先輩が好きだと自覚してから、日常が一変した。
正確に言えば、日常の形は何も変わっていない。変わったのは、私の認識だ。朝食の匂いで目が覚めること、朝に「いってらっしゃい」と送り出してくれること、夕方に「おかえり」の声で迎えられること。
それらの、当たり前に受け入れていた一つ一つが、何か特別で、大切なものに思えるようになった。
それとは別に、最近は気になることもある……。
出張から戻ってきてからというもの、先輩の精神や行動の変化は、目に見えて加速していた。
以前の先輩にはなかった距離の詰め方をするようになっている。
「行ってらっしゃい」の時に私の背中をぽんと叩く仕草、夕食のテーブルで「千賀が喜ぶ顔が見たい」と平然と口にする無防備さ、ソファで並んで座るときの距離感。
どれも先輩にとっては自然な行為なのだろうが、こちらにとっては一つ一つが心臓に悪い。
何より一番の問題は、先輩がそれを、恋愛感情として行っているのかどうかが、判別できないことだった。
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月曜日の朝。
「おはようございます、先輩」
「おはよ、千賀。……寝癖ついてるよ」
リビングに出ると、先輩がキッチンからこちらを見て笑った。朝食の支度をしながら、目ざとく私の髪の乱れに気づいたらしい。
「直してきます」
「まってまって、ここ座って」
先輩がそう言いながら、ダイニングチェアを引いた。
私が、おずおずと座ると、先輩は洗面台から持ってきたブラシで、私の寝癖を直し始めた。寝起きの髪を丁寧にとかしていく先輩の手つきは柔らかく、頭皮を引っ張ることもない。
出張後に髪を乾かしてもらった時もそうだったが、先輩は人の髪に触れるのが驚くほど上手い様に思えた。
「千賀の髪、やっぱりさらさらだね。手入れしてないのにこれだけ綺麗なの、ずるい」
「先輩の方が……」
「僕のは長いから、手入れしないと毛先とか即座に傷むんだよ。千賀のセミショートがちょっと羨ましい。あ、ここの毛先がちょっと跳ねてるな。水つけていい?」
「……どうぞ」
先輩が指先を軽く濡らしてきて、跳ねた毛先を押さえた。指が耳の付け根あたりをかすめた時、背筋に小さな震えが走って、私は口を引き結んだ。先輩は気づいていない。私の耳が今、どれほど熱くなっているかにも。
「はい、できた。よしよし、綺麗になった」
先輩は満足そうに頷いて、朝食の支度に戻っていった。
……先輩は自分の変化に気づいているのだろうか。
先日、精神面の変化について尋ねた時、先輩は「フランス菓子に興味が出てきた」と答えた。的外れにも程がある。
先輩は明らかに、行動も言葉遣いも感情表現も変わっているのに、自分では大した変化とは認識していない。
研究者としての私は、この変化を記録し分析すべきだと考えている。しかし研究者でない部分の私は、先輩の変化が、少女の身体に引っ張られた結果なのか、それとも別の、感情の変化の表れなのかを、区別したくて、けれどその区別がつかなくて……苦しい。
先輩が作ってくれるお弁当や、毎日の手料理に込められたものは、ただの好意や義務感の延長なのか。
カヌレの型を買う許可が出た時に、私の腕に抱きついてきたあの行動は、身体に引っ張られた幼児性の表れなのか。
それとも……恋愛感情の発露、なのか。
わからない。
先輩は元男性だ。男性だった頃の先輩は、私を後輩として、友人として、大切にしてくれていた。
けれどそこに恋愛感情があったとは思えない。先輩にとって私は、酔っ払って黒歴史を曝け出す様な後輩であり、料理の下手で少し不器用な、ただの友人であり、それ以上ではなかった。なかったはずだ。
今の先輩の行動は、身体の変化に伴う精神の変様が生み出した親密さや行動であって、恋愛感情からのものではないのかもしれない。
もし私がそれを、恋愛感情からのものだと誤読して行動すれば、取り返しのつかないことになる。
あの夜。
あの夜のことを、私はまだ消化しきれていなかった。
先輩がカヌレを焼いて、二人でソファに座って食べた。先輩が精神面の変化について聞かれて「フランス菓子に興味が出た」と答え、私ががっかりしたのを察したのだろう。
何を思ったのか、先輩は自分の最後のカヌレを私の口元に差し出し、「あーん」と言ったのだ。
勿論、冗談だと思った。先輩の軽口だと思った。だから応じた。先輩を困らせるつもりで、目を閉じて、先輩の指先からカヌレを受け取った。
それで、先輩の指が、唇に触れて。
あの感触を、三日経った今も忘れられない。温かくて、ほんの少しだけバターの匂いがして、触れた面積は指先のほんの数ミリだったのに、その熱が唇に焼きついて消えなかった。
そして、先輩の反応が予想外だった。
先輩の顔が真っ赤になっていた。冗談で差し出したはずの本人が、私が応じた瞬間に凍りつき、指先を見つめ、「あ、う、うん」などと声を震わせていた。
あれは、単なる友人に対する反応ではない。
……そう思いたい。けれど確信が持てない。
先輩はもともと感情表現が比較的、豊かな人だった。
性別が変わってからその傾向はさらに強まっていて、些細なことで顔を赤くしたり、声が上ずったりする。先輩の赤面が特別な意味を持つとは限らない。
科学において、仮説を立証するには再現性のあるデータが必要だ。n=1の観測で結論を出すことはできない。あの時の先輩の反応が、私に対する恋愛的な動揺だったのか、それとも身体的な変化に伴う過敏な情動反応だったのかを、一度の出来事で判断することはできない。
けれど、もし仮に、もう一度同じ状況が生じたら。
先輩が私に同じ反応を示したら。それは再現性のあるデータになるのだろうか。
─────
明くる日の夕方。
帰宅すると、キッチンからバニラの甘い匂いが漂っていた。先輩がまたお菓子を焼いていたようだった。
「おかえり、千賀。今日はクレームブリュレ作ったよ」
先輩がキッチンから顔を出した。エプロン姿で、頬にカスタードが少しだけ付いている。先輩はそれに、また気づいていない。
「先輩。頬に」
「え? どこ?」
先輩が手の甲で頬を拭ったが、見当違いの場所を拭いている。
「逆です。右」
「ここ?」
やはり違う場所を拭った。先輩の空間認識能力は、こういう時に極めて怪しくなる。
「……取ります」
気づけば、私は先輩の頬に手を伸ばしていた。
親指で拭う。先輩の肌は柔らかくて、拭った親指に体温が移った。
至近距離であらためて先輩の顔を見ると、色素の薄い睫毛が長くて、赤茶色の瞳が大きくて……その幼い顔立ちが、本当に、綺麗だった。
「あ。ありがと、千賀」
先輩は少し照れたように笑っていた。
「……クレームブリュレ、カヌレの時よりは上手くいったと思うんだ。表面をキャラメリゼするのが楽しかった」
「ガスバーナーを買ったんですか」
「うん。通販で」
「……先輩」
「ごめんなさい」
先輩が両手を合わせて拝んだ。通販でガスバーナーを無断で購入したことへの申し訳なさと、でも全く反省していない表情が同居している。このキッチンがいずれ製菓工房になるのではないかという懸念が、冗談ではなくなりつつあった。
「で、食べる?」
「……食べます」
二人でダイニングテーブルに座った。先輩がクレームブリュレを一つ差し出してきた、小さなスプーンを添えてある。
「表面をスプーンで叩いてみて」
言われるままにスプーンの背で表面を叩くと、パリッと小気味よい音がした。キャラメルの薄い層が割れて、その下からとろりとしたカスタードクリームが覗く。
「綺麗にできていますね」
「でしょ。三回目でやっとこの焼き色が出せた」
三回も焼いたのか。先輩は凝り性だ。料理に関しては最近は特に。
スプーンでキャラメルの破片と一緒にクリームをすくって口に運んだ。キャラメルのほろ苦さと、滑らかなカスタードの甘さが舌の上で溶け合い、卵とバニラの素朴な風味が鼻に抜ける。
「……美味しいです」
「よし!」
先輩はそう言って少し身を乗り出した。その顔は、声色は本当に嬉しそうで、その瞳は真っ直ぐに私を見ていた。私の表情を、反応を……。
観察。
先輩は私を観察している。私の食べ方の癖、言葉の裏の意味、表情の微かな変化。
私が先輩の変化を研究者として観測しているのと同じように、先輩もまた、私のことを見ている。
けれどその観察は、私のような合理に基づいた動機ではなく、もっと素朴な、もっと温かい理由によるもので……。
「千賀、おかわりいる? 僕のも食べる?」
「いえ、今は一つで十分です。先輩が食べてください」
「僕は練習のやつ、たくさん食べたから遠慮しなくていいのに……。じゃあ半分こしようよ。はい」
先輩が自分のクレームブリュレを私の方に寄せてきた。先輩はスプーンで自分の分のクリームを半分ほどすくって、私のクレームブリュレが入っていたココット皿に載せた。
「……私の方が少し多いです。そんなに要らないですよ」
「千賀はもうちょっと太った方がいい。最近少し頬がふっくらしてきたけど、まだ足りない」
「……人の体型に口を出すのは」
「出すよ。千賀の健康管理は僕の仕事だもん」
先輩が当然のようにそう言い切った。
「僕の仕事」その言葉の重さを、先輩自身はどれだけ理解しているのだろう。私の健康管理を自分の役割として引き受けること、それがどれほど親密な関係を前提とした発言であるかを。
友人が友人の健康を気遣うことは珍しくない。けれど「僕の仕事」という言葉には、友情の範疇を超えた何かが潜んでいる気がして、しかし、それもまた、先輩の元来の性格と、性別の変化に伴って強まった保護欲や母性の表れだと解釈することもできて、結局また、私は堂々巡りの思考に陥るだけだった。
─────
その、土曜日の午後は静かだった。
先輩はソファで膝を抱えて、タブレットでレシピ動画を見ていて。最近の先輩のお気に入りは、フランス人パティシエが自宅で菓子を焼く動画シリーズらしい。
字幕を追いながら時々メモを取っている先輩の横顔は、真剣そのもので……こういう集中している時の先輩の表情が、私は好きだった。
好きだ、と思うことに、もう抵抗はなくなっていた。認めた以上、否定し続けることに意味はない。問題は認めた後の処理であり、そこが一番難しく。最近の悩みの種だった。
「千賀、ちょっと来て」
先輩が手招きした。ソファの端に座ると、先輩はタブレットを傾けてこちらに見せた。
「これ見て。タルトタタンの作り方。りんごを飴色になるまでバターで焼くんだって。綺麗じゃない?」
「確かに、見た目は美しいですね」
「今度作ろうかなぁ。りんごの季節だし」
先輩がタブレットを膝の上に置いたまま、自然に私の方に体重を預けてきた。肩に先輩の頭が触れた。茶色のロングヘアが、私の腕にさらりとかかる。
今の先輩は、私よりもかなり小柄な体躯だから、こうやって寄りかかると、私の肩にちょうど収まる形になる。
「先輩」
「ん?」
「……寄りかかっていますが」
「あ、ごめん。重い?」
「重くは、ないですが……」
「じゃあいいじゃん。千賀の肩の位置がちょうどいいんだよね。高すぎず低すぎず」
先輩はそう言って、撤退する気配を見せなかった。押しが強い。相変わらず押しが強い。そして私は、相変わらず、先輩には弱かった。抗えなかった、とも言える。
先輩の体温が肩越しに伝わってくる。シャンプーの匂い、先輩が最近買い替えた、少し甘い香りの匂いだ。
体重は軽くて、華奢な体躯を服越しに感じる。先輩は小柄で細いが、料理をする腕には意外としっかりした筋肉がついていて……。フライパンを振るからだろうか?
この状態で、冷静でいろという方が無理だ。
「千賀、何か硬い。肩に力入ってるよ」
「入っていません」
「嘘。ガチガチだよ。千賀、仕事のしすぎ、肩凝ってるでしょ?」
「……否定はしません」
「じゃあマッサージしてあげようか」
「結構です」
「遠慮しないで。僕、マッサージも得意なんだよ」
先輩が私の肩から身体を起こして、ソファを立って、私の後ろに回り込もうとした。
「先輩。本当に結構です」
「えー」
「これ以上は……」
言いかけて、口を閉じた。「これ以上は心臓が保たない」と言うところだった。危うく本音が漏れるところで、私は残った理性を総動員して言葉を飲み込んだ。
「これ以上は?」
「……これ以上甘やかされると、私が駄目になります」
咄嗟に出た言い訳は、嘘ではなかった。先輩に甘やかされ続けたら、私は確実に駄目になる。甘え癖がついて、きっと仕事の効率が落ちて、論文の締め切りに遅れるようになって、いつも先輩のことを考えて上の空になるだろう。
何なら、最後のものは、既に一度やらかしている。先週の学内ミーティングで、質疑応答中に先輩の作ってくれた弁当のことを考えていた自分に気づいた時は、さすがに背筋が凍った。
「千賀が駄目になるわけないじゃん。千賀は世界で一番、真面目な人だよ」
「先輩が」
言いかけて、また止めた。「先輩がいるから駄目になりそうなんです」とは口が裂けても言えない。
「先輩が?」
「喉が、渇いたので、お茶を淹れてくれたら、嬉しいです」
私は話を逸らした。先輩は「あ、そう? じゃあ、紅茶淹れるね」と立ち上がって、キッチンに向かった。
一人になったソファで、私は額を手で覆った。
……限界が近い。
先輩の無自覚なアプローチは日に日にエスカレートしていて、それに対する私の防壁は日に日に削られていっている。
肩に寄りかかられた時の動悸、頬のクリームを拭った時の指先の熱、カヌレの夜の唇の感触……。
蓄積されたデータは全て、私の感情を一方向に押し流していく。
しかし先輩の側に、同じ方向への流れがあるのかどうかが、わからない。
先輩は私に好意を持っている。それは間違いない。けれどそれが友愛なのか、親愛なのか、それとも恋愛なのか。先輩自身がその区別をつけられていないならば、外側から判定することは不可能だ。
先輩が好きだと自覚する前の方が、楽だった。漠然とした感情の中に浸かっている間は、判断を先送りにできた。
自覚してしまった今は、先輩のあらゆる言動が証拠として積み上がり、けれど、どの証拠も決定的ではなく、私は結論の出ない論文を永遠に書き直し続ける研究者のように、思考の堂々巡りを繰り返している。
「どうぞ、ダージリンだよ。砂糖なし、ミルクなし、濃いめです」
先輩がマグカップを差し出した。私の好みを完璧に把握した一杯。こういう些細な積み重ねが、またひとつ証拠として、私の中に積み上がる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。あ、千賀、明日の夕ご飯、何がいい? リクエストある?」
「先輩が作りたいもので構いません」
「久しぶりに出た、千賀の『何でもいい』。ちゃんと選んでよ」
先輩が頬を膨らませて言う。以前の先輩は、こんな仕草をしなかった。
「では……肉じゃがを」
「お、久しぶりのリクエストだね。了解。千賀好みの甘めの味付けで作るね」
先輩がにっこりと笑って、キッチンに戻っていった。冷蔵庫の中身を確認しに行ったのだろう。その背を見ながら私は、ソファに深く身を預けた。
……私の好みの味付けを「千賀好み」と名づけて記憶していること、それを当然のようにやってのけること。
先輩にとってはきっと、何でもないただの日常なのだ。
けれど私にとっては、その日常の一つ一つが、答えの出ない問いの断片だった。
先輩は私のことを、どう思っているのだろう。幾度となく繰り返す問。
マグカップの中のダージリンは、完璧な温度だった。熱すぎず、ぬるすぎず、私が最も美味しいと感じる温度。先輩はきっと、何度も私に紅茶を淹れる中で、その温度を覚えたのだろう。
先輩は私をよく見ている。きっと私が思っている以上に、愛情深く、丁寧に。
それが恋でないのなら、愛でないのなら……。
恋とは、一体何なのだろう。
私にはわからなかった。
臆病者の私には、確証のない仮説に基づいて行動する勇気が、どうしても出なかった。
【千賀理珠/千賀】
父親は医者。母親は検察官という家庭で育った、純粋培養ド真面目不器用さん。初恋は先輩。
恋の駆け引きとかは何も分からない。