TS→後輩(天才女)のヒモ   作:鰻重特上

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科学者の憂鬱

 

 正直に言えば、あの日の私は限界に近かった。

 

 研究所から帰宅したのは午後六時半を少し回った頃で、2053年の日本においてはこれでも随分と遅い退勤にあたる。労働環境の改善が社会全体に浸透したこの時代、大半の企業や研究機関は効率的なワークシェアリングと厳格な労務管理を導入しており、私のように週七日研究室に籠もっている人間は珍しい部類に入る。けれど生命科学の最前線は、制度だけでは割り切れない領域を常に抱えていて、細胞は人間の都合で増殖を止めてはくれないし、論文の締切は待ってはくれない。

 

 リビングのソファに鞄を置いて、上着を脱ぐ。冷蔵庫を開ける気力もなく、今夜もサプリメントと水で夕食を済ませようかと考えていた。

 

 毎朝、鏡に映る自分の顔には、疲労からか隈が浮かんでいて、肌も荒れている。わかっている。わかっているけれど、一人暮らしの部屋で自分のために料理をする余裕なんて、もう随分と前からなくなっていた。

 

 この広いマンションに越してきたのは二年前のことだ。研究の成果が認められて収入が増えた時、何を思ったのか3LDKの部屋を選んでしまった。

 

 一人で暮らすにはあまりにも広すぎるこの空間が、時折ひどく冷たく感じられる。使われていない客間、誰のためでもないダイニングテーブルの椅子、静かすぎるリビング。寂しいとは思わない……。思わないようにしている。私は一人でも充分にやっていける、そういう人間だと、自分に言い聞かせてきた。

 

 着替えようとシャツのボタンに手をかけた時、インターホンが鳴った。

 

 こんな時間に訪問者とは珍しい。宅配便の予定もないはずだと訝しみながらモニターを確認すると、そこに映っていたのは見知らぬ少女だった。色素の薄い長い茶髪に、白いブラウスとカーディガンを着た華奢な、というより、幼いと言った方が正確な、可愛い女の子が、不安そうな顔でカメラの前に立っている。

 

「はい、どちら様ですか」

 

 形式的に応答すると、スピーカーから返ってきたのは予想外の言葉だった。

 

『あー、その、僕、英輝夜なんだけど』

 

 一瞬、耳を疑った。

 

 英輝夜。その名前を聞いたのは、いったい何年ぶりだろう。大学時代の先輩で、かつての友人で、そして……私が密かに想いを寄せていた人。大学を卒業して、就職してからは、次第に音信不通になり、何度か連絡を取ろうとしたものの返事はなく、いつしか私も追うことをやめた。

 

 だが、モニターに映っているのはどう見ても十代半ばから後半の少女であり、三十代の男性には見えない。何かの悪戯か、あるいは異常者の類かと警戒心が頭をもたげる。

 

「何を言っているのかわかりません。帰ってください」

 

 冷たく突き放そうとした。そうするのが正しい判断だと、理性は告げていた。

 

 けれど次の瞬間、少女の口から飛び出した言葉が、私の理性を根底から揺さぶった。

 

『千賀さ、大学三年の時に同人誌作ってたよね』

 

 血の気が引くとは、まさにこのことだった。

 

 あれは私の人生における黒歴史の一つだ。大学三年の冬、当時ハマっていたアイドルグループの二次創作に手を染め、勢いで同人誌を一冊作ってしまった。しかもそれを、酔った勢いで研究室の先輩に見せてしまったのだ。翌朝の後悔は、論文のリジェクト十回分に匹敵した。

 

 あの同人誌の存在を知っている人間は、この世に二人しかいない。私と、先輩だけだ。

 

 気がつけば、私はドアのロックを解除していた。

 

 

─────

 

 

 玄関のドアを開けて、まず驚いたのは身長差だった。

 

 先輩は私より身長が高かった。確か百七十五センチくらいあったはずで、大学の廊下を並んで歩く時には私が見上げる側だった。なのに今、ドアの向こうに立っている少女は、私よりも遥かに小さい。百五十センチあるかないか。つまり私は、かつて見上げていた相手を見下ろしている。

 

 その事実だけで、頭の処理が追いつかなくなりそうだった。

 

「……中に」

 

 それだけ言って踵を返したのは、正直なところ、少女の顔をまともに見ていられなかったからだ。幼い顔立ちに明るい赤茶色の瞳、色素の薄い綺麗な肌。客観的に見て、この少女は非常に整った容姿をしている。そしてそれが先輩だという事実を、科学者である私の脳はまだ受け容れられずにいた。

 

 リビングの椅子に座らせて、私は向かいに陣取った。この少女が仮に先輩だとして、一応の話を聞く姿勢を作り、腕を組む。

 

「説明してください。最初から、全部」

 

 少女は素直に頷いて、事情を話し始めた。朝起きたらこの姿になっていたこと。戸籍も銀行口座も使えなくなったこと。行く当てがないこと。

 

 話し方には、確かに先輩の面影があった。少し間延びした語尾、考える時に視線を右上にやる癖、自嘲的な笑い方。見た目は全く変わっているのに、纏っている空気が先輩そのものなのだ。

 

 それでも、私は簡単には納得できなかった。原因不明の性別変換、年齢の逆行を伴う肉体変容、既知の科学では説明がつかない現象だ。だから私は質問を重ねた。大学時代の記憶、二人だけの思い出、私しか知らないはずの些細なエピソード。一時間にわたって、ありとあらゆることを確認した。

 

 そして、あの夜のことも。

 

「大学三年の冬、試験の打ち上げの後……私が何を言ったか、覚えていますか……」

 

 自分でも、なぜこの質問をしたのかわからなかった。確認のためだと、自分に言い聞かせた。

 

「えーと、酔っ払った千賀が僕に絡んできて。自分がバイセクシャルだってことと、可愛い系の人が好みだってことと、あと……最近気になってる人がいるって言ってた……。翌朝、忘れてくださいって、メールが来てたけど……」

 

 そこまで正確に覚えていることに、少し動揺した。あの夜、私はたしかにそう言った。

 

『気になってる人がいる』

 

それが目の前にいる人のことだとは、もちろん伝えていないけれど。

 

「……信じます。あなたが先輩であることを」

 

 口にした瞬間、科学者としての矜持が小さく悲鳴を上げた。こんな非科学的な現象を認めるなんて、と。しかしそれ以上に、目の前の存在が英輝夜先輩であるという直感の方が強かった。理屈では説明できない確信が、胸の奥に根を張っていた。

 

 そして先輩は……、あの弾けるような笑顔でこう言ったのだ。

 

「僕を、ヒモにしてください」

 

「……はい?」

 

 聞き間違いであってほしかった。しかし先輩は、嬉々として「ヒモ」という言葉を繰り返し、家事をするから養ってくれと畳みかけてきた。押しの強さは昔と変わらない。むしろ、この見た目になったことで遠慮が消えたのか、以前にも増して勢いが強い。

 

 断るべきだ。常識的に考えれば、身元不明の、いや、先輩であることは認めたが、法的には身元不明の人間を住まわせるのは様々な問題がある。それに、先輩と一つ屋根の下で暮らすということは……。

 

「お願い。他に頼れる人がいないんだ。千賀だけなんだよ、僕が頼れるの」

 

 その言葉が、私の判断を鈍らせた。

 

 先輩に家族が居ないことは、大学時代から知っていた。家族の話を一度も聞いたことがなかったし、お盆や年末年始にも帰省する様子がなかった。今のこの状態で、先輩が頼れる相手が自分しかいないのだとしたら。

 

 ここで追い返すのは、あまりにも……。

 

「……一つ、条件があります」

 

 私は自分の声が平静を保っていることを確認しながら、条件を提示した。家事を完璧にこなすこと。我ながら言い訳がましい条件だったが、せめて体裁だけは整えておきたかったのだ。タダで居候させるほど甘くはないという建前が、私には必要だった。

 

「やる!絶対やる!完璧にやるから!」

 

 先輩は勢いよく立ち上がった。小さな身体が、ぱっと花が咲いたように動く。その姿が妙に眩しくて、私は思わず目を逸らした。

 

 

─────

 

 

 置きっ放しのレタスと賞味期限切れ間近の豆腐、パスタの乾麺と最低限の調味料。あの貧相な食材で、先輩はニ十分もかからずに料理を仕上げてみせた。ペペロンチーノ、レタスのサラダ、冷奴。品数は少ないが、テーブルに並んだ皿はどれも丁寧に盛り付けられていて、適当に作ったものとは思えない品の良さがあった。

 

 一口食べて、思わず声が漏れた。

 

「……美味しい」

 

 にんにくの香ばしさとオリーブオイルのまろやかさ、唐辛子のほんのりとした辛みのバランスが絶妙だった。乾麺のペペロンチーノでこれだけの味を出せるのは、確かな腕がなければ無理だろう。先輩に料理の腕があるなんて、大学時代には知らなかった。あの頃の先輩は、いつも学食か外食で済ませていたから。

 

 温かい食事を、誰かと向かい合って食べる。

 

 たったそれだけのことが、いつ以来だろう。一人暮らしを始めてから、いや、先輩と疎遠になってから、基本的に私は一人で食事を済ませてきた。研究室のデスクでサンドイッチを齧り、自宅ではサプリメントで栄養を摂る毎日。偶に同僚の付き合いで外食する程度……。

 

それが合理的だと信じていたし、不便も感じていなかった。

 

 なのに今、先輩が作ったペペロンチーノを食べている自分は、何故こんなにも……。

 

「千賀、ちゃんと食べてる?」

 

 向かいの席から、先輩が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。こんな身体になっても、世話焼きなところは変わらない。その顔が、声の調子が、あまりにも先輩で、見た目が少女であることを、一瞬だけ忘れそうになった。

 

「……研究が忙しくて」

 

「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ。肌荒れてるし、隈もできてるし」

 

 容赦のない指摘に、私は思わず目を逸らした。先輩は昔からこうだ。遠慮なく踏み込んでくるくせに、本人にはその自覚がない。言葉に悪意がないから拒絶しづらいし、的を射ているから反論もできない。

 

 食後、食器を洗う先輩の姿を眺めながら、私は考えていた。

 

 この状況を、どう受け止めればいいのだろう。

 

 目の前にいるのは英輝夜先輩だ。それは疑いようがない。話し方も、考え方も、人との距離の詰め方も、全てが先輩そのものだ。ただし、その先輩は今、長い茶髪を揺らしながらスポンジで皿を洗う小さな少女の姿をしている。

 

 腰まで届く髪が、肩甲骨のあたりでさらりと揺れる。カーディガン越しにもわかる華奢な肩幅。こちらを向いた時に見える、幼い顔立ちと明るい赤茶色の瞳。

 

 嫌な予感がした。

 

 この人が、英輝夜先輩でさえなければ……。いや、考えるのはよそう。先輩は先輩だ。見た目が変わっただけで、中身は同じ人間なのだから。

 

 ……いや、だからこそ、なのか。

 

「千賀、食器乾かすマットってどこ?」

 

「左の引き出しの二段目です」

 

「ありがと。……あ、この引き出し、ちょっと散らかってるね。明日整理しようか」

 

 初日からもう家の改善計画を立てている先輩を見て、私は小さくため息をついた。どうやらこの人は本気で、私の家に住み着くつもりらしい。

 

 客間に先輩を案内し、最低限の寝具類を出してから、私は自室に引き上げた。ベッドに座り、天井を見上げる。

 

 今日起きたことを整理しよう。

 

 音信不通だった先輩が、少女の姿になって突然現れた。事情を聞いて、本人であることを確認した。そして、成り行きで居候を許可してしまった。

 

 冷静に振り返れば、突っ込みどころしかない一日だった。

 

 けれど、不思議と、嫌な気分ではなかった。

 

 あの広すぎるリビングに、先輩の声が響いている。キッチンから漂う料理の匂い。誰かと向かい合って食べる食事の温かさ。そういったものが、あの過去から帰ってきたような気がして……。

 

 

 手元のスマホに目を落とすと、明日の予定が通知されている。朝九時から研究所で会議、午後はラボ作業、夕方に論文の査読。いつもと変わらない一日が待っている。ただ、明日からはこの家に帰ってくると先輩がいる、というだけの違い。

 

 たったそれだけのことが、なぜか少しだけ気持ちを軽くしているのが、自分でも不思議だった。

 

 

─────

 

 

 翌朝、目覚ましより先に目が覚めた。

 

 珍しいことだった。ここ数ヶ月、慢性的な睡眠不足のせいで、アラームが三度鳴ってからようやく身体を引き剥がすようにしてベッドを出るのが常だったのに。時計を確認すると午前六時二十分、いつもより四十分も早い。

 

 リビングに出ると、既に先輩がキッチンに立っていた。

 

「あ、千賀おはよう。もうちょっとで朝ごはんできるよ」

 

 振り返った先輩は、私のシャツを借りてパジャマ代わりにしているらしかった。私の服だから当然サイズが合っておらず、襟元が大きく開いて鎖骨が見えている。裾は膝上まで届いて、まるで短めのワンピースのようだ。長い茶髪を後ろで一つに束ねて、手際よくフライパンを操っている。

 

「……先輩、早いですね」

 

「うん、なんか目が覚めちゃって。せっかくだから朝ごはん作ろうと思って。昨日の冷蔵庫の中身じゃ足りなかったから、近くのコンビニで卵と牛乳とパンと、サラダだけ買ってきた」

 

「え、外に出たんですか? その格好で?」

 

「さすがにコートは羽織ったよ。大丈夫、誰にも怪しまれなかった。たぶん」

 

 たぶん、という不確かな言葉が引っかかったが、追及する前にテーブルの上に並べられた皿に目を奪われた。

 

 フレンチトースト、スクランブルエッグ、簡素なグリーンサラダ。フレンチトーストは綺麗な焼き色がついており、バターの甘い香りが食欲をそそる。

 

「はい、座って座って。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

 

「……紅茶を」

 

 促されるままに、椅子に腰を下ろした私は、目の前に置かれた朝食を呆然と眺めた。この部屋のダイニングテーブルで、誰かと朝食を食べるのは初めてのことだった。

 

「……いただきます」

 

 フレンチトーストを一切れ口に運ぶ。卵液がしっかり染みたパンの表面は香ばしく、中はしっとりとしていて、控えめなメープルの風味が口の中に広がった。

 

「美味しい……」

 

「よかった。メープルシロップがちょっと少なかったから心配だったんだけど」

 

 向かいに座った先輩が、嬉しそうに笑った。

 

 大きなシャツに包まれた小さな身体が、にこにこと笑いながら、フレンチトーストを頬張っている。口元にメープルシロップがついているのに気づいていない。三十四歳の中身を持っているはずなのに、その仕草はどこか幼くて、放っておけない雰囲気がある。

 

「先輩、口元」

 

「え? あ、ほんとだ」

 

 先輩は慌ててテーブルの箱ティッシュで口を拭いた。少し照れくさそうに笑うその顔は、大学時代に見た先輩の笑顔と同じで、同時にまるで違っていた。同じ人なのに、見た目が変わるだけでこうも印象が変わるものだろうか。

 

 いけない、と私は内心で自分を諫めた。今の先輩の見た目がどうであれ、中身は先輩だ。大学時代の先輩後輩、それ以上でもそれ以下でもない。見た目に惑わされるような真似は、してはいけない。

 

「千賀、今日は何時に出るの?」

 

「八時過ぎには出ます」

 

「了解。じゃあ、出かけてる間に掃除と洗濯しておくね。買い物も行きたいから、スーパーの場所とか教えてもらっていい?」

 

「近所の案内は後で……。いえ、地図アプリで確認してください。それから、鍵は……」

 

「あ、合鍵。そっか、必要だよね。どうしよう」

 

「帰りに作ってきます。今日のところは、オートロックの暗証番号を教えておくので、それで入ってください」

 

 こんな自然にこの人との生活について話し合っている自分に、少し驚いた。昨夜の今朝で……。

 

流されやすい性格ではないはずなのに、先輩のペースに巻き込まれると何時もこうだ。いつの間にか物事が進んでいく。

 

 大学時代からずっとそうだった。先輩の押しの強さは天性のもので、本人に自覚がない分だけ余計に厄介なのだ。

 

 食事を終えて、身支度を整えて、玄関に立った。靴を履きながらリビングを振り返ると、キッチンで洗い物をしていた先輩も振り返った。

 

「行ってらっしゃい、千賀」

 

 何気ない一言のはずだった。

 

 なのに、その言葉がすとんと落ちてきて、奇妙な重みを残した。

 

 この家を出る時に、誰かから「行ってらっしゃい」と言われるのは、この部屋に住み始めてから、初めてのことだった。

 

「……行ってきます」

 

 小さく応えて、私はドアを閉めた。

 

 廊下を歩きながら、先輩の声がまだ耳に残っていた。少女の澄んだ声で発せられた、何でもない挨拶。それだけのことが、どうしてこんなにも胸に引っかかるのだろう。

 

 エレベーターのボタンを押して、深く息を吐いた。今日は長い一日になる。会議と実験と査読に追われる、いつも通りの一日。ただ、その一日が終わった後に帰る場所に、あの先輩がいる。

 

 それを思うと、ほんの少しだけ、足取りが軽くなった気がした。

 

 自分でも、その意味はわからなかったけれど……。




【千賀理珠/千賀】
 英輝夜の大学時代の後輩。
現在は生命科学の研究室に勤めるスーパーエリートウーマン。家事能力がない訳では無いが、効率主義なので家の生活感が死んでいる。
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