王都大通り、建国祭最終日。
人、人、人。
視界を埋め尽くすのは、色とりどりの衣装と、浮かれた笑顔と、絶え間ない喧騒だった。
レーヴェは、その只中に直立していた。
いや――立たされていた、と言うべきか。
前からも後ろからも、絶え間なく人が押し寄せる。
視界の端では誰かの肘が振り上がり、誰かの肩がぶつかってくる。
足元は踏み固められた石畳で、逃げ場もない。
呼吸をするたびに、胸郭が圧迫される。
吸える空気の量が、じわじわと減っていく。
祝祭の熱気が、拷問に変わった。
(……つらい)
腕には、警備補助を示す白い腕章。
相手は民間人であるために、魔術も使えない。
同様に押し返すこともできない。
ただ、人の流れに耐え、声を張り上げ、無駄だと分かっていても誘導を試みるしかない。
「すいません……! 落ち着いて進んでください……!」
声は、喧騒に飲まれて消える。
誰の耳にも届かない。
「人を押さな、ちょ、押さないで……!」
悲鳴に近い声を上げても、人の波は止まらない。
(……帰りたい)
心の底から、そう思った。
(どうして僕は、こんな場所に……)
隣では、ノイノが満面の笑みで人を誘導している。
「こんにちは〜! そっちは混んでますから、こちらへどうぞ〜!」
声も柔らかく、動きも的確。
身のこなしは流麗で、まるで生まれつきこの仕事をしていたかのようだ。
人々も素直に従い、流れが整っていく。
(……なんであんなに馴染んでいるんだ)
反対側では、ロスティアが独り言とも演説ともつかない声を張り上げている。
「つまり! わたくしが設計した魔導都市計画を採用すれば、祭りの混雑など——」
誰も聞いていない。
だが本人は満足そうに胸を張り、縦ロールを揺らしていた。
人に押され、肘が当たり、足を踏まれそうになりながら。
レーヴェは、心の底からそう思った。
(どうして、こうなるの……)
◇
そもそもの始まりは、昨夜だった。
夜鴉衆の屋敷を制圧し、犯人たちを縛り上げ、騎士団に引き渡した。
簡単な調書を受け、ようやく解放されたのは夜明け前のことだ。
宿はない。
仕方なく賢者会アリシア支部へ戻り、ロスティアと別れてノイノの部屋で眠りについた。
激しくスッキリとした、良い気分で眠れた。
盗人を捕まえた達成感。研究資料を取り戻した安堵感。
そして何より、あの屑どもに報いを与えたという満足感。
それらが混ざり合い、心地よい疲労とともに意識を手放した。
このまま、明日は一日中寝ていよう。
誰とも会わず、何もせず、ただ部屋で休もう。
そう思いながら、深い眠りに落ちていった。
――なのに。
◇
(……ん……?)
意識が、浮上する。
薄暗い部屋。柔らかい寝床。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
ここはノイノの部屋だ。
(……そうだ。昨日、盗人を……)
思い出すだけで、まだ胸の奥に熱がある。
取り戻した。捕まえた。
あの屑どもを、完膚なきまでに——。
(ふふ……いい気分だ……)
このまま、もう少し眠ろう。
勇者の書は午後に見に行けばいいや。
午前中は部屋で過ごして、ゆっくりと——。
——その時。
「ん?」
足元に、淡い光。
床に、魔法陣が浮かび上がっている。
見覚えのある術式構成。幾何学的な文様。
(……まさか)
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
対抗魔術を構築しようとするも間に合わない。
次の瞬間。
——ヴォンッ!
「うわぁっ!?」
視界が反転した。
重力が消え、空間が歪み、身体が引き裂かれるような感覚。
強制転移。それも、問答無用の召喚術式。術者と対象者の間に隔絶した魔力差がない限り成立しない荒技。
レーヴェはなんの抵抗もできずに、転移されてしまった。
一瞬の浮遊感の後、足が床を踏んだ。
「……っ」
レーヴェは、膝をついた。
転移酔いが、胃の奥を掴む。
(うぅ……気持ち悪い……)
呼吸を整えながら、ゆっくりと顔を上げる。
そこは——とても広い一室だった。
重厚な机。壁一面の書架。
窓から差し込む朝日が、部屋の埃を照らしている。
そして、窓際のソファ。
そこに、だらしなく寝そべる女性が一人。
銀髪。紫の瞳。白衣。
スリッパを履き、お茶を片手に、こちらを見ている。
「あ、おはよ〜」
軽い口調。
まるで、友人を迎えるかのような気軽さ。
だが、その顔立ちを見た瞬間。
レーヴェの思考が、止まった。
(……嘘だろ)
レーヴェは知っている。いや、魔術師ならば知らないものは少数だろう。
魔術史の教本に、必ず名前が載っている人物。
大陸中央部で発生した史上最大規模の魔術暴走、「大崩壊」。
大陸の三分の一が消滅するとまで言われた災厄を、たった一人で七日七晩かけて制御・封印した魔女。
賢者会において、最高峰の実力と知識を持つ「四大賢者」の一人。
現状で、エーガスに限りなく近いとされるものの一人。
「セ、セラフィナ・クロイツェル……!?」
「うん、そうだよ〜。僕こそ、このアリシア王国支部支部長セラフィナ・クロイツェル様だ〜」
彼女は、ゆっくりと身を起こした。
お茶を一口啜り、満足そうに息を吐く。
「よく眠れた〜?」
「あ、あの、その……!」
何を言えばいいのか分からない。
なぜ自分が、ここに召喚されたのか。
なぜ、四大賢者の一人が、こんな気軽に話しかけてくるのか。
「ん〜?」
セラフィナは、首を傾げる。
その仕草だけで、部屋の空気が変わった。
淀んでいた魔力が、一瞬だけ、鋭く収束する。
(……やばい)
本能が、警鐘を鳴らす。
目の前の女性は、飄々としている。
だが、その本質は——災厄そのものだ。
「昨日さ〜、派手にやったんだって〜?」
「そ、それは……」
「いやいや、怒ってないよ〜? むしろ偉いよね〜」
セラフィナは、ソファに深く腰を下ろす。
「盗まれて、追いかけて、捕まえて。騎士団にも渡して、ちゃんと調書も受けて。え〜、完璧じゃん〜」
うちの子じゃあ、こんなことできないよ〜。と、なんでもないように笑うセラフィナ。
それがなおさら、恐ろしく感じでしまう。
「……ありがとう、ございます」
「でもさ〜」
セラフィナは、お菓子を一つ口に放り込む。
「騎士団、めんどくさいよね〜」
「……え?」
「いや、だってさ〜。あいつら、形式大好きじゃん〜?報告書がどうとか、手続きがどうとか」
セラフィナは、心底面倒そうに言った。この態度から、彼女が日頃、騎士団に対して不満を持っていることが窺える。
「私もさ〜、朝からお説教されちゃった〜。『賢者会所属の魔術師が王都で暴れた』って〜」
「あ……申し訳、ございません……」
「ん〜? 謝らなくていいよ〜?」
セラフィナは、手をひらひらと振る。
「むしろ、よくやったと思うよ〜。悪人は捕まえるべきだし〜、魔術師の研究を盗むなんて、許されないし〜」
そこまで言って、セラフィナは一拍置いた。
「でもね〜、罰を与えないと、もっと面倒なんだよね〜」
「……罰、ですか」
「そ〜」
セラフィナは、お菓子を一つ口に放り込む。机の上には、空き袋がいくつも転がっていた。ゆっくりと咀嚼し、満足そうに息を吐く。
「でもさ〜、君、私の支部所属じゃないからさ〜」
「……はい」
レーヴェは、小さく頷いた。
自分は、賢者会には所属している。あてがわれた研究室や支部もある。だが、特定の支部に常駐しているわけではない。各地を回り、資料を集め、実験を重ねる——そういった流れの中で、たまたま今はアリシア王国にいるだけだ。
「命令も面倒なんだよね〜」
セラフィナは、だらりとソファに身を預ける。白衣の袖が揺れ、銀髪が肩に流れ落ちる。
「私が直接指示出せるのは、この支部の人間だけだしさ〜。君に何か言うには、本部通さなきゃいけないし〜。書類も増えるし〜」
その口調は、本当に面倒そうだった。だが、その裏にある意図を、レーヴェは察することができない。
「一応ね〜、君の支部に連絡したんだよ〜」
「……!」
レーヴェの背筋に、冷たいものが走った。
(……何を、言われたんだ……?)
胸の奥が、きりきりと痛む。最悪の想像が、次々と浮かんでは消える。
「そしたらさ〜」
セラフィナは、軽い口調で続けた。
「『良いようにしてください』って言われちゃってさ〜」
「……え」
「丸投げだよ〜、丸投げ〜。困っちゃうよね〜」
セラフィナは、心底困ったように言う。だが、その表情には、どこか楽しそうな気配があった。
「どうしようかな〜」
紫の瞳が、じっとレーヴェを見つめる。
その視線は、穏やかでありながら、どこまでも深い。まるで、すべてを見透かしているかのような。レーヴェは、無意識に視線を逸らした。
「ね〜、ノイノから聞いたよ〜」
「……え?」
「君さ〜、勇者の書に興味があるんだって〜?」
その言葉に、レーヴェの心臓が跳ねた。
「……はい」
「集めてるんだよね〜。何冊だっけ〜?」
「……472冊、です」
「すご〜い」
セラフィナは、本当に感心したように言った。だが、その口調は軽い。まるで、子供の趣味を褒めるような調子だ。
「で、今日さ〜。エーガスの書が公開されるんだよね〜。知ってるでしょ〜」
「……!」
レーヴェは、息を呑んだ。
エーガス。賢者会の礎。自分が追い求めている、あの存在の残した記録。それが、今日——。
「見たいでしょ〜?」
「……はい」
正直に答えるしかなかった。嘘をついても、どうせ見抜かれる。
「じゃあさ〜」
セラフィナは、にこりと笑った。
「それ、罰にしちゃえば〜?」
「……え?」
「ほら、『賢者会所属の魔術師が王都で騒ぎを起こした罰として、エーガスの書を視察し、報告書を提出すること』みたいな〜」
レーヴェは、一瞬、言葉を失った。
罰——のはずなのに、それは自分が最も望んでいたことだ。エーガスの書を見る。それだけが、今回の建国祭に来た意味だ。
「……それが、罰で、良いのですか?」
「形だけだよ〜、形だけ〜。罰ってことにしといたら騎士団も納得するしさ〜」
セラフィナは、軽く手を振る。そして何かを思い出したかのようにこちらを見る。
「あ、そういえばね〜」
セラフィナは、立ち上がった。白衣の裾が揺れ、スリッパが床を軽く叩く。窓際から机へと歩み寄り、何かを探すように書類の山をめくる。
「ノイノとロスティアにも、行ってあるからさ〜。二人とも、今日は警備も兼ねて現地にいるし〜」
「警備……ですか」
「そ〜。建国祭、人多いからね〜。賢者会からも何人か出してるんだよ〜」
彼らにはそれが罰だね〜。と呑気そうに口にする。
セラフィナは、書類を一枚取り出した。それを机の上に広げる。
「君もさ〜、一緒に行ってあげて〜?」
「……あの、でも——」
「ん〜?」
セラフィナは、首を傾げる。その紫の瞳が、じっとレーヴェを見つめた。
「なにか問題ある〜?」
「い、いえ……」
言葉に詰まる。拒否する理由がない。いや、理由はある——人混みが嫌だ、疲れている、もう休みたい——だが、それを口にすれば、エーガスの書を見る機会も失われる。
「じゃあ、決まりだね〜」
セラフィナは、満足そうに頷いた。
「えっと、場所はね〜……」
書類を指でなぞりながら、簡単な説明を始める。公開場所、時間、注意事項。レーヴェは、必死にそれを頭に叩き込もうとした。だが、セラフィナの声は妙に心地よく、意識が滑っていく。
「——で、報告書はね〜、後でいいから〜。一週間以内に出してくれれば〜」
「はい……」
「じゃあ、頑張って〜」
次の瞬間。
足元に、再び光が灯った。無詠唱での転移術式の構築。レーヴェは思わず目を見開いた。
事前に魔力の挙動すら、察知ができなかったのだ。転移という繊細な術をこんな簡単に扱うその力。何よりも恐ろしい。
「え、ちょ、待っ——」
「いってらっしゃ〜い」
「うわぁっ!?」
床に刻まれた転移陣が、一瞬で術式を展開する。光が弾け、魔力が渦を巻き、空間が歪む。
重力が消え、内臓が引っ張られる。視界が白く染まり、音が遠のき、すべてが引き延ばされていく。抵抗する暇もない。魔力の流れは完璧で、術式は一切の隙がない。さすがは四大賢者——と、妙に冷静な部分が分析している。
空間が捻じれる。上下が逆転し、左右が入れ替わり、前後が曖昧になる。平衡感覚が狂い、吐き気が込み上げる。
そして——。
一瞬の浮遊の後。
——ドサッ。
「……っ!」
背中から、硬い地面に叩きつけられた。
痛い。すごく痛い。息が詰まる。視界が揺れる。
ゆっくりと、目を開ける。
青い空。白い雲。
そして、耳に飛び込んでくる——喧騒。
ざわざわとした人の声。楽器の音色。露店の呼び声。笑い声。歓声。すべてが混ざり合い、渦を巻いている。
「ここ、どこ……?」
ゆっくりと上体を起こす。
石畳だ。白く磨かれた、王都の大通りの石畳。その上に、自分は転がっていた。
周囲には、人、人、人。
色とりどりの服。祝祭の飾り。建物の壁には王国の紋章が掲げられ、通りには布が渡されている。音楽が遠くから聞こえ、子供たちが駆け回り、露店が立ち並んでいる。
——建国祭。
その、真っ只中。
「……嘘、でしょ……」
レーヴェは、呆然と呟いた。
人の流れが、途切れることなく続いている。前を行く者、後ろから来る者、左右を通り過ぎる者。誰もがレーヴェに気づかず、あるいは気づいても避けて通り過ぎていく。
陽光は容赦なく降り注ぎ、空気は熱を帯び、人が混ざり合っている。
「あ、レーヴェ! 来た来た!」
人波の向こうから、ノイノの声が聞こえた。
見れば、ノイノが手を振っている。賢者会のローブではなく、簡易的な警備服を着ている。腕には、警備を示す腕章。
「遅いですわよ! もう準備は整っていますのに!」
その隣には、ロスティアがいた。こちらも同じく警備服。ただし、縦ロールは健在で、やけに堂々としている。
「え、あ、ちょ、待って——」
立ち上がろうとした、その瞬間。
人波が、押し寄せてきた。
「うわっ!?」
前から、後ろから、容赦なく人が流れ込んでくる。立ち上がろうとした体が、再び押し倒されそうになる。
それを見てノイノが、にこやかに近づいてくる。その手には、腕章が一つ。
「はい、これ着けて」
「え、なに、これ……」
「警備だよ〜。エーガスの書の公開、すごい人だからさ〜。賢者会からも手伝い出してるんだ〜」
ノイノは、レーヴェの腕に腕章を巻きつける。
「頑張ろうね〜」
「え、ちょ、待って、僕、そんな話——」
「セラフィナさんから聞いてない?」
ノイノは、きょとんとした顔をする。
「君も警備手伝ってくれるって〜」
「……聞いた」
「なら、ちゃっちゃとやりますわよ!! 午後までしっかり従事しなくては!!!」
「まぁまぁ、そんなに根を詰めすぎないで。レーヴェもとりあえず立とう、よ!」
ノイノが、レーヴェの腕を掴んで引っ張り上げる。
立ち上がった瞬間、さらに人波が押し寄せてきた。前から、後ろから、左右から。
「うわっ……!」
「大丈夫、大丈夫。慣れるよ〜」
ノイノは、満面の笑みで言った。
(慣れるわけない……!)
レーヴェは、完全に状況が理解できないまま。
建国祭最終日の、人混みの中へと放り込まれたのだった。
読んでくださりありがとう!!
これより、第二部。更新は、できる限り毎日をキープしたいと思ってます。