TS→後輩(天才女)のヒモ   作:鰻重特上

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あざとい

 

 最近の先輩は、確実に変わりつつある。

 

 それは科学者としての私の観察眼が捉えた、客観的な事実だ。主観を排した冷静な分析、のつもりなのだが、こと先輩に関して私の目が本当に冷静であるかどうかは、正直に言って自信がない。

 

 同居を始めてからおよそ五週間が経過した。先輩はこの家にすっかり馴染んでいて、毎朝私を送り出し、毎晩温かい食事で迎えてくれる生活が、もはや当たり前のものになりつつある。

 

 それ自体は歓迎すべきことだ。私の食生活は劇的に改善されたし、肌の調子も良くなった。研究所の同僚から「最近、顔色いいですね」と言われることも増えた。

 

 問題は、先輩の変化の方にある。

 

 たとえば昨日の出来事だ。

 

 

 仕事から帰ると、リビングのローテーブルの上に見覚えのない箱が置いてあった。通販の段ボール箱で、宛名は当然ながら私の名前。

 

 先輩には本名も住所もないのだから、届け先は必然、私の名義になる。

 

「……先輩、またですか」

 

「あっ、うん、製菓道具。シフォンケーキ作ろうと思って」

 

 キッチンから顔を出した先輩は、悪びれた様子もなくそう答えた。ストライプ柄のエプロン姿で、長い茶髪をゆるく三つ編みにしている。この三つ編みは最近の先輩のお気に入りらしく、先週あたりから頻繁に見るようになった。大学時代の先輩は、髪型なんか気にしたこともなかったはずだ。

 

「先輩。通販の利用について、一度ルールを決めたほうがいいと思います」

 

「え、なんで?」

 

「なんでも何も、今月だけで段ボール箱が何個届いたと思っているんですか。服、調味料、調理本、花瓶、ブランケット、踏み台、そして今度は製菓道具。必需品はまだ良いですが……」

 

「う……」

 

 先輩が目に見えてしょんぼりした。小さな肩が僅かに下がって、赤茶色の瞳がこちらを上目遣いに見つめてくる。三つ編みの毛先を指でいじりながら、ちょっと唇を尖らせるような仕草。

 

「だって、千賀のためにケーキ作りたいなーと思って……」

 

 ……これだ。

 

 これが、最近の先輩の「変化」の一つだ。

 

 先輩は明らかに、自分のこの姿が私に対して効力を持つことを理解し始めている。何かをお願いする時、あるいは怒られそうな時、先輩は決まってこういう仕草をする。上目遣い、小首を傾げる、唇を尖らせる、声を少しだけ甘くする。三十四歳の中身を持つ人間の行動としては、なかなかに狡猾だと言わざるを得ない。

 

 問題は……致命的な問題は……それが私に効いてしまっているということだ。

 

 可愛い人が好みだという自分の趣味嗜好を先輩に知られているのだから、これは一種の弱みを握られているに等しい。

 

 あの幼い顔立ちで上目遣いをされると、それが計算であるとわかっていても胸の奥が妙にざわつく。反論の言葉が喉の手前で詰まって、結局は「……次からは事前に相談してください」という消極的な譲歩に落ち着いてしまう。

 

「うん! わかった、ごめんね千賀。でも、ケーキは作っていいよね?」

 

「……好きにしてください」

 

 先輩はぱっと顔を輝かせて、キッチンに戻っていった。小さな背中がスキップでもしそうな軽さで遠ざかっていく。

 

 ソファに座り、額に手を当てた。これではまるで、飼い主の顔色を窺いながら甘える子犬に懐柔されている飼い主ではないか。

 

 

─────

 

 

 翌日、私は研究所で通常業務をこなしていた。

 

 午前中の会議を終え、午後はラボに籠もってデータの解析を進める。生命科学の研究は地道な作業の連続だ。仮説を立て、実験し、データを取り、分析し、仮説を修正する。そのサイクルを何十回、何百回と繰り返して、ようやく一つの成果にたどり着く。

 

 けれど今日は、どうにも集中力が散漫だった。

 

 データシートを眺めていても、脳裏にちらつくのは昨夜の先輩の上目遣いだ。あの赤茶色の瞳が、少し潤んだように見上げてくる映像が、不意に思考の隙間に割り込んでくる。

 

 私は先輩の身体に起きている変化について考えずにはいられなかった。

 

 先輩の肉体変容のメカニズムは依然として不明だ。しかし、外見が変わったことで内面にも影響が出ているのではないか。そういう仮説を、私はこの数週間、密かに立てていた。

 

 先輩は少しずつ変わっている。服の好みにこだわりが生まれ、花を愛でるようになり、料理中に鼻歌を歌うようになった。それだけなら環境の変化や精神的な余裕の回復で説明がつく。

 

 しかし、昨日のあの仕草、あの計算されたような甘え方は、かつての先輩には絶対になかったものだ。大学時代の先輩は押しが強くて鈍感で、自分の要求を通す時はもっと率直で真っすぐだった。あんな風に、自分の見た目を利用するような真似はしなかった。

 

 つまり、先輩の精神は、本人が自覚しているかどうかはともかくとして、少女の身体に引っ張られ、少しずつ変質し始めている可能性がある。

 

 それは、科学者としては非常に興味深い現象であり、同時に、個人としては非常に困る事態だった。

 

 なぜなら、元々の先輩の性格。

 

 世話好きで、押しが強くて、鈍感だけど根は優しい……。それだけでも私にとっては充分に厄介だったのに、そこに可憐な少女特有の仕草や表情が加わることで、先輩の存在が私にとってますます……。

 

「千賀さん、大丈夫ですか?」

 

 同僚の声で我に返った。どうやら画面を見つめたまま、数分間フリーズしていたらしい。

 

「はい、問題ありません。少し考え事を」

 

「最近、仕事中にぼーっとすること増えましたよね……。いいことでもあったんですか?」

 

「いいこと……?」

 

「なんか、以前より穏やかな顔してますよ」

 

 そう言って同僚は去っていった。穏やかな顔? 私が? そんなはずはない。いつもと同じ顔をしているはずだ。

 

 ……いつもと同じ顔を、しているはずだ。

 

 

─────

 

 

 帰宅すると、マンションの部屋の中に甘い匂いが充満していた。

 

 バニラとバターと卵の、温かくて柔らかい香り。鍵を開けた瞬間に鼻腔をくすぐるその匂いだけで、一日の疲れが少し和らぐような錯覚を覚える。

 

「おかえり、千賀! 見て見て、できたよ!」

 

 キッチンから飛び出してきた先輩が、両手でケーキの型を掲げていた。エプロンの裾に粉がついていて、頬にもクリームらしき白い跡が残っている。それに気づかないまま、赤茶色の瞳を輝かせてこちらに駆け寄ってくるその姿はまるで、工作を見せたがる子供のようだった。

 

「シフォンケーキ! 初挑戦にしてはなかなかの出来栄えだと思うんだけど、どうかな」

 

 差し出された型の中には、ふっくらと膨らんだ美しいシフォンケーキが鎮座していた。

 

 均一できめ細やかな生地、完璧な焼き色、ひび割れもない。初挑戦でこの完成度は、素直に感嘆に値する。

 

「……見事ですね。初めてとは思えません」

 

「えへへ、動画で予習したからね。冷めたら型から外して、生クリームを添えて食べよう。千賀、生クリーム好き?」

 

「嫌いではありません」

 

「好きか嫌いかで答えてよ」

 

「……好きです」

 

 先輩が嬉しそうに笑った。私から「好き」という言葉を引き出すことが、最近の先輩にとっての小さなゲームになっているらしい。花の時もそうだった。素直に感情を口にしない私の性格を見透かされて、少しずつ外堀を埋められているような気分だ。

 

 着替えを済ませてリビングに戻ると、テーブルの上にシフォンケーキが切り分けられて置かれていた。傍らには絞り出された生クリームとミントの葉が添えられていて、ケーキ屋の商品と遜色ない見た目に仕上がっている。

 

「はい、どうぞ」

 

 先輩が向かいに座り、期待に満ちた目でこちらを見ている。

 

 この顔は、自分の作ったものを食べてもらう時の先輩特有の表情だ。少し不安そうで、でもどこか自信もあって、相手の反応を待ちきれないような顔。食事の時もいつもこの顔をしているが、今日はお菓子作りという新しい挑戦だけに、いつにも増して期待と不安が入り混じっているのが見て取れる。

 

 フォークでひと切れ取って、口に運んだ。

 

 軽い。驚くほど軽い食感だった。舌の上でふわりとほどけて、卵の風味とバニラの香りが広がる。生クリームの甘さが生地の素朴さを引き立てて、絶妙なバランスに仕上がっている。

 

「……とても、美味しいです」

 

「ほんと? やった!」

 

 先輩が椅子の上で小さく跳ねた。文字通り、座ったまま身体が浮くように弾んだのだ。三十四歳の人間の喜び方ではない。完全に子供のそれだ。

 

 けれど、その無邪気な喜び方が不覚にも、微笑ましく思えた。

 

 以前の先輩は、こんな風に感情を全身で表現する人ではなかった。嬉しい時は口元が緩む程度で。それが今は、全身で嬉しさを表している。椅子の上で跳ねるなんて、大学時代の先輩からは想像もつかない光景だ。

 

「よかった……。今度はデコレーションケーキにも挑戦してみようかな。千賀、イチゴとチョコレートどっちが好き?」

 

「……イチゴです」

 

「了解。じゃあ、イチゴのショートケーキにする」

 

 こうして、先輩は私の好みを一つずつ聞き出していく。本人には大した意図はないのだろう。ただ純粋に、食べる相手が喜ぶものを作りたいだけなのだと思う。

 

 けれどその結果として、先輩は私について、私の好みや習慣や、些細な癖について、驚くほど詳しくなっていく。

 

 紅茶の好みの濃さ、好きな花の種類、好きな料理、好きな果物。先輩は尋ねるたびに私の答えを記憶して、次の機会に反映する。

 

 それは、先輩の元来の性格からすれば自然な行動なのだろう。

 

 なのに、それが、少しだけ、むずかゆい。

 

 自分のことをこれほど丁寧に観察して、覚えてくれる人が、今までいただろうか。

 

 シフォンケーキを食べ終えた後、先輩は皿を下げてキッチンに立った。洗い物をする姿を眺めながら、私はふと気づいた。先輩の三つ編みの結び目に、ピンク色の小さなリボンがついている。以前はただのヘアゴムで結んでいただけだったのに。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「髪、リボンつけてるんですね」

 

 先輩はちらりとこちらを振り返り、三つ編みの先を指でつまんだ。

 

「ああ、これ? 今日スーパーで見つけたんだ。安かったし、なんか可愛かったから」

 

『なんか可愛かったから』その言葉を、先輩は全く疑問を持たずに口にしていた。

 

 大学時代の先輩が、ピンクのリボンを「可愛い」と言って買うことがあっただろうか。絶対にない。あの頃の先輩は、持ち物の見た目なんて一切気にしない人だった。

 

 研究室で使っていたペンケースは貰い物のよれよれの布製で、鞄は大学入学時に買ったらしいくたびれたリュックをずっと使い回していた。

 

 先輩は変わっていっている。少しずつ、確実に。

 

 それが身体の影響なのか、環境の変化なのか、あるいはその両方なのか。科学者としての私は分析したいと思う。

 

 けれど同時に、この変化を懸念している自分がいることも、否定できなかった。

 

 

─────

 

 

 夜、ソファで並んで座っていた。

 

 先輩はタブレットでケーキのレシピを調べていて、私は論文の査読を進めていた。いつもの光景だ。リビングに漂う柔軟剤と夕飯の残り香が混じった空気が、この部屋がもう私一人の空間ではないことを静かに物語っている。

 

 ふと、先輩が身じろぎした。

 

「ねぇ千賀、これ見て」

 

 先輩がタブレットの画面をこちらに向けた。デコレーションケーキのレシピ動画が再生されていて、パティシエがイチゴを薔薇の形に飾り付けている。

 

「これ、やってみたいんだけど、イチゴの薔薇って難しいかな」

 

「難しそうですね。でも先輩なら、できるのでは」

 

「そう? 千賀がそう言うなら頑張ろうかな」

 

 先輩が笑いながら身体を傾けてきて、画面を見せようと距離を詰めてきた。肩と肩が触れる。先輩の茶髪がさらりと私の腕にかかって、ほのかにシャンプーの匂いが漂う。

 

 私は反射的に身体を固くしたが、先輩は気にした様子もなく、タブレットの画面をスクロールしている。

 

「あ、こっちはチョコレートの飾りだ。千賀、チョコレートの飾りとフルーツの飾り、どっちが好き?」

 

「……どちらでも」

 

「また曖昧な答え。どっちかって言ったら?」

 

 先輩がこちらを見上げた。近い。顔が近い。赤茶色の瞳がすぐそこにあって、長い睫毛の先まではっきりと見える。唇がほんの少しだけ尖っていて、「ちゃんと答えてよ」と言外に圧をかけている。

 

 わかっている。先輩が意図的にやっているのだ。この距離、この角度、この表情。先輩は自分の顔が私にとって効果的であることを経験的に学習して、お願いをする際のテクニックとして……。

 

 科学的に言えば、行動の強化学習だ。

 

 理屈ではわかっている。わかっているのに。

 

「……フルーツの方が好きです」

 

「ん、じゃあ次はフルーツたっぷりのにするね」

 

 先輩は満足そうに頷いて、また画面に視線を戻した。肩が触れたままの距離で、先輩はさも当然のようにレシピを眺め続けている。この近さが、今の先輩にとっては何でもないことなのだろう。

 

 私にとっては、何でもないこと、ではなかった。

 

 先輩の肩の温度が、薄い衣服を通して伝わってくる。小さくて華奢な肩だ。こんなに細い肩で、毎日買い物袋を提げて、フライパンを振り、洗濯物を干しているのかと思うと、何だか不思議な気持ちになる。

 

 この人を、守らなくてはいけない。

 

 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 

 先輩は社会的には存在しない人間だ。戸籍もなく、身分証明もなく、今の世の中で一人では生きていけない。だからこそ私のところに来た。私だけが今の先輩を知っている。私だけが先輩を受け入れられる。その事実を、今更ながらに実感した。

 

「千賀、どうかした?」

 

 先輩が首を傾げてこちらを見ている。どうやら、難しい顔をしていたらしい。

 

「何でもありません。ケーキの完成を楽しみにしています」

 

「任せて。千賀が驚くような、すごいの作るから」

 

 自信満々に言いながら、先輩はぐっと小さな拳を握った。その仕草が本当に子供みたいで、私は思わず口元を緩めてしまった。

 

「……先輩、口元にクリームの跡、まだ残ってます」

 

「え? どこ?」

 

 先輩が慌てて口に手を当てるが、見当違いの場所を触っている。

 

「そっちじゃないです。右です」

 

「ここ?」

 

「もう少し上。……いえ、もういいです」

 

 手を伸ばして、先輩の口元に残った乾いたクリームの跡を指先で拭った。

 

 その瞬間、自分が何をしたのか理解して、動きが止まった。

 

 先輩も固まっていた。赤茶色の瞳がまん丸に見開かれて、私の指先を見つめている。

 

「……す、すみません。つい」

 

「いや、ありがとう。助かった」

 

 先輩はそう言ってへらりと笑ったが、頬がほんの少しだけ赤くなっているように見えた……。

 

 私は何食わぬ顔を装いながら、論文の査読に視線を戻した。指先に残る、先輩の唇の柔らかさと温かさ。

 

 心臓が、少しだけ速く音を打っていた。

 

 

 先輩はもういつも通りで、ケーキのレシピ動画に夢中の様だった。

 

その切り替えの早さが先輩らしくもあり、同時に少しだけ、ほんの少しだけ……恨めしかった。




【英輝夜/先輩】
・最近はお菓子作りがマイブームになりつつある。
・私的な通販は一応、残り僅かな自前の資金(残:24万円)で行っている。
・千賀に対して「こいつちょろいな」と少しだけ思っている。

【千賀理珠/千賀】
・押しに弱い。
・最近の悩みは輝夜の料理が美味しくて太りそうなこと。
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