目が覚めた時、最初に感じたのは肩の痛みだった。
どうやらソファで寝落ちしたらしい。身体を起こそうとして……動けなかった。
隣に温かいものがある。千賀だ。千賀が僕の隣で、僕にもたれかかるようにして眠っている。
昨夜の記憶が、一気に蘇ってきた。
千賀が「好きでした」と言ってくれたこと。
僕も「好きだ」と言ったこと。
両想いだと確認したこと、ソファに並んで座って、千賀の肩に頭を預けて……そのまま、二人とも眠ってしまったらしい。
窓の外がうっすらと明るくなっている。
夜明け前の薄青い光がカーテンの隙間から差し込んでいて、リビングが静かに白んでいる。
千賀の寝顔を、横目でそっと見た。
千賀の黒髪が乱れていて、寝癖がついている。いつもは綺麗にまとまっているセミショートの髪が、今は右側が跳ねて、左側は額に貼り付いている。
……可愛い。
そんな言葉が、自然に胸に浮かんだ。
千賀のことを「可愛い」と思うのは初めてではないけれど、今日のそれは昨日までとは違っていて。
好きな人の寝顔。
好きな人の寝癖。
好きな人の穏やかな寝息。
両想いになった……。
昨夜のことを思い出すと、胸の奥が熱くなる、千賀が泣いていて、僕も泣いていた。
十年以上も言えなかった言葉を、やっと伝え合って、お互いに泣きながら笑っていた。「僕たち、両想いってことでいいの?」と聞いたら、千賀が「はい。両想いです」と答えてくれた。
僕は千賀のことが好きで、千賀も僕のことが好き。
その事実がまだ信じられないような、でも確かに現実であるような……不思議な浮遊感があって……。
千賀がもぞりと身じろぎした。眠りが浅くなっているらしい。このまま起こしてしまうのは忍びないけれど、ソファで二人とも寝たままでは身体に悪い。
時計を見ると、まだ五時半。いつもの起床時間より少しだけ早い。
「……千賀」
小声で呼んでみた。返事はない。千賀の呼吸はまだ規則正しい。
起こすべきか、もう少し寝かせておくべきか迷っていると、千賀の手が動いた。僕の腰のあたりに回っていた千賀の腕が、ぎゅっと力を込めた。
無意識の動作だろう。千賀は甘え下手なくせに、寝ている時は無防備に甘えてくるようだ。
……動けない。
物理的にも、心理的にも動けなくなった。
千賀に抱きしめられている。正確には、千賀の腕が僕の腰に回っているだけだが、この体勢で離れるのは千賀を起こすことになるし、何より……離れたく、なかった。
千賀の温度が、心地よかった。
─────
結局、千賀が目を覚ましたのは六時過ぎだった。
「……先輩」
千賀の声が、いつもより低くて掠れていた。寝起きの声だ。千賀が目を開けて、こちらを見た。
一瞬、千賀の瞳がぼんやりと焦点を探して……僕を捉えた瞬間、千賀の目が見開かれた。
「おはよう、千賀」
「……おはよう、ございます」
千賀の声が、妙に硬い。
昨夜あれだけ泣いて笑って「好き」を言い合ったのに、朝になったら照れているらしい。千賀の耳が赤くなっているのが見えた。
「ソファで寝ちゃったね」
「はい……」
「首、痛くない?」
「少しだけ」
「僕も。ていうか、千賀、さっきまで僕のこと抱きしめてたよ」
千賀の動きが止まった。千賀の腕は、起きた瞬間には僕の腰から離れていたが、今さらのように自分の行動を自覚したらしい。
千賀の顔が、耳だけでなく首まで赤くなった。
「……すみません」
「謝ることじゃないでしょ。僕は嬉しかったよ」
素直にそう言ったら、千賀がさらに赤くなった。真っ赤だ、千賀がここまで赤面するのは珍しい。
昨夜、泣きながら「好きでした」と言ってくれた千賀と、今、耳まで真っ赤にしてそっぽを向いている千賀が、同じ人だとは思えないくらいギャップがある。
「千賀、可愛い」
「……先輩」
「嘘じゃないよ。本当に可愛い」
千賀が立ち上がった。逃げるように洗面所に向かっていく。
「顔を洗ってきます」と言い残して、ぱたぱたと足音が遠ざかっていった。
一人になったソファで、僕は小さく笑った。
僕に「好き」と言った翌朝、真っ赤になって逃げていく千賀。
昨夜の勇気はどこに行ったんだ、と思うけれど……でも、その照れくささが愛おしかった。
千賀も僕と同じように、この新しい関係に戸惑っているのだとわかって、少しだけ安心した。
窓辺のラナンキュラスに朝日が当たり始めていた。クリーム色と薄紫の花びらが、朝の光を受けて淡く輝いている。この花を買った時、僕は千賀のために選んだ。千賀がいる部屋に飾りたいな、と思って。
今なら、その気持ちに正直に名前をつけられる。
好きだから、千賀のために花を選ぶ。好きだから、千賀のためにご飯を作る。好きだから、千賀の帰りを待つ。好きだから、千賀の隣にいたい。
全部、「好き」で繋がっている。
─────
朝食は、いつも通りに作った。
千賀が洗面所から戻ってくる間に、僕はキッチンに立っていた。納豆と卵焼きと、カブと人参の糠漬けと、豆腐とわかめの味噌汁。
昨夜、両想いになったからといって、朝食のメニューが変わるわけではない。
「先輩」
千賀が洗面所から戻ってきた。髪が整えられている。寝癖は直っていて、いつもの千賀に戻っている。けれど頬にはまだ僅かに赤みが残っていて、完全には平常心を取り戻せていないらしい。
「もうすぐできるよ。座ってて」
「……手伝います」
「いいよ、いつも通りで」
「……手伝わせてください」
千賀が僕の隣に立った。いつもなら千賀は座って待っているのだが、今日は横に来た。
僕が卵焼きを焼いている横で、千賀が味噌汁をかき混ぜる。
二人でキッチンに立つのは珍しい。狭いキッチンだから、肩が触れ合いそうな距離だ。
「千賀、近い」
「……すみません」
「謝らなくていいって。……近くていい」
千賀がまた赤くなった。
本当に、今日の千賀は赤面しっぱなしだ。昨夜あれだけ勇気を出した反動なのか、朝になったら羞恥心が戻ってきたのか。どちらにしても、照れている千賀は珍しくて、見ていて飽きない。
卵焼きを皿に盛り付けて、テーブルに並べた。いつもの席に座る。千賀も、いつもの席に座る。向かい合わせの二人。
窓から差し込む真冬の朝日が、何時もより暖かかった。
「「いただきます」」
箸を手に取って、卵焼きを口に運んだ。いつもの味。いつもの朝食。
いつもと同じはずなのに、今日の朝食はやけに美味しく感じた。
千賀が味噌汁を飲んでいる。真剣な顔で、一口ずつ味わっている。千賀のこの表情を見るのが好きだ。
千賀は食べる時は、基本的に話さない。美味しいものを美味しいと感じることに意識を向けているからだと、三ヶ月一緒に暮らしてわかった。
「千賀」
「はい」
「昨日のこと……夢じゃないよね」
千賀の箸が止まった。こちらを見た。
千賀の目は真っ直ぐに僕を見ていた。
「夢ではありません」
「よかった。朝起きたら全部夢だったらどうしようって、ちょっとだけ思った」
「先輩」
千賀が箸を置いた。真剣な顔で、こちらを見ている。
「私も……同じことを考えました。目が覚めた時、先輩が隣にいて、昨夜のことが夢ではなかったと確認できて、安心しました」
千賀が珍しく、言葉を選ばずに話している。
いつもの千賀なら、ちょっと遠回しで、もっと硬い言い回しになるのに、今の千賀の言葉は、素直だった。
「千賀も、そう思ってたんだ」
「はい」
「じゃあ、お互い夢じゃなくてよかったね」
「……はい」
千賀が笑った。昨夜の、泣きながらの笑顔とは違う、朝日の中で、穏やかに微笑むように。
「千賀、好きだよ」
好き、という言葉を今なら素直に使える。昨日までは胸の中で転がすだけだった言葉が、今日からは声に出せる。
朝食の途中に言うには唐突だったかもしれない。でも、言いたくなったから。
千賀の頬が、また赤くなった。でも今度は、そっぽを向かなかった。まっすぐにこちらを見て……。
「私も……先輩のことが、好きです」
胸の奥が、じわりと温かくなった。
好きだと言って、好きだと返してもらえる。
それだけのことなのに、こんなにも幸せだ。
─────
朝食の後、千賀を玄関で見送った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
千賀が靴を履いて、ドアノブに手をかける。
「千賀」
「はい?」
千賀がこちらを振り向いた。振り向いた千賀の頬に……僕は、手を伸ばした。
指先が千賀の頬に触れた。
昨夜、千賀が僕の涙を拭ってくれた時と同じように、頬をそっと撫でた。千賀の肌は冷たかった。
「今日も寒いね。マフラーちゃんと巻いて」
「……はい」
千賀の声が、かすかに震えていた。僕の指先が千賀の頬から離れた後も、千賀はしばらく動かなかった。固まっている。
「早く行かないと遅刻するよ」
「……わかっています」
「千賀、顔赤いよ」
「先輩のせいです」
昨夜、僕が泣いた時に言ったのと同じセリフを、千賀が返してきた、千賀も覚えていたらしい。
僕たちは、昨夜のやり取りを反芻しながら、新しい一日を始めている。
千賀がドアを開けて、外に出た。
振り返って、こちらを見てら、マフラーに半分埋もれた顔で、千賀が何か言おうとして……けれど言葉が出なかったらしく、代わりに小さく手を振った。
千賀が手を振る。
そんな仕草、今まで見たことがなかった。いつもの千賀は、「行ってきます」と言って、まっすぐ歩いていく、手を振るなんて、子供っぽいことはしなかった。
僕は、半分だけ玄関から外に体乗り出して、手を振り返した。
千賀がマンションの廊下を歩いていく。エレベーターに乗るのを見届けてから、ドアを閉めて、リビングに戻った。
千賀がいない部屋は静かで、でも寂しくはなかった。
夕方には千賀が帰ってくる。「おかえり」と言える。「ただいま」と返してもらえる。その当たり前が……今は、特別な意味を持つ。
キッチンで朝食の皿を洗いながら、僕は今夜の夕食のことを考えていた。
千賀が好きなもの、千賀が「美味しい」と目を閉じるもの、千賀のために作りたいもの。
鯖の味噌煮にしよう。千賀は青魚が好きだ。生姜をきかせて、ちょっと甘めに味付けする。
副菜は……切り干し大根の煮物と、小松菜のごま和え。千賀の栄養バランスを考えて……。
デザートは、プリンを作ろう。
カラメルソースをちょっと苦めにして、千賀好みの硬めに蒸す。
考えていたら、自然と鼻歌が出ていた。
掃除をして、洗濯をして、買い物に行って、千賀のために夕食を作る。三ヶ月間続けてきた日常と、何も変わらない。
でも……今日の僕は、昨日までの僕とは違う。
千賀が好き。千賀も僕のことが好き。
その事実が胸の中にあるだけで、同じ日常が、まるで違って見える。
何も変わらない日常、その繰り返しが、僕の幸せだ。
洗い物を終えて、掃除機をかけながら、僕はふと立ち止まった。
三ヶ月前、僕は途方に暮れていた。女になって、戸籍を失って、社会的に存在が消えて、一縷の望みを賭けて千賀の家を訪ねた。
あの時の僕には、未来が見えなかった。どうやって生きていくのか、見当もつかなかった。
今は……見えている。
千賀のために、ご飯を作って、掃除をして、洗濯をして、花を飾って、「おかえり」を言う。千賀の隣で、千賀と一緒に、生きていく。
それが僕の未来だ。
身体が男に戻ることはないかもしれない。戸籍の問題は未解決だ。社会的な存在としての「英輝夜」は、まだ復活していない。
でも、千賀がいる。
千賀が「好き」と言ってくれる。
それだけで、十分だった。
─────
夕方、千賀が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり、千賀」
玄関に出迎えに行った。千賀のコートを受け取って、クローゼットにかける。いつもの動作。いつもの流れ。
コートをかけた後、僕は千賀のところに戻って千賀の手を取った。冷たい。外を歩いてきたから、千賀の手は冷え切っている。
「手、冷たいね」
「はい。今日は風が強くて」
千賀の手を、両手で包んだ。僕の手も温かいとは言えないけれど、千賀の手よりはマシだ。千賀の細い指を、ゆっくりと温める。
昨日までなら、こうやって千賀の手を握ることに躊躇があった。自覚した感情が怖くて、千賀に迷惑をかけるのが怖くて、触れることに意味が生まれることが怖かった。
千賀も僕のことが好きだとわかったから。この手を握っても、千賀は嫌がらないとわかったから。むしろ千賀の耳が赤くなっているのは、嬉しいからだと、今ならわかるから。
「あったかくなった?」
「……少し」
「じゃあ、もうちょっと」
千賀の手を握ったまま、リビングに連れていった。千賀はされるがままについてきた。いつもの千賀なら「手を離してください」と言うかもしれないのに、今日は何も言わない。黙って、僕に手を引かれている。
「千賀」
「はい」
「今日ね、プリン作ったの」
「プリン」
「うん。千賀が好きな、硬めのやつ。カラメルちょっと苦め」
千賀の目が、微かに輝いた。千賀はプリンが好きだ。特に硬めの、昔ながらの味のプリンが好きで、コンビニのプリンは「柔らかすぎる」と不満を漏らしていた。
「楽しみです」
「夕食の後にね。今日は鯖の味噌煮」
「鯖」
千賀の声が、ほんの少しだけ弾んだ。千賀は鯖の味噌煮も好きだ。
一緒に暮らしていると、千賀の好みはだいたいわかる。青魚が好き、味噌味が好き、生姜がきいている方が好き。
「千賀の好きなもの、いっぱい作ったよ」
「……ありがとうございます」
「うん。千賀が好きだから」
千賀が固まった。僕も、自分の言葉に少しだけ驚いた。「千賀が好きなものを、千賀のために作った」という意味で言ったのだが、今の言い方だと、まるで……。
「先輩」
「あっ、うん」
「私も……先輩のこと、好きです」
千賀が、真正面から言い返してきた。照れながら、耳を真っ赤にしながら、でもまっすぐにこちらを見て。
「……僕も、千賀のこと好きだよ」
「……知っています」
「何度でも言う」
「先輩……、ふふっ」
千賀が笑った。呆れたような、でも嬉しそうな笑顔だった。
これが、これからの日常だ。
「好き」を言って、「好き」を返してもらって、一緒にご飯を食べて、一緒にソファに座って、一緒に夜を過ごす。
何も特別なことはない。
でも、全部が特別だ。
千賀の手は、もう温かくなっていて、僕の手も、千賀に触れている部分が温かかった。
【英輝夜/先輩】
この上なく浮かれてる。
気を抜いたら口角が上がり、ニヤついた顔になってしまうのが幸せな悩み。
【千賀理珠/千賀】
「これは夢なのでは?」「先輩かわいい」「えっ、こんなに可愛かったけ?」「あっ、手振ってる……かわいい」「ちっちゃい、かわいい、好き」