人の声が鳴き声だったころ   作:ネギ市場

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 ※人のいない世界で、犬が一日を過ごす静かな短編です。
 
 ※明確な救いやカタルシスはありません。


人のいない世界で、犬は

 朝は来ていた。

 人はいなかったが、朝は来ていた。

 光が建物の隙間に落ち、割れたガラスに反射する。

 風が吹き、乾いた匂いと、かすかに残った油の匂いが混ざった。

 街は壊れていない。ただ、動かなくなっただけだった。

 

 犬は床の上で目を覚ました。

 身体を起こし、前足を伸ばす。

 その拍子に、足元の紙を踏んだ。

 乾いた音がした。

 以前も、似た音はあった。

 だがそのときは、音のあとに、別の音が続いた。

 高く、短く、強弱のある鳴き声。

 犬はそれを、人の声として区別していなかった。

 ただ、鳴き声の一種として覚えていた。

 今は、音だけが残る。

 

 犬は気にせず、もう一歩踏み出す。

 紙は足の下でずれ、止まる。

 首のあたりが軽い。

 かつてそこには輪があった。

 外れないもの。

 鳴き声が近づくと、触れられることが多かった。

 今はない。

 だから鳴き声も、ない。

 

 腹が鳴った。

 空腹は分かりやすく、優先順位が高い。

 犬は歩き出す。

 床に落ちた小さな物を踏む。

 硬いく、そして冷たい。

 どれも噛むものではない。

 自動給餌器の前で、犬は立ち止まらなかった。

 座らず、待たず、コードを踏んで通過した。

 足裏に、張りのない感触。

 以前は、この近くで鳴き声がした。

 短く、繰り返される音。

 そのあとで、食べられる粒の匂いが落ちてきた。

 今日は、音も匂いもない。

 犬は近くにあった袋を咥え、外へ向かう。

 ドアの前に落ちていた布を踏む。

 柔らかいが、温度はない。

 鳴き声はしない。

 

 ドアは半分開いていた。

 犬は敷居を踏み越えた。

 外は広いく、匂いが多い。

 交差点に出る。

 白い線が地面に残っている。

 犬はその上を踏んで進む。

 以前、ここで鳴き声は止まった。

 強い音と、光と、低く続く唸り声のような鳴動。

 

 犬は止まらない。

 白も黒も、同じ地面だった。

 動かない箱の横を通る。

 金属の匂い。

 熱はない。

 踏む理由はない。

 

 公園に入る。

 草が伸び、土が露出している。

 犬は落ちているボールを踏んだ。

 丸いものが転がり、止まる。

 以前、これが動くと、高い鳴き声があった。

 短く、弾むような音。

 

 犬は追わない。

 草の匂いのほうが新しい。

 ベンチの近くを通るとき、犬は猫とすれ違う。

 互いに踏み込まない。

 

 地面に落ちた細い棒を踏む。

 乾いた音。

 意味はない。

 

 建物の中に入る。

 影が多く、匂いが古い。

 床に、紙が一枚落ちている。

 犬はそれを踏む。

 紙が沈み、止まる。

 紙の上には、色が残っている。

 犬には、それが何か分からない。

 匂いは薄い。

 鳴き声もしない。

 

 犬は振り返らず、進む。

 階段を上がる。

 一段ずつ、踏む。

 音が返る。

 かつて、この音の合間に、鳴き声が混ざった。

 低く、長い音。

 撫でる前の音。

 今は、音だけだ。

 

 屋上に出る。

 風が強い、毛が揺れる。

 犬はコンクリートに伏せる。

 冷たいが、悪くない。

 風が、首のあたりを通る。

 触れるが、掴まない。

 犬はそれを、鳴き声とは認識しない。

 

 太陽が傾く。

 犬は立ち上がる。

 割れた敷居を踏み越える。

 内と外の境目。

 犬は、それを境目だとは思わない。

 草の多い場所へ向かう。

 水の匂いがある。

 影がある。

 鳴き声は、ない。

 だが、問題はなかった。

 犬は歩く。

 踏む、進む。

 人の営みは、犬の足の下に残っている。

 それを、気にする必要はなかった。

 

 今日も一日が始まる。

 人のいない世界で。

 犬は、今日もただ、生きていた。







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