海鳴市、喫茶店『翠屋』と言えば、押しも押されもせぬ人気店である。
この街一番とまで言われてから人気は衰えを知らず、連日連夜、客の入りはほぼ満員。
翠屋は特に喫茶店界隈で最新ブームを牽引する、美食の発信地なのだ。
常連の小中高生らは同級生連中を連れ、しょっちゅう店に顔を出している。そこまで人気の理由は、無論出されるものがとても美味しいというのもあるだろうが、何よりもまず美男美女が多いということだ。この喫茶店を経営している夫婦にその子供達、そしてバイトに来ているお姉さん。皆が息を呑むほどに顔が整っており、お客にとってもはやここは一種のパラダイス。
美男美女ばかりの店員は皆親切で、いろいろ融通を利かせてもらっているという。
四人客の女子高生など、頼んだコーヒーやジュースがまだ残っているというのに追加注文をしている始末だった。
「すみませーん! シュークリームセットを三つお願いしまーす!!」
「かしこまりました」
そう言って引っ込んでいくウニ頭の男子高校生。
臨時バイトとして雇われている身であるとはいえ、それでも彼の接客技術は初めてとは思えないほどに手慣れていた。
「“桃子”さん、シュークリームセットを三つ追加です」
そしてお客から注文さっれた内容を厨房にいる女性に伝えると、
「はーい!!」
という忙しそうな声が返ってくる。
他の客からの注文もひっきりなしで、厨房もてんてこ舞いのようだ。
大繁盛のようでなにより。
喫茶翠屋の店員はふっと笑みを浮かべ、目の前のオーブンでゆっくりと焼き上がっているシュークリームに目を落とした。
二◯◯度の高温でキツネ色の焼き色がつくまで上手く焼き上げたシュー生地。
柔らかそうな冷めたシュー生地を、やや斜めに上下半分にカット。
カスタードの上に星口金で渦状に絞る。
芳醇なクリームの香りが鼻孔をくすぐり、ついついお腹が鳴ってしまう。
「上手く出来たわ」
そう言うと、彼女の夫が『だな』と優しい笑顔で頷いてきてくれる。
開店当初から二人は一緒にこの店を支え合ってきた。
もちろん経営は常に順調というわけではなく、ハプニングだってあった。それでも二人は力を合わせてそんな苦難を乗り越え、現在は有名雑誌でも取り上げられる程にまで発展し、全国に知られるほどのお店にまで登り詰めた。
「はい! シュークリームセット三つ、出来たわよ!!」
「ありがとうございまーす」
厨房から追加のシュークリームセットが置かれると、それを茶髪の女子高生が持っていく。彼女は先ほどの男子高校生とは違ってどこかぎこちなく、その鋭い眼光のせいでお客様を少々怖がらせてしまっている。
一生懸命に笑顔を作ってるが、人はそれを営業スマイルと言う。
商品を販売したり顧客を引きつけたりするために顧客に見せる人工的な笑顔なので、誠実さの欠如を連想させるのである。
「しかし、みんなよく働くな」
「えぇ、なのはからあの子達をしばらく働かせてあげてほしいって言われた時は正直戸惑ったわ。どういうことなのかって思ったけど、クリスマスの夜に聞かされた説明でなんとなく察したわ。
一二月二五日の夜。
自分達の大切な娘である高町なのはから、『大切なお話がある』と言われた。
正直、どんなことでも受け入れるつもりだった。
彼女は以前から思い悩んでおり、深刻そうな表情をしていた。朝早くから何処かに出掛け、夕方や夜の外出も多かった。
それで察した。
高町なのはは、自分達には想像もつかないほどの何かに関わっているのでは、と。
だから何を言われても、それを素直に受け止めてあげるつもりだった。
─────しかし。
「まさか······魔法なんてものが本当にあるなんてな」
「本当、未だに信じられないわ」
ある日を境に彼女は変わった。
彼女がとある『一匹のフェレット』を拾ってきた時くらいだったか。それからというもの、彼女はよく怪我をして帰ってくることが多かった。幸い、絆創膏程度で塞がる軽傷だったものの、それでも頻繁に怪我をして帰って来られたら何かに巻き込まれているのではと心配にもなる。アリサやすずか達から見ても最近のなのははおかしいと感じるほどで、ついには喧嘩までしてしまったという。
それからさらに彼女は外出することが多くなり、友人に会うわけでもなく出掛けるのはどう考えても不自然だった。
まるで、余計な心配をすることはなくなった、そんな感じに思えた。
友人を心配させることがないから安心して自分のことに専念できるとでも思ったのだろうか、だけどその度に彼女の表情は暗くなっていった。
それである時、彼女はついに学校を休んでまで自分のやりたいことをしたいと言い出した。
フェレット、ユーノと出会ってからこれまでのことを出来る限り説明されたが、魔法のことを一切話さなかったからどこか荒唐無稽にも感じた。
何より、危ないかもしれないと本人の口から聞かされたのだ。
もちろん、心配にもなった。
大切な娘が危険なことに巻き込まれているとなると、どんな親や兄弟でも心配だってする。
けれど、彼女の家族達は皆、静かに見守ろうと決めていた。
無論、引き止めたかった。
だが、
彼女の瞳に宿る、強い覚悟。
それを見たら何も言えなくなった。
たとえこちらが何を言ったとしても、彼女は黙ってでも行っていたかもしれない。実際、ユーノを拾って一時的に預けていた動物病院に、家族には何の相談もせずに夜に勝手に抜け出して迎えに行っていた。
それでその動物病院も謎の爆発事故があったと言うし、明らかに偶然とは思えない。
何故彼女は夜遅くにユーノを迎えに行った?
まるで、ユーノが今危険な目に遭っていると感じたかのように、彼女は家を飛び出して行った。一刻を争う事態だとでも言うかのように急いでいたことから、その時から彼女には魔法の素質があったのだろう。まだ幼い少女がそんな御伽話の力を手に入れて、危険なことに巻き込まれているなんて、気付いていたとはいえ親として失格だとも思った。
そんなこと、相談出来るはずもない。
なのは自身は妥当な判断をしたと思う。言っても信じてもらえないだろうし、そんなことを言ったら家族にも危険が及ぶ。魔法なんてものはこの世界には馴染みがないし、知識がない自分達が出来ることなんて少なすぎる。
だから彼女は一人で抱え込んだ。
そんな想いをさせてしまったことに、二人は罪悪感を抱いていた。
自分達の大切な子供がそんな想いを抱えるなんて、早すぎるなんてものじゃない。そもそもそんな辛い想いをさせてはいけないのだ。何かに悩んでいることに気付いていたのに、自分達は何もしてあげられないという事実に打ちのめされた。
けれど、彼女は強い意志でそれに立ち向かっていった。本当は怖かったはずだ、本当は逃げたかったはずだ。それでも、彼女は勇敢にも戦ったのだ。精一杯勇気を振り絞って、大切な友達を助けたんだ。それをどうして責めることができよう。
大切な人を守りたい、助けたい、救いたい。
その強い意志で必死に戦ってきた彼女を咎めるなんてこと、出来るはずもない。自分達の娘が、立派に成長しようとしているんだ。その身に重荷を背負ってでも、前を向こうとしていたんだ。
ならば。
それを見守ってこそ、親というものだ。
彼女のありのままを受け入れ、それを一緒に背負い、そしてこれからを生きていこう。
それが。
今まで辛い想いをさせてしまった自分達の娘への罪滅ぼしだ。
「だから······」
「ええ······」
それでも、だ。
これ以上なのはを一人にさせまいと考えながら、しかし彼女の両親は心の中で強くこう思う。
皆が憧れるようなヒーローのようにならなくても良い。か弱い子供のままでも結構だ。けれど、彼女の中にはもう強い意志が宿っている。
だから、せめて。
ただ大人として、
“高町士郎”として、
“高町桃子”として、
あの子の笑顔を守れるような親になりたい、と。
そう思ったのだった。
─────ところで。
「ほっ! ほっほっ!!」
わかっているよ。
みんながそんな高町なのはが連れてきた『高校生達』に興味津々だってことはね。
彼らは手慣れたように仕事をこなしているが─────
「ふっ······俺の手にかかれば埃も恐れをなして逃げ出しちまうんだな」
「虎杖クン? それは貴方がモップを乱暴に振り回している所為で埃が散っているだけだと思うわよ」
なんかカッコつけて窓から差し込む光を受けて遠い景色を眺めているが、その光がより宙に舞う大量の埃を照らし出す。
床掃除をうまくこなせてない男。
その名は虎杖悠仁。
存在感がある赤みがかった短髪。
身体能力の高さから荷物運びや引っ越しの手伝いなどの肉体労働が主な日雇いの仕事をしていた彼でも、喫茶店の仕事は初であった。
お世辞にもしっかりと仕事ができているとは言えないが、どこか愛嬌があるその姿。
彼こそが一番の監視対象であり、自分達の愛娘の高町なのはからしっかりと見張って何処にも逃さないように······もし仮に一歩でも勝手に外に出ようとすれば『戦闘民族高町家』の力を以てして捻じ伏せるよう頼まれた男である。
◇◆◇◆◇◆◇
きっかけは二人の悪巧みからだった。
「つまり············僕らを殺す、ということでしょうか?」
「表向きは、です」
「ほうほう、つまりは死んだフリということですかー······それで上手く誤魔化せると?」
「そのことに関してですが············
「······なるほど、大体わかりました。それじゃあ、計画について詳しく説明をしてください」
◇◆◇◆◇◆◇
と、そんな悪巧みの会話など露知らず、三人の専門学生はあまりの退屈さに目が死んでいた。
危機はまだ過ぎ去っていないから軟禁状態の続行を強制されている彼らだが、流石に時計もなく窓もなく、時の流れを感じさせるものがないと、いつまでこんなところに閉じ込められてればいいんだっていう考えにまで囚われて結構辛い。
「あぁー、いつまで閉じ込められてんのよー。流石にキツイわコレ」
おそらくはまだ五時間くらいしか経っていないと思うが、感覚的には丸三日くらい経っているように感じた。短い時間でもやることがなさすぎると、めちゃくちゃ長く感じる。定年を過ぎて仕事を辞め、残りの人生を謳歌しようとしてもやることがなさすぎて退屈している人達の気持ちがわかった気がして、釘崎はそんなまだ味わいたくもない気持ちに共感してしまって顔を曇らせる。
「提供された弁当ももう残ってねぇしな、そこのテレビも何も映らねぇし」
伏黒も啜っていたコーヒーがなくなってしまい、おかわりしようにもお湯ポットの中が空になってしまったので新しく作れなかったから退屈していた。
「せめてスマホが使えたらいいのに、何でここ圏外なわけ?」
「異世界だからだろ」
「しかも一応退屈凌ぎにあの女の子達が貸してくれた漫画の最新巻っていうのもウチじゃ結構進んでるのに、なんでまだ途中なわけ? ワン■ー■なんかまだウォー■ーセ■ン編よ? どんだけ遅れてんのよ」
「異世界だからだろ」
「それに寿司弁当もあんまり美味しくなかったし、この部屋もなんか寒いし」
「異世界だからだ────」
「アンタ異世界だからって説明すれば何でも良いって思ってないわよね?」
ソンナコトハナイ、と伏黒は遠い目をしながら即座に否定。
伏黒だって退屈のしすぎで表情が死んでおり、釘崎の愚痴に付き合うのも面倒なのか適当に流していた。ここの娯楽は何もかもが前時代的で、スマホ世代を先取りしている伏黒達には少々合わないご様子。まだガラケーが主流のこの世界から早く脱出したいと願うものの、相変わらず時間の流れに動きがないように感じて、思わずため息を吐く。
「それもこれも──────」
「あぁ、コイツのせいだ」
二人は不快そうな顔をしながら、こんな状況でも我が道を行く元凶に目を向ける。
「グゥー、グゥー」
眠気に負けてムニャムニャとテーブルの上に頭を乗せている虎杖悠仁。
その様子を見てたら無性に腹が立ってくる。そもそもコイツが行方不明になんてならなければこんなことにはならなかったのに、という鋭い目付きで睨むも虎杖が起きる気配はない。
よくもまあこんな状況で眠れるものだ、と呆れる二人だったが、
『ヤッホーッ!! みんな元気ー?』
なんて声が唐突に聞こえてきて、二人ともその声の音源を辿って振り返ると、
『いやぁ、待たせてゴメンねみんな!! ようやく話がついたところだよー』
と、真っ暗だったテレビに何故か自分達の担任が映っている。背後にはどういうわけか日本の庭園のようなものまで映ってるし、もしやコイツだけ自由の身になったのかという恨みの目を向ける。
『あれ? 何だかお疲れ?』
「そりゃこんなところに長い間閉じ込められてたら疲れますよ」
「元凶の虎杖は呑気に寝てやがるし」
「グゥー、グゥー」
不満をこぼす伏黒達だったが、テレビに映っている五条は三人の安否を確認できたのが嬉しいのかふざけた笑みを浮かべている。
『ま、そうだよね。けど安心して? ようやくそこから出られるから!!」
それを聞いた二人は一瞬目を見開いたものの、同時にようやくかという気持ちでいっぱいになって胸をなでおろす。
そして五条はこう言った。
『
「「······················」」
疑問の声を漏らすことも、眉を顰める暇もなかった。
五条の言っている意味がわからず脳がフリーズした瞬間と同時にテレビの画面がブツンッと切れ、直後に部屋中からシューという気体の漏れる音がして、伏黒と釘崎は訳もわからず全身麻酔のような無茶な眠気に襲われて、強制的に深い眠りへと誘われていく。
特に虎杖は先に寝ていたのもあって、更なる睡魔が彼の肺を満たし、より深い闇の中へと沈んでいく。
◇◆◇◆◇◆◇
深い闇の中へと落ちていったせいだろうか?
(············?)
目を開けた時には、見知らぬ街並みが広がっていた。
よくある街には見えるものの、日本のような雰囲気ではなかった。そもそもこんな場所知らないし、だがなぜか見覚えがある気もする。
『何? “あの光”?』
そんな街並みを眺めていると、自分の口が勝手に動いた。
目線はいつもより低めで、何やら猫のようなものを抱えていた。
そして。
そして。
街の中心────そこから広がる謎の“金色の光”に呑み込まれた瞬間、自分の中の酸素が消えていく感覚がして、視界は闇へと染まった。
『────!? ────ッ!!!??』
闇の中で、誰かの泣き声が聞こえた気がした。
その声に目を開くと、自分のことを抱きながら涙を流している女性がいた。
母親の腕の中で落ち着きを取り戻すような、そんな歓喜の涙ではなく、絶望に染まりきったところからくる冷たい涙だった。
『████!? ████!!』
必死に名前を呼んでいるが、自分は答えない。
いや、答えれない。
なぜなら、
『あ、ああ、ああああああああああッ!!!』
一人の母親として、かつてないほどの喪失に絶望し、冷たくなった自分の体を思いっきり強く抱きしめる。優しい母が悲しんで、動かなくなった自分の顔に大量の涙を降らせている。
(···········)
その光景を、第三者視点で見ている少年。
さっきまで自分の体だと思っていた“少女”は母親の声に応えることはできず、静かに息を引き取っていた。
彼は思わず、目の前に広がる情景へもう一度視線を投げた。
これは、“存在しない記憶”だ。
だがおそらくは完全にフィクションではなく、一人の人間が辿ってきたであろう過去の映像。つまりここから何を言ったって、どう足掻いたって歴史は変えられない。すでに確定してしまった事柄に過ぎない。
『まだ理論の段階ですが、記憶と細胞の情報さえあれば器である人造生命体は本人と変わらなく動いて、“命の蘇生”という魔法が完成します』
けど、生命と冒涜を冒すことだけはやめてほしい、と思った。
それは最大の禁忌だったろう。
今更亡くしたものを悔やんで再び手に入れようとしても、それは偽りだ。死んだ者の体はどうやったって復元できない。たとえ全く同じ細胞で作ったとして、記憶をそのまま転写できたとして、どこかで違和感を感じるだろう。
その肉体には、思い出がない。
母親である彼女と共に過ごしてきた思い出は与えられたもので、いくらその記憶を埋め込んでも完全には再現できない。それまで生きてきた記憶を実際に体験していなければ、それは謂わば映画の役を無意識に演じているだけに過ぎないのだ。
台本を読んでそのキャラの性格を理解し、上手く観客達を感動させるように演じるだけの役者。そういう類のものにしかならない。
何より、死んだ者の情報を全て揃えようとしたところで、決して手に入らないものがある。
重要な核であり、失われたらもう二度と手に入らないもの。
それは、“魂”だ。
どれだけ全く同じ細胞を埋め込んでも、全ての記憶を注ぎ込んでも、その肉体に宿っている魂は別人だ。
どう考えたっていつかはそのことに気付いて、さらに苦しくなるのはわかっているのに。
だが、彼女はその領域に踏み込まなければならないほどに追い詰められ、そして実行したのだ。
『これを“プロジェクトF.A.T.E”·············通称“プロジェクトF”と名付けます』
すると突然、空間が一変する。
場所はわからない、だが鬱蒼とした夜の森の中である事だけはわかる。
『█、████···········』
名も知れぬ母親は、もう起き上がれない。
じわり、と。倒れた体と地面の間から染み出すように、赤い液体が溢れてきた。
彼の顔色が変わる。全力で倒れた母親の元へと駆け寄る。なのに、全然近付けなかった。走れば走るほど遠ざかっていき、まるで周囲の闇が彼を近付けないように引っ張っているように思えた。
そんな中聞こえる、一つの声。
『
母親の前に立った謎の人物。
後ろ姿しか見えないから顔はわからないが、神社にいるような巫女さんの服を着込んでいる誰か。
そいつは倒れている母親と、
『·········助けてあげようか?』
『ハァ·········ハァ·········』
近くに人の気配を感じたのか、その母親はゆっくりと口を開けた。血の混じった吐息と共に、真っ赤になった唇が言葉を紡ぐ。
『ど、どうか·········“この娘”を、生き、返らせ、て········』
『················』
巫女のような人物は笑い、母親の願いにこう答えた。
『いいよ』
それを聞いた母親は、天上に浮かぶ月に向かって微笑んだ。閉じられていく瞼の奥に、優しすぎて弱すぎた涙がこぼれ落ちる。
そして。
完全に閉じられる直前に、こんな声が聞こえた。
『
それが悲劇の始まり。
一人の母親が残酷なこの世界を“呪う”には、充分すぎる理由だった。
◇◆◇◆◇◆◇
そして、
「··············?」
まつ毛のヴェールの向こうに眩い光が見える。
注意深く周囲を見まわす。
視界がボヤけ、両眼が燃えるように痛い。頭の中に焼け石でも突っ込まれたみたいだ。全身が冷たいが、手だけがやけに温かい。まるでさっきまで誰かに握られていたみたいに。
閃光。
蜂蜜色の光。
くすくすという笑い声。
いやーまさかこの僕が死ぬことになるなんてねー、という囁きが聞こえる。眼前に人影が浮かびあがり、明るくなったり暗くなったりしている。たぶん死に際に見た天使だろう。彼は暗闇に落ちてはまた覚醒するということを繰り返していた。
暗いが、温かい。
天国ってのは、家庭的な匂いがするんだろうか。
生徒達共々お世話になります、と誰かが言った。
たぶん何か誤算があったのだろう─────それか、嬉しい誤算が。
両眼をきょろきょろと動かすと、家庭的な小さいライトがついた白い光が見える。
死にゆく彼を見つめていた天使の······にしては見覚えのある眼と合う。
大きな眼をした女性の顔に、碧い髪に縁取られている。
肌は磁器のようにつるりとしている。額の謎の模様はなめらかで非の打ちどころのない肌を損なうのではなく、むしろより完璧にしている。青を基調とした制服ではなく、それこそ何処にでもいるような一般的な服を着ていて、唇がやさしい曲線を描いている。
虎杖は寝惚けたように彼女の頬に手を伸ばし、本物かどうか確かめようとする。
そうする前に、そっと手を掴まれる。
彼女の指は温かく、力強い。
「目を覚ましたようね、虎杖君」
と、リンディ・ハラオウンは言う。
心地よく、柔らかみのある声で。その声のおかげで、余計に浮世離れして感じられる。
が、彼女の話はまだ終わっていない。
続く言葉が虎杖の注意を完全に引き付ける。
「ごめんなさいね。極秘の為とはいえ強引に眠らせちゃって」
「······え?」
「昨日のこと、覚えてる?」
昨日。
と言われても記憶がない。
覚えているのは、自分が睡魔に負けて眠ってしまったことだけ。その前後の記憶が曖昧で、何も覚えていない。
鼓動が激しくなる────生きてる証拠だ。
それでも体が思い通りにならずに鈍かったが、意志の力で無理やり動かすと、
「虎杖君······貴方はとんでもない重罪を犯したの。それはわかってるわよね?」
「················」
それを聞いて、虎杖は次第に記憶が甦ってきた。
自分は、自分の中にある『呪い』の制御に失敗して乗っ取られ、それで··················。
全てを思い出した時、虎杖は舌を噛み切ろうとした。舌を噛むというアイディアは魅力的だった。この命を自らの手で終わらせ、二度と誰かを殺さないというアイディアは。
が、その時。
かつて少年院で味わった死に対する恐怖と、眼を見開くほどの驚きが戻ってきた。
何を差し置いても·········やっぱり死ぬのは怖い。
どちらにしても、まだ目を覚ましたばかりで舌を噛み切れるほどの力はなかった。
「悠仁」
すると、反対側から別の声がした。
担任の、五条悟だ。
「悠仁········もうわかってると思うけど、僕らはもうこの世界には存在してないよ?」
振り向いて五条を見た。
眼を細め、理解に苦しむ眼差しで。
「········どういう、こと?」
「
と五条は続けた。
背筋を曲げて、けれど穏やかな物腰で。
「気分はどう悠仁?」
「···············」
「って、聞かなくてもわかるけどね」
五条は笑っているが、その笑みには愉快さは宿っていない。
彼は虎杖悠仁の心情を気にするように、
「
「!?」
虎杖の顔から表情が消えた。
その言葉に続くように、リンディが告げる。
「昨日の夜、貴方達の極秘死刑が執行されて、死亡が確認された。世界中の誰にとっても、貴方達はもう存在しない人間になったの」
「え────!?」
「だけど安心して? 実際は誰も死んでないし、そこで死んだのは魔法で作ったダミーよ」
などと言われても現実感が湧いてこない。
この眠っている間に何があったのか、そればかりが気になって仕方なかった。
一つだけわかっているのは。
リンディ・ハラオウンという人間は自分達を処刑したという事だった。
「ごめんなさいね、貴方達全員を助けるにはこうするしかなかったの」
そう言ってリンディは、空中にモニターを映し出す。
その光景に五条は僅かながらも驚愕していたが、虎杖はそれを見慣れているために大した反応は見せなかった。
だが、そのモニターに映っているもの。
そこには、紛れもない自分達が処刑台に眠らされて毒を流し込まれている映像だった。数秒後、そこにいた執行者らしき人達が自分達の死亡確認をし、霊安室に運び込んでいた。
それからわかる通り、今見せられている映像は自分達が処刑される様子だった。
こんなことされた記憶はない。知らないうちに処刑されたとしても、それなら自分達が今生きているのはおかしい。自分が死んでるのか生きてるのか、胸を押さえて自分の心臓の鼓動をもう一度確かめる。
生きているという実感が欲しくなったのだ。
「ここに映っている虎杖君達はダミーで、その周りにいる人達は死刑執行人。でもその中の数名は、私の“協力者”が手配した特殊工作員。彼らに協力してもらうことで、虎杖君達の死を偽造できた。その“元上司”の名前を明かすことはできないけど、これで貴方達が時空管理局の上層部から追われることになってもこの映像を提出すればもう死んだと判断するでしょうね」
そのためにこんな芝居を打ったというのか。
この映像が偽造だとバレたらそれで終わりだというのに。
何より、それをしたリンディ達もそのことがバレればただでは済むまい。偽造の罪の重さ、それに加え無断で執行したことの罪の重さは計り知れない。
そのリスクを承知でやったというのか。
だから虎杖はこう言った。
「そんなことをしたら、そっちが罪に問われることに────」
「法律上の面倒な問題があるのは確かだけどね」
と、そんな虎杖の言葉を遮るようにリンディが口を開いた。
「あの映像を見せたら、管理局だって諦めるはず。代わりにその“協力者”が罪に問われることになるわけだけど、“その人”はそれを承知の上で実行役を引き受けてくれた。だからこれでもう貴方が追われる可能性は低くなったわ」
「それで納得できるわけないじゃん」
「いえ、納得してもらわなければならないわ。だって、
「は!?」
思わず飛び起きる虎杖。
その“協力者”が誰かは知らないが、自分を殺そうとしたという話を聞いて黙っていられるほど愚かではない。
「俺の命を何度も狙ったって··········じゃあその“協力者”ってまさか────ッ!?」
心当たりがあるのか虎杖がその名を口にしようとした時、リンディがその口を塞ぐように人差し指で彼の口を押さえた。
「大方貴方の予想通りだけど、その名を口にすることは許されないわ。管理外世界とはいえ、管理局である私達がまだ軌道上にいるのだから。軽はずみに口にしたらその人が特定されるかもしれない、私達に危険が及ぶかもしれない。だからどうかこのことは口外しないように、わかったわね?」
そう言ってゆっくりと人差し指を離すリンディ。
虎杖はそれ以上は追及しなかったが、だったら最初からこんなことはせずに本当に自分を殺してしまえばよかったじゃないかと思ってしまった。
そんなことを考えた虎杖を察したのか、リンディはこう言う。
側で聞いていた五条も、同意見だとでも言うかのように頷いていた。
「貴方は悪くない」
「え?」
「貴方は友達を助けるために大きな力を手に入れた。それが邪悪なものだとわかっていても、貴方はその場にいる人達を助けたかったからそれを受け入れた。邪悪な力を制御してまで人を救っていたのに、処刑されるなんてあんまりよ」
違う。
これはそういう種類の力ではない。腕を振れば返り血を浴びるような、そんな力でしかない。種類としては原子爆弾以下、平和利用の糸口が一切見えない絶大なる負の力。
使う事はできても、決してそれは良い結果には繫がらない。
制御できなかったなんてただの言い訳だ、自分が弱かったせいで────この力はただ破壊しか生み出さない。
「いやでも、実際に俺は────」
「やったのは両面宿儺という怪物よ。貴方がやったんじゃないってことはわかってるわ。虎杖君、貴方自身がどう思おうが関係ない。重要なのは、意思よ。強大な力を手に入れて、それを私利私欲で使う奴の方がよっぽど罪深いわ。でも貴方は違う。貴方はその力を人のために使っている。その意思があるだけで、貴方は罪を償うことができる」
「··········」
「だから私は貴方を救いたい。人を助けることができる優しい子を見殺しになんてできない。貴方が何を思おうと、私は何がなんでも貴方を助ける」
「けど!!」
「それとも、虎杖君が最初に言っていた“人を助けろ”という遺言は、貴方にとってはその程度で折れるものだったの?」
「!?」
その言葉を聞いて、虎杖は黙ってしまう。
祖父から託された遺言、“人を助けろ”。
あの言葉の意味を再認識させるリンディは、彼の手を優しく包み込んでいた。
「貴方はその程度で自分の意思を曲げる人じゃない』
それが彼女の意思だった。
虎杖悠仁が人を救う道を選んだように、リンディ・ハラオウンはそんな優しい子供を見殺しにはしない。虎杖悠仁は、リンディの瞳を正面から見据えた。その目には意志の光があった。虎杖からすれば、おかしいとすら思える行動指針。
おそらくそこに、彼女は自分の命を捧げるだけの価値を見出している。
苦いものを嚙み締めている虎杖に、リンディは優しい笑みを浮かべて、
「だから、もうどうかこれ以上自分を責めないで。貴方自身がその“人を助ける”という遺言を忘れてしまったら、虎杖君に遺言を残してくれた人そのものを否定してしまうことにもなるから·········ね?」
リンディは最後までそう告げた。
陽射しを浴びるような、優しい声色で。
「················」
虎杖は、もう何も言えなかった。
リンディの言いたいことが、全て理解できたからだ。
虎杖悠仁という人間は、それが危険だと理解していても友人を救うために力を手に入れた。たとえ死刑になっても、光の道を行く表側の人間でなくなっても、諦めなかった。決して見捨てなかった。
彼は他人の命を救おうとする優しい意思を持って、邪悪な力を受け入れたのだ。
リンディは、その優しさを守りたかった。
その優しさの果てに待つ結末が、残酷なものであることが許せなかったのだ。
その意味を知って、虎杖は思わず頬に何か熱いものが伝っていくのを感じた。まるで氷が溶けたように、あの邪悪なものが封じ込められている目尻にある亀裂に涙が染み込んでいく。
虎杖は、重い何かが抜けきったような気がしてため息をついた。
そして、ふと思う。
「··········ところで、ここは?」
「なのはさんの実家よ」
彼女は特に躊躇うこともなくそう告げた。
『あのままアースラにいたら、貴方達に危険が及ぶ。時空管理局の所有物に関わっていたらそこから足が付いて貴方の存在を知られてしまうわ』
だから、とリンディは言うと、
「虎杖君達が元の世界に帰るまでの間、なのはさんのご実家で身を隠していてもらうわ」
◇◆◇◆◇◆◇
そんなこんなで、すでに死んだことにされた虎杖悠仁。
そんな彼が今、喫茶店の床掃除をしていた。
本来、存在していない人物が昼間からこんな喫茶店で呑気に働くことなどできない。
無戸籍。
そんな状態では身元を証明できないため、遺産相続やパスポート、運転免許の取得、銀行口座の開設、就職、進学など、さまざまな社会生活上の不利益を被る。
そんな彼が喫茶店で普通に働いている。
それはリンディ達によるサポートがあって出来ること。裏で手を回して細工をして、不都合のないように世間を欺いている。
本当なら隠れて過ごすべきなのかもしれないが、高校生がずっと家の中で引き篭っていたら逆に不自然だ。高町なのはの家族だって仕事や学校がある。それなのに家の電気がついていたりしたら、誰かが無断で住み着いているなんて思われるかもしれない。何より、ずっと見張っていないといけないので必然的に彼らも連れて行かなければならない。
そしてやって来たのが、この喫茶店『翠屋』だ。
売りは、勿論コーヒー。
あとシュークリームだ。
まずはこのお店のルールを聞かされ、伏黒と釘崎は接客を任された。
それで虎杖は何をするのか。
『桃子さん、俺はまずは何からやるんスか? やっぱりコーヒー淹れ?』
『翠屋』の制服に身を包み、虎杖は息巻きそう尋ねた。
コーヒーを淹れたことはないが、有名店でちゃんと指導して貰えばお客に出せるものにはなるはずだ。客との接し方はわからないが、店員と客であれば大して関わる必要もないだろう。
しかし高町夫妻が虎杖に渡してきたのは、コーヒーとは全く関係ないバケツとモップだった。
『あのー、これは··········?』
まさか、このバケツとモップを使って創作ダンスを披露し、客を魅了しろということだろうか。
確かにそれも目立つ上に人気が出るかもしれない。
だが、士郎の返答は至ってシンプルだった。
『君には店の掃除をしてもらいたいんだ』
聞いて、虎杖の目が丸くなる。
掃除、誰でもできる簡単でくだらない作業。同級生二人には接客を任せ、自分は店の整理整頓。
何で俺だけ!? と文句の一つを言っても良かったかもしれない。
しかしここで、虎杖はハッと気がついた。
自分だけが掃除を任された本当の理由を。
『··········フッ』
自分だけしかできない使命。
そのことに虎杖はにやりと笑って鼻を擦ると、モップを受け取る。
『押忍!』
そして、不慣れな掃除を開始したわけだが。
「あれ。マスター、新しい子達雇ったの?」
それから程なくして、常連さんらしき客が店に入ってきた。見れば出社前の若いOLだ。彼女は物珍しそうに虎杖や伏黒達を見ている。
「あ、 いらっしゃいませー!よく俺が新しく入ったってわかったね」
「だって君、モップ振り回して床びちゃびちゃじゃん! 飲食店でこれはあり得ないでしょー、減給ものだわー」
掃除の手を休め声をかけたのだが、冷たい返事が返ってきた。
本当ならこめかみに青筋を浮かみあがらせても良かったと思うかもしれないが、その程度では虎杖にダメージは負わせられない。
ここはなのはのご両親が経営している『翠屋』
迷惑をかけないようにちゃんと接しなければ。
虎杖はモップを握り直して自分を抑えつつ、笑顔で返す。
「ハハッ、実はまだ働き始めたばっかなんで慣れてなくて。でも、お客さん達にも満足してもらえるように頑張っからさ、もうちょい待っててよ」
「マスター、いつものモーニング!」
「·········」
OLは早々と虎杖から視線を外して注文している。
虎杖は特に気にすることもなく掃除に戻った。
そのまま無関心を決めこもうとしたのだが、客が一人、二人とやって来る。出勤前の社会人や近所で和菓子店を営んでいるという老婆、偶然立ち寄った者に高町夫妻と顔馴染みのお客様。
本当に人気店なんだなー、と。
虎杖はそう思いながら、新たに渡された新聞紙で窓ガラスを拭いていく。
その間、伏黒と釘崎は接客をしているわけだが、
「すみませーん、注文お願いしまーす!!」
「お兄さん! コーヒーのおかわり!!」
「あ、そこのお姉さん!! 次はこっちね!!」
「「少々お待ちください!!」」
と、忙しなく動いているために二人とも顔中に汗が噴き出している。
余裕がなさそうに、あっちこっち行ってはお客様の注文を聞いている。
その様子を見て、虎杖は笑う。
「なんか、こうやってみんなで汗水垂らして働くっていうのも楽しくていいな!!」
「「誰のせいでこうなったと思ってんだよ!?」」
と、つい大声を出してしまったせいで周りにいるお客達を驚かせてしまう二人。
実は二人とも、訳もわからずに眠らされて死んだことにされて少々キレ気味。別に欺くのは良い、仲間の尻拭いだってなんだってする覚悟を持っていた。だが、まさか起きたら喫茶店で働くことになるとは思ってもみず、しかもその喫茶店がめちゃくちゃ人気店だからすごい忙しい。マニュアルも特になく経験を積み重ねて理解しろスタイルのため、お客の対応に追われて顔中に汗が浮かんでいる。
それなのにこうなった原因である虎杖悠仁だけ掃除しかしてないし、その悠然とした態度が鼻について、つい怒鳴ってしまった。
その光景を見て、カウンターで優雅にコーヒーを飲んで一般人を装っているサングラスを掛けた銀髪の男は愉快そうに笑う。
「いやー、みんなが楽しく青春を謳歌しているようで僕も嬉しいよ」
「「それでなんで先生はくつろいでんだ!?」」
続けて大声で叫ぶ二人は、自分達の担任が働きもせずにコーヒーとシュークリームを楽しんでいる光景を見て口調を荒げる。
「先生は明らかに働く側でしょうが!? 何客側でのんびりしてんのよッ!?」
「自分だけ楽しないでください!! いい加減にしないとぶん殴りますよッ!?」
「このシュークリーム本当に美味しいですね。甘い物好きの僕でもこんなの食べたことないですよ」
「そう言って頂けてとても嬉しいです! ウチのオリジナルなんですよー」
「「聞けよ!?」」
「ハハ! 先生楽しそうだな!!」
「「お前は笑ってんじゃねぇ!!」」
もはやいつもの二人ではなかった。
高町桃子の作ったシュークリームに感動している五条悟。その様子に二人はついにキャラ崩壊するほど怒り狂い、その怒りの矛先を全ての原因である虎杖に向ける。ついに耐えられなくなったという感じで、二人は虎杖にチョークスリーパーを決めて頸動脈を圧迫する。
泡を吹いてギブギブと二人の腕を叩く虎杖を無視し、伏黒は首を絞めて、釘崎はさらに圧迫するために虎杖の頭を押えつける。そんなバーサーカー状態で自分を見失っている臨時店員二人をついに店長達自らが止めに入る。
その光景を見て、彼らの担任はコーヒーを一口飲んで微笑む。
「いやー、青春だねぇ」