王都、深夜。
建国祭の喧騒から切り離された場所が、確かに存在する。
昼間の大通りでは、まだ音楽と笑い声が渦を巻いているというのに、ほんの数本路地を外れただけで、世界は別の顔を見せる。
灯りは疎らになり、人の流れは細り、やがて完全に途切れる。
裏路地を幾つも折り、さらに奥へ進んだ先――王国の暗部と呼ばれる区画。
石畳は割れ、隙間には黒ずんだ苔がこびりついている。
排水溝からは濁った水の臭いが立ち上り、生乾きの腐臭と混ざり合って、肺の奥にまとわりつく。
昼間は死んだように静まり返り、夜になってようやく息を吹き返す場所。
表の王都が祝祭で浮かれるほど、こちら側は逆に濃く、重く沈殿していく。
その一角に、一際大きな屋敷があった。
外観は古いながらも手入れが行き届き、壁の漆喰も定期的に塗り直されている。
扉は内側から幾重にも施錠され、外界を拒絶するように固く閉ざされていた。
屋敷の奥の広間には、荒い笑い声と酒の匂いが充満していた。
安酒と脂の混じった空気が淀み、吐息ひとつで喉が焼ける。
長机の上には空になった酒瓶、食い散らかされた肉の骨、脂で汚れた皿。
床にはこぼれた酒が乾いた染みを作り、踏みつけられたパン屑が靴底に張り付いている。
その中央。
ひときわ大柄な男が、椅子を軋ませながら腰を下ろしていた。
「あー、つまんねぇ」
低く濁った声。
彼の名前はドラゴラ。
王都の裏社会で、この名を知らぬ者はいない。
彼は《黒牙連盟》の傘下に属する――《夜鴉衆》の長だ。
屈強な体躯に、岩のような肩幅。
分厚い首は闘牛のそれを思わせ、無骨な顔立ちには無数の傷跡が走っている。
ただ座っているだけで、周囲の空気が一段重くなる。
部下たちは無意識のうちに距離を取り、笑い声も自然と控えめになる。
それほどまでに、この男の存在は場を支配していた。
ドラゴラのしのぎは多岐にわたる。
用心棒、密輸、賭場の管理、情報の仲介。
そして――盗み。
とりわけ王都の宿屋を利用した抜き取りは、派手さこそないが、長年続く堅実な稼ぎ口だった。
だからこそ、最近の不調は苛立ちの種になっている。
ドラゴラは杯を机に置き、低い声で言った。
「……今日の成果は?」
その一言で、広間の空気が締まる。
笑っていた者は口を閉ざし、酒を飲んでいた手も止まる。
数人の男たちが視線を伏せる中、一人が前に出た。
宿屋を任されている下っ端だ。
顔色は土気色で、肩が小刻みに震えている。
「……す、すみません。最近、噂が広まりまして……それで、売れ行きが……」
言い終わる前に。
バキンッ。
ドラゴラの手の中で、コップが砕けた。
ガラス片が机に散り、酒が滴り落ちる。
それだけの動作で、男は縮こまり、喉の奥で言葉を詰まらせた。
周囲の部下たちは、またか、という諦め混じりの表情を浮かべている。
「だから言っただろうが。やりすぎるなと」
声は静かだった。だから余計に重い。
「は、はい……! ……で、ですが! きょ、今日は……その……実りがありまして!」
声音には露骨な媚が混じる。
怒りを逸らすための必死のごますりだ。
ドラゴラは片眉をわずかに吊り上げた。
「実りぃ?」
「へ、へい!」
男は弾かれたように振り返り、奥へ向かって怒鳴る。
「おい! 持ってこい!!」
ほどなくして、別の部下が台座を引き大きな包みを運んできた。
重みで足取りが不安定になっている。
布を乱暴に解くと、中から現れたのは――本。
大量の本だった。
革装丁、羊皮紙、擦り切れた背表紙。
年代も装丁も似通っており、とドラゴラもそれらに見覚えがあった。
「見てください、親分!」
男は声を張り上げる。
「この大量の……勇者の書です!!」
誇らしげに。
まるで宝の山でも掘り当てたかのように。
だが。
ドラゴラは、ちらりと一瞥しただけだった。
興味なさそうに視線を流し、深く、心底面倒くさそうに息を吐く。
「……勇者の書に、本物はねぇ」
「え?」
「こんなもん、王都にゃ掃いて捨てるほどある。それこそ腐る程だ」
ドラゴラは、顎で本の山を示した。
「で?」
視線が、男に突き刺さる。
「お前はこの中に本物があるから言ってんだよな?」
「そ、それは……」
「それならよ。この中に本物があるって根拠はどこだ?」
男が押し黙る。それは悪手であった。
言葉に詰まった瞬間、空気が一段冷えた。
「……まさか」
ドラゴラが、ゆっくりと身を乗り出す。
椅子が軋み、その音だけがやけに大きく響く。
「俺を、騙そうってんじゃねぇだろうな?」
「ち、違います!! そんなことは!!」
男は、必死に首を振る。
だが、ドラゴラの機嫌は、明確に下り坂だった。
その時。
ドラゴラの視線が、ふと、別のものに引き寄せられた。
本の山の下。
無造作に押し込まれた、一冊の小さな手帳。
革表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。
明らかに高価なものではない。だが、他の本とは違い、雑に放り込まれたような違和感があった。
「……なんだ、こりゃ」
「え?」
「そいつの下だ」
男は慌てて本をどかす。
「あ……そ、それですか? いや、その……よく分からなくて……」
「分からねぇ?」
「な、なんか……意味の分からない字が書いてありまして……」
要領を得ない説明だった。
ドラゴラは舌打ちを一つすると、自分で手帳を掴み上げた。
彼に魔術の才能はない。術式も組めないし、魔力も扱えない。
だが、裏の世界で生きる以上、最低限の知識と嗅覚は身につけている。
読めはしない。
しかし――
「……」
ページをめくり、目を細める。
独特の線。
直線と曲線が混在した奇妙な筆致。
意味不明な記号のようでいて、配置には明確な規則性がある。
何か別の文字体系に変換された文字列。
ドラゴラの脳裏に、過去の取引相手の顔が浮かんだ。
「……魔術文字、か」
その瞬間。
ドラゴラの目つきが、完全に変わった。
「……魔術師に、手ぇ出しやがったな」
「え……?」
次の瞬間。
——ゴンッ!!
「がっ――!!」
鈍い音とともに、男が床に転がった。
ドラゴラの拳が、顔面を叩き潰したのだ。
そのまま男へ侮蔑の目を向ける。
「クソが……!」
ドラゴラは、立ち上がり、別の部下を睨みつける。
彼の態度の急変に慌てて部下が問いかけた。
かしら! どうしたんです!?」
「………こいつ、魔術師に手ぇ出しやがった」
ざわ、と空気が揺れる。
魔術師。
それは、裏の世界では面倒の塊だ。
探知、魔力感知、解析。
それらを当たり前に扱う面倒なものたち。
探知自体は使える奴は少ないが、使われれば足がつく。
そして、一度足がつけば、厄介極まりない。
「あ〜、めんどくせぇ。こいつまじぶっ殺してやろうか……」
組織付きの魔術師から、ドラゴラも聞いている。
探知は、繊細で扱いが難しい。即座に追えるものではない。
しかし、見つかればそれは魔力が尽きない限り、一生追い続けられる。
ドラゴラは報告から探知されるまでの時間を試算する。
「……時間的に見て……探知が通るとしても、早くて二日後……いや、三日後か」
それまでに、始末をつける必要がある。
探知されて、追い回されるなど面倒極まりない。
「おい! これ全部、処――」
そう、口を開きかけた――その時。
――――ドォンッ!!!
突如として、屋敷全体を揺るがす爆音が響いた。
壁が震え、天井から埃が落ちる。
酒瓶が割れ、机が跳ねる。
「……ッ!?」
ドラゴラが、瞬時に顔を上げた。
爆音は、一度では終わらない。
続けて、何かが破壊される音が、屋敷の外から響いてくる。
何が起きたのか理解したドラゴラは、舌打ちをした。
「来やがったか……!」
爆音は一度きりでは終わらなかった。
屋敷の外壁が、内側から叩き潰されるように軋み、空気が震える。
「おい、構えろ!! 散開――」
指示を出そうとした、その瞬間。
——ドォンッ!!!
壁が、吹き飛んだ。
石と木材が弾丸のように飛散し、近くにいた部下数人をまとめて飲み込む。
悲鳴は、爆音に掻き消される。その音に隠れるようにドラゴラへと何かが向かってきた。
「――ッ!?」
ドラゴラは咄嗟に腕で顔を庇った。当たった感触はある。しかし、何も起きない。
こけおどしか?そう思ったドラゴラだった。
しかし、次の瞬間。
「……っ!?」
声が、出ない。
喉を震わせても、空気が漏れるだけで何も発せられない。
そもそも空気が吸えない。呼吸ができない。まるで体が呼吸をすることを忘れたようである。
——魔術。
(クソ……! やられた……!! 初手で行動を封じにきやがった!)
ドラゴラは、歯を食いしばりながら、懐に手を突っ込む。
取り出したのは、小さな金属片――使い切りの魔道具。
裏の仕事で生き残るために、常に携帯している保険。
それを、床に叩きつけた。
——パキン。
甲高い音とともに、淡い光が弾ける。
喉を縛っていた違和感が、霧のように消えた。
「……ッ、はぁ……!」
声が戻る。息ができる。すぐに部下へと指示を出そうとする。
と同時に、煙と粉塵の向こうから――声が聞こえてきた。
「やりすぎじゃない?」
軽い、呆れたような男の声。
「悪漢どもには、これくらいちょうどいいですわ!!」
やけに張りのある、高い声が続く。
「……一応、ここに僕の研究資料があるんだけど」
最後の声は、若干高く、少年が青年になる前のような声。
粉塵が、ゆっくりと晴れていく。
そこに立っていたのは——三人。
全員が、ローブ姿。
魔術師の装い。
一人は、堂々と腕を組み、縦ロールを揺らして立っている女。
一人は、やや後ろで周囲を警戒する、体格のいい青年。
そして、中央。
静かに立ち、こちらを真っ直ぐ見据える、若い少年。
ドラゴラは彼らのローブを見て、悟る。
(……賢者会、か)
それは暗黙の了解であり、旅人ですら酒場で耳にする程度には共有された常識だ。
まず、近衛騎士団。
王城を守る剣であり、王国という巨大な獣の爪でもある。
彼らは治安維持のための警備兵ではない。正義の味方でも、市民の盾でもない。
彼らの存在理由はただ一つ――王。
王の呼吸が止まれば、彼らの存在意義も終わる。
王が進めと言えば進み、殺せと言われれば躊躇なく刃を振るう。
必要とあらば、自分自身にすら剣を向ける。
忠誠ではない。信念でもない。
それは、訓練と洗脳と選別の果てに作り上げられた“機構”だ。
白銀の甲冑に身を包み、寸分の乱れもなく隊列を組むその姿は、もはや軍勢というより一個の生命体に近い。
隙間なく噛み合った歯車の集合体。
一人ひとりは人間でありながら、集団になると個体となる。
真正面から敵対すれば終わりだ。
彼らに交渉は成立しない。威嚇も意味をなさない。
彼らは恐怖を学ばず、情けを覚えず、撤退という概念を持たない。
ただ、淡々と前進し、対象を排除する。
もっとも、彼らは王城を離れない。
正確には、離れられない。
彼らは王という檻の中に繋がれた番犬だ。
どれほど凶暴でも、鎖の長さには限界がある。
王都の外へ逃げ切れさえすれば、追撃はほぼ無いだろう。
それが彼らの唯一の弱点だった。
次に教会。
反吐が出るほど純粋な慈愛と信仰心を併せ持つ変態集団。
彼らは微笑みながら他人を救い、同じ顔で自分を壊す。
白衣の下に隠された身体は、グロテスクなまでの縫合痕と祈祷痕だらけ。
奇跡と呼ばれる不可思議な術を行使するたび、骨は軋み、臓腑は焼け、神経は悲鳴を上げる。
それでも彼らは止まらない。
「神の御心ですから」
その一言で、すべてを正当化する。
騎士団が秩序の剣なら、教会は狂信の盾だ。
彼らの内側には常に神意があり、そこから外れた存在は、ただの迷える子羊か、あるいは浄化対象でしかないのだ。
ただし、教会は巨大すぎるがゆえに動きが鈍い。組織は複雑に枝分かれし、意思決定には時間がかかる。兆候さえ掴めれば、準備期間は確保できるし、逃走経路を組み立てる余地もある。
だから——
それらはまだ「最悪」ではない。最悪は別にいる。
この国で、いや、この大陸で最も敵に回してはならない存在。
——賢者会。
理性と狂気の境界線に立ち、理論と災厄を同時に弄ぶ異常者の集団。
彼らは学者であり、術師であり、同時に災害そのもの。
かつて、賢者会を傘下に収めようとした国があった。
当時はかなりの軍事力を持ち、それを背景に周辺諸国へ干渉を繰り返す厄介な国家だった。
やがて、その毒牙は賢者会にまで及ぶ。
研究素材の流通を締め上げ、実験に難癖をつけ、資金を制限し、圧力をかけ続けた。
それでも従わないと見るや、露骨な干渉へ踏み込み、ついには賢者会の術師を拘束し、奴隷同然に使役した。
――それが発覚して、どうなったか。
滅んだのである。
ほんの数時間前まで確かに存在していた国家が、地図から消えた。城壁も街並みも河川も、痕跡すら残らない。文字通り、更地。
住民も兵も貴族も、等しくなかったことにされた。
当然、多くの国々は非難声明を出すかと思われた。
だが現実は逆だった。誰もが沈黙したのだ。誰も彼も見て見ぬふりをした。
思えば当然だろう。
誰も踏みたくはないのだ。眠れる竜の逆鱗を。
それに賢者会は、平時においては実に協力的だった。
魔術理論は外部にも公開し、医療転用や農業改良にも積極的に関与する。
疫病の抑制、水源の浄化、作物の品種改良――彼らの成果に依存している国は少なくない。
だからこそ、その行為は黙認された。
そして今。
ドラゴラの前で、竜が喉を鳴らしている。
瓦礫の向こうで、縦ロールの女が一歩踏み出す。
「さてさて」
楽しげに。そして、あまりにも残酷に。
まるで新しい玩具を前にした子供のような笑みを浮かべて、彼女は告げる。
「覚悟はよろしくて?」
ドラゴラは、後ずさる部下たちの気配を背中に感じながら、ゆっくりと息を吐いた。
絶望が――足音を立てて、やってきた。
読んでくれてありがとうございます!!