TS→後輩(天才女)のヒモ   作:鰻重特上

11 / 16
今は境界線の上

 

 夢を見た。

 

 男だった頃の夢だ。会社のオフィスで、蛍光灯の青白い光の下、パソコンの画面を睨んでいる。

 

 肩が凝って、目がかすんで、胃が鉛みたいに重い。時計は深夜零時を指していて、デスクの上にはコンビニのおにぎりの空き袋が二つ。隣の席の同僚はとっくに帰っていて、フロアには僕しかいない。

 

 いつもの夢だ。女になる前の記憶が、時々こうやって夜中に蘇る。

 

 でも、今日の夢は少しだけ違った。

 

 深夜のオフィスで一人残業している最中に、ふとスマホを見る。連絡先の一覧をスクロールして、ある名前のところで指が止まる。

 

千賀理珠。

 

 発信ボタンの上で親指が迷って、結局かけない。かけても、今さら何を話すというのだ。疎遠になって何年も経つ。

 

 元気? とでも言うのか、深夜零時に?

 

 男だった頃の僕は、ついぞ千賀に電話をかけなかった。

 

 かけていれば、何か変わっただろうか。

 

 あの頃の僕は毎日、ぎりぎりの状態で、誰かに助けを求める余裕すらなくて、一人で全部を抱え込んでいた。

 

 もし、千賀がいれば、千賀に頼っていれば、あんなに追い詰められることはなかったのかもしれない。

 

 

 でもそれは、今だから思えることだ。

 

 

 目が覚めた時、枕が濡れていた。泣いていたらしい、暗い天井を見上げながら、自分の頬に触れた、涙の跡が冷たく残っている。

 

 男だった頃は、泣くことなんてほとんどなかった、涙を流す余裕すらなかったのか、それとも身体が変わったことで涙腺が緩くなったのか、たぶん、両方だ。

 

 時計を見ると、午前四時半。

 

 まだ起きるには早いけれど、目が冴えてしまって、もう眠れそうになかった。

 

 布団の中で横向きになって、壁の向こうを見る。あちら側は千賀の部屋だ、薄い壁一枚を隔てた向こうで、千賀は寝息を立てているのだろう。

 

 ……千賀がいる。

 

 壁の向こうに、千賀がいる。深夜零時のオフィスで一人きりだった頃とは、何もかもが違う。あの頃の僕には電話をかける様な相手すらいなかったのに、今は壁一枚の向こうに千賀がいて、朝になれば「おはよう」と言ってくれて、夕方には「ただいま」と帰ってくる。

 

 その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 ……大丈夫、千賀がいるから、大丈夫。

 

 そう思った瞬間、不意に怖くなった。

 

 千賀がいるから大丈夫、という思考が、あまりにも自然に浮かんできたことが怖い。いつから僕は、千賀の存在をそこまで前提にして生きるようになったのだろう。

 

 もし千賀がいなくなったら。

 

 唐突にその想像が頭をよぎって、胸の底が冷たくなった。

 

 引っ越す、転勤する、出張で長期不在になる……。どれも現実にあり得ることだ。千賀は優秀な科学者だから、海外の研究機関から声がかかることだってあるだろう……。

 

 千賀がこの部屋からいなくなる可能性は、ゼロではない。

 

 その想像がもたらした胸の冷たさは、出張の時に感じた寂しさとは質が違って、もっと深くて、もっと苦しくて、内臓を直接掴まれるような感覚だった。

 

 ……やめよう、考えても仕方のないことだ。

 

 布団を被って、目を閉じた。千賀はここにいる。明日の朝も、明後日の朝も。

 

 それで十分じゃないか。

 

 千賀の寝息が聞こえるはずもない薄い壁に耳を澄ませながら、僕はゆっくりと呼吸を整えて、浅い眠りに落ちていった。

 

 

─────

 

 

 翌朝、いつも通りに朝食を作った。

 

 鮭のムニエルと、大根と油揚げの味噌汁と、ほうれん草のソテー。千賀の栄養バランスを考えて、最近は毎食のメニューにタンパク質と緑黄色野菜を必ず入れるようにしている。

 

 料理本の栄養学のページに付箋を貼って、千賀に必要な栄養素をリスト化したのは先週のことだ。

 

「おはようございます、先輩」

 

 千賀がリビングに出てきた。今日は寝癖がついていない。珍しい。いつもは右側の毛先が跳ねているのに、今日は綺麗にまとまっている。

 

「おはよう、千賀。今日は寝癖なしだね」

 

「……昨夜、ブラシを枕元に置いて寝ました」

 

「えらいね」

 

「……子供を褒めるような言い方ですね」

 

「普通に褒めてるよ。千賀が身だしなみに気を遣うの、いいことだと思う」

 

 千賀が微かに眉を動かした。

 

 少しむくれた様な表情で、何か言いたそうにしていたが、結局黙って椅子に座った。

 

 味噌汁を一口飲んで、箸が鮭のムニエルに伸びて、止まる。

 

「先輩。今夜、少し話したいことがあるのですが」

 

「ん? 何?」

 

「帰宅してからで構いません。改まった話というほどでもないのですが、先輩の身体のことで」

 

 身体のこと。千賀がそう言う時は、大抵、検査結果や研究の進捗に関わる話だ。

 

 千賀は僕の女体化について、同居を始めた頃から定期的に血液検査や各種、脳波だの、何だのデータを取っている。

 

 研究者として僕の身体の変化を記録し続けてくれていることには感謝しているし、いつか原因がわかるかもしれないという微かな希望も持っていた。

 

「わかった。じゃあ夕食の後にでも」

 

「はい。では」

 

 そう言って、千賀は朝食の続きに戻っていった。

 

 今日のお気に入りは、ほうれん草のソテーのようだった。

 

 

 千賀が鞄を持って立ち上がった。僕は弁当を千賀の鞄に入れてあげて、玄関まで送る。

 

 千賀が靴を履いている間、なんとなく千賀のマフラーの巻き方が雑なのが気になった。

 

「千賀、マフラー」

 

「え?」

 

「巻き方が雑。風が入るよ」

 

 手を伸ばして、千賀のマフラーを巻き直した。首元の隙間をなくすように丁寧に整えて、端をコートの中に入れ込む。作業の途中で千賀の首筋に指が触れて、千賀が小さく息を呑んだのが聞こえた。

 

「……っ」

 

「はい、できた。これで寒くないでしょ」

 

 顔を上げて千賀を見ると、千賀の耳が赤い。いつものことだ。千賀は寒暖差に弱いのだろう……と思っていたのだが、最近ちょっとだけ、別の可能性を考え始めている。

 

 千賀の耳が赤くなるのは、寒い時ではなく、僕が近くにいる時だという事実に、さすがに気づかないほど、僕も鈍くはない。

 

 でも、その事実から先に考えを進めることは、まだできなかった。

 

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 

「……行ってきます」

 

 

 玄関に立ったまま、僕はしばらくドアを見つめていた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 千賀を送り出した後、掃除と洗濯を済ませてから、買い物に出た。

 

 近所のスーパーで夕食の材料を買い、花屋でスイートピーを一束買った。淡いピンクのスイートピー。冬から春にかけての花で、花言葉は「門出」と「優しい思い出」だそうだ。

 

 最近は花屋に寄るたびに花言葉を聴くようになった、以前はそんなことしなかったのに。

 

 

 帰宅して花瓶の水を替え、スイートピーを生けた。リビングのローテーブル、窓際に置くと、冬の日差しを受けて淡い花びらが透けるように光った。千賀が帰ってきた時に、この花が目に入るといいなと思った。

 

 千賀のために花を選んでいる。

 

 その自覚は、もうある。花屋で花を選ぶ時の基準が、いつの間にか「千賀が好きそうな花」になっていることに、もう目を背け続けるのは難しかった。

 

 

 夕食の仕込みをしながら、今朝の千賀の言葉を反芻した。

 

 「先輩の身体のことで、話したいことがある」どんな話だろう。検査結果に何か異常があったのか。それとも、女体化の原因に関する新しい発見があったのか。

 

 まぁ、今は考えても仕方がないので、料理に集中することにした。今日のメニューはビーフシチューだ。

 

 デミグラスソースから手作りするので、圧力鍋を使うといっても、それなりに時間がかかる。

 

 煮込む間にタルトタタンも焼こう。先日通販で届いたタルト型をまだ使っていない。

 

 そんなこんなで、料理に勤しみ、六時を過ぎた頃、スマホにメッセージが届いた。   

 

千賀からだ。

 

『少し遅くなります。八時頃になりそうです』

 

 八時。いつもより一時間半遅い。

 

 了解、と返信しながら、胸の中に小さな不満が芽生えた。「不満」というか、物足りなさに近い感覚だった。

 

 千賀が遅くなること自体は仕方がない。今は研究者の繁忙期ではあるし、実験が長引くこともある。

 

頭ではわかっている。

 

 わかっているのに、あと一時間半も千賀が帰ってこないという事実が、思った以上に……。

 

 

 ビーフシチューの火を弱火にして、ソファに座った。タブレットでレシピ動画でも見ようかと思ったが、なぜか集中できない。窓の外はもう暗くて、街灯の光がぼんやりと差し込んでいる。

 

 出張の時もこうだった。千賀がいない部屋で過ごす夜は、何をしても物足りなくて、時間の流れが妙に遅く感じる。テレビをつけても、料理をしても、掃除をしても、どこか上の空で、千賀が帰ってくる瞬間だけを待っている自分がいる。

 

 ……僕は、千賀がいないと駄目なのかもしれない。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、心臓がぎくりと跳ねた。

 

 いやいや……駄目、というのは言い過ぎだ。千賀がいなくても生活はできる。料理も洗濯も掃除もできる。一人の時間を過ごすこともできる。

 

 ……でも千賀がいない時間は、千賀がいる時間に比べて、圧倒的に色が薄いというか。

 

 千賀がいる時は世界に彩りがあって、千賀がいない時は世界がモノクロームに近づく。そんな比喩がしっくりくるほどに、僕の日常は千賀の存在によって色づけられている。

 

 いつからこうなったのだろう。同居を始めた頃は、千賀といることに、僅かだが居心地の悪さすら感じていたはずだ。元男として、女の身体で、後輩の家に転がり込む後ろめたさ、世話になっている申し訳なさ。

 

 それがいつの間にか、千賀がいることが当たり前になり、千賀がいないことが異常に感じるようになり、今では千賀の帰宅が一時間半遅れるだけで胸がざわつく。

 

 これは、この感情は、友情と言えるものなのだろうか?

 

 友達の帰りが遅いだけで、こんなにそわそわするものだろうか? 不満を覚えるものだろうか? 友達のために花言葉を調べて花を選ぶものだろうか?

 

 

 千賀との間にあるものに、名前をつけるのが、怖いと思った。

 

 名前をつけたら、現状が変わってしまうかもしれない。千賀との関係が壊れるかもしれない。千賀が困るかもしれない。

 

 千賀にとって僕は居候で、元は男の友人で……。

 

 そんな相手から、こんな感情を向けられたら、千賀はどう思うだろう。

 

 

 千賀は優しい人だ。

 

 真面目で、責任感が強くて、僕がどんな我儘を言っても受け止めてくれる。

 

 でもそれは千賀の性格の話であって、千賀の感情とは別だ。千賀が僕を受け入れてくれているのは、友人としての義理か、研究者としての探究心か、それとも……。

 

 それとも。その先を考えかけて、僕は強制的に、思考を閉じた。

 

 

─────

 

 

 八時十分。

 

 玄関の鍵が開く音がして、僕は弾かれたようにソファから立ち上がった。

 

「おかえり、千賀!」

 

 玄関に駆けていく自分の足が、妙に軽い。千賀がドアを開けて入ってきた。コートの肩に雨粒がついている。いつの間にか雨が降り始めていたらしい。

 

「ただいま帰りました。遅くなってすみません」

 

「ううん、大丈夫! 雨降ってるの? 傘持ってってた?」

 

「折り畳みを」

 

「髪、濡れてる。タオル持ってくるからちょっと待ってって」

 

 洗面所からタオルを取ってきて、千賀の前に立った。千賀の黒髪に雨の雫がいくつか光っている。タオルを千賀の頭に被せて、軽く拭いた。

 

「先輩、自分で拭けます」

 

「いいから。千賀が拭くと雑になるでしょ」

 

 千賀の髪をタオルで挟むようにして、丁寧に水気を取る。セミショートの毛先を一束ずつ拭いていると、千賀がじっとこちらを見ているのがわかった。

 

 視線が合って、千賀の瞳の中に自分の顔が映っているのが見えた。

 

「千賀?」

 

「いえ。……ありがとうございます」

 

 千賀の声が、いつもより低くて固かった。

 

 千賀がこういう声を出す時は、何か考え込んでいる時だ、今夜話したいことがある、と朝に言っていた、身体のことでと。

 

 千賀の表情は穏やかだけれど、その奥に真剣さが見えた。

 

「ビーフシチュー温め直すね。着替えておいで」

 

「はい」

 

 千賀が着替えている間に、シチューを温め直し、バゲットをトーストし、サラダを盛り付けた。

 

タルトタタンも上手く焼けた。りんごの飴色が綺麗だ。

 

 千賀が喜んでくれるといいな、と思いながら食卓をセッティングした。

 

 

 夕食は静かだった。いつもなら僕が一方的に話して千賀が相槌を打つ形になるのだが、今日は千賀が何か考えているのが伝わってきて、僕もなんとなく言葉が出なかった。

 

 シチューは美味しくできたと思う。千賀のスプーンの動きはいつも通り、美味しい時の速度で進んでいたから、味は問題ないはずだ。

 

 食後、タルトタタンと紅茶を出した。千賀がフォークでタルトを切り分けて口に運び、目を閉じた。

 

千賀が目を閉じて食べるのは、本当に美味しい時のサイン。これは最近知った。

 

「先輩……。これ、素晴らしいです」

 

「ほんと? やった。りんごの焼き加減が難しくてさ、三回目でやっとコツが掴めたんだよね」

 

「三回も試作をしたんですか?」

 

「小さいのを練習でだよ。千賀に出すものだから、妥協できないでしょ」

 

 ……まただ、さらっと変な事を言ってしまった。

 

千賀に出すものだから。

 

千賀のために。

 

 最近の僕は、こういう言葉が口を衝いて出る頻度が上がっている。言った瞬間に「あっ」と思うのだが、完全に無意識で、止められない。

 

きっとそれが、本心だからだ。

 

 

 タルトタタンを食べ終えて、千賀がフォークを置いた。

 

 紅茶のマグカップを両手で包んで、注ぎ直したばかりの紅茶の湯気の向こうから、真剣な目がこちらを見ている。

 

「先輩。朝、お話があると言いましたが」

 

「うん」

 

「先輩の血液検査の結果について、お伝えしたいことがあります」

 

 千賀の声は落ち着いていたが、いつもの事務的なトーンとは少し違っていた。千賀なりに言葉を選んでいるのが感じ取れる。

 

「先輩のホルモン値なのですが、前回の検査と比較して、いくつか有意な変動が見られました」

 

「ホルモン値?」

 

「はい。端的に言えば……先輩の身体は、女性としてのホルモンバランスが完全に安定期に入っています。女体化当初に見られた不安定な数値の揺れはもうなくて、一般的な健康な女性と同等の値に落ち着いています」

 

 千賀の説明を聞きながら、僕は自分の手を見た。小さな手。白い指。男だった頃とは全く違う手。この手は……もう完全に、女の子の手だ。

 

「それは、つまり……元に戻る可能性は」

 

「現時点のデータからは、自然に元の状態に戻る兆候は確認できていません」

 

 千賀がまっすぐにこちらを見ていた。厳しいことを告げる時の千賀の目、嘘をつかない目。

 

 不思議と、大したショックは少なかった。

 

「……そっか」

 

「先輩」

 

「大丈夫。なんとなく、そうだろうなって思ってたよ」

 

 嘘ではなかった。女体化してから三ヶ月。身体に馴染んできているという自覚は、とっくにあった。

 

 鏡を見ても違和感が薄れてきていて、むしろ最近は鏡の中の自分を「これが僕だ」と受け入れ始めていて、元に戻れないという不確かな確信は、頭の片隅にずっとあった。

 

 千賀がそれを明言してくれたことで、むしろ曖昧なまま抱えていた不安が一つ、形を持った。

 

「ただ」

 

 千賀が少し間を置いた。言葉を慎重に選んでいる。

 

「ホルモンバランスの安定は、精神面にも影響を及ぼしている可能性があります。先輩の言っていた、躁鬱的な気分の波が最近穏やかになっているのは、ホルモンの安定と関連している可能性が高い。そして……」

 

「そして?」

 

「先輩の精神面における変化の一部は、身体の変化に起因するものだと、考えられます。感情表現の豊かさや、対人距離の変化なども……」

 

 千賀がそこで言葉を切った。いつもなら淡々と説明を続ける千賀が、自分から話を止めた。

 

マグカップを持つ手が、微かに震えている。

 

「千賀?」

 

「……すみません。この話の続きは、また今度にさせてください」

 

「え、でも」

 

「今は、まだ。上手く説明する自信がありませんので」

 

 千賀の声が、少しだけ掠れていた。

 

 研究者として冷静に説明することと、千賀個人の感情との間で、何かが拮抗しているように見えた。

 

 千賀が自分の分野に関することで、こんなふうに言葉に詰まるのは珍しくて……。

 

「わかった。急がなくていいよ、千賀」

 

「……ありがとうございます」

 

 千賀がマグカップに口をつけた。紅茶を飲む千賀の顔を、僕はじっと見ていた。

 

 千賀が言いかけて止めたこと、その先に、千賀は何を言おうとしたのだろう。

 

 感情表現の豊かさ。対人距離の変化。

 

 それは、僕が千賀に対して取っている行動のことだろうか。

 

 千賀の腕に抱きつくこと、カヌレを口元に差し出すこと、マフラーを巻き直すこと、千賀のために花を選ぶこと。千賀はそれらを「身体の変化に起因する精神面の変化」として説明しようとしている。

 

 でも……本当に、そうなのだろうか。

 

 僕が千賀のために花を選ぶのは、身体が女になったからか。千賀の帰りを待つ時の胸の高鳴りは、ホルモンバランスのせいか。千賀に触れたいと思う衝動は、身体に引っ張られた結果か。

 

 

 それともこれは、僕自身の感情なのか。

 

 

 身体が変わる前から、千賀のことは大切だった。

 

 疎遠になっても、千賀のことを忘れたことはなかった。連絡先を消さなかったのは、いつかまた会えると、信じていたかったからだ。

 

 今の感情は、身体の変化が作り出した偽物ではない。元からあったものが、身体の変化によって表面に出てきただけなのではないか……。

 

 そんな願いにも似た思いが、僕の胸の中で確かに形を成し始めていた。

 

 

「先輩」

 

 千賀の声に我に返った。どうやら長い事、思考に耽っていたらしい。

 

「ん?」

 

「そろそろ、お風呂に入った方がいいですよ。時間も時間ですから」

 

「うん。……千賀」

 

「はい」

 

「今日の話、ありがとう。正直に言ってくれて」

 

 千賀が少しだけ、緊張していた表情を和らげた。

 

 千賀のこの表情、口元が僅かに和らいで、目の奥に温度が灯る様な……この表情が好きだ。

 

好きという言葉がこんなにも自然に浮かぶことに、もう驚きはなかった。

 

 

─────

 

 

「おやすみなさい、先輩」

 

「おやすみ、千賀」

 

 自室に戻って、布団に入った。今朝見た夢のことを思い出した。

 

 深夜のオフィスで、千賀に電話をかけられなかった男の僕。今の僕は壁一枚の向こうにいる千賀に、「おやすみ」を言える。

 

 

 ……この感情に、名前をつけるのは、まだ、少しだけ怖い。

 

 でも……もう、怖いだけではなくなっていた。




【英輝夜/先輩】
 児童養護施設育ち。施設に許可をもらって、中学頃に施設近くのアパートで一人暮らしを始めてから、ずっと一人暮らし。施設では皆のお兄ちゃん的な立ち位置だった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。