TS→後輩(天才女)のヒモ   作:鰻重特上

3 / 16
居心地のいい場所

 

 千賀の家に転がり込んでから、一ヶ月が経っていた。

 

 朝六時に起きて、朝食を作り、千賀を送り出す。掃除と洗濯を片付けて、昼は適当に済ませて、近所のスーパーで買い物をして。

 

 夕方からは夕食の仕込みに取りかかって、千賀が帰ってくる頃にはテーブルの上に温かい食事が並んでいる、というのが、このひと月で出来上がった僕の日課だった。

 

 会社で働いていた頃と比べれば、信じられないくらい穏やかな毎日だ。あの頃は朝から深夜まで数字に追われて、帰宅すればシャワーを浴びて倒れ込むように眠るだけの繰り返しだった。休日も返上で、趣味に使える時間なんて全然なくて……。

 

 生きているのか死んでいるのかわからないような日々が何年も続いていた。

 

 それが今はどうだろう。毎朝ちゃんとした時間に起きて、誰かのために朝食を作って、季節の食材何かを選んで、献立を考えて、家を綺麗に整えて。こんな生活が自分に訪れるとは、一ヶ月前には想像もしていなかった。

 

 ヒモ、と自分で言った手前、多少の後ろめたさがないわけではない。でも千賀は本当に家事をする気力がないらしく、僕が来る前のこの部屋がどんな状態だったか思い返すと、むしろ感謝されてもいいくらいだと思う。冷蔵庫の中身があの萎びたレタスと豆腐だけだった初日の光景は、今でも忘れられない。

 

 などと、そんなことを考えながら、僕はリビングのソファに寝転がっていた。

 

 午後二時。洗濯物は干し終えた。掃除も済んだ。夕食の買い物はまだだけど、もう少しだけゴロゴロしていたい。根が怠け者の僕にとって、家事の合間のこの時間はささやかな至福だった。

 

 ソファに顔を埋めると、柔軟剤のいい匂いがした。これは僕が選んだやつだ。千賀は最初、洗濯物に匂いなんか必要ないと言っていたのだが、一週間も経たないうちに「……悪くないですね……」と認めてくれた。

 

 あの時の千賀の表情が少し悔しそうだったのが面白くて、僕はつい調子に乗って、翌週には千賀のバスタオルもシーツも全部お気に入りの柔軟剤で洗ってやった。

 

 視線を巡らせると、一ヶ月前とは随分と様子の変わったリビングが目に入る。

 

 テレビ台の隅には、僕が通販で少しずつ買い足した調理本が数冊並んでいる。キッチンカウンターの上には、千賀なら絶対に買わなかったであろう可愛いデザインのスパイスラックが鎮座していて、中にはこの一ヶ月で集めた調味料がぎっしり詰まっている。

 

 ダイニングテーブルの上には小さな花瓶があって、近所の花屋で買ってきた季節の花であるガーベラが活けてある。

 

 千賀は花を見て「先輩、男の人なのに花を飾るんですね」などと言っていたが、綺麗なものを綺麗だと思う気持ちに性別は関係ないだろうに。

 

 まぁ、もっとも、今の僕は見た目だけなら完璧な美少女なわけだが……。

 

 

 今日の夕飯を考えるついでに、冷蔵庫を開ければ、あの空っぽだった庫内は嘘のように充実している。

 

 野菜室には使い切れなかったいくつかの野菜、チルド室には切り分け、小分けにした肉、ドアポケットには冷蔵保存が必要な調味料がずらりと並んでいる。

 

 千賀の肌の調子が最近、良くなったのは、考えるまでもなく栄養バランスのとれた食事のおかげだろう。つまり僕のおかげだ。

 

 隈もだいぶ薄くなった。目に見えて健康的になっていく千賀を見ていると、なんだか自分まで嬉しくなる。

 

 不思議な感覚だった。

 

 他人の世話を焼くのが、こんなに楽しいと思ったことは初めてかもしれない。いや、僕は昔からわりと世話好きな方だったとは思うけれど、ここ数年は自分の健康すら危うくて、他人のことを気にかける余裕なんてなかった……。

 

でも今は、千賀のために何かをするたびに、千賀の反応を想像するたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるような気がする。

 

 それは多分、久しぶりに誰かの役に立てているという実感があるからだろう。僕みたいな社会的に存在しない人間でも、誰かの生活を支えることはできる。その事実が、僕を少しだけ救ってくれているのだと思う。

 

 

─────

 

 

 ソファでうとうとしていたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 

 目を覚ますと、午後四時を過ぎていた。まずい、夕食の買い物に行かなければ。今日の献立は肉じゃがにしようと思っていたのに、肝心のジャガイモが足りなかったのだ。

 

 慌てて起き上がり、身支度を整える。この一ヶ月で服も少しずつ増えて、千賀のクローゼットの一角には僕の服が並ぶようになった。今日はアイボリーのニットにベージュのワイドパンツ。

 

最初の頃はジーパンばかり選んでいたのだが、最近はゆるいパンツスタイルの方が動きやすくて好きだ。

 

 ふと、「好き」と、今、さらっと思ったことに少しだけ引っかかった。

 

 女の子の服に「好き」も「嫌い」もないはずだ。僕は男なのだから。少なくとも、中身は。ただ、最近はこの身体に慣れてきたせいか、鏡を見ても一ヶ月前ほどの違和感を覚えなくなっている。以前はこの姿が「自分じゃない」と思っていたのに、今はなんとなく「まぁ、これも自分かぁ」くらいの感覚になりつつあるのが、自分でも少し不思議だった。

 

 まぁ、身長が低いのは相変わらず不便だけれど。

 

 キッチンの上の棚に手が届かなくて、先週は踏み台を買った。千賀がいる時は「千賀、あれ取って」と頼めばいいのだが、一人の時は踏み台に乗るしかない。

 

 身支度を終えて玄関に向かう、ふと玄関に置かれた姿見に映る自分の姿が目に入った。

 

 ニットの裾から覗く細い手首、小柄な体躯。長い茶髪がふわりと肩にかかっている。鏡の中の自分と目が合う、綺麗な赤茶色の瞳が、少し眠たそうにこちらを見返している。

 

 昼寝のせいだろう、頬に少しクッションの跡がついていた。

 

「…………子供か、僕は」

 

 呟いて、自分で少し笑ってしまった。指先で頬の跡をこすりながら、なんだか可笑しくなる。こういう些細なことが、最近は妙に気になるようになった。以前だったら頬にクッションの跡がついたところで、そんなの気にも留めなかったはずなのに。

 

 まあいいか、と思い直して外に出た。昼寝の跡なんか、スーパーに行って帰ってくる頃には消えているだろう。

 

 

─────

 

 

 近所のスーパーは、マンションから歩いて五分ほどの場所にある。

 

 この一ヶ月で、僕はすっかりこの近辺の地理を把握していた。スーパーの品揃え、花屋の営業時間、ドラッグストアのポイント三倍デー、パン屋の焼きたてが出る時間帯。千賀に教わったのではなく、全部自分で歩き回って覚えたものだ。千賀はこの辺りの店のことをほとんど知らなかった。二年もここに住んでいるのに、最寄りのスーパーの場所すら曖昧だったのだから驚く。

 

 スーパーの入口をくぐり、カートを引き出す。今日はジャガイモと玉ねぎ、あと糸こんにゃくが足りない。ついでに牛乳とヨーグルトも少なくなっていたはずだ。

 

 野菜コーナーでジャガイモを選んでいると、隣にいた年配の女性が声をかけてきた。

 

「あら、お嬢ちゃん、一人でお買い物? えらいわねえ」

 

「あ、はい。どうも」

 

 こういうことは、もう慣れた。どこに行っても「お嬢ちゃん」、「若いのに、えらいわねぇ」などと声をかけられる。この見た目が十代半ばにしか見えないのだから仕方がないが、中身は三十四歳の元男性なので、毎回微妙な気持ちになる。

 

「お母さんのお手伝い?」

 

「えーと、同居人の……ええ、まあ、そんな感じです」

 

 嘘は言っていない。千賀と僕の関係を説明するのは面倒なので、適当に濁すことにしている。

 

「しっかりした子ねえ。お母さん、幸せね」

 

 にこにこと笑うその女性に愛想笑いを返しながら、僕は足早にその場を離れた。お母さんて。千賀がお母さんて。いやまあ、歳の離れた姉妹か、親子に見えるのかもしれないけれど。

 

 千賀が「お母さん」と言われたことを想像して、不覚にも少し笑ってしまった。あの生真面目な顔が、「お母さん」と呼ばれたら……。

 

 千賀はきっと眉間に皺を寄せて「母親ではありません」と真面目に否定するだろう。そういうところが千賀らしくて、なんだか可愛い。

 

 

 レジで会計を済ませ、エコバッグに食材を詰めて店を出る。秋の夕暮れの空気はひんやりとしていて、薄手のニット一枚だと少し肌寒い。腕をさすりながら歩いていると、マンションのエントランスが見えてきた。

 

 ふと、一ヶ月前のことを思い出す。

 

 初めてこのエントランスの前に立った時、僕は不安で胸が張り裂けそうだった。千賀に信じてもらえるかどうかもわからず、断られたら路頭に迷うしかない状況で、インターホンを鳴らしたあの夜。

 

 今はもう、ここが「帰る場所」になっている。

 

 オートロックの暗証番号を打ち込み、エレベーターで二十三階へ。廊下を歩いて、玄関の鍵を開ける。

 

「ただいま、っと」

 

 

 買ってきた食材をキッチンに並べ、エプロンをつける。このエプロンも通販で買ったもので、ストライプ柄の可愛いやつだ。千賀には「先輩の趣味ですか」と言われたが、可愛い方が千賀の目の保養になるかなと思って買ったやつだ。

 

まぁ、それは言わなかったが。言ったら反論されそうだし。

 

 ジャガイモの皮を剥きながら、鼻歌が出てしまう。

 

 料理をする事、元から趣味ではあったが、それが今は、ジャガイモを剥いているだけで何だか楽しいのだから、人間というのは環境次第で随分と変わるものだ。

 

 千賀が帰ってくる時間を計算して、煮込み時間を逆算する。肉じゃがは煮崩れない程度にしっかりと火を通したいから、六時半に仕上がるようにするなら……と考えていると、ふいに玄関のドアが開く音がした。

 

「……ただいま」

 

 千賀の声だ。いつもより少し早い。

 

「おかえり、千賀。今日は早いね」

 

 キッチンから顔を覗かせると、千賀は玄関で靴を脱ぎながら小さく頷いた。

 

「午後の実験と精査が予定より早く終わったので」

 

「そうなんだ。ちょうどよかった、今日は肉じゃがだよ。もうちょっと煮込んだら出来るから、先にお風呂入る?」

 

「……いえ、いいです。ここで待ちます」

 

 千賀がリビングのソファに腰を下ろした。鞄を横に置いて、目を閉じて深く息を吐く。疲れているのだろう。一ヶ月前に比べれば顔色は良くなったけれど、それでも研究者という仕事が体力を使うことに変わりはない。

 

「千賀、紅茶でも淹れようか」

 

「……お願いします」

 

 お湯を沸かし、ティーポットに茶葉を入れる。千賀はダージリンが好きだということを、この一ヶ月で覚えた。砂糖は入れない、ミルクも入れない、ストレートで飲むのが千賀流だ。僕はミルクティー派なので、自分の分は少し濃い目にして、たっぷりミルクを入れる。

 

 二つのカップをトレイに載せてリビングに運ぶと、千賀はソファで目を閉じたまま微動だにしていなかった。寝てしまったのだろうか。

 

「千賀、紅茶……」

 

「起きています」

 

 薄目を開けた千賀が、差し出されたカップを受け取る。湯気の立つ紅茶を一口啜って、ほう、と息をついた。

 

「……美味しい」

 

「よかった。今日は少し蒸らし時間を長めにしてみたんだ、千賀は濃いめが好きかなと思って」

 

「わかるんですか、そういうの」

 

「一ヶ月も一緒にいればね」

 

 何気なく言った言葉だったが、口にしてから「一ヶ月も一緒にいる」という事実が妙に重く感じられた。一ヶ月。たった一ヶ月。でも、千賀と暮らすこの生活は、僕にとっては随分と長い時間のように思えた。ここ十数年間の無為だった時間よりも、ずっと密度が濃い。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「その……花、新しくなってますね」

 

 千賀の視線がダイニングテーブルの上の花瓶に向いていた。先週に買ったガーベラがそろそろ萎れてきたので、今日の帰りにコスモスに替えたのだ。

 

「うん。コスモス、今が季節だから。千賀はコスモス好き?」

 

「花に好みは特にありませんが……嫌いではないです」

 

「千賀って、本当にそういう言い方するよね。好きって素直に言えばいいのに」

 

 からかうつもりで言ったのだが、千賀は紅茶のカップに視線を落としたまま、小さく呟いた。

 

「……好きだとか嫌いだとか、簡単に言える性分ではないので」

 

 その声がどこか固くて、僕はつい「そっか、ごめん」と謝ってしまった。踏み込みすぎたかもしれない。千賀は感情を表に出すのが苦手な人だ。大学時代からそうだった。いつも冷静で、真面目で、自分の気持ちを言葉にすることを怖がっているような節がある。

 

「謝らないでください。先輩は何も悪くないです」

 

「でも」

 

「コスモス、綺麗だと思います。ありがとうございます」

 

 千賀がこちらを見て、ごく僅かに微笑んだ。それは「好き」とは言わないけれど、言葉にならない肯定を含んだ笑顔で、僕はなんだかそれだけで充分だと思った。

 

 

─────

 

 

 夕食の肉じゃがは、我ながら上出来だった。

 

 ジャガイモはほくほくで、牛肉には味がしっかり染みて、玉ねぎはとろとろに煮えている。千賀が「先輩の料理で一番好きかもしれません」と言ってくれた時は、素直に嬉しかった。

 

 千賀が好きだと言った料理のレパートリーを、僕は密かに記憶している。ペペロンチーノ、フレンチトースト、鶏の唐揚げ、かぼちゃのスープ、そして今日の肉じゃが。千賀の「好き」は滅多に出てこないから、出てきた時にはきちんと覚えておかないと。

 

 

 食後、僕が食器を洗っている間に、千賀はソファで論文を読み始めた。最近はこのパターンが多い。研究所で済ませきれなかった仕事を、家に持ち帰って片付けているのだ。

 

 洗い物を終えてリビングに戻ると、千賀はソファの端に座って、タブレットの画面を真剣に見つめていた。眉間に薄い皺が寄っていて、時折ペンで何かを書き込んでいる。集中している千賀の横顔は、大学時代に図書館で勉強していた頃とよく似ていた。

 

 僕はソファの反対側に腰を下ろし、タブレットで動画を観始めた。最近はまっているのは料理動画だ。プロのパティシエがケーキを作る過程を眺めていると、自分も作ってみたくなる。来週あたり、シフォンケーキに挑戦してみようか。千賀は甘いものが好きだから、喜んでくれるかもしれない。

 

 しばらくの間、リビングにはタブレットの操作音と、時折千賀がタッチペンが画面を打つ微かな音だけが響いていた。

 

 僕はこの沈黙が、心地よかった。

 

 誰かと同じ空間にいるのに、会話がなくても気まずくない。互いに好きなことをしていて、それでいて一人じゃない。こういう時間のことを、なんと呼ぶのだろう。大学時代にも、千賀と研究室で徹夜作業をしていた時にはこういう空気があった気がする。あの頃の記憶は随分と曖昧になってしまっているけれど、この「一緒にいるだけで落ち着く」という感覚だけは、不思議と鮮明に覚えていた。

 

「先輩」

 

 千賀の声で、ぼんやりとし始めていた意識が引き戻された。

 

「……ん?」

 

「肉じゃが、来週もまた作ってもらえますか」

 

「いいよ。千賀がまた食べたいなら、いつでも作る」

 

 何気なく答えたその言葉に、千賀はほんの一瞬だけこっちを見て、それからすぐにタブレットに視線を戻した。

 

「……ありがとうございます」

 

 その声が、なんだかいつもより柔らかかった気がした。

 

 気のせいかもしれない。でも、僕はその柔らかさが少しだけ嬉しくて、タブレットの画面に目を戻しながら、来週の夕飯について考え始めた。

 

 窓の外では、秋の夜空に細い月が浮かんでいた。

 

 一ヶ月前、一人きりで途方に暮れていた僕は、今こうして千賀の隣でぬくぬくとソファに沈んでいる。この生活がいつまで続くのかはわからない。自分の身体がなぜこうなったのか、元に戻る方法はあるのか、社会的な身分をどう回復するのか。考えなければならない問題は山積みだ。

 

 でも、今はまだ、もう少しだけこのままでいたいと思った。

 

 千賀の隣で、この穏やかな時間を過ごしていたいと。

 

 僕はブランケットを引き寄せて、少しだけ千賀の方に身体を寄せた。

 

 千賀は、ちらりとこちらを見たけれど、何も言わなかった。

 

 それが、なんだか無性に嬉しかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。