――ぐずっ。
宿屋の一室に、情けない音が響いていた。
「うぅ……また、偽物だぁ……」
ベッドの端にへたり込み、レーヴェは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
涙と鼻水でぐずぐずになった顔を、ローブの袖で乱暴に拭いながら、手元の書物を見下ろす。
「なんで……なんで毎回それっぽいんだよぉ……!」
声は完全に裏返っている。
村長と会話していた時の理知的な魔術師の面影は、そこにはない。
狭い部屋の床には、本が散乱していた。
無造作に放られ、積まれ、崩され、また放られた痕跡。どれもが似たような大きさで、似たような革装丁をしている。背表紙の色合いも、意図したかのように近い。
――勇者の書。
そう呼ばれてきたものたちだ。
「ちがう……これも違う……あああ、これも……!」
ページを繰り、文字を追い、そして崩れ落ちる。
それを何度も、何度も、繰り返してきた。
通算、472冊。
レーヴェがこれまでに集めた勇者の書の数であり、
同時に――掴まされた偽物の数でもある。
「また偽物? 今回こそはって思ってたのに〜〜」
もしかしたら、見間違いで本物なのでは?
そんな淡い期待をこめて、レーヴェは床に転がった一冊を引き寄せ、開く。
紙面には、古代魔術文字がびっしりと刻まれている。
「はぁ……嘘を書くなよ」
それは、魔術を扱う者にしか読めない文字だ。
形だけをなぞることはできても、意味を理解するには、魔力による読解が必要になる。
だから――。
「あの村長さんに、罪はないんだけどさ……」
そう、ぼそりと呟く。
魔術を扱えない人間にとっては、
そこに書かれているものが「本物」か「偽物」かなど、判別しようがない。
伝承が形となり、文字がそれらしく並んでいれば、それはもう勇者の書なのだ。
「でもさぁ……」
レーヴェは仰向けに倒れ込み、天井を睨んだ。
ぐすっ、と鼻をすする。
「結果として、ぼくはまた……タダ働きなんだよね……」
魔物退治の報酬は、ほとんどが食費と宿代に消えた。
書物の調査を条件にした依頼では、現金は最低限。
むしろ、移動費や資料代のほうがかさんでいる。
手元の革袋を、そっと持ち上げる。
軽い。嫌になるほど軽い。
「……あ、これ」
中身を確認し、数秒の沈黙。
「……やばい。ほんとに、やばい」
所持金は、ここの宿代を払えばほぼ消える。
次の目的地までの移動費も、怪しい。
食事? それ以前の問題だ。
「ぼく、これ。詰んでない?」
レーヴェは再び体を起こし、周囲を見回す。
床に散らばる472冊の勇者の書たち。
「……次こそ本物だって、思ったんだけどなぁ」
泣き腫らした目で、本を抱き寄せる。
これも偽物ではあるが、それでもないよりはマシである。
「研究費もない、報酬もない、成果もない……」
しばらく黙り込み、そして。
「……マジで、どうしよ」
魔術師レーヴェはこの日、人生最大の危機を迎えていた。
◇
レーヴェ・カルドリーチ。
彼は何も、孤高の魔術師ではない。
魔術師という存在は、一括りに語られがちだが、実際にはその在り方によって大きく三つに分けられている。
一つ目は、個人主義の魔術師。
師も組織も持たず、あるいは持っていたとしても距離を置き、自身の関心と探究心のみを拠り所として研究を続ける者たちだ。
成果はすべて自分のもの。失敗もまた自分一人で背負う。
自由である代わりに、支援も保証もなく、才能がなければ早々に行き詰まる。
天才か、愚か者か。その両極端に多いのが、この類の魔術師だった。
二つ目は、実用主義の魔術師。
彼らは研究よりも運用を重視し、魔術を「技術」として磨く。
護衛、軍務、冒険者、あるいは王侯貴族に仕える専属魔術師。
安定した対価と引き換えに、扱う術は洗練され、危険は管理される。
だがその分、深淵に最も遠い立場とも言え、他の魔術師からは見下されることもある。
そして三つ目が、組織に所属する研究者型の魔術師である。
複数人で知識を共有し、過去の成果を蓄積し、理論と実証を積み重ねていく。
一人では到達できない領域へ至るための、最も堅実で、最も遠回りな道。
規律と審査、承認と報告が伴い、自由は制限されるが、その代わりに膨大な資料と環境が与えられる。
レーヴェ・カルドリーチは、この三つ目に該当する。
賢者会。
それは、かつて存在した一人の魔法使い――エーガスを礎として生まれた集団である。
エーガスは、歴史に名を残した最初期の魔術師の一人だ。
勇者を召喚した魔法使い。術理の深奥へと最初に辿り着いた者。
そうした称号は後世の人間が勝手につけたものであり、実像は今なお曖昧なままだ。
だが、確かなことが一つだけある。
彼は、到達した。
神の御業と呼ばれていた現象へ、人の手で辿り着いた。
賢者会とは、その一点を信じ、追い求める者たちの集まりである。
彼らは国家に属さない。
特定の王や宗教に忠誠を誓うこともない。
必要とあらば、国に魔術技術を提供する。
防衛の術式、都市維持の結界、災害対策の魔法体系などなど。
そうして得た資金で、研究と施設を維持している。
だが、どの国家にも縛られることはない。
拠点は各地に点在し、支部ごとに得意分野も異なる。
ある場所では空間魔術を、ある場所では氷結魔術を、またある場所では禁忌に近い分野に踏み込む。
それらを貫く理念は、ただ一つ。
エーガスに至れ。
勇者召喚に限らない。
神聖術でも、魔術でも、異界理論でも構わない。
方法論は問われず、手段も一つに定められてはいない。
重要なのは結果——
かの魔法使いに近づいたか。
人の限界を一歩でも押し広げたか。
そのためなら、互いに異なる理論を掲げ、異なる道を進むことも許される。
むしろ、賢者会はそれを奨励していた。
ただしーー。
その自由を縛るものも、また賢者会自身である。
理念に反した研究。成果を独占し、共有を拒む行為。
あるいは、探究を放棄し、安全や地位に安住する姿勢。
それらは、たとえ同輩であっても排斥の対象となる。
賢者会において、最も重い罪は裏切りではない。
停滞だ。彼らは停滞を許さない。
それは、魔術師にとって唾棄すべきものなのだから。
故に、賢者会は彼らにとって最高の居場所である。
過去の失敗と成功が積み重なった膨大な資料。
一人では到底用意できない実験環境。
そして、同じ地点を目指す研究者たち。
停滞に耐えられぬ者にとって、これ以上ない場所である。
だが同時に、賢者会は組織だ。
慈善団体でも、研究者の隠れ家でもない。
所属する以上、最低限の研究成果が求められる。
それは義務であり、存在証明でもある。
もしそれを為せなければ――。
その先を、わざわざ言葉にする必要はないだろう。
賢者会とは、そういう場所だった。
読んでくださりありがとうございます!!