TS→後輩(天才女)のヒモ   作:鰻重特上

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恋をしている

 

 あの夜、私は言葉を止めた。

 

 先輩のホルモンバランスが安定期に入ったことを伝え、元に戻る兆候がないことを報告した。

 

 そこまでは、問題なくこなせた。

 

 けれどその先、先輩の精神面の変化が身体に起因するという説明を続けようとした瞬間、声が出なくなった。

 

 マグカップを持つ手が震えていたのを、先輩に気づかれただろうか。

 

 研究室のデスクで、私はタブレットに表示された先輩の検査データを見つめていた。ホルモン推移のグラフ、脳波パターンの経時変化、血中の各種マーカーの数値。約三ヶ月分の記録が、整然と並んでいる。

 

 データは明確だった。先輩の身体は完全に女性として安定し、それに伴って精神面にも変化が生じている。

 

 感情の閾値が低下し、共感性が増し、対人距離の取り方が女性的になっている。これらの変化は、ホルモンバランスの推移と時期的に一致する。

 

 科学的に見れば、先輩が私に対して見せる行動の変化……距離を詰めること、スキンシップが増えたこと、甘い言葉を口にすることは、身体の変化に伴う精神の変化として説明可能だった。

 

 説明、可能だった。

 

 けれど、あの夜、私が言葉を止めたのは、その説明を先輩に伝えることの意味に気づいてしまったからだ。

 

 先輩の感情の変化が身体に起因すると告げること。それは、先輩が私に向けているものを……。

 

 花を選んでくれること、帰りを待ってくれること、マフラーを巻き直してくれること、あの全てを、「身体の変化が引き起こした反応」として処理することと同義だった。

 

 先輩の感情に、偽物の烙印を押すことになる。

 

 それが、できなかった。

 

 

─────

 

 

 研究室で一人、データを見直していた。

 

 学会発表用の論文とは別に、先輩の女体化に関する記録は個人的なファイルとして管理している。

 

公表するつもりはない。

 

 先輩のプライバシーに関わることだし、何より先輩の身体を論文のネタにすることは、私の倫理観が許さなかった。

 

 脳波のデータを改めて精査した。

 

 先輩の脳波パターンには、興味深い特徴がある。女体化直後は男性的なパターンと女性的なパターンが混在していたが、三ヶ月目に入ってからは、概ね女性的なパターンに収束している。これ自体は、ホルモンの安定と整合する結果だ。

 

 しかし、一つだけ、それでは説明しきれないデータがあった。

 

 先輩の感情反応パターンだ。

 

 女体化に伴う精神の変化が純粋にホルモンに起因するものであれば、感情の変化は全般的かつ非特異的であるはずだ。

 

 つまり、特定の対象に偏らず、あらゆる対人関係において同様の変化が見られるはずである。

 

 けれど先輩の場合、対人距離の変化は極めて特異的だった。

 

 私に対する態度と、それ以外の人間に対する態度には、明確な差がある。スーパーの店員や配達員に対する先輩の態度は、同居開始時からほとんど変わっていない。変わっているのは、私に対してだけだ。

 

 この特異性は、ホルモン変化だけでは説明できない。

 

 先輩が私に対してだけ距離を詰めるのは、身体の変化に起因する全般的な精神変化ではなく、先輩自身の、個別的な感情の表れであると言える。

 

 そこまで考えて、私は椅子の背にもたれた。

 

 これは仮説だ。検証可能な仮説。

 

 しかし、検証には、先輩に直接確認するしか方法が存在しない、という問題を除けば……。

 

 そして、先輩自身が自分の感情を正確に把握していない以上、確認すること自体が結果を歪める可能性がある。

 

量子力学における観測者効果と同じだ、観測すること自体が、対象の状態を変えてしまう。

 

 先輩に「私のことをどう思っていますか?」と聞けば、先輩はその瞬間から自分の感情を意識するようになり、意識したことで感情そのものが変質してしまうかもしれない。

 

 

─────

 

 

 帰宅すると、リビングにスイートピーが飾られていた。淡いピンクの繊細な花びらが、照明の光を受けて柔らかく揺れている。

 

先輩が買ってきた花だ。

 

 先輩は季節の花を定期的に買い替えている。花瓶の水が常に清潔で、先輩がこまめに世話をしていることが分かる。

 

「おかえり、千賀」

 

「ただいま。スイートピー綺麗ですね」

 

「うん。花屋で見かけて、千賀に似合いそうだなって思って」

 

 ……千賀に似合いそう。

 

 先輩は最近、花を選ぶ基準として私を据えている。先輩がそれを友情の範疇だと認識しているのか、それ以上のものだと気づいているのかはわからない。

 

けれど、ピンクのスイートピーの花言葉を先輩が知っているのかどうか、聞く勇気は私にはなかった。

 

 

 夕食はビーフストロガノフだった。サワークリームの酸味と牛肉の旨味が絶妙で、付け合わせのバターライスとの相性も申し分ない。先輩の料理の腕は、同居を始めた頃からさらに向上している。

 

 毎日三食、私のために作り続けてくれている結果だ。

 

「先輩。先日の話の続きなのですが」

 

 フォークを置いて、切り出した。先日中断した話。先輩の精神面の変化について。

 

あれから数日間考えて、伝えるべきことを整理した。

 

「ホルモンに起因する精神の変化の話だっけ?」

 

「はい。ただ、前回お伝えしようとしたことを少し修正させてください」

 

 先輩が小首を傾げた。

 

「修正?」

 

「先日は、先輩の精神面の変化が身体の変化に起因すると申し上げようとしました。それ自体は事実です。ホルモンバランスの変化は精神面に影響を及ぼします。しかし……」

 

 ここからが本題だった。研究室で何度も推敲して、その上で伝えるべきだと考えた言葉を、慎重に口にする。

 

「しかし、先輩に見られる変化の全てが、ホルモンで説明できるわけではありません」

 

「というと?」

 

「先輩の対人距離の変化は、全般的なものではなく、極めて特異的です。特定の……」

 

 言いかけて、一度口を閉じた。「特定の対象」ではなく「私」と言うべきだ。婉曲に逃げるのではなく。

 

「私に対してだけ、顕著に距離が近くなっています」

 

 先輩が目を見開いた。

 

「ホルモンの変化に起因する全般的な精神変化であれば、対人距離の変化は非特異的、つまり、相手を問わず生じるはずです。けれど先輩の場合、変化は私に対してのみ集中しています。これはホルモンだけでは説明がつきません」

 

 先輩は何も言わなかった。フォークを握ったまま、こちらをじっと見ている。

 

「……前回、先輩の精神面の変化が身体に起因すると申し上げようとしましたが、それは不正確でした。先輩が私に対して見せている変化の、少なくともその一部は、身体の変化とは独立した、先輩自身の感情に由来するものであると、考えられます」

 

 沈黙が落ちた。

 

 長い沈黙だった。先輩の赤茶色の瞳が揺れている。こちらを見つめたまま、何かを必死に処理しているようだった。

 

「僕の……感情」

 

「はい」

 

「身体のせいじゃなくて、僕自身の」

 

「その可能性があります。あくまでデータから導かれる仮説ですが……」

 

 先輩が視線を落とした。テーブルの上の自分の手を見つめている。小さな白い手。その手が、微かに震えていた。

 

「千賀」

 

「はい」

 

「その、さ……聞いていいのかわからないんだけど」

 

 先輩が顔を上げた。先輩の目は潤んでいた。泣いているわけではない。けれど感情が溢れかけている様な目だった。

 

「僕が千賀に対してだけ距離が近いって、いうの……千賀は、嫌じゃないの?」

 

 予想外の質問だった。私が嫌かどうかを聞いてくるとは思わなかったから。

 

「嫌ではありません」

 

 考える間もなく口から言葉が出た。

 

 

 先輩が小さく息を吐いた。安堵の息だった。

 

「よかった」

 

 先輩の声は小さくて、少し震えていた。

 

 先輩が「よかった」と言った時の表情が、安堵と、困惑と、それからもう一つ名前のつかない感情が入り混じった表情が……胸の奥を鋭く突いた。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「一つだけ、確認させてください。先日の検査結果、元に戻れない可能性について、先輩はどう感じていますか」

 

 先輩が少し考え込んだ。

 

「最初に女の子になった時は、絶望したよ。戸籍もなくなって、社会的に存在が消えて、この先どうやって生きていくんだって。でも、千賀のところに来て、千賀と一緒に暮らすようになって、今の生活に慣れて、今の自分の身体にも馴染んできて。正直に言うと、元に戻りたいかって聞かれたら……わからない」

 

「……わからない」

 

「うん。前の自分に戻ったら、千賀との今の関係は変わるかもしれないでしょ。それが……ちょっと、怖い」

 

 先輩が最後にぽつりと付け加えた言葉が、私の思考を一瞬止めた。

 

 

 元に戻ることが怖いのではなく、元に戻ったら私との関係が変わることが怖い。

 

 

 先輩はそう言った。先輩にとって、今の身体でいることの最大の理由は、今の私との関係を維持したいからだ。

 

 それは、恋と呼べるのではないだろか。

 

 先輩本人は、きっとまだその言葉を使わないだろう。けれど先輩が私との関係を自分の身体の在り方よりも優先している事実は……。

 

「先輩」

 

「……うん」

 

「その……先輩にとって、今の生活が心地よいものであるなら」

 

 言葉を選ぶ。研究者としてではなく、千賀理珠として。

 

「私も……先輩との今の生活が、とても大切です」

 

 先輩の瞳がまた揺れた。こちらを見つめる赤茶色の目に、窓辺のスイートピーの淡いピンクが映り込んでいた。

 

「千賀」

 

「はい」

 

 

「僕も。千賀との今が、大切」

 

 

 先輩がそう言って、少しだけ笑った。いつもの無邪気な笑顔ではなく、照れと不安と、それから微かな覚悟のようなものが混ざった、見たことのない笑顔だった。

 

 

 ソファに場所を移して、紅茶を飲んだ。いつもなら先輩が私の隣に座るのだが、今夜は先輩が少しだけ間を空けて座った。数センチの距離。それが、先輩なりの慎重さなのだと気づいた。自分の感情が身体だけのせいではないかもしれないと示唆された直後で、先輩は自分の行動を意識し始めている。

 

 その数センチが、たまらなく切なかった。

 

「先輩。いつもの距離で構いませんよ」

 

「え」

 

「肩の位置がちょうどいいんでしたよね」

 

 先輩が目を丸くした。私からこういうことを言うのは初めてだった。いつもは先輩がぐいぐい距離を詰めてきて、私がそれを受け入れる形だった。

 

 今日は、私から先輩を呼んだ。

 

 先輩が恐る恐るこちらに体重を預けてきた。肩に先輩の頭が触れた。茶髪の毛先が腕にかかる。シャンプーの甘い香りがする。先輩の体温が、じわりと肩を温めた。

 

「千賀」

 

「はい」

 

「千賀の肩、今日はあんまり硬くないね」

 

「……自覚はありませんが」

 

「柔らかいよ。いつもの千賀より」

 

 先輩の声は穏やかで、少し眠そうだった。次第に、先輩の呼吸がゆっくりになっていく。

 

「先輩?」

 

 返事がなかった。

 

 肩の上で、先輩の呼吸が規則的になっている。寝てしまったらしい。

 

 動けなくなった。起こすべきだとわかっている。このまま寝かせたら首を痛めるし、風邪を引くかもしれない。

 

 けれど先輩の体温と重さが、あまりにも心地よくて、私は自分からこの状態を終わらせることができなかった。

 

 先輩の寝顔を、横目でそっと見た。

 

 色素の薄い睫毛が頬に影を落としている。唇が薄く開いていて、小さな寝息が漏れている。幼い顔立ちが、眠っているとさらに幼く見える。先輩は三十四歳のはずなのに、こうして眠っていると十代の少女にしか見えない。

 

 

 この人が好きだ。

 

 もう何度目かわからない確認だが、こうして先輩が無防備に眠っている横顔を見ると、その感情は否定しようがないほど鮮明になる。

 

 先輩の前髪が額にかかっていた。指先でそっと払ってやる。先輩は目を覚まさない。指先に、先輩の髪の柔らかさが残った。

 

 いつか、もしかしたら、そう遠くない未来に、先輩に伝えなければならない日が来るだろう。

 

 私の感情を、いつからか続く、この十年以上の想いを。

 

 けれど今はまだ、この肩の温度だけで十分だった。先輩が安心して眠れる場所であることが、今の私にできる最善だった。

 

「……おやすみなさい、先輩」

 

 聞こえていないとわかっていて、小さく呟いた。先輩の寝息が返事のように規則正しく続いていて、その音だけが、静かなリビングに満ちていた。




【千賀理珠/千賀】
 恋の駆け引きとかは全く分かっていないが、無意識にかなりのズルをした。
「貴方の私へのスキンシップも優しさも、全部貴方が私に抱く特別な感情に起因しているんだよ」と告げたようなもの。かなりズル。
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