人の声が鳴き声だったころ   作:ネギ市場

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翼と影

 

 

 鳥は高いところにいた。

 信号機の上、色の変わらない灯りの横で、羽を畳んでいる。

 翼を広げると、空気を切る音がした。羽は大きく、風に揺れる。

 地面には若い犬が歩いている。

 紙切れを踏み、線を踏み、迷わず進む。

 鳥はその足跡に触れられない。

 翼を広げても影は届かず、嘴は警告の形をして、近づくものを遠ざける。

 

 鳥は孤独だ。

 何かを求めるでもなく、誰かに触れようとするでもない。

 ただ、空にいて、過去の痕跡だけを映す。

 羽が揺れ、鋭い嘴が光る。

 存在は目立つのに、誰も近づけず、干渉しない。

 世界の一部であるように見えて、孤立している。

 地面の犬は紙を踏み、匂いを吸い込み、歩く。

 足跡は短くなり、影は風に散る。

 鳥が空にいても、何も変わらない。

 孤独な過去を映すだけだ。

 

 老犬は地面にいた。

 伏せているのか座っているのか、境界は曖昧だ。

 冷たさも、空気も、身体の一部のように溶け込む。

 老犬は伏せたまま、しばらく動かない。

 動かないというより、動く理由がない。

 地面の冷たさは、最初は輪郭を持っていたが、次第に境目を失う。

 冷たいとも、硬いとも言えなくなる。

 重さだけが残り、その重さも、身体のものか地面のものか分からなくなる。

 

 風が通り過ぎる。

 音があったはずだが、どこから来たのかは分からない。

 匂いも、湿り気も、空気の揺れも、同じ層に重なっている。

 老犬はそれを受け取らない。

 ただ、そこに含まれている。

 時間が進んだのか、止まったのか、判断する必要はなかった。

 

 歩き、立ち、伏せる。

 速度も形も、意味を持たない。

 匂いも、音も、区別できない。

 鳴き声も、過去の記憶も、老犬の中では形を持たない。

 

 境界が消え、未来と一体になる。

 足元の紙も、濡れたアスファルトも、溶けるように混ざる。

 若い犬は遠くへ行く。

 老犬は何かを追わず、止めず、ただ世界に含まれる。

 鳥が影を落とす高みを越え、老犬は地面に溶ける。

 すべてが混ざり、区別がなくなる。

 未来は、老犬の中に静かに広がる。

 

 立ち上がる。

 その姿はかつての自分を映さず、衰えも失うも示さない。

 ただ、世界と一体になった存在を示すだけだ。

 匂いも、音も、足跡も、境界も、溶ける。

 

 鳥は遠くにいて、羽を広げ、嘴を光らせる。

 老犬は地面に溶け、影を消す。

 両者は触れず、重ならず、交わらず、それでも世界は続く。

 

 雨が降り、ネオンは建物の壁に反射する。

 紙くずは濡れ、アスファルトに散らばる。

 過去の人の営みの痕跡が、風に揺れ、静かに動く。

 鳥も老犬も、誰も干渉しない。

 それでも、すべてが存在し、すべてが溶け、すべてが並行する。

 老犬は未来の一部として溶け込み、鳥は孤独な過去を映す。

 翼も足跡も、境界も、すべてが消えかけている。

 それでも、世界はそこにあり、静かに続く。

 

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