忘我の騎士と名を捨てた王女 作:FLAM
プロローグ
その日、剣はまだ冷たかった。
朝靄の残る街道で、男は黙って剣を拭いていた。血の色はもう落ちている。
それでも彼は念入りに、何度も布を走らせる。まるで剣に残った何か――熱や、感情や、あるいは記憶そのものを削ぎ落とすように。
「……ねえ、騎士さま」
少し離れたところで、少女が声をかけた。
簡素な外套に、歩き慣れない靴。身なりは旅人だが、どこか育ちの良さが滲んでいる。
男は顔を上げない。
「起きてから、ずっとそれやってるわよ」
「剣は、手入れを怠ると応えてくれません」
即答だった。感情のない、正しい返事。
少女――リィナは、むっと唇を尖らせる。
「応える、ね。剣が?」
「はい」
それ以上は語られない。彼はいつもそうだった。
昨日も、街外れで盗賊に襲われたときも。
誰かが命令したわけでも、頼んだわけでもないのに、彼は一歩前に出て、迷いなく剣を振るった。あまりに早く、あまりに正確で、だからこそ――怖かった。
「……ねえ」
リィナは小さく息を吸う。
「あなた、本当に名前、ないの?」
布を動かす手が、一瞬だけ止まった。けれど男は、すぐにまた剣へ視線を落とす。
「必要ありません。私は、騎士ですから」
「それ、答えになってないと思うんだけど」
「騎士には、主がいれば十分です」
淡々とした声。まるで、それ以外の在り方を最初から考えたことがないみたいに。リィナは、彼の剣を見る。
朝の光を反射して、冷たく、鋭く光る刃。
人を守るためのはずの剣なのに、どうしてこんなにも――孤独な色をしているのだろう。
(……この人)
守ってくれている。確かに、命を救われた。
それなのに。
(どうして、こんなに苦しそうなの?)
リィナはまだ知らない。
この旅が、彼から“剣”を奪う旅になることを。
そして同時に――彼に、名前を取り戻させる旅になることを。
そのとき、遠くで鐘の音が鳴った。次の街が、近い。
「行きましょ、騎士さま」
「……承知しました」
彼は立ち上がり、剣を取る。
その背中は、誰かに仕える者のそれで――
けれど、まだ誰のものでもなかった。
◆
街の門をくぐった瞬間、リィナは小さく目を見開いた。
石畳の道、軒を連ねる店、呼び込みの声。どれも特別ではない。けれど、旅に出てからというもの、こうした「普通」の街並みを見るたびに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「にぎやかね」
「交易都市です。人の出入りが多い」
隣を歩く騎士――相変わらず名を名乗らない彼は、周囲を警戒するように視線を巡らせている。人混みの中でも、その歩調は一切乱れない。まるで、いつ襲われても構わないと言わんばかりだ。
「そんなに肩肘張らなくても大丈夫よ。今日は平和そうじゃない」
「平和な街ほど、不意打ちは多いものです」
「……楽観しないわねえ」
そう言いつつ、リィナは笑った。このやり取りにも、少し慣れてきた。市場を抜けようとした、その時だった。
「待て! そいつを捕まえろ!」
怒声と同時に、人垣がざわめく。
一人の少年が、人々をかき分けるように走ってきた。年の頃は十歳前後。細い腕に、パンを一つ抱えている。
すぐ後ろから、恰幅のいい商人が追いかけてくる。
「盗人だ! うちの店のパンを盗みやがった!」
少年は足をもつらせ、石畳に転んだ。パンが転がり、土にまみれる。
「違う……っ」
少年が何か言いかけた、その前に――
気づいた時には、もう終わっていた。
騎士が、一歩前に出ていた。
剣は抜かれていない。ただ、彼が少年と商人の間に立った、それだけだ。それなのに、商人は思わず足を止めた。
「……な、なんだあんたは」
「騎士です」
短い答え。
それだけで、場の空気が変わる。
剣を帯びた男が、無言でそこに立つ。
それだけで、十分だった。
「盗みの現場を、見たのですか」
「な……なに?」
「あなたが言う“盗み”を、この目で見ましたか」
商人は一瞬、言葉に詰まる。
「い、いや……店から飛び出してくるのを見たんだ!」
「それは“逃げていた”という事実であって、“盗んだ”という証明ではありません」
淡々と、しかし逃げ場を与えない声。
周囲の人々も、ざわめきを潜めて様子をうかがっている。
ここで、リィナが前に出た。
「ねえ、そのパン」
彼女はしゃがみ込み、地面に落ちたパンを拾い上げる。
「これ、売り物にするつもりだった?」
「当たり前だろ!」
「じゃあ、どうして裏口に置いてあったの?」
商人の顔が、ぴくりと引きつった。
「……見たのか?」
「ええ。たまたまね」
嘘ではなかった。
街に入る時、彼女は確かに見ていた。店の裏で、売れ残りのパンが無造作に置かれていたのを。
「この子、空腹だっただけじゃないかしら」
「だからって盗んでいい理由にはならん!」
「もちろん。盗みは良くないわ」
リィナは、はっきりと言った。
その言葉に、少年がびくりと肩を震わせる。
「でもね」
彼女は続ける。
「確かめもしないで罰するのも、良くないと思うの」
しばしの沈黙。
やがて、誰かが小さく言った。
「……そういや、見てないな」
「逃げてただけかもしれん」
空気が、少しずつ変わる。
商人は舌打ちし、乱暴に手を振った。
「……もういい! 持ってけ、そのパン!」
「あ、ちょっと待って」
「あぁ!?」
リィナに呼び止められ、苛立ちも隠さずに振り返る商人。その恰幅のいい体格も相まってかなり迫力があった。
「これ、お代よ」
「……チッ。毎度あり」
吐き捨てるように言って、踵を返す。
騒ぎは、それで終わった。
少年は呆然と立ち尽くしていたが、やがて深々と頭を下げた。
「ありがとう……!」
「気をつけてね」
リィナは、にこりと笑った。
少年が走り去ったあと、彼女は隣を見上げる。
「ねえ、騎士さま」
「はい」
「あなた、強いのね」
「主を守るために、必要なだけです」
即答だった。
リィナは一瞬、言葉を探してから言う。
「……わたし、まだ何も命令してないけど?」
騎士は、わずかに目を見開いた。
ほんの一瞬。けれど確かに、言葉に詰まった。
「……それでもです」
そう言って、視線を逸らす。
その横顔を見て、リィナは思った。
(この人……)
守っているのは、わたしだけじゃない。
“主”という言葉そのものに、縛られている。
宿へ向かう道すがら、夕日が街を染めていく。
剣は、まだ冷たかった。
けれどリィナは、その冷たさが、ほんの少しだけ――昨日より和らいだ気がしていた。
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