「人間なんて、どうせみんな嘘をつく」
そう確信していた時期が、俺にはあった。
学生時代の教室は、俺にとって学びの場ではなく、剥き出しの悪意をやり過ごすための檻だった。
理由など何でもいいのだ。
靴が汚れている、喋り方が気に入らない、親がいない。
誰かを踏みつけることでしか自分の立ち位置を確認できない猿たちが、俺の尊厳を執着的に削り取っていった。
家庭もまた、逃げ場ではなかった。
アルコールに逃げる父と、ヒステリックに泣き叫ぶ母。
彼らにとって俺は「愛の結晶」ではなく、「不幸を押し付け合うための共有財産」に過ぎなかった。
大人の顔色を伺い、言葉の裏にある「本音(トゲ)」を探る日々。その経験は俺に、望まぬ特殊技能を授けた。
「人の感情の機微に、異常なほど敏感になる」という、呪いのような洞察力だ。
二十代半ばまで、俺の世界は灰色だった。
他人と目が合えば、その奥にある侮蔑や無関心が透けて見える。営業スマイルの裏にある損得勘定が、ノイズのように脳に響く。
「人間なんて、出来損ないのバグだらけのシステムだ」
そんな俺を変えたのは、一人の男と、一人の女だった。
「お前さ、考えすぎなんだよ。もっとバカになれよ」
唯一無二の親友となったアイツは、底抜けに明るいガンダムオタクだった。
俺がどれだけ斜に構えても、アイツは土足で俺の心に上がり込み、一緒に酒を飲み、プラモデルを組み、くだらない夢を語った。
裏表のない、真っ直ぐすぎる言葉。俺の「人間不信」という分厚い氷を、アイツは笑いながら溶かしていった。
そして、彼女――。
彼女は、後にクェス・パラヤと重なるような、自由奔放でわがままな女性だった。
「ねえ、今すぐ海が見たい!」「アイス食べたい、奢って!」
振り回され、疲れ果て、それでも彼女の隣にいると、世界に色がついた。彼女のわがままは「自分に嘘をつかない」という強さの裏返しだった。
人間不信だった俺が、初めて「この人のために、何かをしたい」と心から思えた。
自分の内側に眠っていた「人を愛する力」は、他人から与えられるものではなく、自分自身の手で育て、見つけるものなのだと彼女が教えてくれた。
202X年。俺は29歳になった。
ポケットには、給料三ヶ月分を叩いて買った指輪がある。
今夜、彼女にプロポーズをする。人間なんて醜いと思っていた男が、一人の女と家庭を築こうとしている。人生、捨てたもんじゃない。そう、心から感謝していた。
だが、運命は、あまりにも唐突に、そして醜悪な形で幕を下ろす。
駅前広場。けたたましい叫び声。
暴走した外国籍の男が、刃物を振り回していた。薬物か、社会への鬱屈か。そんなことはどうでもいい。
男の切っ先が、立ちすくむ幼い子供に向けられた。
考えるよりも先に、体が動いた。
「やめろッ!」
スローモーションになり、相手の動きと自分の動きがよく見える。
惜しむべきは武術などならってない俺はただガムシャラに手を前に出すことしかできない。
俺の脇腹に冷たい感覚が走る。一度、二度、三度。
熱い。痛い。視界が急速に狭まっていく。
周囲の悲鳴が遠のいていく。
アスファルトに這いつくばりながら、俺はポケットの指輪に触れようとしたが、指先が動かない。
(……ああ、俺、ここで死ぬのか)
悔しい。もっと彼女といたかった。アイツと酒を飲みたかった。
けれど、不思議と絶望はなかった。
かつて人間を憎んでいた俺が、誰かの子供を助けて、誰かを愛した記憶を持って死ねる。
「……いい、人生だったな」
最後に脳裏に浮かんだのは、彼女の奔放な笑顔と、親友と語り明かしたガンダムの宇宙(そら)だった。
――意識が、無限の闇に溶けていく。
次に目を開けた時、そこは冷たい金属の匂いと、激しい頭痛に支配された世界だった。