一年が経った。
あの夜、先輩……いや、輝夜と私が「好き」を伝え合った夜から、季節が一巡りして、また冬が来た。
窓の外には粉雪が舞っていて、街灯の光に照らされてきらきらと輝いている。
「理珠、見て見て。雪だよ」
先輩がリビングの窓際に立って、外を眺めている。腰まで届く茶髪が、間接照明の光を受けて柔らかく揺れていた。
一年前と変わらない……いや、少しだけ変わった。以前より表情がより豊かになって、笑顔が増えた。
「綺麗ですね」
「うん。明日は積もるかなぁ」
「積もったら、買い物が大変ですね」
「僕が行くから大丈夫だよ。理珠は滑るから」
輝夜がこちらを振り向いて、当たり前のように言った、私が雪道で滑りやすいことを、輝夜は既に知っている。
去年の冬、マンションの前で足を滑らせて転びかけたところを、輝夜に支えられたことがある。
あの時から、雪の日の買い物は輝夜の担当になった。
輝夜は相変わらず、私の世話を焼いてくれる。
一年前と同じように朝食を作り、弁当を持たせ、「行ってらっしゃい」と送り出し、「おかえり」と迎えてくれる。
夕食のメニューは私の好みに合わせて考えられていて、栄養バランスは完璧だ。輝夜が来てから、私の健康診断の結果は劇的に改善した。
変わったこともある。
輝夜は今、「英輝夜」として、正式な戸籍を持っている。
─────
戸籍の問題が解決したのは、三ヶ月前のことだった。
一年以上かかった。私と、研究室の同僚たちの協力を得て、彼女が女体化前の「英輝夜」と同一人物であることを証明するために、膨大な時間と労力を費やした。
DNA鑑定では、輝夜のDNAと女体化前の英輝夜のDNA(以前の住居に残されていた毛髪から採取)が、一卵性双生児レベルで一致した。
完全な一致ではないが、偶然の他人であり得ない程度の類似性だった。
脳波パターン、指紋の微細構造、虹彩パターン……。あらゆる生体認証データを収集し、女体化前後の連続性を立証した。
最も困難だったのは、「なぜこのような変化が起きたのか」を説明することだった。
正直に言えば、今でも原因は不明だ。私の専門である生命科学の知見をもってしても、一夜にして性別が完全に変化する現象を科学的に説明することはできない。
ホルモンバランスや染色体の変化は確認できたが、その変化を引き起こしたメカニズムは依然として謎のままだ。
けれど、原因が不明であることと、現象が存在することは、矛盾しない。
科学の歴史において、現象の観測が先行し、説明が後から追いつくことは珍しくない。私たちは「英輝夜は女体化した」という事実を、膨大なデータで裏付けた。
法的な手続きは複雑を極めたが、研究所の顧問弁護士と行政の担当者の協力を得て、先輩の身元を正式に認定することができた。
戸籍の性別を決める際、輝夜には選択肢があった。
身体は完全に女性だ。ホルモンバランスも、染色体も、外見も……全てが女性のものだ。
医学的な観点からは、「女性」として登録するのが自然だった。行政の担当者も、女性としての登録を推奨していた。
けれど先輩は……「男性」を選んだ。
「なぜですか」
私が尋ねた時、輝夜は照れたように笑って、こう答えた。
「理珠と結婚したいから」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は止まった。
「今の法律だと、同性婚は、まだ色々と面倒でしょ。理珠は研究者だから、研究に集中してほしいし、余計な手続きに時間を取られてほしくない。だから僕が男性で登録すれば、普通に結婚届を出せる」
輝夜は私との結婚を、前提にして話していた。まだプロポーズも受けていないのに、輝夜の中では既に「理珠と結婚する」ことが確定事項になっていた。
「……それは、プロポーズですか」
「あ……。うん、そうかも。ごめん、順番がおかしかった」
輝夜が頬を赤くした。照れている。三十五歳の中身を持つ美少女が、真っ赤になって俯いていた。
「理珠、僕と、結婚してくれますか」
敬語混じりの、ぎこちない言い方だった。輝夜は普段、滅多に敬語を使わないのに、この時だけ「くれますか」なんて丁寧語になっていた。
緊張しているのだとわかった。
「はい。もちろんです」
私は、一秒の迷いもなく答えた。
ずっと前から、その答えは決まっていた。
─────
婚姻届を提出したのは、戸籍の問題が解決してから、暫く後のことだった。
区役所の窓口で、輝夜と並んで書類を提出した。
輝夜の名前は「英輝夜」、性別欄は「男」。
私の名前は「千賀理珠」、性別欄は「女」。
形式上は、異性婚だ。
窓口の職員は、輝夜を見て少しだけ怪訝そうな顔をした。無理もない。
輝夜の外見は完全に女性だ。一五四センチの華奢な身体、腰まで届く茶髪、幼気な顔立ち。
どこからどう見ても美少女にしか見えない。その輝夜が「男性」として婚姻届を出しているのだから、疑問に思うのは当然だった。
けれど書類は全て揃っていた。戸籍謄本も、身分証明書も、全て正式な手続きを経て発行されたものだ。
職員は書類を確認し、問題がないことを確認し、婚姻届を受理した。
「おめでとうございます」
職員がそう言った時、輝夜の目から涙が溢れた。
「輝夜?」
「ごめん……嬉しくて」
輝夜が袖で目元を拭った。私も、視界が滲んでいるのを感じた。
区役所を出た後、輝夜が私の手を取った。いつもより少しだけ強く握っている。
「理珠」
「はい」
「僕たち、夫婦になったね」
「はい」
「理珠は……僕の、妻だ」
輝夜がそう言って、照れたように笑った。
「妻」という言葉が、輝夜の口から出てくるのは不思議な響きがあった。外見上は女性同士が手を繋いでいるように見えるのに、法的には「夫」と「妻」だ。
複雑な構造だ、と思う。
輝夜の精神は元男性で、身体は女性で、戸籍は男性で。私はバイセクシャルで、輝夜を男性として愛していた時期もあれば、女性として愛している今もある。
私たちの関係を一言で説明するのは難しい。
けれど、説明する必要はないのだと思った。
私は輝夜が好きだ。輝夜も私のことが好きだ。
それだけで、十分だ。
「輝夜」
「うん」
「輝夜も私の妻です」
輝夜が一瞬、きょとんとした顔をして……それから、声を上げて笑った。
「そうだね。お互いに妻だ」
「まぁ、法的には違いますが」
「細かいことはいいの」
輝夜が私の手を引いて、歩き始めた。冬の午後の陽射しが、街路樹の影を歩道に落としている。
輝夜と手を繋いで歩く。一年前から何百回も繰り返した動作だ。
けれど今日は「夫婦」として、歩いている。
─────
リビングの窓際で、輝夜が振り向いた。
「理珠、何考えてるの?」
「いえ。この一年のことを、振り返っていました」
「一年かぁ。長かったような、あっという間だったような」
輝夜がソファに座った。
いつもの位置……。私の隣、肩が触れ合う距離。一年前から変わらない、私たちの定位置。
「輝夜」
「うん?」
「結婚してくださって、ありがとうございます」
輝夜が目を丸くした。
「なんで理珠がお礼を言うの。僕の方こそ、結婚してくれてありがとうだよ」
「いえ。輝夜が戸籍の性別を『男性』にしたのは、私と結婚するためでしたから。そのことへの感謝です」
「あぁ……うん。そうだね」
輝夜が少しだけ照れたように視線を逸らした。
「でも、それは僕が理珠と結婚したかったからだよ。理珠のためというより、僕のため。理珠の名字になりたかったし、理珠と同じ戸籍に入りたかったし、理珠の……家族になりたかった……」
輝夜の声が、最後の方で少しだけ震えた。
「家族」
「うん。僕はさ、家族とかいなかったでしょ。親も兄弟もいなくて、身体が変わってからは戸籍すらなくなって……。社会的に存在しないのと同じだった。でも今は、理珠がいる。理珠と同じ戸籍に入って、理珠の家族になれた。それがさ、すっごく、嬉しい」
「…………」
私は輝夜の手を取った。いつものように。
「輝夜は、私の家族です」
「うん」
「私にとっても、輝夜が家族になってくれたことは……十二年待った甲斐がありました」
先輩が小さく笑った。
「十二年と三ヶ月でしょ、正確には」
「覚えていたんですか」
「千賀が前に言ってたから。十一年と三ヶ月って。あれから一年経ったから、十二年と三ヶ月」
輝夜は……私の言葉を、一つ一つ覚えている。
厳密な数字を好む私の癖を、輝夜は理解している。からかっているのではなく、私らしさとして受け止めてくれている。
「輝夜」
「うん」
「好きです」
何度も言った言葉を、また告げた。
この一年で何百回言ったかわからない。けれど言うたびに、何度でも胸の奥が温かくなった。
輝夜に「好き」と言えることが、幸せだ。
「僕も、理珠のこと好きだよ」
輝夜が私の肩に頭を預けた。
窓の外では、雪がまだ降り続いている。街灯の光に照らされて、白い粒がゆっくりと落ちていく。
リビングは暖かくて、輝夜の体温が肩から伝わってきて……。
世界で一番安心できる場所だと思った。
「理珠」
「はい」
「これからも、よろしくね」
輝夜の声は穏やかで、温かかった。「これから」という言葉の中に、長い長い未来が含まれているのがわかった。
一年後も、五年後も、十年後も……ずっと、こうやって隣にいる未来。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
輝夜が私の肩から顔を上げて、こちらを見た。赤茶色の瞳が、照明の光を受けて輝いている。
近い。以前よりも、ずっと近くで見つめ合うことに、もう慣れた。
「理珠」
「はい」
「……キス、していい?」
「……はい」
私は、目を閉じた。
輝夜の唇が……私の唇に、触れた。
柔らかかった。温かかった。吐息が頬にかかって、髪がさらりと私の首筋に触れた。
唇が離れた時、輝夜の頬はほんのりと赤くなっていて。私もたぶん、同じくらい赤くなっている。
「理珠、好きだよ」
「私も……好きです」
短い言葉の交換だった。けれどそれで十分だった。
輝夜がまた、私の肩に頭を預けた、さっきよりも深く、身体を預けている。
私は輝夜の頭を支えるように、少しだけ身体を傾けた。
窓の外の雪は、いつの間にか止んでいて、雲の切れ間から、月の光が差し込んでいる。
リビングの照明と月明かりが混ざり合って、輝夜の髪に淡い光の輪を作っていた。
この人が……私の、家族だ。
夫で、妻で、先輩で、恋人で、家族で……全てだ。
「輝夜」
「ん……」
輝夜の声が、少し眠そうになっている。
私の肩に頭を預けると、輝夜はすぐに眠くなるようだった。
「今日は、ベッドで寝ましょう」
「んー……理珠の肩、気持ちいい……」
「ソファで寝ると、首が痛くなります」
「理珠が一緒なら、どこでもいい……」
輝夜の声が、途切れ途切れになっていく。本当に眠りかけている。
……仕方ない。
私は輝夜の身体をそっと支えて、立ち上がった。
輝夜を抱き上げるのは難しいが、支えながら歩くことはできる。一年前、ソファで眠った輝夜を部屋まで運んだ時よりは、上達したと思う。
「理珠……?」
「ベッドまで連れていきます」
「んー……ありがと……」
輝夜が私に体重を預けている。軽い。華奢な身体は、支えるのにそれほど力は要らない。
寝室のベッドに輝夜を横たえて、布団をかけた。輝夜はもう完全に眠っていて、穏やかな寝息を立てていた。
私も隣に横になった。
輝夜の温度が、布団を通して伝わってくる。
これが、私の日常だ。
輝夜と一緒に朝を迎えて、「行ってきます」「行ってらっしゃい」を交わして、夕方には「ただいま」「おかえり」を言い合って、一緒にご飯を食べて、一緒にソファに座って、一緒のベッドで眠る。
この日常が、私の幸せだ。
輝夜が眠りながら、私の方に寄ってきた。無意識に、私の腕に自分の腕を絡めてくる。
「……『先輩』」
聞こえていないとわかっていて、小さく呼んだ。
「……ずっと、一緒にいましょう」
先輩の寝息が、返事のように規則正しく続いている。
窓の外で、また雪が降り始めたらしい。カーテンの隙間から、白い光がちらちらと見える。
明日の朝は、雪景色かもしれない。先輩が買い物に行くと言っていた、滑らないように気をつけてくださいね、と言わなければ。
明日もまた、先輩と一緒の朝が来る。
明後日も。
その先も。
この先ずっと……「千賀輝夜」と「千賀理珠」の名前が、同じ戸籍に並んでいる。
そんな、特別で、きっとこれから当たり前に変わっていく「幸福」を抱きながら、私は目を閉じて、眠りに落ちていくのだった。
【千賀輝夜/先輩・輝夜】
比較的直ぐに「理珠」呼びには慣れた。
この一年間で料理と製菓の腕は更に磨かれた。
理珠の事が大好きで、頻繁に甘えて、スキンシップをねだっている元三十代男性。見る影もない、基本的にほぼ幼女。
【千賀理珠/千賀・理珠】
「輝夜」呼びにはまだ慣れていない。
直近の健康診断はオールA。体重が増えているかもと懸念していたが、輝夜によって完璧に管理されていたため、ぴったり健康体重だった。少し怖い。
先輩からの誘惑に対して、「これはそういった意図のない無自覚のやつ」、「これはそういうつもりで誘惑してきている」という高度な切り分けを日夜求められている。少しキレそう。
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最後までご拝読いただき、誠にありがとうございます。このお話はこれで完結となります。
私の趣味のままに書いたものでしたが、少しでも楽しんでいただけたなら、これ以上はありません。
あらためて、ありがとうございました。もしよろしければ、「感想」や「評価」を頂けると幸いです。