理解はしていた。
わかっていたことだ。
「がはッ!?」
だが、
理屈はわからない。
意味がわからない。
戦場に君臨した少年は以前と違い、邪悪さに満ち溢れていた。
「フハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!!!」
殺意の拳が振り下ろされる。
圧倒的な虐殺が始まった。
◇◆◇◆◇◆◇
四方の壁を埋める巨大なスクリーン。
少なくとも、そこに映っているのはCGで作られたフィクション映画なんかではなかった。窓のない部屋の中を無数のモニタが不気味に照らし出していて、ゲシュタルト崩壊を起こすほどの膨大なデータが現在進行形で導き出され、焦燥に包まれた声が交錯している。
「映像、途絶ッ!!」
「ですが観測圏に異常反応!!」
「何かが現地であったことは明白ですが、音声も拾えなくなりましたッ!!」
部屋の中心にはこの艦隊の艦長、リンディ提督が座って現場指揮を担当している。
「復旧までどれくらい!?」
「今やっておりますが、再び繋がるまで数分かかるかと······ッ!!」
「急いでッ!!」
映像を拾えないモニタには砂嵐が舞っている。しかしこの土壇場で、『闇の書』が覚醒するとは。事態は極めて深刻だ。今出せる人材もそう多くはないというのに。
高町なのは、フェイト・テスタロッサ、クロノ・ハラオウンほどの魔力の持ち主でなければ、今回の事件は任せられない。
そんな中、クロノが現在不在だ。
今任せられるのは現場にたまたまいる高町なのはとフェイト・テスタロッサ。それの応援に向かわせたアルフとユーノがバックアップを担当してくれ、あとは四人の奇跡の結果を待つばかりだ。今クロノが出払っている以上、リンディの役目は覚醒した『闇の書』をアースラの新型武装で蒸発させることだが、彼女はできれば使いたくない。
今現在、目標は海鳴の中心にいる。
新型武装を海鳴市中央に放った場合、『闇の書』含めて街一つどころではなく、国一つが失われるほどの被害の大きさが出る。このまま新型武装を放てば、多くの人々や生き物が死に、多大な犠牲を強いることになるだろう。
それだけはできれば避けたい。
だが他に道はないのだ。
リンディ提督はそれを射つ責任も覚悟もあった。大量の人々を犠牲にしてでも、と。彼女は新型武装『アルカンシェル』の発射許可をするための鍵を握り締める。
シュン!! と。
空を裂く音。
艦橋のど真ん中に突如巨大な魔法陣が現れたかと思ったら、そこには小さな女の子達の姿があった。
「なのはさん!? フェイトさん!?」
「リンディさんッ!!」
「アルフ······アルフを早くッ!! 助けてくださいッ!!」
叫び。
現場にいるはずの彼女達が姿を現したのを見てリンディは戸惑ったが、その光景を見て更に部屋を混沌にさせていく。視界を埋め尽くしたのは赤色。司令室の床に鮮血の赤がぶち撒けられている。あまりに馴染みのないその光景に、リンディは一瞬、状況が理解できなかった。
否。
一瞬を越え、数瞬を越え、数秒を越え。
段々と推測が固まっていても、リンディや他の局員達の脳はその状況の理解を拒絶しようとしていた。
だって、あり得るはずがないのだ。
さっきまで一緒にいた人が、さっき現場に応援に行くように命令した二人が、
見るも無惨な姿で戻ってくるなんて。
「ッ!!」
事実が脳の拒絶を越えて、ようやく。
リンディは思わぬものを目にして顔を驚愕に染めた。
脳が状況を認識してしまった瞬間、辺りに漂う異様な臭気が鼻腔を襲い、全局員に途方もない嘔吐感を覚えさせる。胃からせり上がってくる感覚にどうにか抗うため、リンディは思わず口を覆った。
「こ、これは······ッ!?」
「は、早くッ!! 早く医療チームをッ!!」
半ば呆然とリンディが判断に困っていると、他の局員がすぐさま対応した。息も絶え絶えといった調子のアルフ、顔面が見るに堪えないことになっているユーノ。
一番の危機的状況であるアルフは喉を押さえているが、そこから溢れ出す粘着性のある液体を止めることはできていない。血まみれの彼女は倒れたまま指先に力を込めるが、ほんの僅かに動く程度。腕は動かない、足は動かない、立ち上がることも声を出すこともできない。
もはや一刻を争う状況だった。
医療チームが到着し、すぐさま応急治療魔法をかけるが芳しい結果は得られない。延命には成功したものの、傷口から溢れる血は止まらない。だが実際、混乱の極みにありながらも、医療スタッフ達の手際は驚くほど的確かつ高速だった。あとは手術室に運んで医療機械の手も借りて彼女を助けるしかない。
「い、一体·······な、何があったと言うのッ!?」
リンディはなのは達に問い詰めるが、彼女達よりも先に答えがあった。
『フハハハハッ!! アッハハハハハハハハハハッッッ!!!!!』
艦橋に響き渡る歪んだ嗤い声。
その声に皆が辺りを見渡していると、
「お、音声通信と映像の回復が終わりましたッ!!」
「映像、来ますッ!!」
ゾン!! と。
リンディ・ハラオウンの脳に、唐突に衝撃が走った。
「え······!?」
悲鳴すら上げられなかった。
そのまま全身の力が抜け、彼女の視界がメインモニターに向く。胸が圧迫されて苦しかったが、どうすることもできない。事態は既に起きている。
視線を集めるように、狂笑がスクリーンから響き渡る。全員が見開いている。瞳孔が細くなっていく。
『闇の書』と一緒に映し出された映像には、『見慣れた少年』の姿があった。
人違いという可能性は、なかった。
◇◆◇◆◇◆◇
世界をここまで狂わしい光景にしたことはあっただろうか。
それは爆音や衝撃波の領域すら越えていた。人間に聞き取れる範囲を遥かに越えていた。世界が放つ苦痛の悲鳴、悲鳴の余波の余波、その切れ端になって初めてそれは斬撃と化す。悲鳴の切れ端は街路樹の枝を吹き飛ばし、海鳴市の街並みをことごとく四散させ、金属製のビルを粉々に斬り裂いていく。
二つの『闇』
街の灯りが消えた中、二つの『闇』だけが聖夜に灯る光の全てだった。
「フハハハハッ!! アッハハハハハハハハハハッッッ!!!!!」
「·······ッ!!」
奥歯を噛み締めて放たれそうになる魔法は、発動しない。次に来る痛みで魔法が阻害されてしまうのだ。
ヒュン!! という空気を裂く音。
予備動作一つなく少年が動いた。超高速の突進をかけ、一気に『闇の書』の眼前へと迫る。
「そんなものか!?」
「ッ!! まだまだ────」
「魔導書ッ!!」
『闇の書』は慌てたが、しかし少年の予想外の動きに、魔法の発動まで思考が追い付かない。
『闇の書』の最大の特徴は転生機能と無限再生機能。たとえ破壊されても再生して他世界にワープしてしまう。そのせいで闇の書の完全破壊は不可能とされていた。
だから奴に手加減などなかった。
ドフッ!! と。
轟音と共に『闇の書』の顔面に重たい一撃が突き刺さった。衝撃で体が後ろに仰け反る。倒れていく自分の体を支えられない。全身の皮膚が引きつれ、肩や脇腹が引き裂かれ、傷口から熱いものが噴き出るのを感じる。発動しようとした手のひらがそのまま宙を泳いだ。耐えようとする『闇の書』の意思に反して、彼女の目の前に刃が迫り来る。
手刀の構え。
すなわち斬撃。
何人にも受け止めることはできないはずの斬撃を、『闇の書』は防御も張れずそのまま直撃する。
すると目の前にいたはずの少年の姿が虚空へ消える。すぐさま探し出そうとするが見つからない。それもそのはずで、少年は『闇の書』のすぐ後ろに移動していたのだから。死角から放たれる痛恨の蹴り。湧きあがる激痛と焦りのせいで、集中力が削ぎ落とされ、魔法が発動できない。
「な、に────ッ!?」
その事実が『闇の書』を更に焦らせる。相手も同じく痛みで能力を阻害されていれば、と半ば楽観的な希望と共に正面を、そこにいる少年を見たが。
聞こえたのは、ザシュッ!! という音。
少年と『闇の書』の間には一◯メートルもの距離があった。加えて、『闇の書』の持つ無限再生機能。故にたとえ傷を負ったとしてもすぐに回復してしまう。
だが、痛みは残る。
次の瞬間、巨大なレーザーでも振り回したように『闇の書』の顔面が引き裂かれ、驚愕に凍る彼女のすぐ後ろ────斜め右下にある商業ビルが、まるでバターでも切り裂くように音もなく斜めに切断されていく。
(恐ろしく硬い? いや、違うな)
などと思っている少年に、ようやく一撃が入る。
「うおォォォオオオオオッ!!」
裂帛の気合いから放たれる渾身の拳。少年の顎に突き刺さった彼女の拳によって宙を舞い上げられるが、彼は嗤っていた。その顎には何の傷もなく、むしろあったことすらなかったことにしてしまうほどの回復力。
少年は嗤いながら分析する。
(ただの出力不足、か)
指四本ではこの程度。
肉体の動きはそこまでではないが、呪力出力が酷いと一割以下にまで行く。恐らく無意識に知覚しているのだろう。この肉体の主導権は本来は小僧にある。よって、意識を失っているとはいえ反則技で手に入れたこの体はまだ正気を保っている。故に少年の体は『呪いの王』を強く拒絶し、術式への呪力出力を落としている。
しかし、何故だろう。
まるで、
だが、今はどうでも良い。
ここで『闇の書』を屠る分には、特に不自由はしない。
「やってくれたなぁ!!」
「ふんッ!!」
怒りに任せた一撃。
もはや魔法のことなんて眼中にないほど、彼女の精神は追い詰められていた。
無論、彼には当たらない。そんな先の読める攻撃は、ただ首を傾けただけでどうにかできる。そして攻撃が当たらずに彼の横を通り過ぎて行った後、少年はそのまま『闇の書』のその綺麗な銀髪をまとめて掴むと、ハンマー投げのように振り回して遠心力を作り出し、勢いをつけて大剣でも振り下ろすかのような動作で彼女の体を地面へと叩き落とす。
だがまだ終わらない。
追撃を仕掛けるためにすぐさま空中を蹴って追いかける少年は『闇の書』の頂上で体を半回転、頭を下にしながら脚部を斧のように振り下ろす。オーバーヘッドシュートの要領で振るわれた天地を逆さにしての断罪の蹴り。少年の堅い脚のつま先は『闇の書』を突き破り、逃しきれなかった威力によって胸部の肺を潰し、肋骨数本をまとめて叩き折り吹き飛ばす。
頭上から足の裏の底まで走り抜ける鈍痛。
その瞬間、『闇の書』の体に何倍、何十倍もの重力が襲った。メリメリと骨が軋む音が響き、やがて地上へと落とされた『闇の書』の足元が砕けて地面ごと押し潰されてゆく。
海鳴市全体を揺るがす強烈な振動。
一際大きな土煙が上がり、その場の地面が陥没した。『闇の書』が落とされた場所にはクレーターのような大穴だけが残された。
穴へと落ちた『闇の書』は、大の字になって土の中にめり込んでいた。
「がッ!?」
と、揺さぶられる脳の中、『闇の書』は知る。
少年もまた、『闇の書』と同等かそれ以上に多種多様な武術や術式に精通しているのだ。
『闇の書』が蒐集したフェイトの速度魔法を発動して迂回しようとすればそれに対応し、すぐさま追いかけて斬撃を繰り出す。
貫通はしないまでも、皮膚を切り裂かれるほどにまで到達する少年の斬撃は素早く速い。複数の太刀筋をまるで音楽を奏でる指揮者のように見舞いながら、『闇の書』へ確実にダメージを負わせてくる。
「く!?」
『闇の書』は慌てるようにして、ようやく魔法を発動。
だがそれはもはや形振り構わずといった感じで発動された魔法で、周囲のあちこちに魔法陣が形成される。故に砲撃される魔法は少年だけでなく周りの建物をも呑み込む。
もちろん、そんな乱雑な攻撃で少年を倒せるなんて甘いことは思っていない。
しかし、それでも多少はダメージが入るのでは、と少しでも思ってしまった自分は愚かだとすぐに悟った。
耳をつんざく砲撃音と三六◯度あらゆる方向からの閃光。
逆巻く突風をまとった光線が竜巻の如く振り回される。逃れようのない必殺の間合いであったが、バシィッという切断音が弾け、次の瞬間には放たれた閃光が微塵切りのように切断される。
だが暴走している魔法陣は尚も魔法を発動させる。
周囲の建物を喰い破り、しかし少年には一切当たらない。
たまたま放たれた先に少年の姿があっても、当たる直前には再びの切断音と共に、今度はよりはっきりとその切断面が見せるものの正体を明確にする。
ドーム状のバリアのようだった。
閃光がバリアに当たると一瞬で微塵切りにされ、全ての攻撃は無効化されていく。
「なら!!」
今度は別の魔法を。
そう思った『闇の書』はまた魔法を発動。
と言っても、直接攻撃の魔法ではない。
あの時、なのはやフェイトを拘束した時と同じ、召喚魔法。
辺り一帯に謎の生物達が召喚され、それらは全部少年に向かって進軍を開始する。海鳴市に召喚される魔法生物。『闇の書』に蒐集された魔法生物達の情報が具現化し、少年の体を呑み込もうと襲いくる。
「ケヒッ!!」
しかし少年はむしろそれを喜ぶ。
まだまだ楽しめる。
少年は密集された魔法生物直中に飛び込む。
直前、少年が持ち前の恐ろしいまでの脚力を発揮して、跳ね回るように敵の密集陣形を破壊していく。
虎のかぎ爪をも凌ぐ旋風の回し蹴りが甲殻類の鎧を容易く切断し、外皮が剥がれ体液が空中を舞い、魔法生物の甲高い悲鳴が被さる。少年の足に仕込まれた斬撃の鋭さから繰り出される強烈無比な蹴りは、魔法生物にとって死神の一閃も同然である。
「なッ!?」
無理をして召喚をした魔法生物が一撃で破壊された。
奇襲する側だったはずが完全に奇襲される側に回ったことに、『闇の書』は完全に算を乱していた。
不可視の斬撃を繰り出す少年は、魔法生物を魚に見立てて捌いているようであった。
手刀から放たれる斬撃は視認すらままならない速度で死を振りまき、後退しようとしても不可視の斬撃は直撃するまでどこまでも追いかけてきて酸鼻な殺戮に晒される。
残り五◯体ほどが人外染みた悲鳴を上げると、恐怖に駆られて背中を見せ始める。
少年の中に、快楽から来る暴力的な衝動がこみ上げる。
────逃がさない。
こちらはずっと退屈していたが故に、せっかくの御馳走を逃すほど甘くはないのだ。
たとえ一匹といえども腹の足しにするには充分過ぎる。
故に、お残しは許されない。
四方八方に散らばっていく魔法生物達の中心、その地面に降り立った少年は右足を軸にその場で体を一回転させ、遠心力をかけながら両手による二刀流の回転斬りを放つ。
「
ザシュ!!
背中を見せて逃走に移っていた魔法生物五◯体が突如両断され、悲鳴と血飛沫が上がる。
のみならず、周囲に聳え立つマンションやビルを両断し、射程範囲内にあったもの全てを樹木を切断するが如く伐採。
重い地響きを立てて海鳴市が震動する。
『闇の書』は暫し戦闘中だというのも忘れて、呆然と立ち尽くした。
鎌鼬。
嵐。
竜巻。
そんなものでしか形容できない一撃である。
だがその時、少年がいた足元を中心に地面に亀裂が発生。一瞬大きく隆起したかと思うと、轟音と共に裂ける。
そこから現れたのは、巨大食人ミミズのような魔法生物。
それが地中から現れて少年の体を丸呑みにする。
誘い込まれたのだ。
『闇の書』はわざと魔法生物達を撤退させて少年の足を地面につかせるために誘導し、そこを地雷がある場所に見立てて、踏んだ瞬間起爆させるように魔法生物を召喚する。
これであの少年も魔法生物によって─────という希望はいとも簡単に打ち砕かれる。
『グアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!??』
「!?」
巨大な塔のようなシルエットが急に体を左右に振ると、身体中から噴き出す『鋭い何か』に苦しみ、魔法生物は何が起こっているのかわからないのか体をジタバタさせ、やがて断末魔の痙攣を始める。
直後、
バチュ!!
『闇の書』は瞠目する。
異常な力で巨体が捻じ折られており、真っ赤な鮮血を散らして華が咲いて絶命しているのは明らかだった。
何千もの肉片が飛び散って。
四散した魔法生物の中からあの呑み込まれた少年が────────
「さてと」
「!?」
背後に殺気を感じて振り返った途端、顔がその大きな手に掴まれる。
顔面を圧迫される苦痛に彼女は呻く。このまま握り潰され、顔面が破壊されてしまうのではないかという恐怖。
しかしそうはならず、少年は舌舐めずりをしながら彼女を睨むと、
「
そして、
少年の顔が彼女を丸呑みできるくらいに巨大化したと思ったら、
グジュリッ!!
バリアジャケットごと、彼女の肩口の血肉が文字通り齧り取られた。
『闇の書』の白い肌が、自分の肩から溢れ出た真っ赤な鮮血によって血の色に染め上げていく。
「ァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!??」
鎖骨辺りが喰い破られた。
生まれて初めての激痛に視界が白と黒に明滅して、まるで泣きじゃくる赤子のように叫びまくった。噛みついている少年を振り解こうとして何度も頭を叩くも、むしろ噛み付く力を強めてどんどん口を閉じて御馳走の肉を捕食する。喰い千切る際に背中と腰にあった黒い翼をもぎ取り、『闇の書』の腕も千切れ落ちそうなほどに深く喰い破られた。
彼女の返り血が顔全体に付着するほどにまで喰い破った少年は一先ず満足したのか、その愉快な悲鳴を一旦閉じさせるために鷲掴みにし、味わった『闇の書』を一度遠くに放り投げる。
口から血を吐く『闇の書』の体はビルを突き破っていき、どこかの建物の屋上の縁へ斜め下から突き上げるように激突すると、彼女の体は墜落防止用の金網のフェンスに激突する。まるでサッカーボールがゴールのネットに勢い良く突き刺さるようにして、だが衝撃に耐えきれずフェンスの支柱が何本かブチブチと根元から引き抜かれる。
それほどまでの威力で投げ飛ばした少年は一瞬で『闇の書』の目の前へと降り立ち、
「あの醜女から味わっていたが、やはり良い味だな。特にお前は格別だ」
「が············ぐっ!!」
「だがもっとだ。もっと俺の舌を満足させてみろ!!」
「あああああああああああッ!!!」
楽しげな言葉に、『闇の書』はまともに応じることはできなかった。
がむしゃらにバネのように地面から飛び上がって、そのまま泣きじゃくった子供が癇癪を起こした故の無茶苦茶な動作で腕を振るう。
伸ばされる『闇の書』の手。
それを首を振っただけで『闇の書』の一撃を軽々と避けた少年の顔に浮かぶのは、相変わらずの笑み。
「もっと!!」
少年は向かってくる『闇の書』をそのまま迎え撃った。
両手の拳を握り、ゴキリと関節を鳴らす。
鋼鉄のように拳を握り締めると、『闇の書』の顔の真ん中へと容赦なく叩き込む。
鉄槌の如く打ち下ろされた拳が『闇の書』にクリーンヒット。
ビルのフロア全体に激震が走り、地面が大きく陥没して貫通。少年のなんてことのないただの拳が、けれども莫大なエネルギーを含んだ一撃によって『闇の書』の体を木の枝同然に叩き折り、轟音と共に立て続けにフロアの床をぶち抜く。
摩天楼そのものが崩壊するのではないかと言うほどの振動のあと、ようやく崩壊の轟音が消える。
「ぐっ!!」
『闇の書』は、倒されたまま手を伸ばした。
前後左右のバランスが摑めなかった。どのように力を入れれば起き上がれるのかもわからない。
だが、
目の前に降り立った少年の爽快そうな顔を目にした瞬間には、殺意が湧いたおかげで力が漲ってくるようであった。
「うおおおおぉぉぉおおおおおおッ!!!」
標的に狙いを定めて飛び掛かる『闇の書』
『闇の書』の稲妻の如き一閃が少年の顔面に突き刺さろうとした時、その神速の突きはいとも簡単に手のひらで止められる。
威力を圧殺したことで、インパクト面が爆発。
フロアに堆積した砂塵を吹き飛ばし、衝撃波で全ての窓が破砕される。
「もっとッ!!」
『闇の書』は魔力で増強させた拳を振るうも、少年はなんてことのない態度で受け止める。
そして斬撃を放とうとする少年の手を、『闇の書』が止める。
両者の間で莫大な術式が次々と繰り出されそうになる中、それを出させまいと二人は音速を越える肉弾戦を実施し、拳と拳が交錯する。
頭部に限らず、身体にも四肢にも放たれる。
少年の拳が『闇の書』を抉り、『闇の書』の拳が少年を抉る。
痛めつけるのではなく。
えげつなく、抉り続ける。
無論、痛覚が麻痺しているわけではない。痛みは痛みとして成立する。脳を破壊されれば思考が止まるし、肺を破壊されれば呼吸が止まるし、心臓を破壊されれば血流が止まる。
無限の再生力の体を持ったところで身体が物理的に変わったわけではない。
回復力、再生力、反転術式。
それがずば抜けているだけなのである。
「ハァァァアアアアッ!!」
「ハハッ!! そうだ!! もっと、もっとッ!!」
予想通り激しい攻撃を繰り出しながら、しかし少年は哄笑する。
痛み。
勿論少年の方にもあるだろう。痛覚が切れているわけがない。しかし彼はそんなことをまるでおくびにも出さない。彼女のように歯を食い縛りもしないし、彼女のように叫び声をあげたりもしない。どこをどう傷つけられようが、目を破壊されようが肺を破壊されようが心臓を破壊されようが、まるで構わずに高らかに嗤い続けている。
冷たい眼で、しかし楽しそうな表情で。
凄惨に嗤う。
不毛な戦いだった。どれほど血飛沫をあげ、どれだけ肉飛沫を散らそうとも、それは切り口が開く前に血液は蒸発してしまい、それが蒸発する頃には再生してしまっているのだ。
その上、ノーダメージ。
『闇の書』の側は痛みによるショック死がありえるのかもしれないが、彼女の無限再生機能はあるいはそのショック死からも彼女を蘇らせてくれるのかもしれなかった。
だが不思議であった。
互いの再生力は互角。しかし攻撃力は少年のが上。
このこと自体に不思議はない。しかし、彼の魔力も帯びてない素の拳による攻撃にここまで身体を傷つけられる破壊力があるとは正直思っていなかった。その点において、彼女は少年よりも圧倒的に不利だとばかり思っていたが、実際は彼の攻撃は彼女の身体を大した衝撃もなく破壊している。
拳と拳がぶつかることもある。そうなれば崩されるのは『闇の書』の方だった。
この戦いに小細工の入る余地はない。
だが、だからと言って大細工の入る余地もなかった。
魔法も、
呪術も、
どちらも出されない。
この不毛な戦いは、あくまでも前哨戦でしかない。実際、少年にとってはこれはお遊びみたいなものだし、『闇の書』は最高のおもちゃだった。
故に、一撃を簡単に止めて掴まれた腕が少年の方に近づき、目と鼻の先にまでやってきた彼の口が告げる。
「もっと『呪い』を篭めて───────」
「ッ!?」
連続的した音は鳴らなかった。
あまりにも素早すぎて、音は数を失くした塊となる。
「打ってみろッ!!」
バァンッ!! と空間そのものを巨大な腕で引き千切るような轟音。
裏拳気味に放った一撃は『闇の書』の頰を破壊し、まるで口裂け女のような笑顔の姿にして彼は残酷に嗤う。
「がぁあッ!?」
対峙する二人のイメージは、古き良き時代に観客の前で闘技場で戦わされていた処刑が決まった剣士と手に負えない猛獣。
顔面を引き裂かれた『闇の書』は膝を付いて頬の再生に集中する。
「ぐ······ああァ······ッ!!」
さらに時間は無情に過ぎていく。
『闇の書』の力を使えば使うほど、破滅の時間は近づいている。焦りが時間を削り、その時間がさらに焦りを誘発していく。
「おい、知ってるか? お前はこの世界では過ぎた力、『ロストロギア』と呼ばれるそうだ」
「ッ!!」
「それなのにこの程度か? もっと骨のある奴かと期待していたんだがな」
ドゴォ!! という轟音が響く。
考え事をしていた『闇の書』の意識が確実に揺さぶられた。少年の動きはかなり大振りだった。ダメージを重ねた『闇の書』は、もうこちらの速度を処理できないと判断したのだろう。
後頭部を掴まれて地面に叩きつけられ、それだけで『闇の書』の頭脳が揺れる。
一撃一撃の間隔は長くなり、その代わりに拳の一つ一つに重みが増す。
『闇の書』の銀髪を掴んで持ち上げた少年は挑発するように、
「ほら、頑張れ頑張れ。俺が飽きるまで、何度でも楽しませてくれよ?」
「········」
パリッ!! と。
静電気のようなものが散った。
直後に道路どころか街全体が紫の輝きを放つ。重力を無視して細かい瓦礫が浮かんでいく。その正体不明の力は徐々に大きくなり、やがては『闇の書』の肉体にも及ぶ。
あまりの魔法発動に『闇の書』は自身の『呪い』に侵食され、しかしそれと引き換えに巨大な魔法陣を呼び出した。それはさながら地面を削り取るドリル。禍々しい凶星と化した流星が大量の摩擦を作り各地に静電気どころか雷まで呼び起こす。
光輝く禍々しい槍が、一直線に海鳴市へ突き刺さっていく。
「眠れぇぇぇええええッ!!」
どうにもならなかった。
落下軌道も正確に垂直に落ちてくるドリルを眺めるしかなかった。
だが、
少年は嗤う。
彼は一度もキックを入れずに物理法則を無視して緩やかに道路を滑り疾走する。ローラーもなしに靴底を滑らせて後ろ向きに滑走しながら少年は嗤う。
そして、
凄まじい轟音が連続で鳴り響く。
巨大な魔法陣で発動した魔法は直撃はしなくとも余波で到達地点近くのビルがまとめて崩され、そこから一◯キロ近い距離を駆け抜けて根こそぎ削り取る。
「はぁ······はぁ·······」
ようやく発動された手応えのある魔法。
ドリルは垂直に海鳴市を削り、半分行ったところで止まった。『闇の書』はそこに降り立ち、侵食される腕に魘されながら、ようやく本心の笑みを作る。
これで少年といえど、無傷では済むまい。
「当たればな」
「!?」
少年の声。
その一声で全身が、秘める気配が、一気に二回りも膨れ上がる。
あれだけの大魔法を避けるなんて、屋内に避難したとしてもそこから発生する余波で何の意味もなかったはずなのに、彼は平然としていた。高層から土砂降りのように降り注ぐ鋭いガラス片にも、周囲の街路樹を薙ぎ倒す勢いで迫り来る膨大な衝撃波にも、彼には傷一つつけられなかった。
もはや彼は静かに嗤って、禅を組んだまま、頬杖を付いて必死な『闇の書』を眺めていた。
蠱惑。
そう呼ぶにしてはあまりにも邪悪過ぎる唇の形で。
「今のがお前にとっての奥の手か? だとしたら期待外れにもほどがあるな」
「ッ!!」
「だが折角興が乗ってきた所だ。命を燃やすのはこれからだ。お前の言う『呪いの力』と魔法、口先だけではないと示してみせろ」
わずかにたじろいだ『闇の書』と、不動の体勢で立ち上がる少年。
揺るぎなき強敵の芯を支えるのは、恐らく一つの信念。
「魅せてみろッ!! ロストロギアッ!!」
「ハアァァァアアアッ!!」
少年に向けられる魔法陣が三六◯度。
恐慌に似たそれは、あるいは殺意を持った一撃か。灰すら残らないほどに展開された魔力の砲撃が少年へ向けて殺到した。
回避は不可能。あの不可視の斬撃でも全ては切り裂けない。
もはや直撃は避けられないと読んだ『闇の書』は叫ぶ。
「塵一つ残しはしないッ!! 闇の底へ落ちろォォォオオオオオッッッ!!!!!」
スターライト・ブレイカーに匹敵するほどの大魔法。
それが一瞬で、最大一六連発。
防御結界を張っても意味がない、と瞬時に判断しながらなお、少年はただ突っ立っているだけであった。
防御不能。
斬撃のバリアを張っても突破される威力。
ならば、
「·······ケヒッ·······」
嗤って。
彼は両手の人差し指と小指は折り曲げ、中指と薬指は立てて合わせた三角形を作り、
「─────
仏教において地獄や死を司る『閻魔大王』を象徴する印。
具現化される仏教で使われる道具を納める箱、厨子。
そして荘厳な門。
半円状のアーチ構造と木造の両開きの大口。全ての地平線に終わりはなく、それでも一種の区切りとしては成立していた。感覚的には寺が近い。だがそうたとえるにはあまりにも禍々しい。
地獄。
怪物の口、なのかもしれない。
その門番とも言えるように少年は前に立ち、掌印を結ぶ。
世界。
階層。
位相。
異空間。
全ての攻撃を必中させる呪術戦における最終奥義。
両面宿儺が保有する、全てを切り裂く『領域展開』
その名も、
「─────