛馬だけが、ふと視線を落とす。
レオンの唇がわずかに動く。
「……忘れん」
小さな声。
「遠くに行ってもな」
一拍、ほんのわずかに息を吸った。
「……君を忘れた日は、なかった」
遠くで、笑い声が聞こえた気がした。
レオンの胸が、ゆっくり一度だけ上下した。それが最後だった。
そのまま――
風が吹き、花びらが揺れる。
獅子王レオンの瞳から、静かに光が消えた。立ったまま、動かなくなる。
その姿勢は、最期まで崩れなかった。まるでまだ世界を見守っているかのように。
誰もすぐには動けなかった。風だけが、静かに校門を抜ける。
ミケが小さく呟く。
「……終わった、にゃ?」
返事はない。立ったまま動かない獅子王の姿だけが、夜に溶け込んでいる。
コハクが一歩前へ出る。
「……本当に、終わったんだよね……?」
声は強がっているが、震えていた。ヒョウカは目を閉じ、短く息を吐く。
「……ああ」
低く言う。
「王は、退いた」
その言葉が空気を確定させた。
――その時。遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「こっちです!!」
ミナの声。制服の裾を乱しながら駆け込んでくる。その後ろに警察官たち。
ライトが照らされる。一人の警察官が、立ったままのレオンを見て足を止めた。
「……なんだ、あれは」
別の警官が近づく。そして言葉を失う。背筋を伸ばしたまま、空を見上げる獅子王。血は流れている。だが崩れていない。
「……立ったまま……?」
誰かが小さく呟く。誰もすぐに触れられない。王の最期に、無意識で一歩引いてしまう。
ヒョウカが静かに言う。
「触るな」
警官が視線を向ける。
「……その人は、最後まで王だった」
風が吹き、レオンのマントが遅れて地面へ落ちる。それが合図だった。
一人の警官がゆっくり脈を確認する。
「……呼吸、なし」
王は、本当に退場した。
その光景を見届けた凛馬の視界が、ぐらりと揺れる。ミケが気づく。
「……凛馬?」
凛馬は立ったまま、レオンを見つめている。だが足元に、ぽたりと血が落ちる。明らかに血を流しすぎていた。
コハクの顔色が変わる。
「ちょ、待って……アンタやばくない?」
凛馬は小さく笑う。
「……大丈夫だ」
言葉とは裏腹に、膝が震えている。アオが駆け寄る。
「凛馬、座って!」
凛馬は首を振る。
「……まだ、立ってたい」
凛馬はレオンを見つめたまま、小さく拳を握る。
「あ〜……強かったな」
悔しさでも、憎しみでもない。純粋な敬意だった。
「最後まで、立ってたんだ。戦士としての礼儀だ——」
その言葉が終わる前に、視界が暗転する。全身の力が抜ける。アオが咄嗟に抱き止める。
「凛馬!!」
凛馬の身体は完全に力を失っていた。意識が落ちる寸前、かすかに呟く。
「……いつか迎えに行くからな」
誰に向けたかは分からない。そのまま、崩れ落ちる。
警察官が慌てる。
「救急を!」
ミナが駆け寄る。ミケの尻尾が震える。ヒョウカが歯を食いしばる。
夜空だけが、何事もなかったように広がっていた。
戦いは終わった。だが――
風は止まらなかった。
三章最後まで読んでくださりありがとうございます!
王は、最後に“答え”へ辿り着きました。その想いは、確かに、誰かへ引き継がれています。
獅子王という名に相応しい、立派な最期でした。
「紫苑」という言葉に込めた意味も、感じてもらえたら嬉しいです。