二◯一八年一◯月一三日早朝。
◯◯県、◯◯市の運営する自然公園を見回っていた補助監督が特異な残穢を発見。
照合したところ、『特級呪物』の残穢と判明。
『特級呪物』の残穢の痕跡から更に細かく解析した結果、その呪物の特質は『空間を歪曲させ人を失踪させる』ということが新たに判明した。既に◯◯県◯◯市の村が、呪詛汚染による人的被害が発生している。突如として◯◯市の村で異常気象が発生。◯◯市にある村が蒼色の閃光に包まれ、叫び声と爆音が響き渡り、眩い光に包まれたかと思うと、付近にあった村が崩壊。
不特定多数の村民の行方不明者が続出。
速やかにこの『特級呪物』を捜索し、回収することを命じる。
◇◆◇◆◇◆◇
「それを? 俺だけで?」
「そ! 頑張ってね“悠仁”!」
そんな呆けたような少年の声が一年生の教室に静かに木霊する。
首を傾げてそう言ったのは薄茶色の短髪頭の少年、“虎杖悠仁”。
そしてその疑問に対して返事をするのは、白髪に黒い目隠しで隠すという中々の不審者っぷりを醸している風体をした虎杖悠仁の担任である“五条悟”。
虎杖は暫くの間悩んだが、任務である以上やる気を出し、元気よく返事をする。
「おっす! 気張って行きます!!」
そんな自分の担任の言葉にやる気を出すように鼻を鳴らす虎杖悠仁に対し、五条悟に口を挟むのが二人。
「ちょッ!? なんで、虎杖だけなんですか!? 『特級呪物』の回収なら複数人で向かうのが普通でしょう!?」
「そうよそうよッ! こいつ放っておくと今度は確実に死ぬわよ!? ガチで死ぬわよ!? 深夜で通り魔事件に会うくらいの不幸力で死ぬわよ!?」
「お前ら·······そこまで言うかぁ?」
傷ついた。
そんなしょぼんとした表情をしている本人を無視して抗議する二人、“伏黒恵”と“釘崎野薔薇”に対し、『まあまあ』と五条悟は諫めながら続きを話していく。
「今回回収する『特級呪物』は恵が六月頃に回収に向かった『宿儺の指』同様に“魔除け”として封印のお札が貼ってある。確かに被害は既に出ているけど、『宿儺の指』よりも呪力が弱い。『特級』って言われてるけど、実際は『特級』と『一級』の境目ぐらいの中途半端なヤツらしいから、悠仁一人だけでも事足りると僕が判断したんだ」
「だからって·······危険すぎるでしょう」
「こいつ、七月に宿儺に体乗っ取られて心臓抜き取られて一度死んでんだぞ。一人にしたらどうなるかわかったもんじゃないわ」
「だからその辺も心配はいらないよ。補助監督として“伊地知”も同行させることになってるし、それに僕も一緒に付いて行くつもりだから、二人とも安心して!」
“伊地知潔高”。
呪術高専東京校の補助監督であり、細身で頬が痩けているから頼り無さそうに見られるが、任務をサポートするにあたってはプロ級の実力がある。
「はいはぁい! というわけで! それじゃあ早速任務について説明するからね悠仁。まあいつもの三人で任務をするわけじゃないから、油断だけは決してしないでね。だから今回は単独任務として······『一人の呪術師』として、経験を積んできてね!!」
「おっす! 五条先生! 俺頑張るよッ!!」
気合十分。
意気軒高。
そうして、伏黒と釘崎に見送られながら、虎杖は五条と共に教室を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇
場所は移り変わり、伊地知潔高の運転する車内。
後部座席で五条の隣でくつろいでいた虎杖は、運転席にいる伊地知に話しかける。
「そんで伊地知さん? その『特級呪物』ってどんなヤツなの?」
「報告書によれば、自然公園にある原生林に入る遊歩道の左手、少し斜め坂を登ったところにひっそりと佇んでいる六角柱の上に置かれている地蔵の中にその『特級呪物』が隠されているようです。仏頭が丸彫りしてあるため、すぐに見つかると思いますよ」
「ふ~ん·······」
と、適当に返して夜景の綺麗な公道を走る黒塗りの車の中で平然としている虎杖は、隣にいる五条悟にも質問する。
「五条先生はほとんど何もしない感じなの?」
「そうだねぇ。今回の任務はあくまで
そう言いながら窓の外を眺める五条悟。
虎杖達を乗せた黒塗りの車が◯◯市の自然公園の前で停まると、五条が時計を気にしながら虎杖に忠告する。
「とりあえず言っとくけど、あんまり騒ぎを起こしちゃダメだよ? 仏像の中に隠されてるらしいからぶっ壊して取り出すしかないけど、乱暴にやりすぎるとうっかり封印が解けて『呪霊』が山のように押し寄せて来るかもだから、慎重に壊してね!」
「·······うっす」
道徳心の欠片もないことを言って見送る五条。
彼は軽い挨拶だけして後部座席のドアを開けて外へと出ると、呆然としながらハンドルを握る伊地知にも向かって手を振って自然公園の中へと入っていく。
暗い木々の中へと消えていく虎杖悠仁を見送った二人は、車の中で会話を交わす。
「しかし、良かったのですか?」
「ん? 何が?」
「虎杖君一人に『特級呪物』の回収を任せてしまって。『宿儺の指』よりも呪力が弱いとはいえ、万が一封印が解かれて大量に『呪霊』が襲いかかってきたら、さすがの彼でも厳しいのでは?」
「······大丈夫でしょ。前に『二級呪術師』の恵にも『宿儺の指』の回収を任せたこともあったし。その時の悠仁は呪力がなかったのに『呪霊』に対して応戦した。あの子の戦闘能力は『準一級』並だよ。だから任せても平気平気······それに──────」
心配そうに問いかけた伊地知に両目をアイマスクで覆い隠す五条は微笑んでいた。
確かに、彼の身体能力は人間を遥かに越えている。五◯メートルを三秒で走る脚力を持ち、重い砲丸をピッチャー投げして三◯メートル弱あった距離にあるサッカーゴールのポストをへこませる程の力がある。
それに。
なんたって彼は。
「あの子は史上最強最悪の呪いの王、『両面宿儺の器』だもんね」
◇◆◇◆◇◆◇
夜の暗い木と木の間に、虎杖悠仁は佇んでいた。
ここにある森林は全て水栽培技術を応用して作られた自然公園なのだが、その中でも大分昔から神を祀る小規模な殿舎、地蔵が収まっているであろう祠の前に彼は立っていた。
自然公園であるためあまり維持費をかけていないのか、ライトアップも疎らな闇の中に、小さな四角い光がある。
虎杖悠仁の持っているスマートフォンだ。
話し相手は五条悟。
「あ! 先生? それっぽいのあったよ。やっちゃっていい?」
『うんいいよー。けど取り扱いには充分気を付けてねぇ~?』
五条悟が電話の向こうで笑った声で応えた。
その声に応えるように、虎杖悠仁はまず古びた殿舎の扉を開けた。そこには苔が生えた地蔵が静かに目を瞑っている。
それを見た虎杖は容赦も加減もなく、
「ふんッ!!」
ドゴォッ!! と。
その場にあった地蔵を右手拳のみで粉砕した。
すると、
「お!」
中から『摧魔怨敵』と刻まれた札が貼られている箱が出てきた。
それを手に取り、中を開けてみると········
「········ナニコレ、『
それは一◯センチにも満たない何の変哲もない石だった。菱形のような形をしていて、全体的には青く、中にはローマ数字のようなものが刻まれていた。しかし外国の歴史や文化に対してそこまで詳しくない虎杖には何の数字が書かれているのかわからなかった。
とりあえず、目的のものを回収出来たことを知らせるためにポケットからスマホを取り出そうとした、その時。
大きな音によって彼の行動は遮られた。
原因は大気。
闇の色に紛れるように、何かがチカッと瞬いた。
それは常人の感覚器官では捉えられないほど小さな光。虎杖はそこに危険を察知すると、すぐさま飛び退き一歩引き下がる。空気がひとりでに渦巻き、つい先ほどまで虎杖の立っていた空間が地面ごとまとめて抉られて削れて消えていた。
奇怪な現象に眉を顰める虎杖は、やがて一つの予測を立てる。
(······
少なくとも何者かからの攻撃だろう、そう考えた虎杖は『謎の石』を掴んだまま見えない魔手に警戒していると、今度は自然公園に生えている木々に異変が生じた。
周辺の茂みからガサリという葉の擦れる微かな音が聞こえてきた。目を走らせれば木々の合間から茸のような頭を生やした『化け物』がいる。
『まぁもなあああく、さんばぁんせぇぇえんにぃぃいいい』
「お出ましってか······ッ!!」
『きょぉうのぉおおおお、おてぇんきはぁぁぁあ』
少し離れた所からは別種の鳴き声が聞こえてくる。それを確認した虎杖は、笑いもしなかった。
(この『呪物』の気配に寄ってきたか)
彼は拳を構えて言う。
「さっさとかかって来い。まとめて相手してやるッ!!」
声に応えるように、化け物の集団が襲い来る。
夜の自然公園の一角で、虎杖悠仁を中心に複数の影が取り囲む。無数の巨体が襲い掛かってきた。肉眼では見えないほどの素早い動きで、虎杖を潰そうとして来る。
しかし、虎杖は怯まない。
両手を強く握り締める。
拳に篭る負の感情。
虎杖は向かってくる化け物の動きに合わせ、握った右拳を全力で叩きつける。
「ハアッ!!」
通常のパンチとは違い、打撃と呪力を組み合わせた必殺技。
一撃一撃が重く、弾丸並みの拳を放つ。素の力が人間離れしていて、初撃が少ない呪力ながら並の術師の一二◯パーセント成立している。
こいつらは精々四級から三級といったレベルの呪霊。拳銃程度の攻撃で倒せるほどの呪霊など、彼にとっては雑魚同然。
襲い来る巨体を避け、呪力の篭った拳を炸裂させて即座に『呪霊』を祓う。それを繰り返すことで、虎杖は一息で包囲網を突き抜け、彼の拳が槍のように『呪霊』達に突き刺さる。
『呪霊』共は、燃え盛る炎の炭のように宙へと消えていく。
だが、ここで一つ問題が生じる。
「五条先生の言った通り·······山ほど出てきたな······ッ!!」
数が半端じゃなかった。
自身の体力的に考えてもまだ戦う余裕はあるが、さすがに多すぎる。
(これだけの『呪霊』、どっから沸いてきてんだよ·······つか、五条先生は!? さすがにこれだけの量が出てきたら気配読み取って異常発生したってわかって助けに来ない!? 普通ッ!?)
そう心の中でツッコむ虎杖。
だがそう考えても状況は覆らない。何匹も沸いてくる『呪霊』相手に素手で挑む彼はそれだけで凄いと思うが、“帳”さえ下りてないのに異常事態が発生したことに気付いていない自分の担任に疑問を抱く。
虎杖だけで対応できるから敢えて放っておいている?
もしくは、本当に単に気付いてないだけか?
どちらにせよ、これでは切がない。
一度引き下がって五条悟の元へと合流するのが一番の得策だが、何匹も沸いてくる『呪霊』に追いかけられて逃げ切れるかどうかわからない。たとえ車並みのスピードを出せたとしても、奴らはしつこく追ってくるだろうし、逃げた先からも沸いてくるだろう。
それら全てを相手にしながら五条悟の元まで行くのは少々手間がかかる。
そう虎杖は判断し、
(
そう、頭の中で考えた時だった。
ドクンッ!! と。
心臓が脈打つような音が、虎杖の左手拳から鳴り響くと同時、
ズボンッ!! と。
「ぐおっ···········!?」
まるで落とし穴に落とされたような衝撃に、虎杖は疑問を抱く暇もなく。
そのまま、
◇◆◇◆◇◆◇
「······ッ!?」
黒いアイマスクの奥先にある、五条悟が保有する『特殊な瞳』が、とある気配を感じ取った。
········いや。
(消えた!?)
両目を隠している状態でも、建造物など呪力の無い物も呪力の流れや残穢を視認することで、周囲の空間を把握できる五条悟は、ここでようやく異変に気付く。
つい先ほどまで感じていた、
それを感じ取った五条悟は、車のドア開閉など気に留めず、金属製のドアを容赦なく道路へ弾き飛ばす。
伊地知は思わず叫んだ。
「ちょ!? 五条さん!?」
「伊地知! 異変が起きたッ!! すぐに向かうッ!!」
言うだけ言うと、五条悟は車のドアを蹴り飛ばした罪悪感などなく、躊躇うことなく車から外へと飛び出した。
もはや空中を飛んでいるのではないかというぐらいの速さで虎杖の安否を確認しに行く五条は、眉間に皺を寄せながら疑問を抱く。
(気付かなかった········? この僕が······ッ!?)
と考えたものの、直後に違和感が生じた。
今は夜の一◯時過ぎ。
確かに主要な交通機関は眠りに就いている。時間帯によっては道路の交通量が変化する事自体は珍しくもなんともない。しかもここは自然公園。こんな気味の悪い場所でジョギングする人など一人もいないだろう。
しかし、
その眼は青く水晶のように光っていた。
眼球を思う存分に使って周囲の状況を把握しようと試みる五条は、そこである異変に気が付いた。
(
こんなことは今までなかったはずだ。
恐らく、虎杖悠仁がいたであろう祠の場所までやって来た五条だったが、そこには何の変哲もない自然な風景だけが残されていた。
悠仁が電話口で見つけたという祠らしきものすらも、そこにはなかった。
普通なら何か手がかりとなるものが一つでも残されているはずだが、五条悟の眼を以てしてもその跡すら掴めない。
「どこに消えた·········悠仁ッ!!」
五条は奥歯を噛む。
どれだけ探し回ろうが、足跡一つすら見つからない。
虎杖悠仁が突如として消えたという事実だけが、その場には残されていた。
◇◆◇◆◇◆◇
とある一軒家にて。
少女は車椅子に腰掛けたまま、居間の入口付近に置いてある電話機の留守番電話のボタンが何度も点滅しているので、人差し指でゆっくりと押す。
『留守電メッセージ、一件です』
平坦な機械音声が聞こえてきたと思ったら、ピーッと言う音を鳴らして、その次には優しそうな明るい女性の声が少女の鼓膜を揺らす。
『もしもし? 海鳴大学病院の“石田”です。明日は、“はやて”ちゃんのお誕生日よね? 明日の検査の後、お食事でもどうかなぁって思ってお電話しました。明日病院に来る前にでも、お返事くれたら嬉しいな。よろしくね』
聞き取りやすい、ゆっくりとした口調で話しかけてくる電話の録音機から発せられる電子音は、ピーッと言う音が再び鳴らすと共に『メッセージは、以上です』という言葉を最後に切れた。
「······」
少女は口角を僅かに上げ、車椅子の車輪を回転させながら、寝室へと向かった。
彼女は重い足を引きずりながらベッドに横たわると、今日本屋で買ってきた新しい本を読むためにベッドサイドランプの電源を入れて、最初の一ページを開く。
一気に三冊も買ってしまったためか、それを読破するために真剣に書かれている文字を眼で追いかけ、気が付けば時計の針は深夜の零時を指そうとしていた。
「あ、もう一二時········」
チッ、チッ、チッ。
カチッ。
秒針が時針と分針と重なりあった、その時だった。
パァァァァッ!! と。
少女の背後にある本棚から、『鎖のついた一冊の本』が、不思議な輝きを帯びていた。
「は·······!?」
少女は本能的な背筋の震えに加えて、部屋全体を揺らすほどの地震が起きる。
「うわっ!?」
激しい揺れに思わずベッドから滑り落ちる。
そして。
本棚に置かれていた『鎖のついた本』が少女の方に向かって浮遊し、まるで筋肉が膨張して破裂しそうなほどに固く閉ざされた鎖を解き放とうとしていた。
そしてついには。
バギン! と。
凄まじい衝撃と共に本を閉ざしていた鎖が砕け散ると、何枚もの白紙のページが凄い速さで勝手にめくられる。
本棚を作っている木の板がまとめて爆ぜ割れ、バラバラと大量に買い溜めていた本が落ちる音が響く。少女の全身の関節も砕けてしまいそうな痛みに襲われる。
ガチガチと震え、ともすれば崩れ落ちそうな胴体を両腕で固定してかろうじて姿勢を保っている少女は、めくられる白紙のページを一つ一つ眺めながら、聞き慣れない、一つの声が響き渡った。
『Ich hebe das Siegel a』
その言葉を最後に本は最後のページまでめくられて、バン! と勢い良く閉ざされると、本の表紙と思われる『金色の十字架』部分を少女の方へと向け、また一言言葉を告げる。
『Anfang』
◇◆◇◆◇◆◇
時は進み、
海鳴市、市街地。
日は完全に落ちて、星空の光と街の明かりが上空を照らす。その高度八◯◯◯メートルの場所で、『赤い服を着込んだ幼い少女』が、『青い毛皮の狼』と共に立っていた。
「······」
少女は右手にハンマーらしきものを、そして左手には『金色の十字架が刻まれた本』を一冊抱えて、眼を閉じて集中していた。
高度八◯◯◯メートルの空は、夜の暗さをひたすらに強く表していた。
雲はなく、冴え渡るような月と、その周囲に無数の星が散らばっている。雲の層がここよりも下にあるため、そもそも天体を隠すものが存在しないのだ。
「どうだ“ヴィータ”······見つかりそうか?」
そう背後にいる『青い毛皮の狼』が訊ねると、“ヴィータ”と呼ばれた少女は超高空の薄い酸素を吸って、何かの気配を感じ取っている。
「いるような········いないような·······」
そんな曖昧な答えしか返せなかったヴィータと呼ばれた少女は、ズシリと重たいハンマーを担いで言う。
「こないだっから時々出てくる妙に巨大な魔力反応········アイツが捕まれば、一気に二十ページくらいは行きそうなんだけどな」
「······別れて探そう。『
「オッケー、“ザフィーラ”。アンタもしっかり探してよ」
「心得ている」
瞬間。
ザフィーラと呼ばれた青い毛皮の狼は、自身の体を消させるほどの速さで去っていった。
そして少女は右手に握っていたハンマーを振るうと、彼女の足元に
「封鎖領域、展開」
その声に応えるように、右手に握っていたハンマーが理解できない言葉を放つ。
『Gefängnis der Magie』
直後。
上空にいる少女を中心に、禍々しい色をした球体が広がっていく。
それはいずれ遥か下にある街全体を呑み込み、市街地を歩いていた人間も、交通機関も、光に当てられた瞬間に消え去っていった。
◇◆◇◆◇◆◇
屋敷、と言ってもいい家の二階で。
また『別の少女』が宿題ノートにペンを走らせ、次々と課題を終わらせていっていた。
そこに。
『Caution·········Emergency』
「え?」
少女の宿題ノートの隣に置いてあった『赤い小さな宝石』が流暢な英語で少女にそう警告した。
その言葉に反応した少女はペンを一度止めると同時に、
ブワッ! と。
禍々しい色をした大気が部屋の中へと侵入してきた。
「これは·······結界!?」
少女は机から立ち上がると、外の風景が良く見えるベッドの横にある大窓へと眼を向け、赤い小さな宝石を手に持って状況を把握する。
『Something is approaching』
「近づいてきてる? こっちに!?」
それを聞いて一瞬不安そうな表情を見せる少女だったが、掌に乗せている赤い小さな宝石を握り締め、一度だけ眼を細めると。
「ッ!!」
意を決して家の外へと駆け出した。
◇◆◇◆◇◆◇
声が出なかった。
高度八◯◯◯メートルの空は極薄の酸素しかないため、ただ氷点下を下回る冷気だけが胸を焼く。あまりにも高度がありすぎるため、もはや少年は落ちているという感覚すらない。
ただ下から吹き上げる莫大な風圧に持ち上げられているような錯覚だけが全身を包んでいる。
そんな高度からの落下、生存は絶望的だった。
そして。
『がぼ········っ!?』
という水っぽい音が聞こえた。
それが自分の口から漏れる音だというのに気が付いて、虎杖悠仁は面食らう。
元々泳ぎは得意でもあったためか、さほど驚かなかったが、衣服を着たまま水に入ったこと、そしてわけのわからん状況の中に身を投じられたという事実もあって、面白いくらい体は水に浮かばなかった。
実際の水深はわからない。
案外それほど深くはない可能性もあるが、混乱している虎杖にとっては溺死するリスクすらあった。
(やばいやばいやばいッ!!)
とにかく水というものが恐怖しか与えてこなかった。自分が考えているよりも二倍、三倍も遅く、虎杖は両手を使って水をかこうとする。
その腕に力が籠る。
筋肉の増強、水に対する恐怖への克服、一刻も速く水面に上がらなければならないという使命感だけが、虎杖悠仁の生存本能を促進させる。
「ぶはっ!?」
バシャッ!! という水の音が耳に届く。
あれだけ恋しかったはずの新鮮な酸素だが、上手く吸い込めない。
混乱で喉か肺を動かす筋肉がおかしくなっている。
それでも虎杖は腕を動かす。川岸·······というよりかは底の浅い河原の方まで近付くと、虎杖はそこで尻餅をついた。
「あっぶねぇ~·····死ぬかと思ったッ!!」
案外大丈夫そうである。
絡み付くような水面から逃れると、虎杖は水溜まり程度の水深の河原からようやく地上へと立ち上がった。
普通なら死んでいてもおかしくないのに、虎杖は生き残る。通常人間は、体が水面に直接ぶつかったら内臓や骨に大きな衝撃を与えて即死してしまう。足から落ちても肛門から水が入って内臓損傷して死に至る。
けれど、虎杖悠仁という少年は普通ではない。
四階もの高さの校舎から落ちても死なず、身体中穴だらけにされてもしばらくは平気でいられるほどに頑丈にできている。
それもそのはず。
彼はあの、『呪いの王』と言われる邪悪な存在を抑え込めるほどの器なのだ。その強度を担保しているため、普通の人間とは違って丈夫すぎて、もはや人間をやめていると言っても良い。
·········身も蓋も無いことを言ってしまえば、主人公補正である。
そんな彼はあれだけの高所から落ちても平然とし、頭上を見上げると先ほどと変わらず夜空が展開されている。
だがしかし、虎杖は違和感を覚える。
(······あれ? オリオン座ってあんなに高い位置にあったっけ?)
十月の現在ならオリオン座は二三時頃に東の空に見え、明け方の四時くらいになると南の空に昇っているのが見えるはず。
しかし、位置がおかしい。
オリオン座の位置が少し高い所に見え、この時間帯であれぐらいの位置だと十二月頃の位置だと思われる。
虎杖は違和感を感じつつ辺りを見渡すと、他に人はいなかった。さすがに夜だからか、普通の人なら家に帰っている時間帯だ。
一息ついた虎杖は何故ここにいるのか、そもそもここはどこなのか、五条悟に連絡するためにポケットからスマホを取り出した。
アドレス帳を開き、五条先生と書かれている項目を押すも、
「·······あれ?」
反応しなかった。
水に入ったから壊れた、というわけではないらしい。そもそもこのスマホは防水対応仕様だ。あの程度の水に浸かったくらいで壊れるなんて、二◯一八年に作られた最新技術を疑うまである。
良く見ると、スマホの右上に『圏外』の文字が表示されている。
電波が悪いのか? と思って眉を顰めた直後、
ドン!! と。
街の一角で唐突に爆音が聞こえた。
距離はかなり近い。虎杖はスマホを手にしたままそちらを振り返る。
無数のビルで隠れそうになっている地平線の近くで、不自然な光が揺らめいている。
「ッ!?」
虎杖はわずかに考える。
考えて、“自分の祖父”が語った言葉を思い出す。
『悠仁·······お前は強いから、人を助けろ』
「······」
『手の届く範囲でいい。救える奴は救っとけ。迷っても、感謝されなくても、とにかく助けてやれ』
「······爺ちゃん······」
『
「·········」
考えながら、
彼は静かにスマートフォンをポケットにしまった。
そして。
「ッ!!」
その瞳に強烈な光が帯びる。
虎杖悠仁は祖父に与えられた使命を胸に。
勢い良く、ダッ!! と走り出した。