リコは困った。大いに困っていた。
入学式が終わり、最初のオリエンテーションで支給されたモンスターボール……そこから姿を見せたくさねこポケモンニャオハの愛くるしさにスカイブルーの瞳が奪われ、それまでどこか灰がかっていた10年間の人生の景色が鮮やかに広がる思いを得た。それはいい。
ただそのニャオハが、現在進行形でまったくもって自分の言うことを聞いてくれないのだ。スキンシップを拒否し、気まぐれで校内を彷徨き回り、バトルの練習に出して見ても技の指示1つまともに聞いてくれない有様だった。
『自分をもっと知って変わりたい』
この一言を胸に、生まれ育ったパルデア地方からの越境入学に難色を示していた父をどうにか説き伏せ、事前に幾度かオンラインでの面談を経た上で学校側が自分とポケモンの適性を判断しての取り合わせなのだという相棒ポケモン配布の理屈は分かる。
が、面談を担当していた担任教師の穏やかな顔つきが、リコの頭の片隅ではどういう理屈で生徒とポケモンをマッチングしているのか? 単なる無関心のあらわれなのではないか? そんな邪推すらうっすらとチラつかせていた。
それでもリコとしてはニャオハにゾッコンであり、相棒ポケモンを変えてもらえるよう頼むことなどは思いもよらない話だった。
入学初日のオリエンテーションから4月の終わり際の長期休暇を挟み、5月を迎えてなお、リコとニャオハの距離は一向に縮まっていなかった。
「相当頑固なんだねーその娘」
「頑固、なのかなぁ?」
寮の相部屋として既に1ヶ月同じ屋根の下で過ごすアンがベッドの上で胡座をかきながら、リコのベッドで丸くなっているニャオハを見る。
ここが女子寮で、女子同士だからといって風呂上がりで火照った肢体にショーツ1枚でいるのはリコからしたら正直どうかとは思う。そんな彼女のサバサバとした裏表のないところが瞬く間にクラスの人気者となった要因でもあるのだろう。それはそれとして、部屋中に私物を散乱させ放題にするガサツさもリコ的には困りものではあるが…。
「きっとまだまだ勉強不足なんだよ、私の方が」
「そうかなぁ?」
部屋着として扱い、ある程度着慣れてきた学園支給のジャージ姿で机に向かっているリコの手には、ポケモンと仲良くなるためのハウツー本が握られている。
アンは、リコがニャオハを受け取ってからずっと、どうにか彼女と仲良くなろうと色々なアプローチを試し続けていることを知っていた。
遠くパルデア地方から来た身故にゴールデンウィーク程度の期間では帰省もままならないとはいえ、自分が帰省していた間もずっとニャオハとのことだけを考えてあれこれと動いていたのは想像に難くない。
アンがオリエンテーションで受け取ったラッコポケモンミジュマルは気のいい奴で、すぐに意気投合することが出来た。
何度かリコのバトル練習にも付き合ったこともあるが、ニャオハが全く指示を聞かず終いでバトルが成立しないのを繰り返す有様だった。
「んー……そうだ! 明日、ウチの部の先輩たちに相談してみようよ!」
「アンの部の先輩たちに……? 確か、ポケモンバトル部、だっけ?」
「うん! みんなポケモン大好きだし、きっといい感じのアドバイスをくれるよ! ちょうど明日は部室で軽くミーティングだけして後はオフだからさ!」
半ば強引に話を纏めるアンがリコにニカッとした笑みと、トレードマークの真っ白な八重歯を見せてくる。
自己流のアプローチだけでは正直行き詰まっていたリコは、アンの強引さに苦笑しながらも首肯した。藁にもすがる思いだと言っていい。
ポケモン歴2025年。カントー地方の伝統校『セキエイ学園』は、創立80周年を迎えるということでその記念から、校内施設のあちこちが順を追っての改装工事真っ只中であった。
長年運用し続けて来たが故の純粋な経年劣化もあるが、ここが10歳を迎え、義務教育を終えた子供たちにとって、本格的なポケモントレーナー養成機関であることも大きい。
『ポケットモンスター』……縮めて『ポケモン』。
彼らの起源がいつ起こり、どこからやって来て何故人類と共生しているのかは、2度のミレニアムを経てみてもその解明は遅々として進んでいない。
人々はこの不思議な生き物たちを隣人として共に暮らし、生きている。これから先がどうなるかは分からないが、今のところまではそうであった。
そんな彼らポケモンと一緒に自己実現を果たす為に生きる人を総称して『ポケモントレーナー』と呼び、皆10歳を迎えれば身分証としてトレーナーカードとポケモンの捕獲許可証が送られる。これら2つを手にした瞬間から大人と同じ法的権利と責任が課せられるのがポケモン社会の原則だ。
その例外として、リコたちの通うセキエイ学園のようなトレーナー養成機関があり、それらは義務教育以降の中等教育として位置付けられている。
トレーナーとしての活動をしながら勉学することができて、進路選択でもある程度は学園のフォローを受けられるのだ。無論、度が過ぎた問題行為をかませば停学、最悪の場合は退学となるのは『こちらの世界』と何ら変わらない。
「アンはそのままバトル部に決めたんだね」
「もち! ミジュマルと一緒にバトルで勝ちまくりたいからね」
セキエイ学園の部活動において4月中は仮入部期間として定められ、新1年生には学園中の部活を見て回る選択期間が与えられていた。
スポーツ推薦で入学してきた特進コースの生徒などは入学後すぐから、なんなら入学前3月の時点で既に部活に合流して練習に参加し、すっかりチームに溶け込んでいるのも珍しくはない。
リコと同じく普通科として入学してきたアンは見聞の末に入部先を決め、長期休暇明けから本格的にポケモンバトル部の部員としてデビューするというのだ。
アンがバトル部にて仮入部期間を過ごしていた4月中、リコはというと、ずーっと制御のきかないニャオハの気まぐれに振り回されているだけで何ら進歩のない日々を送っていた。
そんな2人は翌日、日中の授業を終え、早速部室へと向かう。
教室を後にし、1年校舎を出れば隣の2年校舎へと足を踏み入れた。
このセキエイ学園は1年、2年、3年と学年ごとに校舎があてがわれ、制服の学年バッジに因んで1年は『くさ校舎』、2年は『ほのお校舎』、3年は『みず校舎』と呼ばれている。
その3つの校舎が立ち並ぶ北側に現在改装工事真っ只中の体育館が、南側に男子寮の『ニドリーノ寮』、リコやアンが暮らす女子寮の『ニドリーナ寮』が建てられていた。
「おう、アン! どうだ! 今からでも遅くないぞ。俺たちと柔道部で全国を目指さないか?」
「間に合ってま〜す」
アオタ先輩の熱烈な勧誘を華麗にスルーしながらアンが階段を登るのにリコもついてゆく。
「ちーっす!」
「し、失礼しまーす……」
ほのお校舎2階の階段すぐそこに、『ポケモンバトル部』と年季の入った……とは聞こえがいい、ボロボロな木製のプレートが雑にかけられたドアを無遠慮に開くアンの後ろから、リコはおずおずと一緒に入室をした。
部室内は中央に無数の机がまとめられ、その周囲には雑貨が散乱している。
『アンのベッド周りといい勝負かも…』
リコのバトル部部室に対する正直な第一印象はコレだった。要するに、『きったねえ部屋だな』……そう思った。
「アン。そいつなに」
「リコ。あたしのルームメイト」
まとめられた机の席に着いており、スマホロトムを弄るのは紫髪の天然パーマを黄緑色のヘアバンドでかきあげ、鼻周りにはそばかすがチラつく濃紫のツリ目の生徒だ。
ツリ目が品定めをするようにリコを視界に捉える。
「ど、どうも……」
リコに応えることなくツリ目はスマホロトムの液晶へと視線を戻す。
興味がない……というよりは抱く価値すらないといった反応だった。
『なんだろうこの子……』
あからさまな塩対応も仕方ないだとは思う。何故ならリコはこの部室からすれば完全に部外者なのだから。さりとて目の前のジャージを着崩したツリ目のそばかす面がかましてくる無礼な態度に対して思うところはないではなかった。
左胸元に刺繍された学年マークからして同じ1年生だろうに、と……。
「あっ、ホタル副部長! おつでーす!」
「あぁ。お疲れ」
「……ウス」
そんな中入って来る黒髪ショートヘアのボーイッシュな少女の存在1つで、部室の空気全体がピシッと引き締まる感覚をリコは覚えた。
濃茶色のハイビングがアクセントに入ったキャメルのジャケット、その首元で鮮やかに生える真っ赤なリボン。ジャケットの間から覗くシャツは一点の曇りもない純白で、膝丈のスカートに白のハイソックス、そして足元をブラウンのローファーと、自分たち同様セキエイ学園指定の制服を着ているはずなのにまるで別物な雰囲気が醸し出されているのは、彼女が2年生の証としてほのおの学年バッジを左襟元に付けているからというだけではないとリコは思った。
この風格は、単なる年功序列で生まれるものではない。彼女由来のものなのだ。
その風格は紫髪の無礼なそばかす面にも通じるのだろう。奴も副部長にペコリと会釈をしていた。
「アン。その娘は?」
「リコです! ホラ、先週話した……」
「あぁ。確かオリエンテーションで配布されたニャオハとコミュニケーションが取れなくて困ってるっていう……ボクはホタル。よろしく」
「は、はい! はじめまして。1年1組のリコです! よ、よろしくお願いします……」
アンからの話で柔和な笑みを向けるホタル。爽やかな風が吹き抜けるかの如く涼しげな顔つきに、リコは彼女のことをいわゆる『同性にモテるタイプ』だと反射的に思った。
ホタルに対してドギマギとするリコに、紫髪をかき上げた無礼なそばかす面……ドットの向ける視線はあからさまな苛立ちを孕んでいた。
「キラリは生徒会に行ってるからいいとして、マフィンの奴は……」
「は……はうあ!!」
「……ちょうど来たか。よし、ミーティングを始めよう。リコさんは少し待っていてくれ」
「は、はい」
白い髪の長髪に左右のこめかみの毛にピンクのハート型ヘアアクセサリーを付けた女子制服の左襟元には、3年生だと示すみずの学年バッジ。
1年生であるリコとさほど変わらない、なんなら僅かに低身長ながら、この場における最上級生の瞳がリコを捉えて離さなかった。
『なんだろうこの人……』
自分に視線を向けっぱなしである女装の変態……いや、先輩に対し、服装の一点のみから悪印象を抱くほどリコは性差の話にうるさくはないつもりだ。
ただただ向けられている視線の生温かさが不穏であった。
「まずは今週の練習メニューの確認からいこう。平日はトキワの森までの往復ロードワークを中心とした基礎練習。土日は距離を伸ばしてお月見山まで行く。監督の声かけが上手くいけば練習試合も組めるだろうが……コレは希望的観測に過ぎんから8割くらいはお月見山だと考えておいてくれ」
皆が席に着き、ホタルがミーティングの場を取り仕切る中でもマフィンの視線は依然としてリコへのみ一点集中で向けられ続けていた。
そのトロリとした淡黄色寄りの瞳が何を意味しているのか、リコからは理解が及ばなかった。たとえ出来たとして理解したくはない……というのも多分にあったが。
「なるほど……ニャオハが言うことを聞かないとして、その理由が分からない、と」
ミーティングを済ませ、可愛い後輩のアンが連れてきたリコの悩みを聞けばホタルは思案とともに口元に手をやる。
「学校側が意図的にミスマッチをする意味もないからな……」
「そんなの簡単スよ。そいつがヘナチョコで頼りないから。それ以上でもそれ以下でもない」
「ちょ、ドット!」
ズバリ吐き捨てる様にアンが慌てる。
言葉尻にあまり攻め立てる色がないのは、先の1ヶ月の中でドットとは言葉を遠慮で包めないタイプであることを知っていたからだ。
「あはは……それは、そうだと思う」
「それだよ」
ズケズケとした物言いへの力無い苦笑は、消極的ながらその場を収める処世術としてリコがいつしか備えたものだった。
これまで『いい子』を演じるためのいわば防波堤として機能していた反射的な感情の機微である。
「お前、今ボクにコケにされてるんだよ? 悔しくないの?」
「でも、本当のことだし……」
「そんなことだからニャオハだって……」
「はいはいストーーーーップ!!」
俯くリコに対してドットが歯軋りし、さらにヒートアップしかねないタイミングで割って入ったのはマフィンだった。
両手をババッ! と向け、どちらにも制止を促す。最上級生からの待った! の指示は、下級生にとって絶大な威力を持つ。
その効力は、たとえ女子用の制服を着ている変質者といえど変わらないのだ。
『リコ』
10歳。セキエイ学園1年1組所属。
物静かで引っ込み思案なところはあるが心優しく、勉強熱心な女の子。
パートナーとして配布された相棒ポケモンニャオハのことが大好き。