千賀が僕に告げた言葉を、あれから何度も反芻していた。
僕が千賀に対しての行動の変化、それが身体の変化だけでは説明できないこと、僕自身の感情に由来する可能性があること。
千賀は、慎重に言葉を選んでそう伝えてくれた。「あくまで仮説」だと付け加えて。
あの後、僕は、ソファで千賀の肩に寄りかかって、そのまま眠ってしまったらしい。目が覚めたのは深夜で、自分の部屋の布団の中だった。千賀が運んでくれたのだろう。
僕の今の体重は軽いとはいえ、寝ている人間を部屋まで運ぶのは容易ではないはずだ。千賀は力持ちではないし。
それでも運んでくれた。布団もちゃんとかけてくれていた。
千賀の優しさは、いつもこうだ。言葉にしないまま、行動で示す。僕が気づかないところで、僕のために動いてくれている。
翌朝、「昨日は寝ちゃってごめん」と謝ったら、千賀は「構いません。軽かったので」とだけ答えた。
─────
土曜日の午後。
千賀は珍しく休日出勤で、昼前に家を出た。学会発表の準備だという。僕は千賀を送り出した後、普段通りに掃除と洗濯を済ませて、買い物に出かけた。
スーパーで食材を買って、花屋に寄った。今日はラナンキュラスが入荷していた。幾重にも重なった薄い花びらが、巻きバラのように繊細で美しい。クリーム色と淡い紫の二色があって、僕は少し迷ってから、両方を三本ずつ手に取った。
「贈り物ですか?」
花屋の店員が聞いてきた。
「いえ、自宅用です。同居人の……」
同居人。千賀のことをそう表現した自分に、微かな違和感を感じた。
同居人、事実としては、正しいと思う。千賀は僕の同居人だ。
けれど「同居人」という言葉が、千賀との関係を言い当てているとは到底思えなかった。
「同居人の方が花がお好きなんですね」
「いえ、花が好きなのは僕の方で。でも、その人がいる部屋に花を飾りたくて買ってるので、その人のために、買ってるのかもしれません」
自分で言って、自分で驚いた。
千賀のために花を買っている。
その意識は以前からあった。
けれど実際に、声に出した瞬間に、それがどれほど親密な行為であるかを改めて実感して……。
「素敵ですね」
店員の微笑みに曖昧に頷いて、花を受け取った。
帰り道、ラナンキュラスを抱えて歩きながら、考えていた。
千賀が先日、伝えてくれたこと。僕の感情や行動の変化が、身体のせいだけじゃなくて、僕自身のものである可能性。
あの時、僕は「元に戻ったら千賀との関係が変わるのが怖い」と言った。
あれは本心だった。嘘偽りなく、僕にとって一番怖いのは、千賀との今を失うことだ。
身体が男に戻ることよりも、戸籍がないことよりも、社会的に存在が消えていることよりも……。千賀との今の関係が壊れることが、僕にとっては恐ろしくてたまらなかった。
……友人とは、これほど強く相手を求めるものだろうか。
男だった頃の僕にも友人はいた。大学時代の仲間、会社の同僚、彼らのことは嫌いではなかったが、彼らがいなくなることを想像して胸が、今みたいに冷たくなることはなかった。
彼らの帰りを一時間半待つだけでそわそわすることもないだろうし。彼らのために花言葉を調べることもなかっただろう。
千賀にだけ、僕はこうなる。
千賀にだけ、触れたくなる。千賀にだけ、声を聞くと安心する。千賀にだけ、帰ってきてほしいと願う。千賀にだけ……。
帰宅して、花瓶にラナンキュラスを生けた。クリーム色と薄紫の組み合わせが、リビングの雰囲気によく馴染んだ。
千賀が帰ってきたら、きっと一瞬だけ足を止めてこの花を見るだろう。千賀は花に詳しくないから名前を聞いてくるかもしれない。
「ラナンキュラスだよ」と答えたら、千賀は小さく頷いて、「綺麗ですね」と言うだろう、千賀の「綺麗ですね」は、花ではなく花を選んだ僕の行為に向けられているのだということに、僕は気づいていたし、千賀もきっとそれを隠しきれていないことに気づいている。
二人とも気づいていて、どちらも言葉にしないだけだ。
あの日から何度も繰り返している、自分自身への問い。千賀に対する僕の感情の名前。
その問いに、もう意味なんてないことは、本当はわかっていた。
─────
夕方の五時を過ぎた頃、キッチンでグラタンの仕込みをしていた。ベシャメルソースをホワイトルウから作る。バターを溶かして小麦粉を炒め、牛乳を少しずつ加えながらダマにならないよう丁寧に混ぜる。
地味な作業だが、嫌いではない。料理をしている間は頭が空っぽになって、余計なことを考えなくて済む。
……済む、はずだった。
ベシャメルソースを木べらで混ぜながら、千賀のことを考えていた。今日の千賀は何時に帰ってくるだろう、学会準備は順調だろうか、お昼はちゃんと食べただろうか、弁当を持たせたから大丈夫だとは思うが、千賀は集中すると食事を忘れるきらいがある。
千賀の健康管理は僕の仕事だ。
栄養バランスを考えた献立を作り、弁当を持たせ、帰宅した千賀にお茶を淹れ、疲れてる時はちゃんと休ませて。
僕にとってそれは義務ではなく喜びで、千賀の食べる姿を見るのが好きで、千賀が「美味しい」と目を閉じる瞬間のために料理をするのが……。
……好きだ。
木べらの手が止まった。
ベシャメルソースがふつふつと小さな泡を立てている。火を弱めなければならないのに、僕の意識はソースではなく、今し方、胸の奥から浮かび上がってきた言葉に釘付けになっていた。
好き。
千賀が好きだ。
友人として、ではなく。先輩として、でもなく。
千賀のことが、好きだ。
千賀の真面目な顔が好きだ。
千賀の控えめな笑い方が好きだ。
千賀の赤くなる耳が好きだ。
千賀が「先輩」と呼ぶ声が好きだ。
千賀に触れた時の体温が好きだ。
千賀の隣にいる時間が好きだ。
千賀の全部が……好きだ。
鍋の中のソースがぐつぐつと音を立ていて、慌てて火を落とした、危うく焦がすところだった。
グラタンのソースが焦げる程度のことは、今の僕にとっては些末な問題だったが、千賀の夕食を台無しにするわけにはいかない。
鍋をコンロから下ろして、壁に背を預けた。
認めてしまった。
ずっと避けていた名前を、ついに自分の感情につけてしまった。「好き」。「恋」千賀への恋。
身体が女になったから芽生えた感情ではない。
千賀が言ってくれたように、身体の変化だけでは説明できない、僕自身の感情だ。たぶん、いや、確実に、この感情の根は、もっとずっと前からあった。
大学時代、千賀と過ごした時間は楽しかった。
千賀がゼミで発表する姿を見て、すごい奴だなと思った。千賀と学食で昼を食べる時間が、一日の中で一番安らいだ。
卒業して疎遠になって……独りで潰れかけていた日々の中でも、千賀の名前を連絡先から消さなかった。
あの頃はわからなかった。
千賀への感情に名前をつける術を持っていなかった。後輩を大切に思う先輩の情。友人を想う友情。それ以外の名前を、あの頃の僕は知らなかった。
身体が変わって、壁が取り払われて、感情の出口が開いた。
男だった頃の僕には表に出せなかったものが、少女の身体を通して溢れ出している。
千賀に触れたいと思うこと、千賀の帰りを待つこと、千賀のために花を選ぶこと……全部、ずっと前から僕の中にあったものだ。
身体が変わったから好きになったんじゃない。
身体が変わったから、好きだと気づけた。
その認識が胸に落ちた瞬間、目頭が熱くなった。泣きそうになった。嬉しいのか悲しいのか苦しいのかわからない。全部が混ざり合って、胸の奥がぎゅうぎゅうっと絞られるように、痛い……。
─────
千賀が帰ってきたのは、七時を少し過ぎた頃だった。
「おかえり、千賀」
「ただいま」
玄関に出迎えに行って、千賀のコートを受け取った。千賀の手が冷たい。外は相当寒かったのだろう。反射的に千賀の両手を自分の手で包んだ。
「先輩?」
「手、冷たい。ちょっと温めて」
千賀の指は細くて長い。僕の小さな手で包むには大きすぎるが、指先だけでもと思って握った。千賀の指がぴくりと動いたが、引っ込めなかった。
「……先輩の手も、そんなに温かくないですが」
「僕の方がマシでしょ。ほら、少しはあったかくなった?」
「……はい」
千賀の耳が赤い。千賀の耳が赤くなるのは寒暖差のせいではなく、僕が近くにいるせいだということを、もう知っている。
知っていて……その理由に、今は心当たりがある。
千賀が僕に「嫌ではありません」と言った時の声。千賀が「肩の位置がちょうどいいんでしたよね」と僕を呼んでくれた時の表情。
千賀が眠る僕の前髪を払ってくれた……あの指先の優しさ。
……千賀も、もしかしたら。
その先を考えると、胸の奥が震えた、期待していいのかわからなかった。
千賀がバイセクシャルであることは知っている、大学時代に酔った千賀から聞いた。
可愛い系の人が好みだということも。
けれど、それは一般的な性的指向の話であって、千賀が僕に対して恋愛感情を抱いているかどうかとは、全く別の問題だ。
千賀は僕の後輩で、友人で、同居人で……僕の全存在を支えてくれている人だ。
僕がこの感情を伝えたら、千賀はどうするだろう。千賀は真面目で責任感の強い人だから、たとえ困惑しても、受け止めようとするかもしれない。
けれどそれは千賀の性格であって、千賀の感情とは限らない。
千賀に迷惑をかけたくない……。
千賀は僕を拾ってくれた人だ。戸籍もなく、行く当てもなく、社会的に死んでいた僕に居場所をくれた。
この三ヶ月間、衣食住の全てを支え、研究者としての時間を僕のために割いて、僕のわがままを一つ残らず受け止めてくれた。
その千賀に、恋愛感情を向けることは……負担にならないだろうか。
千賀は優しいから、断らないかもしれない。押しに弱い千賀に、僕の感情を押しつけてしまったら、千賀は逃げ場を失う。千賀にとって僕は居候だ、同居人だ。
その関係に恋愛を持ち込むことは、千賀の日常を壊すことになりかねない。
「先輩。手、もう大丈夫です」
「っあ、ごめん。つい」
千賀の手を離した。離した瞬間に、指先が冷たくなった。
……なんで離しちゃうんだ。
自分に対する苛立ちが、胸の底で燻った。
好きだと気づいたのに、何もできない。気づく前の方が自由だった、無自覚のまま千賀に触れて、千賀の肩に寄りかかって、千賀のために花を選んで……それを、「友情の延長」だと思い込んでいた頃の方が、ずっと楽だった。
自覚したせいで、自分の行動が全部「意味のあるもの」に変わってしまった。
千賀の手を握ることに意味がある。
千賀のためにグラタンを焼くことに意味がある。
千賀の帰りを待つことに意味がある。
その意味を千賀に悟られたらどうしよう……そう考えて、身動きが取れなくなる。
「先輩。今日のご飯は何ですか」
「グラタン。あとサラダと、コンソメスープ」
「楽しみです」
千賀が微かに口角を上げた。
千賀のこの笑い方が、好きだ。好きだと自覚した上で見ると、千賀の控えめな笑顔は、今までよりも、ずっと綺麗で……。
─────
夕食の間中、僕は千賀の顔を直視することができなかった。視線がすぐに逸れてしまう。
千賀が不思議そうにしているのがわかったが、「今日の先輩は静かですね」と言われても、「ちょっと疲れてるかも」としか答えられなかった。
もちろん嘘だ、疲れてなんかいない。
好きな人の前で平静を保つことがこんなに難しいとは、三十四年間生きてきて初めて知った。
「先輩」
「ん」
「グラタン、美味しいです」
千賀が目を閉じてグラタンを食べている。本気で美味しい時のサイン。いつもならそれを見て嬉しくなるだけなのに、今日はそこに別の感情が重なった。
この人のために、ずっとご飯を作ってあげたい。この人が「美味しい」と目を閉じる顔を、ずっと見ていたい。
食後、ソファに座る。
いつもの距離……千賀の肩にちょうど寄りかかれる距離……。今日の僕は、そこに座る勇気が出なかった。
好きだという自覚が、距離を意識させる。昨夜もそうだった。千賀が「いつもの距離で構いませんよ」と言ってくれたから近づけたけれど、今は……。
「先輩。今日は遠いですね」
千賀がこちらを見た。
「え? そう?」
「そうです。普段より、十五センチほど遠い」
「……別に、意図して遠くしたわけじゃ」
「先輩」
千賀が、手を伸ばしてきた。
僕の手首を、千賀の指がそっと掴んだ。力は入っていない。引き寄せるわけでもなく、ただ手首に触れているだけ。
千賀の指は細くて、少しだけ冷たくて、けれど、伝わってくる温度は確かなものだった。
「せ、千賀……」
「私は……先輩にいつもの距離にいてほしいです……」
千賀の声は静かで……でも、僕を見る目は真っ直ぐだった。
胸の奥で何かが弾けた。
泣きそうだった、千賀がそう言ってくれることが嬉しくて、千賀が手を伸ばしてくれたことが嬉しくて、でも同時に苦しかった。
この感情を千賀に伝えたい。伝えてしまいたい。でも伝えたら……。
「もしかしたら」が、怖かった。
「……うん」
千賀の隣に、いつもの距離で座り直した。肩に頭を預ける。千賀の肩は、いつも通りの高さで、いつも通りの温度で、僕を受け止めてくれた。
「千賀」
「はい」
「僕、千賀に、言いたいことがあるんだけど」
心臓が喉の奥まで上がってきた。口を開けば出てきそうで、出てきたら取り返しがつかなくて。
千賀の肩越しに、窓辺のラナンキュラスが見えた。クリーム色と薄紫の花びらが、照明を受けてぼんやりと光っている。
「今日じゃなくて……もう少し、考えてから」
「……わかりました。急がなくていいですよ」
千賀がそう答えた。穏やかな声だった。待ってくれている声だった。
「千賀」
「はい」
「……ありがとう」
「何に対しての感謝ですか」
「全部」
肩の上で、僕は目を閉じた。千賀の呼吸がゆっくりと胸を上下させているのが伝わってくる。この人の隣にいたい、この人の肩に寄りかかっていたい、この人のために、花を選んで、ご飯を作って、おかえりとおやすみを言いたい。
好きだ。
でも今はまだ、声にできない。
もう少しだけ。
この名前を、千賀に届けるための勇気を……もう少しだけ、育てさせてほしい。
【英輝夜/先輩】
『恋を自覚した恋愛クソザコ弱者』。
VS
【千賀理珠/千賀】
『恋を自覚した恋愛クソザコ弱者』。