――現在より、二時間ほど前。
賢者会アリシア支部、ロスティアの研究室。
壁一面に刻まれた補助陣が淡く脈動し、床に展開された主魔術陣が、ゆっくりと色調を変えていく。
揺らいでいた魔力の流れが次第に整流され、幾何学的な構造を描きながら一点へと収束していった。
空気が、わずかに張り詰める。
術式が最終段階に入った合図だった。
「……来ましたわ」
ロスティアが、弾んだ声で言う。
魔術陣の中央。
立体的に展開された魔力投影の中に、一点の光が灯った。
それは揺らぐことなく、王都の地図上の特定座標に固定されている。
「位置、捕捉完了ですわ! 残滓の波形も安定! 完全に繋がっています!」
興奮を隠しきれない声。
魔術師としての高揚が、そのまま言葉になっていた。
「思ったより、近いね」
ノイノが投影された地図を覗き込み、眉を上げる。
王都南寄り。
表通りから外れ、細い路地が蜘蛛の巣のように絡み合う一帯。
人目が薄く、夜になるほど活動が活発になる場所だ。
ロスティアが勢いよく振り返る。縦ロールが弾む。
「よし、今から行きましょう!! 爆ぜる準備は万端ですわ!!」
「――待って」
制止の声は、意外なほど低かった。
二人の視線が同時に、レーヴェへ向く。
彼は魔術陣から目を離さず、投影図の一点を見据えたまま、静かに続ける。
「今は、行かない」
「えぇ!?」
ロスティアが目を見開く。
「ありえませんわ」という感情が、表情にそのまま出ていた。
「探知は問題なく起動していますのよ!? 逃げられる前に叩くべきですわ!!」
レーヴェはようやく顔を上げる。
その視線はロスティアではなく、地図の周辺区域をなぞっていた。
「人通りが多い。……それに、まだ夕方だ。ここで騒げば無関係な人間が巻き込まれる」
「でも……!」
「探知は、魔力切れが起きない限り続くでしょ?」
ロスティアは唇を噛む。
一瞬だけ、納得しかねる表情を浮かべてから、反論を探すように視線を泳がせた。
「……甘いのではなくて? 待っている間に警戒される可能性もありますわ」
レーヴェは一拍置いた。
それから、ロスティアに告げる。
「……甘いのは、そっちだよ。騒ぎになれば、騎士団が来る」
指先が地図の中央を叩く。
「王都で爆発と魔術戦闘が起きれば、巡回騎士が殺到するだろう」
ロスティアの勢いが、目に見えて落ちた。
「そうなれば、主導権はこっちから離れる。犯人を捕まえる前に、“事件”として処理される。……僕はね。盗人を捕まえたいんだ」
レーヴェは淡々と続ける。
「別に、騒動を起こしたいわけじゃない」
魔術陣に浮かぶ一点の光を見つめる。
「探知は、魔力が切れない限り続く。位置は固定され続ける」
だから。
「夜まで待つ」
「……夜であれば、闇夜に乗じて逃げられるのでは?」
ロスティアの疑念に、レーヴェはゆっくり首を振った。
空気が一瞬、張り詰める。
「逆だよ。夜なら人の流れが減る。騎士団の初動も鈍る」
感情のない声。
「屋敷を包囲する。幻覚で周囲の視線を逸らし、結界で逃げ道を潰す」
ロスティアの目が、わずかに開いた。
「……全員、捕まえる」
その言葉には怒りがあった。
だが激情ではない。
計算された、冷たい意志。
「絶対に、誰一人逃さない」
「……なるほど。騎士団を呼ばせないため、か」
「うん」
レーヴェが頷く。
ノイノも小さく息を吐き、理解を示した。
「絶対に邪魔されたくない」
それだけで十分だった。
ロスティアは数秒考え込み、やがて笑みを浮かべる。
「……分かりましたわ。では、騒音と視線、両方を潰しましょう」
「できる?」
「もちろんですわ!」
ロスティアは即座に棚を漁り始める。
ゴソゴソと棚から魔道具が溢れてきた。
「沈黙用の魔道具、幻覚補助、簡易結界……あら、全部ありますわね」
「……なんでそんな揃ってるの?」
「爆発すると、どうしても苦情が来ますでしょう?」
「「なるほど……」」
二人は同時に納得した。
レーヴェは小さく咳払いをして、空気を切り替える。
「ノイノ。魔道具の調整を手伝ってほしい」
「はいはい」
「騒音遮断は外周、幻覚は通り沿い。逃亡防止の結界は屋敷を囲む形で」
「調整に少し時間が要りますわね」
「そう?夜までで十分でしょ?」
「お願いね。なんとしても間に合わせるよ」
二人の返答と同時に作業が始まる。
レーヴェは再び魔術陣を見る。
光は、まだそこにある。
逃げ場は、すでに失われている。
(今のうちに楽しんでおけばいいさ)
それが、最後の晩餐になるのだから。
――そして、時間は進み。
絶望が、足音を立ててやってきた。
◇
――現在。
瓦礫と粉塵が、ゆっくりと落ち着いていく。
崩れた壁の向こう。
破壊された屋敷の中心に、三人の魔術師が立っていた。
沈黙の結界が、屋敷全体を覆っている。
外界の音は遮断され、悲鳴も、衝撃も、外には一切漏れない。
同時に張られた幻覚結界が、周囲の通りからこの屋敷の存在感を削ぎ落としていた。
――ここで何が起きようと、誰にも知られない。
「……」
ドラゴラは、煙の向こうに立つ三人を睨みつけた。
ローブ姿。
その佇まいだけで、相手が何者かは理解できる。
(賢者会……)
最悪のカードを引いた。
しかも三人。
その中で、一歩前に出たのは、縦ロールの女だった。
「あなたですのね!!」
やけに通る声が、静寂を叩き割る。
「レーヴェの大切な研究資料を盗んだ、卑劣極まりない悪漢は!!」
指を突きつけ、堂々と宣言する。
その怒りを隠そうともしない。
「盗人にしては随分と立派な屋敷ですこと! 趣味が悪いですわ!!」
「……」
ドラゴラは、一瞬だけ目を細めた。
そして、ゆっくりと――
両手を上げた。
「待て」
低い声。
だが、先ほどまでの余裕はない。
「落ち着け。俺は……知らなかった」
部下たちがざわつくが、ドラゴラは構わず続ける。
「部下が勝手にやったことだ。魔術師だと知ってりゃ、止めてた」
視線が、中央の若い魔術師――レーヴェに向く。
「盗ったもんは、返す」
言葉を選びながら、慎重に。
「それだけじゃねぇ。補填もする」
中央に立つ、黒髪の青年――レーヴェが、口を開く。
「……たとえば?」
感情は、乗っていない。
問いかけは、あまりにも平坦だった。
それが、かえって恐ろしい。
ドラゴラは、内心で歯噛みした。
(何を出せば、納得する……)
魔術師だ。
金では足りない。
魔術媒体。
希少な触媒。
高位の魔導書。
(……いや)
一つ、思い当たる。
「……勇者の書はどうだ」
その言葉に、ノイノが――吹き出した。
「ぶっ……!」
「……?」
ドラゴラが眉をひそめる。
「俺の親元ならな。王都中に流れてる勇者の書を、まとめて――」
「……あははははっ!!」
ノイノが、噴き出した。
肩を震わせ、耐えきれないように。
「……なに笑ってやがる」
ドラゴラが苛立ちを滲ませる。
ノイノは目元を押さえながら、肩をすくめた。
「いや、ごめんごめん。でもさ、ふふっ……」
ちらりと、レーヴェを見る。
「レーヴェ。君は意地が悪いなぁ」
呆れと納得が混じった声音だった。
レーヴェは、鷹揚に頷いた。
「……そうだね」
一歩、前に出る。
表情は、凪いでいる。
怒りは、もう表に出ていない。
「悪いけど、君たちの選択肢は、最初から二つしかない」
ドラゴラの背筋に、冷たいものが走る。
「抵抗するか」
「無抵抗で、甚振られるか」
言葉には、感情がない。
だからこそ、冗談ではないと分かる。
「……返すとか、補填とかさ」
「そういう交渉は、君たちが対等な時にするものだ」
ドラゴラの歯が、ぎり、と鳴った。
「交渉の余地もねぇってか」
「ありませんわ!!」
ロスティアが、満面の笑みで答えた。
「あなたは、魔術師の研究を踏みにじりましたもの!!」
「それだけで、万死に値しますわ!!」
ドラゴラは、歯を噛み締めた。
(……こいつら)
「……利益も理解できない異常者どもが」
低く吐き捨てる。
次の瞬間。
ドラゴラは、拳を握りしめた。
「やれ!!」
怒号と共に、部下たちが動き出す。
刃が抜かれ、魔道具が起動する。
屋敷の中に、戦闘の気配が満ちた。
ロスティアが、楽しげに笑う。
「では――」
縦ロールが、大きく揺れた。
「派手にいきましょうかしら!!」
ノイノが、地を蹴る。
レーヴェは、手に持つ手帳に魔力を収束させた。
こうして、交渉は完全に決裂した。
王都の暗部で、悪党と狂気が真正面から激突しようとしていた。
読んでいただきありがとうございます!!